剣客狩り
「菊衛門さん、今日もありがとうございました」
料理屋【きさらぎ】の軒先で中年増の女将が島田菊衛門に頭を下げた。菊衛門はきさらぎの常連客である。彼は今宵も酒と料理を存分に楽しみ、女将に見送られて家路に就くところだった。
「うむ、今日の膳も美味かった。また来るぞ」
菊衛門は上機嫌そうに笑って返した。ずいぶん酒が回っているようで、顔は赤みを帯び足元は少しおぼつかない様子である。それを見た女将の顔に不安の色が浮かぶ。
「本当に気をつけてくださいね。今は妖がよく出る危ない時刻です。それに近頃は腕の立つお侍さんが行方知れずになる事件が続いているようですし……」
「なぁに、妖だろうが人さらいだろうが拙者がこの手で成敗してくれる」
女将を安心させようとしたのか、菊衛門は大袈裟に笑ってみせた。
彼は北辰一刀流の使い手で、多くの門弟を抱える剣術道場の主だ。その自信満々な物言いは決してただのはったりではないのだ。
女将はまだ不安を拭い切れていない様子だったが、それ以上何も言わず、遠ざかっていく菊衛門の背中を見据えていた。
時刻はもうすぐ夜四つ(午後十時)を迎えるため、通りに人影は見られない。
雲のない明るい夜だ。
菊衛門はきさらぎのある浅草駒形町から北に向かい、吾妻橋方面へと歩いていた。大川にかかる吾妻橋を渡った先の本所に菊衛門の屋敷はある。
そして橋のたもとが近くに見えてきたとき、菊衛門は前方からやってくる人影に気がついた。最初は距離が遠くてわからなかったが、互いの距離が縮まってくるとそれが小袖を尻っ端折りした二十五歳見当の男であることが知れた。
(薄気味の悪い奴だ)
菊衛門は男を見て思わず目を逸らしてしまった。
男の顔はしゃれこうべのようにこけており、頭は月代を剃らず髷も結っていない。長く伸びて乱れた前髪を揺らしながら下卑た薄笑いを浮かべているその様子はさまよう亡霊を想わせた。
(用心せねばならんな)
きさらぎの女将の忠告が脳裏に浮かび、気を引き締める菊衛門。いつでも抜刀できるように本差しの鯉口を切ろうしたそのときだ。
「きええぇ!」
男は奇声をあげると同時に懐から匕首を取り出し、すれ違いざまに斬りつけてきた。
「ぬおっ!」
男に注意を向けていたことが幸いし、菊衛門は間一髪で避けることに成功。体勢が崩れるがどうにか踏みとどまって距離を取る。
「ほほおぅ、今のをかわすとはやるねぇ。さすが、千景が目を付けるだけのことはある」
男はねっとりとした口調でそう言い、品定めするようにまじまじと菊衛門を見た。
「貴様、何者だ! さてはこのごろ江戸を騒がせている人さらいか?」
対する菊衛門は刀を抜き、青眼に構えた。長年、腕を磨き続けた熟練者特有の研ぎ澄まされた“気”が菊衛門の全身を覆っている。並の剣士なら刀を交える前に怖気づいてしまうだろう。
「人さらい風情と一緒にされるとは、心底傷つくねぇ」
男は菊衛門の“気”にも動じることなく匕首を構え直し、第二撃を繰り出した。間合いも足運びも度外視した真正面からの猪突猛進攻撃。これではむざむざ斬られにいくようなものである。
――愚かな。一刀のもとに斬り伏せてくれる!
菊衛門は勝利を確信した。
青眼から袈裟へ。月明りを照り返した刃が男の肩口を切り裂き、鮮血の花が夜闇に舞う……そのはずだった。しかし菊衛門の刀が斬ったのは虚空のみ。
「馬鹿な、消えおった!」
思わず声を上げる菊衛門。彼の目には、男が眼前で急に消滅したようにしか映らなかったのだ。
「鈍いなぁ、こっちだよ」
不意に耳元でささやかれ、菊衛門の心の蔵がどくんと跳ねた。
男は真正面から突っ込むと見せかけて、一瞬のうちに菊衛門の背後に回り込んでいたのだ。首筋に突きつけられた匕首が菊衛門の首を浅く切り、細い血の線を描いていた。
――馬鹿な、いつの間に!
菊衛門の浅黒い顔にじっとりと脂汗が浮いてきた。わずかでも動こうとすれば男に喉笛を裂かれてしまうだろう。
勇猛で鳴らした自分があっさりと無力化されてしまうとは。菊衛門はこの男がたんなる辻斬りの類でないことを確信した。
「このまま喉を切り裂いて殺したいんだけど、それじゃあ千景に怒られてしまうからなぁ」
「がはっ!」
男は薄笑いを受けべながら匕首で菊衛門の胸を貫いた。瞬く間に多量の血が流れだし、羽織が真っ赤に染まっていく。
刀を握る力も失い、がっくりとその場に倒れ伏す菊衛門。
「た、助け……」
菊衛門は恐怖と痛みに歪んだ顔で地べたを這うように逃げようとした。だが、そんな彼の前に新たに二人が立ちはだかった。一人は豪奢な打掛を着た女で、片方は尺八を手にした大柄な虚無僧である。
「思ったよりも時間がかかりましたね、喪次郎」
女は倒れた菊衛門を一瞥してから男――喪次郎に視線を移した。目鼻立ちの整った妖艶な美女で、ほどよく肉付きの良い肢体が人目を引く。
「ちょっと遊んでやっただけさぁ。さぁ、早いとこ喰ってしまいなよ千景」
喪次郎が促すと、千景と呼ばれた女は指で虚空に紋のようなものを描き、同時に呪文の詠唱を始めた。
「腐・滅・死・超・呪・禁・我・僕・在・前・急急如律令。現れなさい、愚苦」
千景の詠唱が終わると、虚空に描かれた紋が光を帯び、そこから巨大な手が伸びてきた。人間のものより遥かに大きく、その上ただれて強烈な腐臭を放っている。喪次郎は思わず鼻をつまんだが、千景と虚無僧は平然としていた。
「あ、妖だああああ!」
菊衛門は恐怖に顔を引きつらせ、蜘蛛のように這って逃げようとする。それを見た虚無僧がおもむろに尺八の音色を鳴らすと、どういうわけか菊衛門は地面に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
「があっ! くそ、うわああああ! やめてくれえええ!」
命乞いもむなしく、菊衛門は巨大な手に鷲掴みにされてしまう。じたばたと足掻くが菊衛門に残された力ではどうにもならない。そのままゆっくりと巨大な手とともに紋の中へ消えていき、それっきり菊衛門の姿は見えなくなった。
あとに残るは地面にできた血だまりだけ。
「よぅし、仕事は済んだ。お楽しみの時間といこう」
喪次郎は出し抜けに匕首で千景の打掛を斬った。胸元が裂け、豊満な二つの房があらわになる。
「喪次郎、いけませんわこんなところで」
「いいじゃないか。俺はもう我慢できないんだよぉ!」
喪次郎が欲望に目をギラつかせて千景に顔を近づける。どうやらねぐらに帰るまで我慢ができず、この場で行為に及ぶつもりらしい。
「見苦しいな、喪次郎よ。お主は少し慎みを持ったらどうだ」
それまで静観していた虚無僧が、喪次郎たちの醜態に辛抱ならず口をはさんできた。彼は天蓋を被っているためはっきりしないが、その錆の利いた声から歳は五十絡みだと思われる。
「面白いこと言うねぇ。胤水さん、あんたも俺と同類なんだよ。わかるぅ? 幕府の転覆なんか企んでる俺たちに今さら慎みもクソもないのさ」
喪次郎が千景と指を絡ませながら虚無僧・胤水のほうを向いて言った。その顔には人を食ったような薄ら笑いが浮かんでいる。たとえ仲間内の年長者相手だろうと決して礼節をわきまえないのが喪次郎の常だ。
「ふん。拙僧が千景殿と手を組むのは、それが人の世にとって最善であるという答えを導きだしたがゆえ。情欲に駆られただけのお主と一緒にするでない」
胤水はそう吐き捨てると踵を返して夜闇の中に溶け込むように消えていった。自身のねぐらへと戻っていったようだ。
「さあ、わたくしたちも家へ帰りましょう。こんな暗い道端よりも行燈のついた明るい座敷のほうがお互いの気分も高まるでしょう」
「わかっちゃいないねぇ、千景。俺は暗がりの中のほうが興奮するんだよ」
喪次郎は喉をくっくと鳴らすと千景の肩を抱き寄せ、荒々しく千景の唇を奪った。