傷とマイナス・三
アパートに着いた。右肩の痛みは収まっていた。ふと空を見てみたが、星は見えない。冷たい風と疲れが黒瀬を襲っていた。水落の車に乗って、羽田駅の近くまで送ってもらったので、死んでしまいそうなくらい疲れていなかったが。運転手は色々と訊いてきたが、「はい」か「いいえ」のどちらで答えるだけで、会話することを拒絶しているような態度を取った。血のついている部分は手で押さえていたので、気づかれていないだろう。
しかし――黒瀬の脳裏に不吉な考えが浮かんだ。
運転手は、水落と俺がどういう関係なのかということを気にするだろうし、運転手が両親にそのことを言えば、親は何かの行動を起こすだろう。水落に色々と質問をしたりするかもしれない。
……だが、そのようなことを起こっても、ここに住んでいることはわからないだろうし、俺が気にする必要は無いのだ。黒瀬はそう思いながら、鍵を取り出すために右ポケットに右手を入れる。そのときに、鍵ともう一つ、ビー玉のような何かが右手に触れた。黒瀬は鍵ともう一つの何かを取り出した。
それはサファイアだった。しかも、見覚えがある。喫茶店にいるときに、水落が黒瀬に見せていたサファイアだった。車に乗っているときにポケットに入れたのだろうか。ということは、このサファイアは『薬』を取りに行ってくれたことに対するお礼かもしれない。だとすれば、これは貰ったほうが良いのかもしれない。黒瀬はそう思いながら、サファイアを右ポケットの中に入れた。
そして、鍵を入れて、左へ回す。カチ、という音が鳴ると、黒瀬はドアを開けた。そのときに、水落のことが脳裏に浮かんだ。今、水落は『薬』を飲んで普通の人間に戻り、死ぬという選択を選んでいるだろう、と。
黒瀬はドアを閉めると、鍵をかけた。外からのわずかな光が全て遮断されて、部屋の中は真っ暗になった。
このアパートの部屋には半年前から住んでいたので、電気をつけるためのスイッチがどこにあるか、ということは覚えている。
部屋は時間が静止しているかのような沈黙に支配されていた。黒瀬はテレビのリモコンを持つ。何か見ようかな、と思った。しかし、襲ってくる疲れと眠気に耐えられなかったのか、黒瀬は自然とリモコンを手から離し、床に倒れて、眠りに落ちていった。
目が覚めてから、黒瀬は時計を見た。時刻は午後二時。朝を通り越して昼に目覚めてしまったようだ。
パソコンとテレビの電源を入れてから、冷凍食品を少し取り出して、皿の上に移す。あとは電子レンジに入れて、数分温めれば完成だ。それが今日の昼食だ。
机の上にできた料理を置いてから、食べ始める。最近、味を感じにくくなっていることに黒瀬は気づいていた。味覚障害、というものだろうか。だが、黒瀬の脳裏に直そうという考えが浮かぶことは無い。テレビを見ながら、黒瀬は食べ物を口に放り込んでいた。
昼食を食べ終えると、食器は机の上に置いたままにして、パソコンのメールの確認をする。と言っても、メールが来ていることに期待はしていない。
すると、一通のメールが来ていた。
『無題』
これでは、内容がどういうものかわからない。黒瀬はメールの内容を見た。
『あの薬は、嘘だったよ。飲んでから、ナイフで手首を切ってみたけど、何も異変は無かった。平気だった』
俺は白銀に踊らされていたのか、と黒瀬は思った。白銀にもう一度会わなければならないのだろうか。
黒瀬は心中で大きな溜息をついた。
プロローグを入れると、これで十話ということになります。三分の一くらい進んだのかな、と思います。
主要人物が三人だけという少なさですが、これも僕の作戦の一つです。多すぎると、僕自身が混乱してしまうので(