五節/2
一台の馬車が走っている。
側面に描かれた家紋から、とある貴族の馬車であることは直ぐに分かるはずだ。
だが、ここにはそれを知る者はいない。
ただでさえ魔境と呼ばれる東部の、更に端。
最東端であるアーデルヴァイト領クロッサスの町外れの森。
そこにいるのは動物だけで、人なんてどこにもいない。
人なんていないから、彼らを知る者もいない。
勿論、彼らが目指している先を知る者もいなかった。
「見てお父様、あそこ! 何か食べてる!」
「……よく見つけたな。あんなに小さいものを」
少女が森のある木の下を指差す。
そこには二匹の子鹿が立ち止まっていた。
木に顔を押し付けて、皮を剥いで食べているように見える。
父と呼ばれた男は、少女の目の良さと観察眼に感嘆した。
箱入りと言うほどでもないが、大切に育ててきた娘の意外な才能を、こんなところで発見するとは思っていなかったのだ。
始めて遠くまで連れ出したが、既に良い経験になっている。
本題はまだ始まってすらいなかったのだが。
何度も訪れた友の屋敷まで後五分くらいだろうか。
体感で憶えた時計が、男の頭の中で時を刻んでいた。
「そろそろ着く頃だな。
ようし、ユフィ。今日のやるべきことを復習しようじゃないか。
言ってみなさい」
「はい!
ええと、お父様はお友だちと話すことがあるから、お屋敷についたら私と離れ離れになります。
私はそのお友だちの息子さん? と時間になるまで遊びます。
終わり!」
「良くできました。ちゃんとできるかい?」
「もちろん!」
ユフィ──ユフィリアは父であるディルムッドの問いに元気良く答える。
かの父の友の息子とは、どんな人なのだろうと期待に胸を膨らませた。
「でも、その子あまりからだが良くないんでしょ?
私が遊んで大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だよ。
起き上がれるほどには回復したらしいからね」
ユフィリアがその少年の話を聞いた三日前は、体調があまり優れないとされていた。
前までは元気だったそうだが、ある病気に罹ってしまってからはずっと寝台の上らしい。
未だに起き上がることしかできないほどの病気とは、ユフィリアには想像付かなかった。
やがて、周りにあった一面の緑がぱっと消える。
外を覗くと古びた様式の門へと接近していた。
一度門の前で停まり、門番から許可を貰えば馬車はまた走り出す。
門の中に広がる庭園は、美しい花々が咲き誇っていた。
薔薇も木蓮も、どれも自信満々に花弁を開いている。
「きれい……!」
「ああ、そうだね。
……クラウも元気そうだな」
ユフィリアが花々に見惚れているうちに、再び馬車は停止する。
目的地へ到着したのだ。
それは、門と同じ様式で建てられた古風な屋敷。
様式が古いだけで寂れた様子は全く無く、寧ろ真新しさすら感じさせていた。
ここが件の屋敷なのか。
玄関口に二人の人影が立っている。
一人は白銀の髪を後ろで緩く一つに纏めた、いかにも貴族といった風貌の中性的な男。
もう一人は黒と白の使用人の制服らしきもので身を包んだ男。
どちらもディルムッドと同じくらいの歳だ。
「やあ、シル。お出迎えご苦労様。
前より男前になったんじゃない?」
「元気なようで何よりだ、ディルムッド。こうして会うのは久し振りだな。
……本気でそう思っているのか? 喧嘩なら買うぞ」
どうやらその男がディルムッドの友人、シルヴェスタのようだった。
気さくなやり取りからも、彼らの仲の良さが伺えた。
「それで、そちらの子が……」
「そうだ。ユフィ」
ディルムッドの背に半分隠れるような形で立っていたユフィリアは、背中を押されたことで前に出てしまう。
慌てながらも、いつか練習した挨拶を記憶を辿ってなぞり動く。
「お初にお目にかかります、アーデルヴァイト伯爵。
私はディルムッド・エルトナム・レンティフルーレが第三子、ユフィリア・レンティフルーレと申します。
以後お見知りおきを」
大丈夫なはずだ。
そう心を落ち着かせながら、ユフィリアは顔を上げた。
見上げた先のシルヴェスタの顔は、仏頂面ながらも悪い雰囲気は見受けられない。
間違っていなかったようだ、と不安で揺れる心を撫で下ろした。
「ほう、良い子だな」
「だろう? キミたちに比べても見劣りしないさ」
「……子煩悩め」
「キミが言えた義理じゃないよ」
褒められているのだろうか。
ユフィリアは親同士の小競り合いを、あまり理解できていなかった。
一通り話し終えたのだろう。
ディルムッドはシルヴェスタの背後に控える男性を示し、彼が案内してくれると教えた。
「オズワルドでございます。
不肖ながら、ユフィリア様の案内を務めさせていただきます」
「……よろしくお願いします」
おずおずと吃りながらユフィリアは返事をした。
人見知りのきらいがあるユフィリアにとって、練習も何もしていない会話というのは些か不得意であった。
この調子で、その少年とやらと話すなんてできるのだろうか。
前だけ向いているのも何か気まずくて、ユフィリアは周囲を見渡した。
館内は古い様式であるはずなのに、塵一つすらない。
手入れが行き届いているのだ。
オズワルドの後を付け、階段を登っていくと、ある部屋の前で立ち止まった。
「レイフォード様、お客様をお連れ致しました」
「……どうぞ」
扉の奥から微かな声が聞こえた。
少年と聞いていたが、どうしても少女にしか思えない声色だった。
もしや、父は間違えていたのだろうか。
扉を開けるオズワルドに促されるまま、ユフィリアは部屋に足を踏み入れた。
ふわりと風が吹く。
出処は開けられた大きな窓。
覆い被さった窓掛けを巻き上げ、春の匂いを運んでいく。
ユフィリアはほんの一瞬、その部屋には誰もいないと思ってしまった。
あまりにも、その少年の存在が希薄過ぎたのだ。
男にしては長めの月光色の髪、青空を映した異色虹彩。
少女にしか見えない顔立ちは、どこかシルヴェスタに似ていた。
まるで昼に浮かぶ月の如き儚さを持つ少年に、ユフィリアの心は刹那にして奪われた。
止まっていた歯車が噛み合い出すように、脳の奥でかちりと音がなったのだ。
忘れていた何かを、大切なものをやっと思い出したかのようだった。
見惚れていた、のだろう。
瞬きをすることも息をすることも忘れて、ただあの少年の姿を目に焼き付けるためだけに時間を費やした。
ユフィリアが次に動き出したのは、少年の瞳から一滴の涙が零れた時だった。