剣気の残滓
「起きろ、迅太郎。飯が炊けたぞ、迅太郎」
茜が迅太郎の名を呼びながらその体を揺さぶる。
時刻は六つ半(午前七時)を回っており、外からは人々の話し声が聞こえてくる。
「あ……ああ、お早う茜。悪いな、飯作ってくれたのか」
ゆっくりと上体を起こした迅太郎は芳しい炊き立て飯の香りで一気に覚醒した。
菜には大根の漬物と納豆が添えられている。近くを通りかかった棒手振りから買ったものらしい。
「何を言う。親分が子分の面倒を見るのは当たり前のことだろう。さあ、たんと食べるがいい」
膳の上に置かれた山盛りの白米にいささか圧倒されたが、迅太郎はあっという間にそれを平らげた。
昨夜二人で話したことだが、今日はさっそく繁蔵から聞いた“闇叺”について調査に乗り出すことになっている。なぜ妖退治専門の茜たちが人さらい事件に首を突っ込んでいるのかというと、何者かがが妖を操って人間を拉致している可能性が高いからだという。
つまりは犯罪捜査と妖退治、両方の側面から事を運ぶ必要があるのだ。
「あのときお主に問答無用で襲い掛かったのは、闇叺の件で張り詰めていたからなのだ」
大槌を持って迅太郎を追い回したことを不意に思い出したらしく、茜がしょんぼりと頭を垂れる。やはりまだ気にしていたようだ。
「もうそれは言わない約束だろ。さ、後片付けしたら出発しよう」
迅太郎が屈託のない笑顔でそう言うと、茜もそれに従うかのようににっこりと笑って首肯した。
迅太郎と茜は田原町三丁目から浅草寺門前通りを東に歩き、吾妻橋方面へと向かった。その近辺は八日前の夜、武士の島田菊衛門が消息を絶ったと思われる場所である。
菊衛門が姿を消した翌日、茜たち妖奉行の同心・御用聞きはすぐさま動いた。既に同様の事件が多発していたため、対応が早かったのである。
茜たちは現場に何か手がかりになるものが残っていないか徹底的に調べ、周辺に住む町人に聞き込みを行ったが何一つ有力な情報は得られなかった。
それから一週間、町同心(町奉行所の同心)の協力もむなしく進展は全くなし。茜は迅太郎を連れて改めて現場検証をしてみようと思い立ったのだ。
「この辺りだ」
茜が隣を歩く迅太郎を横目で見ながら言った。迅太郎は町人らしく小袖を着流し、茜は腰切半纏に股引姿で、例の巨大な槌を背負っている。
吾妻橋のたもとに近いこの通りは浅草寺に近いこともあって、多くの参拝客や物売りたちで賑わっている。一人の武士が消えたといういわくつきの場所とは到底思えない。
「失踪から一週間も経っていたら手がかりになる痕跡なんか残ってないだろ」
迅太郎がぼやいた。
連日これだけの人々が行き交っていれば、この場に菊衛門や犯人が所持品を落としたりしていても間違いなく消失してしまっているだろう。
「馬鹿者! 弱音など吐いてどうする。お主なら何か見つけられるだろう? さあ、頑張れ」
「無茶を言うな。何の根拠があってそんな――」
そこまで言って迅太郎は雷に打たれたような感覚を覚え、ぴたりと動きを止めてしまった。
この感覚……間違いない。“剣気”だ。
剣気とは、陰陽思想でいう陽や陰の“気”に類するもので、これを有する人間は常識では考えられない身体能力や怪能力を行使することができるという。
その剣気の残り香を迅太郎は肌で感じ取ったのである。
この剣気の主は相当な使い手だな――迅太郎は思わず唾を飲んだ。
人体から漏れ出た剣気はすぐさま弱小化し、消滅するのが普通だ。それなのにこの剣気は迅太郎が察知してからもずっと力強さを維持している。
もしも、この剣気が闇叺の連中が残したものだとしたらかなり厄介だ――迅太郎は戦慄を禁じ得ずにいた。