さらに狂う者・一
十月十日。午前九時五十分。空には雲が浮かんでいて、太陽は見えない。
黒瀬は、謎のメールを送ってきた依頼人が言った場所に着いた。依頼人はご丁寧に地図まで送ってきてくれたので、着くことは意外と簡単だった。
ここが待ち合わせ場所か、と昭和のイメージが残る喫茶店を見ながら心中で呟いた。しかし、あのメールの最後の一文が脳裏から離れない。目の前に標的がいるとはどういうことだろうか。連れて行くというのか。しかし、店内で殺せば、必ず店員か店長が俺が犯人だと告発するだろう。そんなことをされては困る。そんなことを思いながら、帽子を目が隠れるくらいに深く被って、喫茶店の中へ入った。
店内に客は一人だけしかいない。まあ、平日だし仕方ないか。そして、レジのところにいる店員か店長か、よくわからないが、三十代くらいの女性が、
「いらっしゃいませ」
と言った。
黒瀬は軽く頭を下げて、客のほうに目を向ける。
「あなたですか?」
客が黒瀬に訊いた。黒い瞳が少し美しく見える。
「メールを送ったのは……君ですか?」
その質問を逆に訊き返して、客に近づく。
「まあ、そうだけど」
客は少し驚いているようだ。それはおかしくないだろう。十七歳の男子が殺し屋なんて想像できないだろうし。
黒瀬は客が座っている席のテーブルの反対側の席に座った。そして、依頼人の顔を見る。
可愛い。それが彼女を見て一番最初に脳裏に浮かんだ言葉だった。黒い髪が肩まで伸びていて、身体は少し痩せているように見える。彼氏を作ることに苦労しないタイプだろう。年齢は二十歳かそれより少し下のように見える。
「あなたの名前と……」
ふと目をそらすように横に目を向ける。店員がいないことに気づくと、黒瀬は続ける。
「殺してほしい相手を見せてください。目の前にいるとか……」
その質問に依頼人は、
「水落」
と答えた。そして続ける。
「殺してほしい相手ね。天才さんはどうやっていつも殺してるの?」
二つめの質問には答えずに訊き返してきたので、仕方なく黒瀬は答える。
「刺殺か毒殺です。……ところで天才ってどういうことですか?」
「うーん、評判良いし。でも若くて、ベテランって感じがしないし。それに殺すことって普通人は無理だよ」
友達と接するような口調だった。表情も真剣ではなく、穏やかだ。
「そうですか。喜べばいいのかな? それで先程の二つめの質問についてですが」
話し方だけを見ると、十七には見えないと気づいた。この職業は大人と会話することがほとんどだし仕方ないのだが。
「あ、言い忘れてました。というより、あえてそうしたんですけどね」
と水落は悪ふざけをするように言った。そして続ける。
「天才ならできるかな。私を殺すことが」
「は?」
黒瀬は水落の言葉を聞いた瞬間、反射的にそう言った。目の前の依頼人を……殺す? ……意味不明だ。これは聞き間違いだろう。しかし、間違いではなかった。水落は真剣な目で黒瀬を見つめている。まるでナイフが自分の身体に刺さることを望んでいるかのように。
時の流れが止まったかのような錯覚に陥った。