人さらい一味、闇叺(やみかます)
人けのない路地裏で迅太郎は途方に暮れていた。
あの茜という少女は妖奉行の御用聞き――つまりは幕府の息のかかった者である。辻斬り疑惑のかけられた迅太郎のことが茜から役人たちの耳に入るのも時間の問題だ。
まさか江戸に来て早々このような災難に見舞われるとは。
迅太郎は嘆息を禁じ得なかった。ほとぼりが冷めるまで人目につく場所での行動は控えなければならない。
「ちくしょう、世の中うまくいかないもんだなあ」
迅太郎はぼんやりと虚空を見つめていると、不意に何者かに着物の袖を引っ張られた。怪訝に思って視線をやると、五、六歳の男児がまじまじとこちらを見つめている。
「どうした、俺に何か用かい?」と迅太郎はにこやかに尋ねた。
「お兄ちゃん、僕とちゃんばらごっこしよう。僕が紫炎刀の迅をやるからお兄ちゃんは妖役ね」
迅太郎の眉がぴくりと動く。
迅――それは最強と謡われた正体不明の剣客。
彼は龍神から授かったといわれる紫色に燃える刀を手にし、盗賊や悪代官、妖など人の世に仇なすあらゆる悪を斬って回った。
顔も知らない豪傑を人々は大いに慕っていたが、いつしか迅が悪の前に立ちはだかることはなくなってしまった。どこからか芽吹いた噂によると迅は既に死んでいて、現在は紫炎刀を託された二代目が人知れず悪を成敗しているとかいないとか。
「なにぼうっとしてんのさ。いくぞ妖、覚悟ー!」
言うが早いか男児は帯に差してあった棒切れを抜いて迅太郎に向かっていった。棒切れを刀に見立てているらしい。
「いってえぇぇ!」
男児の振った棒切れの一撃が迅太郎の向こう脛を直撃。子どものわりに力が強くて迅太郎はたまらず飛び上がってしまった。
なんなんだ? なんでこんな目にばかりあわなきゃならないんだ?
涙目の迅太郎が男児に恨みがましい視線を飛ばしていると、
「こら、与太郎。お前はまた乱暴しおって」
エラの張った四十絡みの男が男児の頭を小突いた。
「すいやせんねぇ、旅の兄さん。あっしはこいつの世話をしている繁蔵といいやす」
そう言って繁蔵は恭しく頭を下げた。
思いのほか礼儀正しい態度に迅太郎は相好を崩す。
「あはは、気にしてませんよ。子どものすることだから。あなたは与太郎くんの親父さん?」
「いんや、あっしは……」
そこで繁蔵は言葉を区切り、あっちに行っていろと与太郎を追い払った。何か与太郎に聞かせたくないことを話す気らしい。
「与太郎の伯父にあたるもんでさ。あいつの父親、つまりあっしの弟は御用聞きをやっとるんですが、もう二週間も長屋に帰ってきてねえんでさ。もしかしたら奴らに殺されちまったんじゃねえかとあっしは心配で心配で……」
繁蔵は奥歯をぎりぎりと力強く噛みしめた。不安と怒りの入り混じった複雑な面持ちをしている。
「奴らというのは誰のことです?」
「ふむ、旅の人ならわからんのも無理ねえか。あっしが言ってるのは“闇叺”のことでさぁ」
「闇叺?」
繁蔵の話によると、闇叺とは昨今、浅草界隈を中心に暗躍している人さらい一味のことらしい。剣の達人など武道に優れた者ばかりを狙い、決して自分たちの尻尾は掴ませない謎めいた連中だという。
「弟は闇叺の足取りを探っている最中に行方不明になってしまいやした。それからでさ。おとなしかった与太郎が紫炎刀の迅に傾倒してやんちゃ坊主になっちまったのは」
「きっとさみしいんでしょうね」
迅太郎は胸の奥を突き刺されるような思いがした。
孤独の苦しみを知っている迅太郎には与太郎の気持ちが痛いほど理解できたのだ。
「あっ、すいやせん。通りがかりの人にこんな話をしちまって」
繁蔵は恥ずかしそうに頭をかいた。心なしか強張っていた顔がいささか穏やかになったように見える。弟のことを迅太郎に話して少し気が楽になったのかもしれない。
「気にすることないですよ。それより与太郎くんと少し遊んでいってもいいですか? 俺はこれでも子ども好きなんです」
迅太郎の申し出に繁蔵は「もちろん、こっちから頼みてぇくらいでさ」と満面の笑みで答えた。
闇叺、か。こいつは二代目・紫炎刀の迅として捨ておくわけにはいかない悪党だ。
与太郎とちゃんばら遊びに興じている最中、迅太郎の胸中に決意の火が静かに灯された。