ユウジン挿話
ワシの名前は村上栄。28歳。大学院で修士課程まで修了し一年間フリーターとして居酒屋の店長を務めた後、めでたく希望の出版業界に就職を果たした。この職場をワシはいたく気に入っている。
ワシの上司は保坂泰範というなかなかいい感じの人で、ワシはこの人を大変尊敬している。本人は多分にワーカホリックな面があるがけしてそれを部下達に強要したりしない。オヤジギャグを言って周りの人を困らせたりもしないし、女性を特別扱いしたりもしない。適度にお洒落だし、適度に優しく適度に厳しいし、適度にユーモアがあり、適度に几帳面で適度に適当だ。適度というのは案外難しいのだとワシは思っている。
ところで、ワシが自分を俺とか僕とかではなくワシと呼ぶのはワシの名前がじいちゃんみたいだ、と言われ続けてきたからに他ならない。実際自己紹介で名乗ったら「俺のじいちゃんと同じ名前だわ」と言われたことが片手分あり「じいちゃんぽいな」と言われたことが両手一杯にある。そんなワシの名だが、保坂編集二部長は「いい名だな」と言った。「松明をくべている、という文字だと聞いた事がある。情熱を燃やして、いい仕事をして、華々しく活躍しろよ?」それから自分の頭をくしゃくしゃっと混ぜて照れくさそうに笑った。「聞き飽きてるかもな」と保坂編集二部長は言ったが、いや、ワシはそんなことを初めて言われた。
保坂編集二部長は最近大変ご機嫌である。大変ご機嫌であると同時にいささか挙動不審な点も多い。たとえば先日は突然明太子を買いに行くと言い出した。佃煮を買いに行ったり、チョコレート菓子を買いに行ったり、そういうことがぜんぜんないわけではない。たとえば取材先や執筆者や取引先や出先に持って行ったりあるいは来客に合わせてそういった買い物をすることもある。しかしながら明太子である。訪問も来客の予定もない、なんでもないある週のある日の朝、そりゃもう唐突に。
何か考えるところ、思うところがあるに違いないのだ。ただワシのような凡人には分からないだけで。ワシにできることはただ一つ。尊敬しているこの編集二部長、保坂泰範を見守ることだけである。
* * *
あ、あれは保坂編集二部長ではないか。
我が社のビルに程近いYMCA寮の一本先に、ステイロというカフェがある。大きな帆の屋根を通り側に張り出してテラス席もあり、古い町にしては小洒落た雰囲気だ。テラス席の一方は隣のビルとの間に枯れているのか生きているのか分からない草木を背に設えてあってその席は一日中いつでもビルの影になっている。陽があたらないので冬は寒いが紫外線を気にする女性には人気の席だ。保坂編集二部長はその席で文庫本を読んでいた。あの枯れているようでいて鮮やかに小さな花を咲かせる草木は、カランコエというのだと以前教えてもらったことがある。それから、ステイロというのは万年筆という意味のフランス語だということもこの人から教わった。保坂編集二部長は博識である。
久しぶりに平常運転である保坂編集二部長を見た気がする。ここ最近はなんとなくそわそわしていたり、割と遠くまでランチに出て行ったり、昼飯を忘れて仕事をしていたりして、見ているワシの方が落ち着かなかった。ああして長い足を組んで文庫本を読んでいる保坂編集二部長の安定振りを見るとなんだかほっとする。
ワシは声をかけようかどうしようか悩んでここはひとつそっとしておこうという道を選んだのだが、このシナリオは分岐ではなかったらしい。「むらかみぃ~」と保坂編集二部長が周囲の目を気にすることなく大きな声でワシの名を呼んだ。テラス席の中央あたりにいた中年のおばさんが連れた犬がわんわんわんと吠えた。ワシは保坂編集二部長の座っているテラス席へと小走りで近づいた。
ぼーっと立ってると、保坂編集二部長は「急いでるのか?」とワシに訊いた。「いえ、ぜんぜん。むしろ、ぜんぜん」とワシが答えると、保坂編集二部長は自分の斜のアルミの椅子を座ったまま引いて「かけたら?」と言う。ワシはポコンとその椅子に座った。それからおもむろに立ち上がって店内に飲み物を注文しに行った。
保坂編集二部長はまた文庫本を広げていた。テイクアウトのカップに入れたアイスコーヒーを持ってワシがそこに座ると、文庫本にしおりを挟んでパタンと閉じてそれをテーブルにのせ、その本の上でとんとんと指先でリズムを打っている。ぼうっと通りを眺めている保坂編集二部長は少しニヤついているように見えた。
「なぁ、知ってるか、村上。」
と、保坂編集二部長は、リズムを打っていた手で頬杖をついてワシの方を向いた。
「はあ、なんでしょう」
とワシはストローから口を離して両手を膝の上に置いた。
「睫毛はな、影を落としたりなんかしない」
そうなのか。保坂編集二部長がそう言うのならそうなんだろう。ワシは深く頷いて
「そうでしたか、それは知りませんでした。」
と答えた。それから
「よく、ライトノベルなどの表現では拝見するような気がしますね。その…美形な人物が目を伏せた時の美しさの表現として。」
「だろ?それで、実際、記憶の中では睫毛が影を落としていたような気がしなくもないのだが、でも実際には、睫毛は影を作らないんだ。ありとあらゆる方向から確認してみたから間違いない。」
ワシはもう一度深く頷いて、アイスコーヒーのストローに口をつけた。保坂編集二部長が検証したらしい睫毛の持ち主について想いを馳せてみる。髪は黒髪だろう。前髪は切りそろえてあって、背中まで流れる髪は艶やかで豊かで、それから多分、胸は大きいだろうと思う。保坂編集二部長が、睫毛の持ち主を一回転させているところを想像する。大きな胸が少し揺れたりしても、保坂編集二部長は目を奪われたりせずに睫毛の検証を続ける。その点ワシなんかは小者なので多分胸の方ばかり気になって睫毛の検証が二の次になってしまう。あくまでも想像だけれど、もしかするとそういうとき保坂編集二部長ならバスタオルを掛けてあげたりするかもしれない。それはそれでエロいよな、とワシは思った。
ストローをくわえたまま盗み見ると、保坂編集二部長はやはり少しニヤついていて、通りを行く人を眺めていた。睫毛の検証を思い出しているのかもしれなかった。
終わり