いつもいつも
特に面白味のない毎日が始まる。
とある地方都市の赤い屋根の一軒家
寝室のベッド近くに置かれた携帯から
渋みのある男の歌声が鳴る。
「〜♪〜♪」
もそもそと布団が動き、ニョキリと細くやや浅黒い腕が伸び携帯の画面を乱雑に連打して男の歌声を止めた。
「もう朝…別に一生覚めなくてもいいんだけどね」
一人呟きながら起きた女。
武田京美は自宅の近くの弁当工場に20年ほど務めている。
髪は白髪染めの為濃い赤茶に染め
スタイルは20年前からほとんど変わらない
変わった所は眉間の間に深く刻まれた縦ジワくらいだ。
京美はパジャマ代わりのグレーのトレーナーから
お気に入りのヒョウ柄トップスに着替えた。
このヒョウ柄は似合ってると同僚や友達に言われた事があり
かなりのお気に入りだ。
寝室のドアを開けながら大きめの声で
「マルー?マルー?」と呼びかけた。
ポテポテポテと足音がして廊下の角から
丸々としたカフェオレ色の猫が顔を半分だけ覗かせた。
「もう!なんでそこまで来たのにこっちまで来てくれないの?」
京美は仕方ないというような感じで寝室のドアを閉め”マル”の居るリビングに向かった。
リビングはシックな色合いで
大きなテレビ、モスグリーンのカーテン
ブラウンのラグ、牛革のソファーセットがあり
そのソファの縁に”マル”がより球体になって
目を瞑って乗っている。
テーブルにはパンくずの乗った皿一枚と僅かに牛乳が残ったコップ、そしてレモンサワーの空き缶が3本置いたまま
にされていた。
「ちっ!またアイツ片付けないで行ったのかよ…」
アイツとは京美の夫の事である。
二人はずっと夫婦でいるが子供は居なかった。
「アイツがいーちゃんなら良かったのに」
いーちゃんとはIZAWAというロックシンガーの愛称で
世間では大御所として扱われている。
京美の携帯のアラームはいーちゃんの歌声で統一されている。
この場に居ない夫に悪態をついたものの
実はサワーは京美が昨晩飲んだものであった。
武田京美とは自分には甘く他人には厳しい性格の女なのである。
朝の準備とマルとの癒やしの時間をサッサと終わらせた京美は
「今日はマタタビのおやつ買ってくるからね、行ってくるね」
と玄関に向かいながらリビングのマルに呼びかけた。
リビングから「ナー」と間延びする鳴き声が聞こえ
玄関のドアに鍵を掛けた。
タバコをくわえながらハンドルを握り、お気に入りの
いーちゃんの歌を爆音で流す。
憂鬱な出勤の時間が少しだけ楽しくなる。
しかし出勤先まで5分以内という好立地の自宅
楽しいコンサートの時間はすぐに終わり
地獄への入り口…弁当工場の門が見えてくる。
並社員の挨拶
「おはよう御座います。」
「よッス」
爽やか若手メンズ社員の挨拶
「おはようございます!」
「おはよー!」
自分より若い女社員の挨拶
「おはようございます…」
「…フン」
京美はベテランなので勿論自分から挨拶などはしない、この様に向こうから挨拶してきてくれるのが当たり前、ただし対応は人によって変えている。
「あらー!おはよう姐さん!今日のヒョウ柄似合ってるわね!」
「そう?この前も着てきたけど」
「ううん!今日のヒョウ柄が今までで一番なのよ!そうなのよ!そういうこと!そうそう!」
このまったく信用出来ない発言をする小柄の女性は
同じ課で働く小谷という同僚だ。
工場内での私の立場、地位を素早く察知し
いち早く私の太鼓持ちとして従事している。
私が任命したわけではなく、自分から望んで太鼓持ちをしている。
童話に出てくるネズミやコウモリの様だと常々思っている。
「今日はなかなかうちの子学校行きたがらなくてさー!」
「そうなんだ、大変だね」
「そうなのよー大変なのよ!旦那も手がかかるしー!」
京美は気の無い相槌をウン…ウン…とうつ。
「あっ!姐さんそういえば派遣の村田ちゃん辞めちゃったみたいよ」
「えっ?また?辞める子多すぎ…何でよ?」
小谷はニヤリとして
「またまたー姐さん、とぼけちゃって!!」
「何の事よ?まあ、最近の若い子は飽きやすいのかね」
京美の居る部署に入ってくる若い子はとにかくすぐ辞めてしまう。しっかり仕事を覚えてほしくて怒鳴ったり
ミスをするんじゃないかと睨んだり
反省してもらう為に無視する事も偶にするが
とにかく辞めてしまうのだ。理由はわからない。
「ダメだね最近の子。ハッキリしないし意思疎通できないし同じ人間…?この星の人間とは思えないわ」
「そうそう!!私も姐さんと同感ー!!ダメよーダメダメ!」
作業服に着替え巨大コンベアの立ち位置に着く。
これから8時間、流れてくる弁当に唐揚げ、コロッケ、ヒジキ等を素早く添えていく。言葉だけだと簡単そうに思えるかもしれないが、流れるスピードは尋常ではないし目や肩はガチガチ。
ヒジキを置き忘れでもしたら注文先から大層なクレームがくる。
大きな釜は途中で調子が悪くなりやすくその調整もベテランの自分しか出来ない。
とにかく京美はこの会社にとって重要な人物なのである。
10時になり休憩に入ると部長に声を掛けられた。
「武田さん、今日帰りにちょっと話いいかな?」
もしかして20年の働きが認められ役職付きになるのだろうか
京美は何時もよりヒジキを多めに盛り付けた。