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後編

自宅以外にアデールが行ける所などエミリアの屋敷くらいしかない。それも、真夜中に押しかけるわけには当然いかない。

 アデールは仕方なしに王城へ向かった。

 軍の詰所は夜勤もあるので24時間開いている。

 門番には自分の顔は知られているだろうから、入城することは可能なはずだ。

 ――何事かと思われるのは必至だが。


 エリクとアデールは、所謂住宅街の一角にある屋敷に住んでいた為、辺りは既に人通りもなく、街灯の明かりも最小限に留められている。

 ほとんど漆黒の闇の中を歩くのは恐ろしかったが、寂しまぎれに空を見上げてみれば、暗闇をぎっしり埋め尽くす星の海を見つけた。

 こんなむせ返りそうな星空を見たのはいつぶりだろう。

 それどころか、夜にアデール一人で出歩くことすら、コレットが生まれてから一度もなかった。

 街の中心部へ近づけば、軒を連ねる酒場の何軒かがまだ営業しており、窓から明るい光と笑い声が漏れ伝わる。

 そっと中を覗くと、一日の仕事を終えたのであろう商売人や、派手な姿に身を包んだ若い女性客も目に入る。年頃はアデールと変わらないように見えた。

 彼女たちから見れば、アデールは随分とつまらない人生を送っているように見えるのだろうか――そんな卑屈なことを考えた。

 街と王城を隔てる大きな川に架かるアーチ橋を渡り、裏門へ回る。

 入口に兵士が2人ほど見える。


「こんばんは」


 アデールはなるべく不審に映らないように平然を装い門番兵に声を掛けた。


「!? アデール様? どうなさいましたか? 」


「昨日、詰所に忘れ物をしてしまって。どうしても必要なものだったから取りに来たの。」


「そうでしたか。わざわざこんな時間に……。誰か兵に言ってくださればご自宅までお送りしましたのに」


「いいの、そんなことで皆さんのお手を煩わせるわけにはいかないわ」


 うまく誤魔化せた気はしないが、とにかく中に入れたのでアデールはホッとする。

 家に居ることはとてもできず飛び出してきてしまったが、結局コレットが起きる時間までには戻らなくてはならない。

 夜明け前までは詰所で時間を潰す予定だった。

 忘れ物を取りにきてそんなに長時間かかるはずはないのだが、そこまでのシナリオは面倒でアデールも用意するつもりはなかった。


 詰所は、先ほど通ってきた住宅街とさほど変わらず静かだった。

 24時間体制と言えども、基本的に夜中は何か特別なことがない限りは見張り番の仕事しかない。

 アデールは少しホッとした。

 夜中にこんなところに逃げ込んできた自身を見られたくはない。

 どこか空いている部屋に入ろうと歩き、アデールはクロードの執務室の明かりが、ほんの少し開かれたドアの隙間から漏れていることに気付いた。

 クロードはこの時間もまだ働いているらしい。

 彼にこそ見られたくない。

 どこかもっと離れた部屋を探そう――そう決断し踵を返す。


「アデール」


 最初の一歩を踏み出そうとした時、背後から静かに声を掛けられた。

 アデールの心臓がギクっという音を胸の中で立てたが、観念して声の方を振り返る。


「クロード……見つかっちゃったのね」


 叱られた子供ような顔でクロードを見れば、彼は執務室のドアの向かいの壁にもたれかかりながら、腕を組んでアデールを見据えていた。


「当たり前だ。君のような強い魔力の持ち主はすぐに気配を感じる。君が裏門に居た時からもう分かっていたよ」


「そうだったわね……」


 アデールは嘆息する。

 忘れていたが、この繊細な魔力の察知能力こそ、この男の特殊な才能だった。


「とにかく中に入れ。話を聞く」


 クロードは顎を執務室の方へ向けてアデールを促し、先に自身が入室した。

 アデールはもっと大きなため息をつく。話をするのは決定事項のようだ。

 だから嫌だったのだ、クロードに見つかるのは。


 執務室の応接イスにかけると、クロードがすぐにコーヒーを入れてくれた。

 ありがたかった。

 最近こそ色々あってエリクに合わせようと起きていたが、普段はコレットと一緒に早めに就寝するため、この時間は眠くて仕方なかったのだ。


「ありがとう……」


アデールは湯気の沸くカップを手に取り、そっとコーヒーに口をつける。

それを確認したクロードは、静かに声をかける。


「こんな時間にここへ来た理由を聞かせてくれ。いい話ではないだろうということは分かるが」


「……言わなきゃダメ? お察しの通り、あまり愉快な話じゃないの」


「……ダメだ。君はすぐに言いたいことを飲み込んでしまう癖があるから。全部吐き出したほうがすっきりできるぞ。こんな時間じゃエミリアのところへは行けないんだから、代わりに俺に話してみたらどうだ?」


 そういえば、クロードは昔からこうだった。

 アデールがエリクにまだ片思いをしていた時、ドラゴン討伐の過酷さに一人震えていた時、クロードはいつも誰よりも早くアデールの様子に敏感に気付き、彼女をそっと気遣った。

 普段が無骨に見えるクロードのこういった優しさは、エリクの見せる真っすぐなそれとは正反対だった。

 そんな性格の違いからか、それとも年齢が一緒だったせいか、エリクとクロードはあまり仲が良くなさそうだった。


「クロード……あなたもきっと知ってるんでしょ? エリクが侍女に手を出していたこと」


 執務机に優雅に座るクロードを横目でチラリと見るが、彼の表情は全く変わらなかった。


「……手を出していたかどうかは知らないが、そんな根も葉もない噂は聞いたことがある」


「根も葉もない噂じゃなかった。エリク自身が今夜認めたわ」


「……君はそれでどうするんだ?」


「分からないわ。分からないけど、エリクと一緒にはいたくなくてここへ来たの。先の事なんて何も考えられないけど……エリクを許せない」


 カップの中の小さな黒い海を見つめながら、アデールは唇をかむ。


「エリクのこと愛していたから彼についてきたけど……もしかしたら私、周りの目に縛られすぎていたかもしれない」


 クロードは何も言わない。話を続けろ、という意味だ。


「私たちは国を救った英雄扱いされて、あんなに国の人から盛大に祝福されてしまったから、それに恥じない行いをしなければいけないって、多分無意識にずっと思ってた。だから今まで色んなことを飲み込んできたし、大抵のことは我慢してきたの。でも、そんな必要なかったのかしらね……」


 眠気も相まって、アデールは目を閉じた。

 思い悩むのにも、あれこれ考えるのにも疲れてしまった。


 すると、背後から大きく硬い腕がアデールの肩をふわっと軽く包んだ。


「俺ならそんな思いは絶対にさせない」


 耳元で囁かれて、アデールの肩は跳ね上がる。


「確かに、君は周りの人間を気にしすぎだ。そんなことは考えなくていい。君の人生は君だけのものなんだから。……だから、君さえよければ、俺を選ぶことだって出来る」


 久しくなかった甘い感覚に、思わずアデールはクロードの腕を掴んで身をよじる。


「クロード……やめて。」


 これは罪だ。エリクと同類になってしまう。


「すまない。こんな時に言うことではなかったな。しかし、俺は本気だから、それだけは忘れないでくれ」


 クロードはそっと離れると、自身の執務室をアデールの仮眠に譲り、頭を冷やすと言い残し部屋を出ていった。

 夜明けまでまだ時間がある。

 アデールは考えがまとまらぬまま、襲いかかる睡魔に勝てず瞳を閉じた。


 次に目が覚めた時、窓の外は白んできており、早起きの小鳥が早くもせわしく鳴き始めていた。

 アデールは全く眠った気のしない重たい体を動かし、クロードの執務室を出た。

 クロードに一言声を掛けたかったが、そろそろ家に戻らないとコレットが心配だ。

 今日は勤務日なので、また出勤の時にでも今夜のことの礼をしようと考えた。

 心配した門番兵への対応も、結局アデールが仮眠を取っている間に交代していたようで、特に言い訳の必要もなく、詰所から出てきたアデールに驚く交代後の兵には訳アリの仕事を匂わせてその場を後にした

 疲労のせいもあるが、家に向かう足取りは重かった。

 どんな態度でエリクと顔を合わせればよいか分からない。

 どんなことがあっても、いつものように朝食を出して見送るべきだろうか。

 考え込んでいるうちに屋敷の玄関前まで着いてしまった。

 音を立てないようにそっとドアを開けると、エリクがアデール以上に疲れた様子で玄関前の壁にもたれて座っていた。


「エリク……」


「おかえり、アデール」


 エリクはかすれた声でアデールを見上げた。

 どんな時も秀麗なエリクの顔だが、今は目の周りに薄く隈を作って憔悴した様子に見える。

 アデールがエリクに出迎えられることなど、結婚してから初めてのことだ。


「ずっとそこにいたの……?」


「あぁ、コレットがいるから家を空けるわけにもいかないし、かと言って君が帰ってくるまでは心配で寝られないから」


 ごめんなさい――反射的にそう言ってしまいそうになったが、アデールは代わりの言葉が見つからずそのまま黙った。


「とにかく、君も今日は勤務の日だろう。まだ少し時間があるから眠ろう。俺はソファで寝るから安心して。」


 エリクは立ち上がってアデールを促す。

 どこへ行っていたのかは聞いてこなかった。彼女の行くところなんてたかが知れているだろうから、聞くまでもなかっただろうが。

 アデールは特にかける言葉もなく、素直にコレットが起きるまでの間の時間を寝室のベッドで横になった。さすがにもう眠れなそうだと思ったが、鉛のように重くなった体は横になるだけで随分楽だった。


 そして次の瞬間気が付くと、コレットがアデールの上に跨って彼女を揺り起こしていた。


「ママ、おきて。あさだよ」


「え!?」


 アデールは慌てて飛び起きた。

 窓の外を見れば、すっかり夜は明けきって部屋の中を明るく照らしていた。

 眠れないなどと思いつつ、しっかり寝入ってしまっていたようだ。


「コレット、おはよう。すぐに起きるわね。……パパは?」


「パパはおしごといったよ」


 時計を見れば普段よりも起きる時間が遅い。

 既にエリクは家を出てしまったようだ。

 結局、進展も解決もしないまままた一日が始まってしまった。


「困ったわね……」


 ため息をついてアデールはコレットを抱きしめた。



 体の疲れはアデールが仕事に行くのをためらわせたが、与えられた責任を放り出すことはできない。

 アデールはやつれた顔を隠すためにいつもよりも念入りに化粧をし、エミリアの屋敷に寄る。


「アデール、エリクとは話をしたの……?」


 心配そうに尋ねるエミリアに、その話は帰りにでもするとだけ曖昧に伝え、コレットに手を振って早々にその場を離れた。

 その日の仕事も順調に進んだ。

 朝、家を出るまでは、一日ベッドで寝ていたい気持ちでいたが、来てよかったと思う。

 魔導士団の若者達は皆熱心に訓練に取り組み、真剣にアデールに指導を請う。

 どんなに深刻な問題がプライベートで起こっていても、このひと時だけは何もかも忘れて全力で彼らに向き合おうと思えるのだ。

 昼休憩の時や、王城内を移動する時、またフィリアに会うのではないかと警戒したが、この日は平和に勤務を終えた。


「アデール様、クロード団長が帰りに部屋に寄るようにとのことです」


 先ほどまでクロードに月次の業務報告をしていた兵士が、アデールへ伝言を持ち帰ってきた。

 何となくまだ気まずさが残っていたが、今朝の帰りしなに彼に一言も言わず自宅へ戻ってしまったのだ。やはり礼と謝罪はしなければならないだろう。

 少しの緊張と共に執務室をノックをして入室すると、普段と全く変わらぬ様子のクロードが書類を眺めているところだった。


「あぁ、アデール。帰り際に呼んでしまって済まない。あの後の君の様子が気になっていたから」


「クロード、今朝はごめんなさい。私がここで寝ていた間、あなたどこかで時間を潰しててくれたのよね? 部屋を追い出すようなことをしてしまって……」


 目の前のクロードは疲れた様子もなくいつも通りに見えたが、ただ一つだけ違ったのが前髪だった。

 普段の彼は長めの前髪をバックに撫で付けるようにしているのが、今日は洗いざらしのまま自然におろしていた。

 アデールの視線の先に気付いたか、クロードは苦笑する。


「……そもそも仕事が立て込んでいたから、昨日はここに泊まり込むつもりだった。整髪料はここには買い置きしていないからな。気にするな。……エリクとはあのあと会話したのか?」


「いいえ、私が眠ってしまったこともあってほとんど……。ぎくしゃくしたまま日を越してしまって、正直今後彼とどう接したらいいか分からないの。……仮に今回のことを許したとしても、以前と同じように彼と暮らせる自信はないわ」


「アデール。これは君たち夫婦の問題だから俺は何も手助けしてやれない。だけど、君は自由だ。選択肢はいくつもある。エリクを許して夫婦として生きることもできるし、別れて別の人生を歩むこともできる。……その時は、俺を選んでほしい」


 クロードは立ち上がると、切なげな表情をして、立ちすくんでいるアデールを今度から正面からきつく抱きしめた。


「クロード……! それは……! 」


「卑怯なのは分かっている。だが悪いが俺にとってはまたとないチャンスだ。5年前から今まで、俺は君がエリクを見つめ続けるのをただ遠くで見ているしかなかった。どんなに君を大事に思おうと、君はいつだって見ないフリをしてきただろう……?」


 クロードがきつく抱きしめれば、アデールは見た目以上に華奢だということがよく分かった。

 この5年間、どんなに彼女を想い続けても決して触れることは許されなかった。彼女はエリクのものだったからだ。

 こんな状況ではあるが、アデールの柔らかい体を全身で感じ、クロードは喜びで打ち震えそうなほどだった。

 アデールもまた、クロードの体の熱をその全身で受け止めていた。

 確かに、アデールは5年前にクロードの気持ちに気付いていた。

 彼とは良き仲間でありたかったから、それを見なかったことにもした。

 しかし今、クロードがまだそんな気持ちでいてくれたことに、アデールは喜びを感じてしまっている。

 エリクの愛が信じられなくなり、彼女の存在意義が透けるほど薄くなってしまった中で、クロードの力強い告白に確かに小さな喜びが芽生えたのだ。

 アデールを抱きとめるこの大きな腕をどうしよう――そう考えていた時、背後から静かに声がかかった。


「クロード、アデールは俺の妻だ。軽々しく触れるな」


 殺気を放つ唸るような声に、弾かれるように振り向けば、そこには苦し気に顔を歪めたエリクがいた。


「エリク!? どうして……」


 エリクはアデールの言葉を無視してクロードに詰め寄る。


「分かっているのか。これが一般の兵士だったら切り捨てられてもおかしくないんだぞ」


 エリクは鼻が触れそうなほどクロードとの距離を詰める。

 一方、そんなエリクをクロードは涼しい顔をして見つめ返す。

 2人は共に長身だが、クロードの方がやや上背があり、それがさらに余裕を醸し出すように見える。

 エリクはそんな彼の様子にますますいら立っているようだ。

 勤務時なので、今はエリクも帯剣している。本当に抜刀してもおかしくない。


「俺の不適切な行動は謝るよ、エリク。君の奥方に対して失礼なことをした。但し、お前にそんなことを言う権利もないようだがな」


「貴様!!」


「エリク、お願いやめて!」


 エリクがクロードの胸ぐらを掴んだところでアデールは駆け寄った。


「アデール、君こそどういうつもりだ? 仕事復帰をしたいと言ったのはやはりこういう理由だったのか? 俺のことを君は糾弾できるのか? 」


 クロードを睨み続けたまま、エリクはアデールに辛辣な言葉を浴びせる。


「はっ……何を言ってるの? あなたと一緒にしないで!! 私にはやましいことなんてない! 自分の問題を棚に上げてよく言うわね!」


 エリクがキッとアデールを睨みつける。

 そんな恨みの込もった目で彼から見られたのは初めてだ。

 固まるアデールにエリクは乱暴に手を引く。


「君と話をしようと思って迎えに来たんだ。帰るぞ」


「えっ!?」


「クロード、お前とはまた後日決着をつける」


 エリクは吐き捨てるようにそう言うと、アデールを引きずるように部屋から出た。



 ◇◇◇◇


「アデール、大丈夫か?」


「うん、まさかこんなひどい状態だと思わなかった……。先発隊は全滅なのね。私たち、やっぱり死ぬことになるのかな……?」


「死なせないよ。確かに、勝てる見込みはないって思ってたし、俺は死にに行くんだと覚悟してた。だから君が討伐隊に志願したと聞いた時も反対したんだ。だけど、今は君が来てくれてよかったと思ってる。」


「エリク……?」


「絶対に守らなければいけないものがあれば、生きる力も沸くんだって分かったからな。俺は絶対君を死なせないし、俺も死にたくない。君との未来に希望を持ってしまった今は、もう……」


「エリク……。私も約束するわ。あなたを絶対に死なせない。そして、私も死なない。」


「あぁ、俺も約束する。そして無事に国に帰ったら、年を取って死ぬまで二人で生きていこう」





 随分昔の話をアデールは思い出していた。

 まだエリクとアデールの愛が始まった頃のことだ。


 エリクに強引に外に連れ出され、緊急時しか使わない彼の馬で足早に自宅へと戻った。

 そしていざ面と向かって対峙してみると、クロードの部屋での勢いはどこへ行ったのか、お互い最初の一言が思い浮かばずに黙りこくってしまうのだ。

 口火を切ったのはアデールだった。


「――エリク、仕事は……?」


 その言葉に弾かれたかのように、エリクも語り始めた。


「今日は君の仕事が終わる時間に合わせて無理やり早く上がってきたんだ。早く君と話をしなくてはいけないと思ったから。それでクロードの部屋にいると聞いたから迎えに行った」


 エリクは乱れた髪を乱雑にかきあげる。


「……あなたは私の不貞を疑ってるの? クロードとそういう関係になるために軍へ戻ったって、本当にそう思ってる?」


「あれは……済まない。君たちを見てつい激昂してしまったが、君がそんなことをするわけがないって分かってる。大体、君が昔から魔導士団でやりがいを持って働いていたのは俺も知ってるから、君が戻りたいと言い出したのも当然だと思っている」


「じゃあ、どうしてあなたは最初に軍へ戻るのを反対したの? 」


 いくらアデールの身が心配だったとは言え、あそこまで難色を示されたことは少なからずショックだったのだ。


「そんなの……決まってるだろ、クロードがいたからだ」


 エリクはふてくれされたような表情でふっと目を逸らす。

 アデールはそんな子供じみた表情をするエリクにひどく呆れた。


「昔から仲が悪いとは思っていたけど、そんな理由で私が彼の配下で働くことを渋ったと言うの?」


「そりゃ、自分の好きな女を横から狙っているような男と仲良くなれるはずがないだろう。案の定、5年も経つのに君のことを諦めていなかったようだしな。それに……」


 忌々しそうに吐き捨てた後、エリクはためらいがちに続けた。


「君が軍への復帰を望んだ時、君はそれまでの俺との結婚生活に満足していなかったんだと思ってショックだった」


「どういうこと? どうしてそうなるの?」


 アデールはエリクから発せられた言葉に、信じられない気持ちで瞳を丸くする。


「俺は、君やコレットが安心して平和に生活することを最優先にこれまで努めてきた。自分の地位を確立して安定した収入を得ることも、君たちが二度と外からの脅威に怯えることのないような国を作るのも俺にしかできない役割だと思ってた。でも、君は自分も働きたいと言った。それは、これまでの生活に不満があったということだろ……?」


 エリクは傷ついた目でアデールに訴えかけた。

 なんて自分勝手な男だ――アデールはそう思った。

 一人で家族も国も背負うヒーローを気取っているようにしか見えなかった。 


「エリク、あなたは確かに十分な収入と安全な生活を私たちに与えてくれてるわ。でも、本当にそれが一番私たちのためになると思ってる? あなたはほとんど毎日家にいなくて、私はいつも孤独だった。一人で家事も育児も担うのは大変で辛いこともあったけど、あなたさえ私の側にいて話を聞いてくれたらそれでよかったのに。コレットだってそうよ。あなたのことを父親だと認識してるかだって怪しいわ。あなたは仕事が大好きで、それを正当化するために私たちを隠れ蓑にしてるだけでしょ? そして私たちを裏切って浮気までしたんでしょ? ……それの何が私たちのためよ……!!」


 話しながら段々と興奮してしまい、終いにはもう枯れ切ったと思った涙が再び彼女の瞳にあふれ出した。

 エリクはそれを拭おうと手を伸ばしかけ、一瞬ためらった後に自身の膝の上に不時着させた。


「アデール、フィリアのことは本当に申し訳なかった。それに関しては……言い訳もできない。彼女には、もう二度と関係は持たないを伝え、配置換えを侍女長に願い出た。……もちろんそれで済むなどとは思ってはいないが」


「エリク……あなたこそ、私との結婚生活に不満を持ってたということでしょう? そうでなきゃ、彼女と関係を持つ理由がないわ」


 とめどなく溢れる涙を止められずにいても、アデールははっきりと言った。

 ここだけははっきりさせなければいけないのだ。

 2人の5年間が間違った選択であったのか、この答えにかかっているとアデールは思った。

 エリクは、彼すらも泣きそうに歪んだ顔でアデールを見つめる。


「不満なんて少しもなかったよ、アデール。……どうしてあんなことをしたのか、俺も君にはっきり説明することができない。でも……。俺たちは親になり、国からも国民からも祝福され、普通の人間ではなくなってしまった。君も母親になり、俺にとって、君はより神聖で手の出せない存在になった。そんな感覚なんだ……」


 やはりエリクは勝手な男だ。

 アデールの心の叫びにも気づかず、神聖で手の出せない存在などとのたまう――こんなにも彼は、自分本位で頼りなくて弱い人間だっただろうか?

 しかし、同時にアデールは考えた。

 自分もエリクの本当の心など慮ったことがあったろうか?と。

 エリクはいつでもアデールを守り、アデールを一番に愛する。それが当たり前の彼の責務だと考えてはいなかったか?

 エリクのことを自己中心的と罵ったが、自分にも依頼心の強さがあったことを、アデールは気付いてしまった。


「……エリクは自分勝手だわ。私は今でもあなたに一人の人間として愛してほしかったのに。勝手に神様扱いするなんて……。でも」


 アデールはエリクの頬に手を伸ばす。少しかさついた大人の男の皮膚の感触だ。

 自分から触れたのは久しぶりだった。

 いつもいつも、アデールは彼が自身に触れてくれることを期待する役割に徹していた。


「私も、変わらなきゃいけないのね。多分……。私はあなたに守られるだけの女じゃない。5年前、私言ったわよね? あなたを絶対死なせないと約束するって。私たちはお互いを守り合って生き延びたんだから、これからもそうでなくちゃいけないわ」


「アデール……」


「私は今も変わらず生身の一人の女よ。だから……」


 そのままエリクの首に腕を回したアデールに、彼はその先を言わせず抱き上げて寝室へ向かった。



 ◇◇◇◇



 それから2人がコレットを慌てて迎えにいったのは、実に3時間が経過してからだった。

 迎えが遅いことに心配をして軍に連絡を入れようと思っていた矢先だったエミリアは、エリクとアデールが2人揃って玄関先に現れたことに呆気に取られ、しばらくしてから破顔した。


 アデールの次の出勤日に、クロードには先日の非礼を詫びに行った。

 クロードは事も無げに笑って済ませた。

 しかし、アデールには、その瞳に少しの寂しさとエリクへの嫉妬が宿っているのが分かった。

 それに心が少し痛んだが、正直なところ、アデールに向けられる彼のその静かで熱い気持ちが、今日もアデールの存在を確かなものにしてくれるのは誰にも言えない事実だった。

 フィリアは――エリクに終わりを告げられてからは随分荒れたようだ。

 アデールに宣戦布告するくらいの好戦的な女性だったので、自分があっさり負けたことに耐えられなかったようだ。腹いせに、今回の顛末を尾ひれを付けてあちこちに触れ回っているらしい。

 それがエリクの立場を危ういものにするのも時間の問題かもしれない。

 しかし、アデールはそれでも構わなかった。

 アデールはエリクの妻であるが、彼の不始末は彼女の汚点ではないことにようやく気付いた。


 アデールはエリクを愛しているので、もう一度家族関係をやり直すことに決めたが、それでも決定的に変わったことが一つある。

 英雄同士の結婚という呪縛を解き放ったことだ。

 エリクとアデールは確かに愛し合い、紆余曲折あれど今もなお、互いを想い合っている。

 但し、この先は分からない。

 エリクは自分に嘘がつけない弱い人間だ。

 アデールは思いの外、打算的で独立心の強い女だった。

 次に彼らの絆を崩壊させる何かが起こるとすれば、アデールは間違いなく修復以外の選択肢を取るだろう。  


 それでも、今はまだ、アデールはエリクを愛している。 

 この気持ちが完全に変わるまでは、彼の側にいようと思う。


 アデールは、新しい命の芽生えた自身の腹を撫でながら思うのだった――。





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