九節〈君に捧げる愛言葉〉
「起きない……」
テオドールは、頭にシャーリーを乗せながら眠り続けるレイフォードを眺めていた。
「だから言ったじゃない。
暫く起きないから、背負って帰ったほうがいいわよって」
「はいはい、ご忠告ありがとうございました」
シャーリーが手を振るえば、柔らかい肉球が額に当たる。
レイフォードが起きていれば『羨ましい。もふらせろ』とでも言ってくるだろうが、生憎熟睡中だ。
現在、二人と一匹はアーデルヴァイト家の周辺にある森の中を歩いていた。
意識を失ったままのレイフォードは、セレナが背負っている。
だらりと力が抜けた手足。
ぴくりともしない睫毛。
口元に耳を寄せれば、やっと静かな呼吸音が聞こえる。
レイフォードが眠っているとき、死んでいるように見えるのはいつものことだが、状況が状況である。
日中の少し様子もあり、テオドールの不安は積もり積もっていた。
「……本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。
寧ろ、大丈夫じゃないなら色々終わっちゃうもの。
あの子があの子である限り、絶対に死ぬことはないわ」
そう言い切るシャーリー。
その自信は、いったいどこから来るのだろうか。
「あら、知りたい?」
「……自然に心を読むな」
「なら、もっと表情管理を鍛えなさい。
その辺のお子ちゃまには通じても、大人には通じないわよ」
テオドールは、眉を顰めてしまいそうになるのを必死で堪える。
これでも、表情管理は得意な方ではあるのだ。
イヴにも太鼓判を貰ったし、学校でも常にこの仮面を被っている。
見透かせたのもレイフォードとユフィリア、セレナくらい。
だから、そんな言われをされるほど、テオドールは下手ではない。
それでも『お粗末』とするのは、一重にシャーリーが精霊で、人の感情に過敏であるからだろう。
『人の心が読める』なんて言い伝えられているくらいには。
「……で、教えてくれるの? くれないの?」
「物事には『頼み方』っていうものがあるでしょう?」
「……お願いします。教えてください」
頭上でふんぞり返っているであろう猫に、癪ながらもお願いをする。
鼻歌でも歌い出すかというほど上機嫌に、シャーリーは彼について語り始めた。
「ねえ、アンタらは何のために『名前』があると思う?」
「そりゃあ……『個体を識別するため』だろ」
しかし、態々こんな質問をするくらいだ。
別の意味があるのだろう。
察した二人は、それ以上言わないままシャーリーの言葉を待つ。
「そうね。普通はそう答えるし、私の答えもそう変わらない」
「……どういうことだ」
一拍置いて静かに語られたのは、この世界の真理の一端だった。
世界において、『言葉』というのは限りなく重要な意味を持っている。
何しろ、ありとあらゆる現象・物体を表現するのだ。
言葉一つで認識は変えられるし、極限を言えば世界だって変えられる。
だから、言葉というのは大切に扱う必要がある。
ところで、『己の名前は、何故その名前なのだろう』と疑問に思ったことはないだろうか。
どんな由来でこの言葉を名としたのか、どんな意味を込めて名を付けたのか。
名付け親に問い質したことはないだろうか。
そういうとき、返答は決まってこう返ってくる。
『アナタの人生に贈る祝福だ』と。
例を上げるならば、レイフォードとテオドールの友である少女ユフィリアは、精霊語において『月』を意味する『リア』と『美しい』を意味する『ユフィ』を組み合わせた、『美しき月』であり、祈りは『冬の月が美しい夜に生まれた貴方が、その月のように美しくなりますように』だ。
また、セレナの養父であるセリアーノは、『昼』の意味を持ち、『昼のように明るい青年になりますように』と祈られている。
ここまで言えば、勘の良い二人は気付くだろう。
貴族と平民で名付けの差があること、そしてレイフォードがその法則から外れていることに。
『名前』というのは、『言葉』なのだ。
『名は体を表す』という諺があるように、人は名前で他の存在を定義付ける。
それは、即ち『神秘』に他ならない。
だって、精霊語で祈りを込めて名前を呼ぶのだ。
精霊術の発動条件くらい満たしている。
「……待ってくれ。
それなら、貴族と平民で名付けの差があるのは──」
「察しが良くて助かるわ。
そう、アンタの考え通りよ」
平民は、名付けに名詞だけを使う。
貴族は、名詞とそれに関連した修飾語を使う。
例外はあれど、一般的にはその法則が成り立つ。
この差は、親の持つ源素総量の差によるものだ。
『名付け』が精霊術の発動と同義であるなら、必然的に源素を消費することになる。
精霊への呼びかけをしない《鍵句》のみの詠唱なら、消費されるのは己の体内源素のみ。
しかし、名前を呼ぶだけで源素不足を起こしたなんて聞いたことがない。
出来事が隠されているわけでも、精霊術として発動していないわけでもない。
ただ、『名付け』と『呼称』という行為がそれぞれ一つの術式となり、その性質が人々が無自覚に刷り込まれているのだ。
消費する源素量は少なく、発動する効果も小さい。
けれど、塵も積もれば山となる。
何人もの人に、何時間も名前を呼ばれれば、その『名前』は強固になる。
署名だって同じような効果があるだろう。
そうして『名前』を呼び、綴り。
その果てがいったいどうなるのかなんて、想像に容易い。
「……俺の名前も」
「ちゃんとそれを考えた上で付けたと思うわよ。
あの子、視えてるんでしょ。
何も言われなくたって、それくらい分かってたんじゃない?」
レイフォードの〝眼〟は特別だ。
源素の流れが見えるあの瞳なら、始めから理解していた可能性の方が高いだろう。
そうでなければ、『自由の翼』なんて名前、付けようがない。
奴隷として、呪い子として、縛られ続けてきた少年に。
だから、レイフォードはあんなことを言っていたのだ。
テオドールに、名前の通り『自由』で居てほしかったのだ。
『名前』がより詳細かつ具体的なものになれば、その分消費する源素量が増える。
だからこそ、基本貴族より源素量の少ない平民は名詞のみという曖昧な名付けをする。
そうでないと、やがて源素が足りなくなってしまうから。
「……なるほど。
この国では、それが伝統として無自覚に刷り込まれていると」
「ええ、建国からずっと。
あの子も考えたものね。
『はじまりの言葉』を精霊語なんて言い換えて。
ちょっと制限はあっても、誰でも扱えるように一般化して。
まともな為政者なら、そんな下位層に力を与えるようなことしないもの」
けれど、彼女はそれを可能にした。
それが可能になるように、ある一つの策を打った。
『記憶の操作、及び無意識下の言論統制』。
それが、この国が『永遠』で在り続けるための唯一の方法だ。
「あの子っていうのは……?」
「リセリスよ。リセリス教の開祖兼アリステラ王国の前身であるテラの建国者」
聖女リセリス。
清濁併せ呑みながら、民に慕われ続けた者。
彼女が導き、築き上げたこの王国は、並大抵の力では傷一つ付かない。
壊すのならば、それこそ《厄災》くらいでないと不可能だ。
「……じゃあなんでレイくんは『レイフォード』なんだ?」
「精霊術として成り立ちはしますが……。
今までの話の上、態々、語順を逆にして名詞から始める必要があるのでしょうか?」
二人は、そこが理解できなかった。
シルヴェスタもクラウディアも、源素量に不足はない。
寧ろ、上位層だと言っていい。
それでも尚、『フォードレイ』ではなく『レイフォード』である理由が分からないのだ。
「それはね、結構単純なことなの」
──そうじゃないと、あの子の『存在が定義できないから』よ。
名詞のみ、或いは修飾語と名詞じゃいけない。
名詞と動詞。
在るべき姿、在るべき道を示さなければ、『レイフォード』は存在できないのだ。
「……なん、だって?」
「つまり、あの子は『レイフォード』じゃないと消えて居なくなっちゃうわけ。
ただ在り方を示すだけじゃダメなの。
あの子が往くべき道、生き方まで示さないと、迷って揺蕩って……そして、消えてしまう」
テオドールは、思わず胸を掴んだ。
心臓がばくばく音を立てている。
思い返すのは、五年前の春。
レイフォードが一週間も目覚めなかったあの日のこと。
仮眠を取りに行ったユフィリアの代わりに、テオドールが彼の側に付いていた時のことだ。
突然、彼の存在が薄くなったような気がした。
目で見えている景色は変わらないというのに、徐々に姿が遠くなっていく気がして。
だから、彼の手を握って、ずっと名前を呼び続けた。
その感覚は数分ほどで収まったが、その恐怖心は消えず、それからテオドールはレイフォードが眠っているときはいつも見守るようにしていた。
二度目は未だ起こっていないが、次また同じように収まってくれるとは限らない。
もしかしたら、手の届かないところまで行ってしまうかもしれない。
そんな恐怖が、更に深まってしまった。
あれは夢でも、思い違いでもなかったのだ。
「……なら、なら俺が救うことは出来ないのか?」
あの時、彼が己を救ってくれたように。
己が彼を救うことは出来ないのだろうか、と。
しかし、シャーリーは首を横に振った。
「無理よ。アンタにはどうしようもないわ。
世界そのものを変える力──『神』の領域に手が届かない限り」
その言葉は、テオドールにとって絶望と相違なかった。
湧き上がる不安感と恐怖に、咄嗟に声を荒げてしまう。
「じゃあ……! じゃあ、俺に何かできることはないのか?!
何だっていい。どれだけ難しくとも、俺はやってみせる!」
頭上から飛び立ったシャーリーが、テオドールの目の前に浮く。
「愛されているのね、あの子は」
「……そうだ、愛している」
一度目を伏せ、溜息を吐き、そして吐き捨てるようにシャーリーが言った。
「──それ、本当に『レイフォード』を愛してるの?
アンタの理想の、『神様』じゃなくて?」
どきり、とした。
だって、レイくんは俺を救った神様で。
暗くて寒い場所に閉じ込められていた俺を、明るく暖かい場所に導いてくれた太陽で。
ずっとずっと、照らし続けてくれる。
輝き続けてくれる。
悠久の存在でなければいけないのだ。
ああ、でもそれは。
それは、俺が勝手に名付けただけなのだろう。
確かに彼は、俺にとって神様で太陽なのかもしれない。
けれど、彼は『人』なのだ。
この世界に生きる、他の何者でもない『レイフォード』なのだ。
「……解っているのなら、それから先は自分で考えなさい」
そうして、シャーリーは踵を返し、虚空へ消えていった。