第0話 その鷹は灰色をしていた 前編
〈2122年 5月4日 1:21AM 第二星片日本到達まで残り約72時間〉 ―?―
カラン、と小気味よい音が響いた。グラスに注がれたウィスキーの中で丸い氷が溶け始めていた。
巨大なシャンデリアから降り注ぐ黄色の光が照らす部屋。剥製のライオンは今にも動き出しそうな迫力を死してもなお維持しながら来客を迎える。テーブルをはさんで対面に並ぶ二つのソファは黒光りをしている。そしてその先、拡張高いプレジデントデスクには観葉植物にタバコの受け皿、そして先ほど注がれたばかりのグラスが一つ。
「マキアル様」
中性的な声に、低身長の小太りの男が振り向いた。その男――マキアルは自慢の髭を右手の人差し指でこすりながら、左手で机上のグラスを掴んだ。それから一気にそれを飲み干すと、豪快にそれを机に置いた。
まるでグラスを割れたのかという音に、部屋にいた5人の背広の男たちは一斉に視線を奪われた。しかしまさに微妙。グラスは割れず、机も傷つかず。その動作に驚くそぶりをみせなかったのはマキアル本人と、そしてマキアルの名を呼んだ執事服の青年のみであった。
「オプス、今は何時だ」
時計ならば壁掛けのものが部屋にはあった。別にその時計は壊れていたわけでも時間が狂っているわけでもなくいたって正常。しかしマキアルは時間を見るのが億劫だった。故に青年オプスに問い訊ねた。
「午前1時22分。明日のことがありますゆえ、就寝をお勧めします」
オプスは時計を見ることもなく即答した。彼はまるで体内に時計を埋め込まれているのかと思うぐらいに正確に時間を把握していた。
純粋なブロンドの髪に、長い鼻、青い瞳。卑しく品のない顔をしたマキアルと違って、オプスには華があった。黒の燕尾服に身を包んだ彼は、さながら役者のよう。本来このような場所には似つかわしくない存在。
しかしそれをおくびにも出さず、このマフィアの巣窟でそのボスたるマキアル・バイロウに仕えていることにはある理由があった。
「そうだな……しかしオプス、むしろ今日は興奮が抑えられない。明日からオレたちは――」
オプスが続けた。
「このイタリア全土への進出へ行動を開始する、ですね」
マキアルがうなずいた。オプスは空のグラスを回収し、それとは別の新たなグラスに今度は水を注いだ。それをマキアルが受け取ると、今度は一気に飲み干すということはせず、唇を濡らす程度にとどめた。
「なのにどうして静かに眠れるか。お前らだってそうだろう?」
マキアルの威圧的な視線に即座に背広の男たちは首肯した。
「ですがマキアル様。だからこそ……万全の状態で臨むべきなのです。無論マキアル様だけではなく、このバイロウ家の者たちすべてが。特にマキアル様は我々を率いる身であるゆえ――」
マキアルがゴホンと咳払いをしたことでオプスは話を止めた。それからマキアルは机からとある銃を取り出した。
リボルバー。言わずと知れた拳銃の一つ。何も珍しい武器でもなく、もう何百年も前からある武器。しかしそれが他と違うのは、とある人物の形見であるということ。
「親父はこの銃で何百、何千と対立する連中を殺したってよく言っていた。ほんと親父は――」
マキアルは気分よさそうに滔々と語る。しかしマキアルはその話をこれまで何十回としていた。背広の男たちはその話に退屈さを感じ、こそこそとトランプに興じ始めた。しかしただ一人、オプスは笑顔のままマキアルの仕えていた人物の武勇伝を聞き続けた。そして敢えてその話が幾度となく繰り返されたものであるという指摘もせず「すごい人物だったのですね」と月並みな感想を告げた。
オプスはマキアルのことを、マキアル以上に知っていた。彼がこの話をするとき、彼は決して認めはしないが不安を感じている。それに気が付いたのはその話を聞いて五回目の時。今回であれば明日からの計画を心配しているのであろう。
明日からのことに不安を感じているのは、まるで仮面をつけたかのように本当の感情をさらけ出すことのないオプスにとっても同じだった。オプスは若いが、経験してきた場数の数ならばここにいる者たちと同等かそれ以上。しかしそんなオプスでも心配であったのは、明日からの計画で最も重大な役割を担うのは一――
「どうした、オプス?」
マキアルの声にオプスははっとした。額に一粒の汗が流れていた。そこでようやく自分が深く考え込んでいたことにオプスは気が付いた。彼は頭を横に振り、汗を払い、いつも通りの顔を作り上げた。
「オプス。わかっているな。お前が頼りだ」
そう、自分が、自分こそが計画の鍵になる。他の誰でもない自分が。あんなに虐げられ、見捨てられ、寄る辺もなかった自分が。
それはあえて言われなくてもわかっていた。でも他でもないマキアルに指摘されればよりいっそう身が引き締まるような思いだ。だからマキアルの前では、気丈に振舞おう。そうしてマキアルの心配を拭い去るように。
オプスはそして、固く結晶となった思いをマキアルに宣誓するかのように告げる。
「はい、マキアル様。全身全霊を尽くして――」
オプスの誓いを邪魔するかのように、バンッ、と渇いた音が下の階から聞こえた。部屋にいる七人は言葉を交わさずともそれが何であるのか、同じ答えに行きついた。銃声。それからまた激しい爆裂音が立て続けに何十発。止んだと思ったら、また数十秒後に銃声が連なる。
「マキアル様っ!」
オプスはマキアルのもとに駆けより彼を隠すように立つ。背広の男たちは腰に備えた拳銃を引き抜き、二と三にわかれて扉の前に移動。
銃声は止まない。そして今度は断末魔が鮮明に聞こえた。野太い声、甲高い声。やられたのは一人じゃない。この屋敷の者たちを次々葬りながら、その侵入者たちは近づいてくる。
その銃声からするに侵入者は複数かつ相当な手練れ。しかし数ならばこちらの方が多いはず。勝機は八割越えは固いだろう。
「お前ら、扉を開けろ。くそったれの顔を拝ませろッ!」
マキアルの指示を受け、背広のサングラスをかけた男がうなずいた。それから彼は他の四人と目配せをとったのちに、3、2、1――
「動くんじゃねぇッ!!」
サングラスの男は怒声を上げるとともに、分厚い扉を開いた。そして背広の集団は一斉に廊下へと飛び出し銃を構えた。
廊下の先に広がる光景に、背広の男たちも、オプスも、マキアルも驚愕した。
そこに立つのは、たった一人の青年であったのだから。
※
その青年の髪は燃え殻のような色をしていた。灰色の前髪が額を覆い隠していた。しかし彼の髪は長いというわけではない。耳は出ており、後ろ髪も短い。赤いルビーを埋め込んだような瞳からは何の感情も読み取れない。鼻筋は通っており、唇が薄い。顔の輪郭がはっきりしていた。身長は高く、肩幅がそれなりに広い。そのウエストからわかるのは彼が痩せ型であるということ。ワインレッドのジャケットの上に着ている、膝までの長さもある紺色のモッズコートの裾はところどころ裂けていた。そして真っ黒いスキニーは足の細さをより際立たせている。
「動くなっ!」
再度サングラスの男が叫んだ。青年はその言葉の通り、まるで置物かのようにその場から動くことはない。
本当にこのひょろ長い青年が殺ったのか。いまだにサングラスの男は懐疑的であった。しかし視線を落とすと、そこには亡骸が二つ。先ほど聞こえた断末魔はこの二人のものか。それから少し視線を上げると、青年の両手には拳銃が。そこで高身長の男の疑念は晴れた。その拳銃が凶器に違いないことは明らかだった。
「銃を捨てろ」
言われた通り青年は動かなかった。それゆえ青年は拳銃を手放さずにいた。黒色の自動拳銃。銃に精通しているわけではないが、それは見るからに普通の拳銃に見えた。自分たちの持つものと性能は変わらないだろう。
しかし青年は一向に拳銃を捨てるそぶりを見せないでいた。
「聞こえないのかッ!」
サングラスの男が語調を強めて威嚇する。しかし青年はなおも気にするそぶりを見せず、無遠慮に深くため息を吐いた。それからけだるげな視線をサングラスの男にぶつけた。
「聞こえている。しっかりとな……聞こえているうえで俺はこの二丁を捨てるつもりはない。これを捨てた時点で俺はあんたらに対して抵抗する力を失うからな」
毅然と答える青年の声は年齢の割には低く、そして落ち着き払っていた。青年は銃を捨てるはおろか、むしろ力を抜いていた両腕を上げ、そして銃を正面に構えた。背広の男たちはそれを見て警戒を強める。
「あんたらは狙っちゃいない。射線をよく読んだ方がいい」
その言葉に真っ先に反応したのは奥の部屋にいたオプスであった。灰色の髪の青年の右手の拳銃の射線上、マキアルの右肩があった。即座にマキアルを机の下に伏せさ、サングラスの男に扉を閉めるように伝えた。
「ブロンドのやつは感覚が鋭い。だがあんたらはダメだな」
青年はふっ、と挑発的な笑みを漏らした。そして彼は再度銃を握り直した。
「わかっているよな、くそガキ。ただじゃおかないぞ、てめぇ」
青年の言動に怒りを覚えていたのはサングラスの男のみではなかった。五人のいかつい男から棘のある視線が青年を襲った。
「くそガキ、ね…自分でも自分がクソ野郎だとは思うが、ガキと呼べれるほどの年齢じゃない」
しかし青年は冷静さを欠くことはなかった。サングラスの男の言うことに動じることなく淡々と言葉を返す。その圧倒的な戦力差に屈するはおろか、余裕をみせながら。
「(てめぇら……)」
サングラスの男が他の男たちに目配せをした。それが意図するところは一つ。
終わらせてしまおう――こいつを排除してしまおう。
この青年に殺された仲間の仇を撃つために。そしてバイロウ家のために。
「――撃てッ!!」
サングラスの男の怒号を合図に、六つの拳銃から一斉に射撃が開始された。
無数の弾丸を撃ち込む。背広の男たちの考えは同じだった。弾を撃ち尽くすころには青年はまるでハチの巣のように穴だらけ。この弾雨を逃れ得る術などない、と。
そして予想通り銃弾は青年を貫く――そのはずだった。
「んなっ!?」
サングラス越しの緑色の瞳が丸くなった。彼だけじゃない。他の四人もまた目を点にした。
数撃てば当たるという。それはそうだ。普通、銃弾は避けられるものじゃない。それでも一発二発避けられる人間はいるかもしれない。だとしても六丁の拳銃から一斉に放たれた無数の銃弾すべてを避けきれるわけはない。
しかし――青年はその二本の足で直立している。数秒前と変わらぬ位置で。何の感想も抱かぬ表情をして。
異常だ、と感じた。彼は動かなかった。それならば多くの銃弾が彼を貫いているはず。
何故彼は無傷なのだろうか?答えは青年の足元にころがるそれを見れば一目瞭然だった。
相殺。その言葉が適しているのだろう。足元にあるそれは、銃弾と銃弾が衝突しひしゃげたもの。
青年は自分たちが放った銃弾で、しかも彼に被弾するものを選別し、その該当するすべての銃弾を、自らも銃弾を放つことで無力化して見せた。彼の手に握られたただの黒い拳銃。それでもって彼は成し遂げたのだ。
「ありえない…」
驚嘆だった。それは神業といってもいい。自分たちはありったけの弾丸を放って殺そうとしていた。しかし青年は必要な数だけ放ち、そのすべてを撃ち落として見せたのだ。
不可解なことがいくつもある。
なぜ青年の銃からは硝煙が上がっていない?
それだけじゃない。なぜ複数の六丁の拳銃の射撃をたった二丁の拳銃でしのぎ切れた?弾が尽きるはずなのに。彼はマガジンを交換する動作をしていなかった。
「てめぇ、まさか……」
サングラスの男の額を大粒な汗が流れた。動揺しているのは彼だけじゃない。取り巻きの男たちだってその答えにたどり着いていた。ありえないことを起こす、常識を無下にしてしまう力。目の前の青年は自分たちとは違う存在。そう、彼は――
「つまらない力だが…いちおう異能力者だな」
異能力者。そうか、やはりそうだったのか。
なぜ彼はリロードをせずに撃ち続けられるのか。なぜ彼の銃からは硝煙が上がらないのか。なぜ彼は――銃弾に銃弾を当てるほどの射撃技術があるのか。異能力者。その言葉一つですべてが解決される。
異能力者は非常識な存在だ。自分たち人間の当たり前を捻じ曲げてしまう、厄介で、不気味な、化け物。彼らの存在は世界を歪めたのだ。
「で、いったい何の異能力者だ?」
問い訊ねるサングラスの男に灰色の髪の青年は首を横に振った。青年は何を意図してそうしたのか、サングラスの男にはわかりかねた。しかし、どちらにせよ異能力の正体がわかったところで状況が一転するわけじゃない、サングラスの男は結論付けた。
「そろそろ先に進ませてくれないか?別に俺はあんたらに用事はないんだ」
「お前に用事がなくても、オレたちはお前を殺さなきゃなんないんだよッ!」
その怒りの声と共に、サングラスの男が一発。しかしそれもまた青年には届くことはない。その射撃技術はまさに規格外。それはただ腕がいいなどでは片づけられない。果たして彼のそれは、射撃技術の奥義を極めれば成し遂げられることなのだろうか。
ありえない、狂っている。背広の男たちは目の前の青年が怪物に見えた。
もっとも彼らにとって異能力者という存在が稀な存在ではなかったのだが。
「それじゃあ今度はこっちからいかせてもらう」
青年がそう告げて一秒、サングラスの男の左隣に立っていた男が声も上げずに頭から倒れ落ちた。
誰一人として、彼が射撃に入るまでの動作に目が追い付いてはいなかった。
「んなっ!?」
「くっそ、くそぉぉぉっ!!」
絶叫しながら、当たれと祈りながら残りの四人は弾が切れるまで撃ち始めた。
狙いは正確だった。かつ青年は動かない。動かぬ的に当てることはそう難しいことではない。
しかし無意味。彼に当たるはずがなかった。むしろ――
「ぐあっ!」
「うがぁっ!?」
次々と背広の男たちは倒れていった。そして最後にサングラスの男が自分を除いて誰も生きてはいないのだと知ったとき、彼自身また青年の銃弾を喰らった。
「くっ……」
腹部に熾烈な痛みが走った。その正体を確認しようと視線を落として間もなく、体の力が抜けて足からひざまずき、そのまま大理石の床に倒れこんだ。
どくどくどく。そう心臓が脈を打つ。そのたびに血が流れ出ていく。
何回も見てきたこの色は、やはり自分も同じだった。はじめに人を殺したときに見たこの赤は、とても恐ろしい色だと思えた。しかしもう、見慣れていた。それなのにどうしてだろうか。自分が血を流す番が来たら、何故かとてつもなくその色が不気味に見えて。
「まっ、待てよ……」
意識がもうろうとしていた。しかしなんとか力を振り絞り、サングラスの男は通りすぎようとした青年の足首を掴んだ。サングラスの男は諦めきれなかった。ここを通したくはない理由が彼にはあった。
無論、彼の意思を青年は知る由もなかった。青年は作業のように引き金に指をかけた。青年から向けられる視線が、サングラスの男にとっては屈辱的に感じられた。
「へっ……化け物を倒せるのは、化け物だけ、か――」
そこで言葉は途切れた。青年がとどめをさしたわけではなく、彼は限界を迎えたのだ。
「化け物、か……」
青年はぽろりと言葉を漏らし、少し悲しげな表情を浮かべた。
それから青年は、あたりに死臭と鉄の臭いが立ち込めていることなど気にせず大きく息を吸い込んだ。そして吐き出した後、その扉の先へと進んでいった。