4月7日
「(えぇ…??)」
なんだこれは。
「(何言ってんだ…??)」
教授の宇宙語と宇宙文字に必死に食らいつきながら、俺はひたすらノートを書く手を動かしていた。
高校生はみんな大学生に憧れるものだ。
「大学生は人生の夏休みで遊び放題!」
「バイトにサークルに合コンに打ち込みまくり!」
「授業は自分の興味のあることだけ!」
みたいなことを思っているかもしれない。というか俺が思ってた。
実際は全然違う。授業がかなり長い。朝は早いときは9時から。終わるのはだいたい16時。酷い曜日だと18時とか20時になる。高校より長いぞ。文系はもう少し楽だが思うが、遊び呆けられるほど楽でもない。
あと授業はやっぱり難しい。何を言っているかがわからない。
今日から大学の授業が始まった。1番最初の授業は数学科らしく数学から始まった。微分積分学とかいう授業だ。高校の微分積分はそんなに難しいと思わなかったからなんとなく大丈夫だろうと思っていたが甘かった。
「(マジで何言ってんのかわからん…)」
教授は熱心に説明をしてくれているようだが、話し下手なのか何を説明しているのかわからない。あと黒板に板書を書くのだが、量が多い上に書くのが早いからノートを取るのが大変だ。話に集中していられない。
「ここでサインのインバースは…」
「(インバース?なんだっけインバースって…駄目だ…考えるの気を取られてたら置いていかれる…)」
もう話を聞くのを諦めて俺は手を動かすことだけに集中し始めた。
「つ、疲れた…。」
昼休みのチャイムが鳴った。ようやく授業が終わった。第一回の授業からこんなに難しいとは思わなかった。
「蒼刀ー。飯行こうや。ん?なんや、えらい疲れてるやん。」
橙輔が話してかけてくる。
「おう…手が腱鞘炎になりそうだった。」
「あー、さっきの教授めちゃ早かったもんな。手のええ運動やったわ。」
「ほんとだよ。もうちょっと待ってくれたらいいのに。」
「まあ簡単なとこやったし、ええんちゃう?そんな時間かけたくないんやろ。」
「…え?」
俺は耳を疑った。あの授業が簡単ってお前どういうことだ。
「ん?どうしたんや?」
「お前さっきのが簡単って…」
「え?簡単やったやん、高校数学に毛が生えたようなもんやろ。」
「…」
えぇ…?なんだこいつは。
「俺には宇宙語にしか聞こえなかったぞ。」
「そうなん?これからもっと難しくなるとか言ってたで。」
「えぇ…」
「まあ慣れるって!いけるいける。」
ワハハと笑う大輔。こいつ意外と…
「お前って頭いいんだな。」
「え?いや、そんなことあらへんで。まあ俺はもともと数学科志望やしな。」
「そうなのか。」
「まあ困ったらちょっとくらい教えれるで!」
「そうか、ありがとう。」
「そんなことより飯や!飯食いに行くで!腹減ってしょうがないわ!」
スタスタと歩いて行く橙輔。慌ててノート類を片付けた俺は大輔の後を追った。
「ふはひははんはふぁーふるふぃふぁいっふぁん?」
「汚ねえな。飲み込んでから喋れよ。」
「何言ってるか全然わかんないよ。」
食堂で橙輔と飯を食っていたら、途中で伶藤がやってきたので飯を3人で食う。橙輔と伶藤は面識はなかったそうだがお互い学科が同じと分かるとすぐに仲良くなっていた。案の定というか、伶藤を最初女と思い込んでいた。明らかに鼻の下を伸ばしていた。
橙輔はカツカレーを食っている。380円。俺はカツ丼。400円。伶藤は弁当を持ってきていた。
「伶藤は下宿?」
「そうだよ。」
「毎朝弁当作ってんの?」
「うん、そっちの方が安く上がるしね。」
「えらいなー。俺もそろそろ料理しないと…」
「ふぉい!ひいふぉんのふぁ!?」
「だから汚ねえって。喋るな。」
「汚いよ。橙輔くん。」
2人で行儀の悪い橙輔をたしなめる。橙輔は口いっぱいのカレーを思い切り飲み込んだ後、
「『おい!聞いとんのか!?』って言ったんやで。」
「聞いてるよ。はい、終わり。でさー、伶藤はどうやって…」
「待ってくれや!俺も話しさせてくれや!」
「なんだよ。うるせえな。」
「えぇ…ひどい仕打ちやで…。」
「分かったから聞いてやるよ。ほら話せ。」
俺はめんどくさそうに話を促す。
「なんかそう言われると話しにくいけど…まあええわ。2人はなんかどっかのサークル入るん?」
橙輔がサークルの話題を出した。昨日新歓があったからだろう。
「伶藤ちゃんはどこ見に行ったん?」
「僕はカナリア行ったよ。」
「カナリアって…あぁ料理サークルやったっけ?」
「そうそう。結構評判良いらしいし、先輩みんな料理美味かったし。うん、でも手芸サークルもあるらしくて悩んでるんだよ。」
伶藤らしいというか、こいつ趣味まで女っぽいな。自炊みたいだし。そういやこいつの弁当美味そうだ。
「お前は?蒼刀。」
「俺はオケのサークル。」
「桶?どじょうすくいでもやるんかいな。似合いそうやで!あっはっは!」
「むん。」ボコー
「痛い!どつくのはナシや!悪かったって!でも桶のサークルってほんまになんやねん!」
「桶じゃねーよ!オーケストラだよ!オケ!」
桶のサークルってなんだよ。逆に入ってみてえわ。あと、どじょうすくいは桶ですくってるわけじゃねえだろ。
「へえ、オーケストラ?蒼刀くんなんか楽器やってるの?」
「トロンボーンってやつ。」
「へえー。おしゃれだね。小さい頃ピアノ少しだけやったくらいだから楽器してる人って憧れちゃうよ。」
「なんやそれ?ラッパか?」
「うーん…びょいーんって伸びる楽器だよ。」
「伸びるラッパってことやな!」
「…それでいいよ。」
まあ楽器よく知らない奴なんてこんなもんだ。
「そういうお前は?橙輔。」
「ふふふ…よく聞いてくれたで!これを見てくれや!」
気持ち悪い笑いとともに一枚のいろいろな名前が書かれた紙を出してきた。
「なにこれ?」
「これはな…大学のヤリサー一覧表や!」
…なに言ってんだこいつ。
「うわぁ…」
「ヤリサーってなに?」
なんかウブなことを伶藤が言っている。
「分からなければ分からないままの方がええんやで!伶藤ちゃん!」
「?そうなの?あっ、文芸サークルの名前がある。」
「伶藤…ここに載ってるサークルへは行っちゃ駄目だ。」
「?そうなの?」
「あぁとっても良くないことが起きる。」
「えぇ!そうなの?じゃあやめとくよ!良かったぁー昨日行ったのが料理サークルで!」
なんとか伶藤を汚れないようにするのに成功した。
「昨日俺が行ったのはこのサッカーサークルのドネリーや!ここはな…ブスばっかりやったで!いやー外れやったわ!」
バカ関西人が聞いてもいないのに感想を伝えてくる。
「まだ3つあるからな…全部回ったるで!」
「そうか…頑張ってな。」
「おう!これで童貞卒業や!」
「ねえ、童貞ってなに?」
これが…
大学生なのかな…?
次の授業は英語だった。ここまでは数学科の人たちと同じクラスの授業だった。
「次の授業は…」
「第二外国語やな!蒼刀なにとったん?」
「スペイン語。」
「なんや、そんなけったいなもんとってんな。伶藤ちゃんは?」
「フランス語だよ。」
「なんや、じゃあ俺はドイツ語やからここでお別れやな。」
第二外国語選びというのは新入生にとっては最初の大きな選択と言ってもいいかもしれない。単位の取りやすさとかが言語によって違うらしい。
ここでは確かドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、中国語、朝鮮語、タイ語、アラビア語がとれたはずだ。外国語学部があるから結構選択が豊富らしい。
俺はスペイン語をとった。どうしてかって?高校で勉強した世界史でスペインが好きだったからだ。そんな理由で少しマイナーめの言語をとった。
教室に1人で行く。どうせ知り合いはおろか数学科もいないんだろうなあと思いながらドアを開ける。
「あれ?あっ蒼刀さん、」
「おっ?緋梨さんじゃん。スペイン語?」
「そっそうですよ。わっ私1人かと思ってた。」
「俺もだ。隣空いてる?」
「うん。」
意外にも緋梨さんがいた。物好きだなあ。なんでだろ。
ふと緋梨さんの手元に目をやると、緋梨さんは本を持っていた。…あっ。
「その本…」
「はっ、いっいえこれは!」
「おもしろいよな、俺も好きだよ。」
確か国が擬人化してる漫画だ。受験生のときにハマった。結構世界史の勉強になるんだよな。
「えっ…読んでるんですか?」
「あぁ、受験してたときに。おもしろいよな。おれスイスのキャラが好きだよ。」
「わっ…」
「わっ?」
なんか緋梨さんが震えている。どうした?腹でも痛むか?
「わっ!私はスイスちゃんも好きです!!でも、1番の推しはスペインです!スペインくんのあの特徴的な喋り方がもうほんとに可愛くて!!!!あとイタリアちゃんとの絡みが5巻にはあるんですけどもうそれがほんとに良くて私もう5巻だけでご飯何杯でもいけちゃいます!!!あとあと3巻では!!」
びっくりした。急に熱く語られた。
「あっ!!!!」
「えっ?」
「いっいえ…私…」
なんか正気に戻ったらしい。みるみる顔が真っ赤になっていく。
「ごっごめん!今のは無かったことにしてください!!」
「えっ??」
「きっ気持ち悪いですよね!!!ごめんなさい!!!もうアレだったらもう他人のふりして構いません!!!ごめんなさ」
「おっ落ち着け!」
「はっはいぃ〜。」
急に超謝ってきた。なんだこいつは。
「そんなにスペイン推しなんだな。俺はスペインも好きだけどスイスの方が好きだな。」
「えっ…」
今度は驚かれた。忙しいやつだな。
「どうした?」
「いや…気持ち悪がらないんですか?」
「どこが?」
「いや、あの…さっきのオタク丸出しの私を見て…」
「あぁ…」
なんだそんなことか。
「いまどきオタクで気持ち悪がるようなこと無いだろ。別に悪いことじゃないんだし…」
「でも…」
「ていうか雰囲気的にオタクな予想はだいたいついてた。」
「はうぅ!」
緋梨さんがうなだれていた。リアクションの面白いやつだ。
「まあいいんじゃない?俺だって音楽に関してはオタクって言っても良いし。」
「そっ、そうなんですか…」
「それよりその本5巻出てたんだな。今度貸してよ。」
「!?もっもちろん!貸出用のものを貸します!」
「…何冊持ってるんだよ。」
俺は笑いながら言った。その言葉に緋梨さんは
「ふふっ…私は鑑賞用保存用貸出用の3冊を持っています。」
と、少し嬉しそうに俺の前で初めて笑ってくれた。
「じゃねーまた明日ー。」
「あっ、明日絶対持ってきます!!」
「うん、ありがとう。」
スペイン語の授業が終わっての帰り道。ずっと緋梨さんはその漫画について熱く語っていた。というかスペインとイタリアの絡みが最高とか言っていたが俺の記憶ではどっちも男だ。
…腐女子も入っているのかもしれない。
「ん?」
ポケットのスマホが鳴っている。チェックしてみると
【着信 下園 朱音】
へえ、と思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし。」
『あっ、蒼刀。やっほー。』
「やっほー。」
久しぶりの声だ。昔は毎日のように電話してたな。
どうした?」
『いや、久しぶりに声聞きたくなっちゃって。』
「そうか。」
『どう?大学は?』
「今日授業始めだったんだ。凄く難しかった。」
『ふふっ、そうなの。』
「お前は?予備校入ったのか?」
『うん、宅浪しようと思ったけど。父親が入れって聞かないから。授業1つだけとった。』
「そうか。大変だな。医学部受験は。」
『まあ家継がないと駄目らしいしね。まあ今年で決めるよ。』
「あぁそれが良い。応援してるぜ。」
「うん、ありがと。」
久しぶりのたわいもない会話だ。
『あんまし長電話してもあれだし。そろそろ切るね。』
「あぁ、勉強の邪魔して悪かった。」
『私からかけたのに謝らなくても良いでしょ。良い気分転換になった。ありがと。』
「おう。じゃあな。」
『あっ、待って。』
「ん?」
切ろうとした瞬間に朱音に呼び止められた。
『楽器続けるの?』
「…あぁ。オケに入ろうと思ってる。」
『そう、よかった。じゃあね。バイバイ。』
「おう、じゃあな。」
そんな調子で元カノとの電話を終えた。
「ふー…」
久しぶりに聞いた声だ。とても懐かしかった。楽しかった。
「…スーパー寄って帰るか。」
今日は自炊をしてみよう。
少し寂しい夜かもしれない。