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第二十九話 無題

 いつから彼女のことを好きになったのか、ノエルはまったく覚えていない。


 年の差は二つ。物心がついた時にはもう、彼女はノエルの隣にいて、ノエルの生活の一部だった。兄妹。何となく、自分は彼女を守る存在だと認識していたような気がする。


 愛らしいココ。守らねばならないココ。


 けれど、それは一筋縄ではいかなかった。彼女は生まれつき身体が弱かったからだ。赤ん坊のうちから何度も熱を出し、そのたびに生死の境をさまよった。理由は不明。お医者もお手上げ。祖父母の代まで遡っても全員健康体で、兄も元気過ぎるくらいの子供なのに。屋敷の中で囁かれる言葉を、誰からともなく聞きながら、ノエルは妹の手を握っては快復を祈った。


 一年が過ぎ、二年が過ぎる。


 風前の灯火だった彼女は、それでも生きた。


 七つか八つか、その頃には彼女に取り付いた病魔も、悪戯に命を奪おうとはしなくなった。


 依然として身体は弱く、一日のほとんどを寝台の上で過ごす生活だったけれど、子供心に恐ろしかった死の気配が遠のいたことは、兄妹の笑顔を増やした。長々と会話ができるようになり、ノエルはそれが嬉しくて、彼女に聞かせるために色々な話を集めて回った。古き神々の話。遠き時代の英雄たちの話。光の名を冠する王都の話。領民から聞いたちょっぴり怖くて不思議な話。読み書きや礼儀作法その他諸々に加えて、魔術なるものについても勉強することを強いられていたノエルの、自由な時間は決して多くなかった。が、兄として、ノエル・フォーチュンとして、その僅かな余暇を彼女に捧げることを、彼は厭わなかった。


 忙しい両親の分まで。そんな風に、健気に考えていたような記憶が、うっすらとある。


 今にして思えば、その頃から、両親は自分の学院入りや彼女の嫁ぎ先を探すのに奔走していたのだろう。それもまた親心ではある――今ならばわかる、今ならば。


 当時、二人にとって頼れる大人といえば乳母のウェルズリ―をおいて他になく、続くのも両親ではなくて、庭師のガードナーや料理人のクックだった。当然の帰結として、両親への隠し事は増えていった。庭の片隅に専用の花壇を作ってもらったり、街で食べた料理を彼女のために再現してもらったり。誰にも黙って、こっそりと夜中に屋敷を抜け出したこともある。


 今でも覚えている。その夜もまた、月の青い夜だった。


 ただ夏ではなく、晩秋の頃だった。厚着をしてきたつもりだったけれど、外気はむちゃむちゃに寒くて、二人で肩を寄せ合い、手を繋いで、一番近い街までの道を歩いた。徒歩で一時間ほどの距離なはずだけれど、子供の足、しかも歩き慣れない彼女を連れてだ、一時間半、いや二時間は掛ったかもしれない。


 静まり返った田舎の街の真ん中で、ノエルは初めて、彼女が心の底から、透明な涙を流すのを見た。

 熱に浮かされたわけでもなく、理不尽や悲しみに濁らせたものでもなく。


 ――ああ、そうだ。


 いつから彼女のことを好きになったのか、ノエルはまったく覚えていない。

 しかし、彼女と共に生きたいと思ったのは、その瞬間だったと、確信を以て言える。


 死がふたりを分かつまで。

 その誓約は、近過ぎる二人にはあまりにも遠い。

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