迅太郎 対 勇海
暮れ六つ(午後六時)を告げる鐘が鳴り響き、商売人たちがいそいそと暖簾を片付け始める。
勇海は同心の仕事を途中で放り出すわけにいかず、果たし合いはこの時刻までお預けになったのだ。
勇海の屋敷は福井町にあった。妖同心は町方同心のように八丁堀に組屋敷を与えられていないため、自前で居を構える必要がある。組織の歴史がまだまだ浅いために、妖同心が幕府からそういった不遇な扱いを受けることは珍しくなかった。
「油断するなよ、父上は強いぞ」
普段気丈に振る舞う茜が珍しく不安を露わにして言った。
茜は無論、果たし合いになど反対したが、勇海にどうしても退く意思がないことを悟るとそれ以上異を唱えることはなかった。彼が一度言い出すと梃でも動かず、茜が長屋暮らしを始める際にもかなり揉めたらしい。
もしも迅太郎が負ければ二人組の解消だけでなく、長屋暮らしをやめて屋敷に連れ戻されることになる――そんな不安が茜に重くのしかかっていた。
「心配するな。俺は勝つ」
迅太郎はそう断言すると真剣な面持ちで屋敷門を開いた。すると既に庭では勇海が仁王立ちで待ち構えており、迅太郎の訪問に気づくや太い眉をぴくりと動かした。
「逃げずに来たか。少しばかり見直したぜ」
勇海は自慢の巨体を揺らして迅太郎に近づいてくる。まるで山が迫ってくるかのような“圧”があったが、迅太郎も負けじと勇海を見据えた。ここまで来て今さら臆するわけにはいかないのだ。
「そいつはどうも。俺も負けるわけにはいかないんで」
いつもと違うのは茜だけではなかった。迅太郎もだ。生来の温厚そうな雰囲気はすっかり消え去り、双眸には飢えた野犬のような光が差していた。
「受け取れい」
勇海は鞘に入ったままの一振りの刀を投げてよこした。刃引きの刀だ。血の気の多い勇海もさすがに真剣で切り結ぶ気はないらしい。
迅太郎は刀を拾って抜刀し、青眼に構えた。対する勇海は上段に刀を振り上げる。その構えのせいで、ただでさえ大きな体がより迫力を増していた。
「勝敗はどうやって決めるんです?」
「ふん。どっちかがぶっ倒れるか参ったを言ったらそれで終わりだ。準備はいいな? それじゃ、いくぜ!」
開幕を宣言するや、勇海の全身から激しく剣気が迸った。逆巻く剣気が暴風のように殺到し、迅太郎の肌を打ちつける。まさに最上級の“気攻め”だ。並の使い手ならこれだけで一歩も動けなくなるものだが――
「はああああっ!」
迅太郎も負けてはいなかった。息を大きく吐き出し臍部に力を込めて全身から剣気を放出し、勇海の気を押し返した。力強い剣気だったが、勇海には今一歩及ばない。
「迅太郎、何をやっているのだ! 父上に気おされているぞ」
茜が声を張り上げて指摘する。
わかっている。こちらはまだまだ全力は出していない。だが、力は抑える必要がある。自分の正体を悟られないためには、“人間の域”に収まっていなければならないのだ。
「もらった!」
牽制も様子見もなく勇海が先に動いた。一気に剣撃の間境に踏み込み、大上段からの一撃で迅太郎を急襲する。
速い!
山のような巨体に似合わず勇海は恐ろしいくらいに俊敏だった。回避は間にあわない。ならば――
「うおおおおっ!」
迅太郎は刀を返して勇海の斬撃を受け止める。その瞬間、ぶつかり合った刀身と刀身が激しく火花を散らした。
なんという重々しい攻撃だろう。
迅太郎は奥歯を噛みしめ、腕の痺れに必死に抗った。しばらく鍔迫り合いが続いたのち、迅太郎は上手いこと勇海を受け流し、いったん距離を取った。
「存外やるじゃねえか。だがいつまで持ちこたえられるかな」
勇海はにやりと笑うと刀を再び上段に構え、先ほどと同様の攻撃を仕掛けてくる。
「同じ手は通用しないっ!」
迅太郎は逃げるでも受け止めるでもなく勇海へと突っ込んでいった。
「馬鹿、玉砕する気か? やめろ!」
茜が叫ぶ。しかし迅太郎は止まらない。刀の柄を前方に突き出し、そのまま勇海に体当たりをお見舞いした。
「ぐほえええっ!」
絶叫とともにくずおれる勇海。無防備になった勇海に迅太郎はすかさず剣気遠当てを叩き込んだ。肉体から刀身に伝導させた剣気を、切っ先から石弾のように撃ち出す技である。
「おごおおっ!?」
体勢を立て直す間もなくもんどり打って地面に叩きつけられる勇海。刃引きの刀は勇海の手を離れて宙を舞い、彼の傍らへと落ちていく。
「あなたの斬撃、威力はあるけど動作が大きすぎるのが弱点ですね。刀を振り下ろす前に懐に入ることができれば、あとはこっちのもんですよ」
迅太郎は平然と言ってのけたが、実際はそう簡単なことではない。瞬時に敵の隙を見極める洞察力。そして、刀を掲げて突進してくる大男に迷わず突っ込んでいく度胸。その二つを兼ね揃えてこそ成せることなのだ。
茜は迅太郎の早業に半ば放心状態となっていたが、我に返るとすぐに父のもとへ駆け寄っていった。
「父上ー! 大丈夫ですか?」
「なァに、今までのはほんの小手調べさ。こっからが本番よぉ!」
勇海は刀を拾い、よろめきながら立ち上がると、己を鼓舞するように腹の底から声を張り上げた。