八節/2
ああ、失敗した。
『それ』は、光の無い暗闇の中で嘆く。
原因は単純、『油断』だ。
いつものように冷静でいられたら、こんなことにはならなかったのに。
愚痴は誰にも聞こえることなく、深淵に溶けていった。
『それ』は、精霊だった。
その中でも特別な、上位を超えた《特位精霊》。
何千年も生きた、最早世界そのもの。
『それ』──否、彼女の名はラウラ。
《はじまりの言葉》という現代では精霊語と呼ばれる、失われたはずの言語。
それにおいて、風を意味するもの。
火、水、土、風。
四体の特位精霊のうちの一つだった。
特位精霊には、使命がある。
『《厄災》のなり損ないを始末すること』だ。
本物は、精霊の手には負えない。
彼ら彼女らができるのは、到底厄災なんて呼べやしない怪物を、人の世に解き放たれる前に殺すことだけ。
幾度と行ってきたこの使命。
失敗することなんて、あり得ない。
そんな思考が油断を招いてしまった。
膠状の体躯が、粘土のようにとある容姿を形造る。
肋骨が浮き出た、骨と皮だけとも言えるほどの痩身。
薄汚れた、本来ならばとても美しいだろう白金色の髪。
そして、両の眼窩に嵌め込まれた天青石。
それは、少女だ。
幼く、けれど妖艶な『刹那の魔女』と呼ばれた少女。
ラウラが最も愛し、恋い焦がれた少女。
その少女を、穢れた怪物は模ったのだ。
────貴様……!
怒りは、直ぐに頂点に達した。
彼女は貴様のような怪物が、真似ていい女じゃない。
穢していい存在じゃない。
荒れ狂う怒りは嵐となり、麦穂を千切り飛ばす。
しかし、ラウラはそんなことを気にもせず、己の全力を怪物にぶつけた。
字の如く疾風迅雷が襲い掛かる。
豪風が、豪雷が怪物を裂き、貫いた。
瞬く間に残骸となった怪物を一瞥する気もなく、消滅させようと近付いたその時。
それは再び蠢き出す。
今度の怪物は、驚異的な再生能力を得ていたのだ。
己の失態を取り返す暇もなく、蘇った怪物はラウラを覆い尽くした。
抵抗するも大した損傷はさせられず、純黒に呑み込まれてしまう。
暗闇の帳に閉じ込められるまでのただ一瞬。
遠くから、己の名を呼ぶ仲間の声が聞こえた。
そうして、ここに至る。
後数分も経てば、意識諸共完全に取り込まれてしまうだろう。
助けは、求めても仕方がなかった。
他の三体はどこかに遊びに行っているから、直ぐには帰ってこない。
特殊な三体は、討伐出来る力は持っていない。
養分となってしまうだけだ。
彼らもそれは理解しているだろうから、無用な手出しはしないだろう。
彼らが他の特位精霊を呼び寄せてくれるのが間に合えば。
なんて考えたところで、間に合うはずがないと溜め息を吐いた。
あの三体は、己と違って時間というものを殆ど気にしない。
『長命の性だ』と言い訳しているが、それにしたって『ちょっと待って』が平気で十年くらい経つのはおかしいだろう。
現世に遊びに行くこともあるくせに。
どれほど文句を言っても、それが音になることはない。
全て呑み込まれてしまう。
このまま取り込まれたとして、彼らはこれを討伐できるだろうか。
ラウラは熟考する。
自慢というほどでもないが、特位精霊というのは膨大な神秘をその身に宿している。
この怪物がなり損ないであっても、厄災や魔物と同じ性質を有している以上、神秘を喰らえば強力になる。
倒すこと自体は簡単だろう。
戦闘力はそれほど高くなく、触手だって遠距離攻撃ならば脅威ではない。
ラウラを喰らったところで、彼らならば十分倒せる範囲だ。
だが、回復能力はそうもいかない。
小指の先ほどまで細切れにしたというのに、即座に回復できるほどだ。
消し炭にしたところで、またもや蘇るだけなのが目に見える。
あれを完全に消し去るならば、それこそ『浄化』の──。
そこまで考えて、ラウラは思考を止めた。
脳裏に過るのは、あの少女とよく似た少年の姿。
同じ髪の色、同じ瞳の色。
同じ顔、同じ声。
違うのは、右目の色くらい。
まるで鏡写しのような彼を見る度に、ラウラの心は締め付けられていた。
救けられなかった彼女を思い出して。
貶され、辱められ、穢され。
最後には磔のまま火炙りにされた少女。
この世を憎み、憤り。
刹那にして一国を滅ぼした少女。
彼女を見殺しにしてしまったのが、ラウラの罪であり罰である。
二千年以上経っても忘れられない、心に刻まれた罪と罰。
ラウラは少女を救えなかった。
ラウラは少女の隣に立てなかった。
ラウラは少女と共に生きられなかった。
心の臓に突き刺さった断罪の剣は、未だ抜けることはない。
ラウラを過去に縫い付けたまま。
己は赦されてはいけない。
何度も何度も、そう言い聞かせてきた。
貴方をはこの世界に絶望したのに。
貴方は不幸になってしまったのに。
私だけ赦されるのは、おかしいだろう。
けれど、今だけは。
もう一度だけ言わせてほしい。
──誰か、救けて。
と。
「見つけた!」
ふと、そんな声が上から降ってきた。
本当は心の隅で、少しだけ期待していた。
もしかしたら、あの時のように蘇った少女が救けてくれるのではないかと。
でも、それはあり得ない。
だって、少女は死んでしまったのだ。
焔に巻かれ、この世界を呪って。
だから、これは夢なのだ。
ラウラが希ってしまった幻想。
ただの虚構。
なのに、どうして。
どうして光が差しているのだろう。
どうして貴方が見えるのだろう。
『貴方』が手を差し伸べた。
無意識に、私はそれを取る。
少女ではないことは理解している。
彼女によく似た、別人であることを理解している。
けれど、ラウラは『貴方』の名前を問う。
答えが解っていても、訊かずにはいられないのだ。
これは、再演だ。
精霊がとある少女に救われたあの日の。
とある少女が精霊を救った日の。
落陽が映り込んだ蒼空色は、酷く美しかった。