かけそば五杯で九十文
それから一週間ほど迅太郎は繁蔵の長屋に厄介になった。
迷惑になるからと頑なに断ったのだが、繁蔵は迅太郎のことをいたく気に入ったらしく、半ば強引に彼を泊める運びとなったのである。
そして今日は出立の日。町人風の装いに身を包んだ迅太郎は、繁蔵と与太郎に向かい合う形で長屋の軒先に立っていた。
「本当にもう行くんですかい? もうちょっとゆっくりしていってくれてもいいんですぜ?」
繁蔵に引き留められ、迅太郎は気恥ずかしそうに苦笑いをこぼした。
「ありがとう繫蔵さん。また機会があれば立ち寄らせてもらいますから。与太郎、お前の父ちゃんは今にきっと帰ってくる。心を強く持つんだ。迅みたいにな」
「お兄ちゃん、またいつか遊んでくれる?」
「ああ、もちろんだ」
迅太郎は与太郎の肩を軽く叩くと踵を返し、行き交う人の中に消えていった。
「だめだぁこんちくしょう!」
時刻は七つ(午後四時)を回り、日は西の空へと傾き始めている。
意気揚々と繁蔵たちのもとを発った迅太郎だったが、今や完全に萎えきっていた。
浅草寺門前通りを抜けて広小路沿いで雇ってもらえそうな店を探していたのだが、途中で何回か市中巡視の役人から隠れなければならなくなり、思うようにことが運ばなかったのだ。
「とりあえず、飯にするか」
朝から歩き詰めで迅太郎はかなり体力を消耗していた。身が入りすぎて昼食を食べるのも忘れていたから疲労感はかなりのものだ。
迅太郎はちょうど目についた小体な蕎麦屋で腹を満たすことにした。ここなら客も少なめで落ち着けるだろう。
「いらっしゃーい」
たぬきのような小太りの大将がにこやかに迅太郎を出迎え、小上がりの席に通した。
「かけそば。超大盛で頼みます」
「はいよー」
大将は注文を聞くとそそくさと板場に引っ込んでいく。
店の中は割と小綺麗で、客の人数も思ったより多い。小さな店だがなかなかの繁盛店のようだ。
そういや、こいつの持ち主も探さないといけないんだよな。
迅太郎は例の女が落とした笄を取り出してまじまじと見つめた。あまり高価ではなさそうだがあの女にとっては大事なものかもしれない。自分が責任を持って必ずあの女のもとへ返してやるのだと迅太郎は心に決めた。
それにしても不思議だ。この笄からは何か形容しがたい力を感じる。
迅太郎がぼんやりとそんなことを考えていると、帳場の方から甲高い声が聞こえてきた。
「そんな! なぜ、嘘だろう!?」
迅太郎含め客たちの視線がそちらへと殺到する。何やら店の奉公人と客の少女が揉めているようだ。
「嘘だろうじゃねぇですよ。ちゃんとお代は払っていただかねぇと困りますねぇ」
奉公人は眉を寄せて少女を見据えた。少女が小柄なため奉公人が見下ろす形となっている。
「あの女子どこかで見たような――あっ!」
記憶の糸を辿った先にあの小柄な怪力少女が浮かび、思わず声を上げる迅太郎。
一番出会ってはいけない人間と早々に再会してしまうとは……頼むからこちらに気づかないでくれ。
「あっ! きみはあのときの!」
祈りも虚しく迅太郎は│茜に気づかれてしまった。衆目の集まる中、茜がこちらへ向かってつかつかと詰め寄ってくる。頼んだかけそばのお代だけ置いて逃げ出そうとしたそのとき、
「待ってくれ! もう逃げる必要はないんだ」
懇願するように茜が叫んだ。大きくて澄んだ目で見つめられ、迅太郎はぴたりと足を止めた。
「きみが逃げたあと、あの娘さんから本当のことを聞いたんだ。辻斬りなどと疑って本当にすまなかった」
茜が深々と頭を下げたので迅太郎は慌てて止めようとする。周りの人間から妙な誤解を受けては面倒だ。
「頭を上げてくれ。疑いが晴れたならそれでいいんだよ」
迅太郎の中で茜に対する怒りよりも、安堵感の方が勝っていたのだ。もうこそこそと役人から逃げる必要がないとわかり、迅太郎はほっと胸を撫でおろした。
「うう、感謝するぞ」
すべて丸く収まったかと思われたそのとき、黙って成り行きを見ていた奉公人が二人の間に割って入った。
「ちょっとちょっと。俺を蚊帳の外にされちゃ困りますよ。娘さん、お代はちゃんと払ってもらいますからね」
「だから、言ってるではないか。財布を落としてしまって一文無しなのだ。そ、そうだ、旅の者よ」
「迅太郎だ」
「迅太郎、すまないが私のそば代を立て替えてくれないか? もちろん金は後で必ず返す」
「そりゃ、別に構わないけど……」
迅太郎はあまり深く考えずに了承した。この少女が約束を反故にするような悪い人間とは思えなかったからだ。第一、迅太郎は目の前で困っている者を捨て置けるような性分ではない。
「兄さんが払ってくれるんですね? しめて90文になります」
「90文!? 五人前の金額じゃないか! 小柄な割にそんなに食うのか、お前……」
茜を半眼で見ながら金を取り出し、迅太郎は奉公人の手に握らせてやった。
茜は恥ずかしそうに下を向いたままぽつりとこぼす。
「そ、そんなに褒められたら恥ずかしいではないか」
「いや、褒めてるわけじゃないんだけど」
迅太郎が眉間を押さえていると、かけそばを持った大将がにこにこしながら板場の奥から戻ってきた。
「お待ちどおさーん」