八節〈胡蝶の夢、或いは麦穂と黄昏〉/1
穏やかな風が吹き抜けていく。
かさり、かさりと麦穂が揺れる音。
身体に触れる、柔らかな穂先。
秋の薫り。
豊かに実った、小麦の香り。
ふわりと宙に浮いた感覚のまま、ゆっくりと目蓋を開ける。
真っ先に目に入ったのは、広大な黄昏の空。
風前の灯火の如く、地平線の先に堕ちていく太陽が溢れんばかりの光を放っていた。
「ここ、は──」
「ようやく目覚めましたか」
突如、背後から響いた声にレイフォードは振り返る。
「あら、すみません。驚かせてしまいましたわ。
許してくださいまし」
そこに居たのは、銀の巻き毛を風に靡かせた同年代ほどの少女。
質素ながらも気品のある洋袴の裾を摘み上げ、彼女は腰を曲げた。
「始めまして、レイフォード。
あたくしの名はエヴァリシア、ただの『エヴァリシア』ですわ」
────『カルム、エヴァリシア、ロナ』。
それらは、ある共通点を持つ者たちの名だ。
幼き日のレイフォードと同じように、『体内源素過剰症』を患って。
レイフォードは異なり、誰にも救われずに消えてしまって。
今日に至るまで、その存在を抹消され続けた者たち。
そんな彼らが生きているわけがない。
存在しているわけがないのだ。
「どうして、貴方が……」
「詳しい説明は後で。
今は、あなたにやっていただきたいことがありますの」
困惑するレイフォードの言葉は、エヴァリシアによって遮られる。
麦穂を掻き分け近付いてきた彼女は、ある方向を指差した。
はっと息が詰まる。
どうして気付いていなかったのだろう。
あの、怪物に。
それは、決してこの世に在って良いものではない。
漆黒──否、純黒。
宇宙よりも深い、深淵。
ただ一つも濁りはなく、しかして全てが穢れである。
呼吸しているように絶え間なく蠢く表面。
泣いているように溢れ出る瘴気と粘液。
レイフォードよりも何倍も大きいその体躯は、脈打つ度に大きくなっていく。
この黄昏の空を覆い尽くすのも時間の問題だろう。
額から顎を伝って、冷や汗が滴った。
怪物から発される、殺気とも憎悪とも言えない感情に晒れているから。
得体の知れないものを前にしている事実に、焦燥しているからだ。
浅くなっていた呼吸を、意識的に深くする。
大凡理性的とは思えない怪物の行動に、どうにか規則性を見出すために。
瞬間。
無音にて、それは『手』を伸ばした。
粘体が零れていく。
触手が空を切る。
四方八方に彷徨っている姿は、盲目の赤子が親を探すよう。
風ばかりが吹くこの静寂の中、それは独りでに泣き続けている。
声は無く、音も無く。
けれど、泣き続けている。
何かを探し求めているのだろうか。
何かを欲しているのだろうか。
──ああ、違う。本当は、もう分かっている。
それが、己に向かって手を伸ばしていることを。
己を探し求め、欲していることを。
レイフォードは、一度瞬きをした。
寝惚けた頭を切り替えれば、地に足が付いていることを実感する。
宙に浮いたような心地は、どこかに消え去っていた。
「……あれを、殺せばいのでしょうか?」
「お分かりいただけたようで何よりですわ。
けれど、少し違います。
殺して、かつ『助けて』いただきたいのです」
視線を怪物から外さずに、レイフォードはエヴァリシアから詳細を聞く。
「あの怪物──便宜上『魔物』としましょう。
あれの中に、あたくしたちの仲間が取り込まれています」
「……なるほど。ですが、助けられるのですか?」
「ええ、勿論。あなたならば、ですが」
そう付け足した彼女の真意は不明だ。
しかし、これ以上悠長に会話しているわけにもいかない。
レイフォードは、身体の前方に手を突き出した。
エヴァリシアによると、魔物を消滅させれば、取り込まれている仲間も解放されるという。
時間を掛ければ、その仲間は完全に取り込まれてしまうし、魔物だって巨大化の一途を辿り凶悪になってしまうだろう。
だから、素早く倒す必要がある。
だが、ここで一つ留意点がある。
それは、『魔物の体内に居る彼女の仲間に、傷を与えないようにすること』だ。
魔物に取り込まれているということは即ち、魔物の血液である『黒血』の影響を強く受けるということに他ならない。
傷口から体内に入り込み、弱った対象を魔物に変性させる可能性がある。
かの仲間が万全の体調であるならば、多少の傷は気にならない。
レイフォードは回復系の術式は扱えないが、魔物の瘴気を排することはできる。
傷はできても、魔物に変性することさえ防げれば良いからだ。
しかし、不調であるならばそうはいかない。
排する前に変性してしまうだろう。
『助ける』ことが目的である以上、不安要素は避けた方が良いことは明確。
つまり、攻撃手段を封じられたと同義だった。
ならば、どうやって魔物を殺すというのか。
武器もなく、攻撃的精霊術も使えず、何を持って殺すというのか。
傷を付けず、しかして怪物を殺せるもの。
そんな理想のようなものがあるわけがない。
誰もがそう考えるだろう。
だが、一つだけ。
その無理難題を解決できるものがある。
馬鹿げていて、阿呆らしくて。
そんなの嘘だ、と押し退けたくなる理論だ。
けれど、確かにそれは『現実』だった。
「──〝白き光には、七つの色彩が集っている。〟」
突き出した指先から、純白の光が現れた。
それは、レイフォードの全身を包み込む。
「〝赫灼から紫電まで。束ねたそれは、燦然と輝く陽光へ。〟」
紡ぐ言葉は、紛れなく己のもの。
祈りも願いもいらず、ただ意志のみがそこにある。
叶えてもらうのではなく、叶えるために。
「〝白日は天青に。曇りなき光は、我に力を与えるだろう。〟」
目が眩むほどの純白を纏う姿は、宛ら神話の勇者のよう。
背にした落陽が、怪物に影を落とす。
秘匿された神秘を用いた、現在行える中で最大限の強化術式。
その力は、通常時の数千倍にも昇る。
突き出した手と同時に、右足を引く。
そして、相手を見据えるように逆の手を出した。
────『傷を殆ど与えずに、相手を無力化するにはどうするのか』って?
ある日のこと。
救世の英雄に、無邪気に疑問をぶつけたことが始まりだ。
武器も、攻撃的精霊術も使えず、あるのは己の身のみ。
そんなとき、貴方はどうするのかと。
回答にはそれほど期待していなかった。
無理難題を言っている自覚はあったし、答えられたところで、別にどうということはない。
そもそも、訓練の休憩中にふと思い浮かんだ世間話だ。
だから、そこまで深く考えていたわけではなかったのだが。
────んなもん、徒手空拳しかないでしょ。
知覚外から突き出されたそれ。
風を切り、眼前で停止したその『凶器』は、誰もが持ち得て、かつ、誰も傷付けない。
最高の回答だった。
だん、と響くほどに地を蹴る。
反対方向に押し出される身体は、一直線に魔物に向かっていく。
直線上、触手が飛び出て撓った。
レイフォードを狙ったわけではなく、無作為に振り回しているだけ。
だが、それでも攻撃となるだけの図体と勢いがある。
防ぐことは恐らく出来ない。
詠唱するよりも早く、それが到達してしまうからだ。
防げないならば、避けるしかない。
では、どこに避けるのだろう。
迫り来る触手は四本。
それぞれ左右二本ずつ、前方を塞ぐように。
右に避けることも、左に避けることも出来ない。
また、背後に避けるという選択肢はない。
態々詰めた距離を、何故戻す必要があるのだろうか。
だから、答えは一つ。
『上空』だけだ。
一層強く地面を踏み締め、強化された驚異の脚力で飛び上がる。
垂直ではなく、傾斜を付けて。
触手の壁を抜ければ、純黒の本体が顕になった。
呆けた顔──表情なんて分かるわけもない、ただの粘体だが──に、最大開放の『浄化』も含めた渾身の一撃を叩き込む。
闇を裂く銀閃のように、拳は魔物を貫いた。
流動する軟体は、光の粒子に変化し崩壊していく。
ぼろぼろ、ぼろぼろと腐り落ちる木の如く。
重力に若干逆らって、再び地に足を着けた。
未だ完全には消えない魔物。
残骸と黒血を取り除くように力を拡大させつつ、レイフォードは『彼女』に手を差し伸べる。
「──……貴方は、誰?」
問い掛ける女性。
彼女の顔に掛かった残骸と髪を払いながら、少年は自分の名を告げた。
「僕は、レイフォード。貴方を助けに来ました」
怪物の残骸に濡れながらも、輝きを宿す麦穂色の金髪。
信じられないとでも言うように見開かれた、黄昏色の瞳。
それらを持った、彼女に。