前編
ある国のお話。
その国は西方に広がる深い森に生息するドラゴン一族の存在に怯えながら、どうにか国家を存続させていました。
しかしある時、とうとうドラゴン族がその国を滅ぼそうと大群を成して襲い掛かりました。
城下町は半壊状態にまで追いつめられました。
それにひどく胸を痛めた王様は、民の平和を守るため、国軍から精鋭を募ってドラゴン討伐に乗り出しました。
ドラゴン族の圧倒的な力に苦戦を強いられた討伐隊でしたが、ある勇敢な騎士と、その傍らで騎士を守る魔導士によって、ついにドラゴンを駆逐することに成功したのです。
100名以上いたはずの討伐隊は、わずか数名しか帰還することができませんでした。
国民は、故郷の土を踏むことのできなかった者達の死を嘆き悲しむと共に、過酷な状況を戦い抜き、無事に帰還した戦士達を英雄と崇めたのです。
その中の1人である騎士と魔導士は、生死の狭間にその身を置かれる究極の状況下で、互いへの愛を確かめ合い、帰還後に結婚式を挙げました。
英雄である彼らの結婚は国民に大きな希望を与え、また見目麗しい2人が並んで歩く姿に、多くの若者が夢を抱きました。
そうして、騎士と魔導士はいつまでも国民に祝福されながら、いつまでも末永く幸せに暮らしました。
◇◇◇
ティーン向けの薄い本を読み終え、アデールは溜息をついた。
それと同時に隣の部屋から猫が鳴くような声が聞こえ、テーブルから立ち上がる。
声の元に辿り着けば、娘のコレットが泣きながらベッドの上でアデールを呼んでいた。
「コレット、起きちゃったのね。どうしたの?」
「ママ、怪獣がね、コレットのこと食べようとしてた」
しゃくりあげながらそう訴えるコレットをアデールは抱き上げた。
どうやら怖い夢を見たようだ。
「もう怪獣はいないわ。ママがいるから大丈夫。さ、あっちのお部屋にいきましょうね」
コレットを抱き部屋を移動しながら、アデールはまだ娘が昼寝をしてから1時間も経っていないことに嘆息した。
(この子が寝てる間にお掃除と縫物を済ませたかったんだけどな……)
コレットは今年3歳になるが、母親と片時も離れることのできない子だ。
アデールに似たプラチナブロンドの髪に大きな瞳。鼻筋が通ったところは父親譲りだ。
こんな愛らしい娘がかわいくない訳がない。
しかし、毎日毎日娘と2人きりで過ごす日々は息が詰まる。
側を離れれば泣くから家事もロクにできず、自分の時間すらない。
いまだに毎日抱っこをせがまれるアデールは、腰も腕も疲労で毎日パンパンだ。
夫のエリクは出世した。
嬉しいことだが、その代わりに毎朝早く出勤し、夜の帰りも遅い。
育児の負担はアデール一人に傾くばかりだ。
――働いていた頃は。
コレットがおもちゃで遊ぶのに漫然と付き合いながら、アデールはふと考えていた。
あの頃は自由だった。
日々自分の魔道の力を高めるために鍛錬を重ね、勤務が終われば仲間と街へ食事へ繰り出し、想いを寄せる相手と言葉を交わせばその日一日が薔薇色で終わる。
そんな、自分だけのために過ごせた毎日が懐かしい。
そんなことをぼうっとした頭で考えていたが、そのうち頭を振って回想を強制的に打ち切った。
娘の存在を頭の中で否定したも同然だ。こんなことは二度と考えてはいけない。
あの悪夢のような戦いから5年が過ぎた。
当時はドラゴン討伐がどんなに恐ろしいことかも知らず、討伐隊に抜擢されたエリクが心配で傍にいたいがあまり自らも志願するという無謀な行動に出た。
幸い魔道に関してはトップクラスの腕だった為、すぐに加入が認められたが、当然女性兵はアデールだけだった。
エリクはアデールが討伐隊に加わると知るや否や、顔を大きく歪め、強く強く反対をした。
今だったら分かる。
恐らく彼は、あの戦で命を捨てる覚悟でいたのだ。
しかし、結果的に彼ら2人は生き残った。
決して彼らの力がドラゴンを打ち負かしたのではないとアデールは思っている。
彼らは単に運がよかったのだ。
それでも彼らは生き残り、血に濡れた隊服にも構わずきつくお互いを抱きしめ合った。
そして今、隣にはあの時2人が選んだ未来の結果であるコレットが座っている。
5年前の燃えるような想いを忘れない。
アデールは心の底からエリクを愛し、今もその気持ちは変わらない。――はずだ。
正直に言えば、今はそんなことに構っている余裕がない。
コレットの面倒を見て最低限の家事を済ませるので精いっぱいの毎日だ。
国一番の美女と謳われた過去も虚しく、今のアデールは疲れ切った顔で髪の手入れもままならない。
姑であるエリクの母親は頻繁に夫婦の邸宅を訪れてはくだらないおしゃべりをして、コレットに散々お菓子を与えて満足気に帰っていく。
姑が良かれと思ってしているのは分かるが、アデールにとってはそれが小さなストレスの種でもあった。
まだ25歳と若いはずだが、子供を産んでから、気力も体力もすり減る一方だ。
その原因がコレットの育児だけではないのがまた悩みどころなのだ。
(私、今日コレットとしかしゃべっていない・・)
エリクの休みは週に1度あればいい方だ。
帝国軍の騎兵団長へと出世した2年前から途端にそうなった。
朝はエリクが慌ただしく家を出てしまう上、コレットの世話もあってなかなかゆっくり話すことができない。
夜帰った後に夫婦で晩酌でも……と毎日思うが、今のところコレットを寝かしつけて自分もそのまま夢の中に落ちて行く確率は100%だ。
エリクの休日には家族水入らずで過ごすようにしている。
彼は昔と変わらずアデールに優しいし、コレットとも積極的に遊んでくれるが、お互い疲れているためか、夫婦生活は半年以上ない。
アデールは満たされない何かが日ごとに蓄積していくのを感じていた。
「ダメだわ、このままじゃ私おかしくなりそう……」
アデールはコレットを軽く抱きしめながら悲痛な表情で呟いた。
翌日、朝の身支度を終えたアデールは――エリクは昨日から地方偵察のため不在だ――コレットを連れ、珍しく馬車を呼んで外出をした。
「いらっしゃい、アデール! まぁコレット、あなたまた大きくなった? 」
「エミリア、急に押しかけてごめんなさい。毎日退屈だから、あなたのところに遊びに行きたくなっちゃって……」
「どうして謝るのよ。私たち親友でしょ? もっと頻繁に来てくれていいくらいよ」
10分ほど馬車に揺られ、尋ねた場所は、アデールがまだ帝国軍にいた頃の親友の住む家だった。
彼女――エミリアは既に貴族の男性と結婚をしており、帝国軍からは離れていた。
それでも、アデールにとって本音をさらけ出せる相手は今もエミリアしかいないし、彼女も彼女で貴族の社交事情になかなか馴染めず、アデールを自宅に呼び寄せることもしばしばあった。
「今日、アデールが来てくれて本当に嬉しいわ。ここのところ、知らないご婦人とのお茶会が続いて本当にうんざりしてたの」
エミリアは、応接室ではなく彼女の私室へアデールとコレットを案内する。
彼女の結婚相手は国内有数の上位貴族であるため、邸宅は豪奢そのものだが、彼女の部屋だけは趣が違った。
天蓋付きベッドのカーテンはシンプルで落ち着いたミントグリーン、調度品も飾り気のあまりない、それでいて質の高さが分かる物を取り揃えている。
およそ貴族とは思えないが、そんなところがいかにもエミリアらしく、アデールはここへ来るたびにホッとする。
「座って。今お茶とお菓子を持ってこさせるから。今日は天気もいいし、中庭に面した応接室で話ししたかったんだけど、侍女長が本当にうっとおしいのよ。私が変な振舞いしてないか監視しに来るんだもの」
「貴族の奥様にもなると大変ね……。あなた大丈夫なの? 」
「心配いらないわ。私は図太い性格だから。あら、やだわ、今日はアデールの話を聞く日だったのに。さぁ、コレット。エミリアおばさまはあなたにプレゼントを用意したのよ! ほら!」
エミリアは部屋の隅に置かれたいくつかの包みをほどいてテーブルに並べた。
「わぁぁ!」
これまでアデールの膝の上で大人しくしていたコレットが驚嘆の声をあげる。
「お人形と着せ替え用のお洋服、絵本にドールハウスもあるわよ。好きなだけ遊びなさい! 」
「エミリア、こんなに……! いつもいつも悪いわ。そんなつもりで来てるんじゃないのに……」
「気にしないで。私にはまだ子供がいないから、コレットが本当にかわいいの。成長したこの子を見るのが私の楽しみの一つなのよ。おばさまの楽しみを奪わないでちょうだい」
エミリアはいたずらっぽく笑う。
「それに、コレットは私にだったら懐いてくれてるから、あなたと多少離れても平気でしょう。こういう時に思い切り人を頼って一人の時間を満喫した方がいいのよ」
「エミリア……ありがとう」
エミリアは侍女を呼ぶと、コレットの遊び相手を命じた。
コレットは初めて見る人間に泣きそうな表情でアデールの方へ顔を向けたが、エミリアが友達だから大丈夫と声をかけると、警戒しながらもやがて大人しく遊び始めた。
アデールは驚いた。
コレットが自分とエミリア以外の人間の前で大人しくしてられることなど、今までなかったからだ。
「さて、コレットは大丈夫そうね。――それで? もう家にいるのも限界になった? 」
運び込まれた紅茶に口をつけ、エミリアが問いかける。
「う……やっぱりエミリアには分かるのね。」
「そりゃあ、私はあなたのこと一番よく知ってるし、そうでなくてもあなたの状況をよく見れば分かる。エリクは激務だし、コレットもあなたにべったり。アデール、あなた真面目すぎるから、いつも心配だったわ」
「でも、エリクは、あの戦いでまだ完全復興とは言えない国のために一生懸命働いてるの。大きな使命を持った人よ。私は彼を支えなきゃいけないし、こんなことで弱音を吐けなくて……」
「彼を支えるならあなたがそんなに疲れてちゃダメよ。メイドの話、考えてみた? 」
エミリアは以前、アデールの疲労を見かねてメイドを雇うことを勧めた。
夫が軍の最高位であるため金銭的には余裕がある。
しかし、アデールはどうしても他人の手を借りるということに抵抗を感じていた。
「う……ん、考えてみたんだけど……。何だか自分が許せなくなりそうで。私だって、昔は魔導士としてそれなりに実力があったはずなのに、家庭のことでこんなに苦戦して人に頼るなんて。他の女性はみんなやっていることなのに……」
アデールは苦し気に呻く。
俯いた時にプラチナブロンドの髪がさらりと肩を滑り落ちた。コレットが生まれてから一度も切っていないその髪は、既に腰にまで届こうとしていた。
エミリアはそんなアデールの様子をじっと見つめると、やがて小さく息を吐いた。
「アデール、あなた仕事をした方がいいわ。」
「え?」
「あなたは魔導士としての仕事に誇りを持っていたわ。今だってそうなんでしょ? だったら戻った方がいい」
「でも……今さら軍が私を必要としているとは思えないわ。」
「そんなことない。魔導部隊は今、後継者不足で人材育成を急いでる。指導官が必要なようよ。かく言う私も誘われたけど」
「そうなの? そんな話知らなかったわ。第一、私にはそんな誘いは来てないし……」
「ばかねえ。偉大なる勇者の奥様に、また軍に戻ってほしいなんて言える? あなただけじゃなくて、みんながエリクに気を使ってるのよ」
偉大なる勇者の妻――結婚してからというもの、この言葉を聞く機会が増えた。
エリクを良く言われるのは単純に嬉しい。
しかし、アデールもあの時共に戦ったはずなのに、いつの間にか妻という一言で自身を形容されてい た。
そのことに何とも言えない不快感を覚える。
自分がドラゴン一族との戦いにおいて一定程度の貢献をしたなどと言うつもりはない。
ただ、エリクのアクセサリーであるかのような扱いにはほとほと嫌気がさしている。
軍へ戻る――その話はそんなアデールにとってとても魅力的だった。
しかし、その一瞬後にはすぐに現実にぶち当たった。
「私には無理だわ。コレットがいるもの……」
「私、思うんだけど」
コレットをチラと見てエミリアは言葉を切った。
コレットは、ぬいぐるみほどの大きさの女の子の人形を抱いて何事かを遊び相手の侍女に話していた。
「あなたが家にずっといるからこそ、コレットはますますあなたに依存するんじゃないかしら?」
アデールは目を丸くした。
そもそもアデールは、娘が甘えたがりの性格だからこそ、自身が外に出れないとずっと考えていたのだ。
「私のせいで、コレットはこうなったのかしら……」
「違う、違う。そういうことじゃなくって! 子供は大人が思っている以上に強いってこと。最初は泣くと思うけど、コレットはきっと乗り越えるわ」
アデールはエミリアに背中を押され、いよいよ真剣に考え始めた。
「……帰ったらエリクと相談するわ。彼がいいって言うなら私……やってみたい」
「うん、そうしなさい。エリクにあなたの気持ちをよく話すのよ。彼ならきっと分かってくれるから」
エミリアは満面の笑みでアデールの背中を押した。
その夜、エリクにどう話を切り出すか頭の中で整理をしながら、アデールは夕食の片づけをしていた。
コレットはアデールの足元で、エミリアに持たせてもらった数々のおもちゃで上機嫌に遊んでいる。
よほど楽しかったようで、いつもなら構ってほしいとまとわりつくのに、今日は傍にさえいれば大人しく一人で遊んでいる。エミリアには感謝しきれない。
その時、玄関のドアチャイムが微かに鳴る音が聞こえた。
「? エリク? でも、いつもの帰宅時間より早い。お義母様かしら?」
少しして居間に姿を現したのは、やはりエリクだった。
アデールは目を丸くして駆け寄る。
「おかえりなさい。今日は随分早いのね。すぐに夕食にする?」
こんな時間に夫と会話をするのが久しぶりのため、つい興奮して矢継ぎ早に話し出してしまう。
エリクは整った目元を優しく細めてアデールを見下ろす。
「ただいま。今日は城へは戻らず直帰してきたんだ。部下が気を使ってくれてね。君やコレットが起きてる間に帰ってこれて嬉しいよ。 コレット! 」
エリクが、普段軍では見せないであろう明るい笑顔でコレットを呼ぶ。
正直なところ、コレットはそれほどエリクには懐いていない。一緒に過ごす時間が圧倒的に少ないからだ。
それでも、父親が自分に向ける愛情は感じるので、いつも――おずおずと遠慮がちにだが――素直にエリクの元へ向かう。
エリクは思い切りコレットを抱き上げ、顔を寄せる。
アデール譲りの淡いプラチナブロンドの髪と対照的で、エリクの髪は濃い蜂蜜色だ。しかし、彼が家族だけに見せるあどけない笑顔は、コレットのそれと瓜二つだ。
本当にたまにしか見れないが、こんなひと時をアデールは心の底から愛していた。
コレットを寝かしつけた後、アデールはそっとベッドを抜け出し居間へ戻る。
普段だったら絶対に朝まで一緒に眠ってしまうところだが、今日は不思議とすんなり体が動いた。
エリクはソファで一人静かに杯を傾けていた。
「アデール、珍しいね。寝ててもよかったんだよ。君も疲れてるだろうから。」
「ううん、エリクがこんな早くに帰ってくるなんて滅多にないことだもの。今日は晩酌に付き合いたいわ。」
アデールはグラスをキッチンから持ち出し、エリクの隣に腰掛ける。
エリクはアデールに酒を注ぎながら答える。
「済まない。まさか出世をすることでこんなに忙しくなるとは思ってもみなかった。君にもコレットにも申し訳ないと思ってる」
「あなたはあなたにしかできないことをしているのだから、恥じたりしないで。――そうそう、今日はエミリアのところへ遊びに行ってたのよ」
「エミリアか。さすがに嫁いでしばらく経つし、あいつも大人しくなったか? 普段から口も悪かったからあいつが貴族の家でうまく馴染んでるのか俺は不安だよ」
「ふふ、変わってないわ。貴族らしくないから侍女長にも目をつけられてるって言ってた。……それでね。」
アデールは仕事復帰の話を切り出そうとエリクに向き直る。
なぜだかとても後ろめたいような、妙な緊張感に襲われる。
「あの……今、魔導部隊で人が足りてなくて、軍に復帰してみたらどうかって……エミリアに言われたの。もちろん詳しい話を聞いてからだけど、私、やってみたいなと思ってて……」
エリクは驚いた様子でアデールの顔を覗き込む。
「アデール……君は軍に戻りたかったのか? また戦地に赴くことだってあるかもしれないんだぞ? コレットはどうするんだ?」
普段アデールの前では穏やかなエリクの顔が徐々に強張っていく。
「違うの。今回募集している職務内容は後進育成だと聞いてて。もちろん私が魔導士として第一線に立つことはもうないと思う。でも、私も何年か前まではそれなりのポジションにいたのだから、少しでも軍に貢献できればと思って……」
エリクは何事かを考え込むように眉間に皺を寄せて目を伏せる。
アデールはその空気に耐えかねて取り繕うように言葉を続ける。
「あの、もちろん勤務形態のことだってあるし、まずは話を聞いてみないと分からないことだから……。決定事項じゃないのよ。事前に相談したかっただけなの」
「あぁ、分かってる……。アデール、勘違いしないでほしい。俺は君の願いは叶えてやりたい。でも、軍に復帰するというのは慎重に考えてほしいんだ。――俺は、君を失うかもしれないなんて恐怖にまた苛まれるのだけは……」
「エリク……。うん、分かってるわ。」
エリクはアデールを軽く抱き寄せ、頭頂部に口づける。
予想以上に難色を示されてしまったことにはがっかりもしたが、同時にアデールは夫の愛情をも実感し、久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。
ただ、その後期待と共に夫婦のベッドに向かったものの、軽いキスを残してエリクが先に寝入ってしまったことに関しては、やはり落胆の気持ちが大きかった。