4月6日 午前
「えーっと、次は聴力か。」
薄っぺらい問診票片手に俺は教養棟の廊下を歩いていた。
明日から遂に授業が始まる。だが、この大学では1年生は健康診断を受けないといけないことになっている。だからこうやって1年生対象に大学が健康診断を開催してくれている。それが目当てで今日は大学に来ている。
「えーと、聴力検査はどこだ?…125教室か、2階だな。」
近くの階段から2階を目指す。普通は学生で廊下がごった返す光景が見られるらしいが、時間早めに来た甲斐があったのかまだ人は少なくどこの診断所も混んでいない。
「早く来てよかったな…って、ん?あれは…」
向こうのほうにヘッドホンでか眼鏡女子がフラフラしているのが見えた。西浦さんだ。折角だし声をかけてみる。
「おーい、西浦さん。」
「えっ!?あっ、えっえーと」
「梶谷だよ。梶谷蒼刀。」
「あっ、こっこんにちは梶谷さん。」
「おう、次聴覚?」
「はっはい。」
「俺も。行こうぜ。」
「えっ?あっ、はい。」
なぜか驚いた声を出したが、あとをついて来た。
「早いんだな。俺も人のこと言えないけど。」
「はっはい。早く済ませた方が、人少ないと思いまして。」
「あっ、そうなんだ。同じこと考えるよなやっぱ。」
聴力検査の列に並びながらそんな話をする。ただ、前に一回会ったといえでもほとんど初対面。話のネタが無い。
「西浦さん、どこの出身?」
「あっ、東京です。」
「俺、横浜。近いな。」
「そっ、そうなんですか。近いですね。」
「おう。」
「…」
「…」
駄目だ、会話が続かない。人のこと言えないがこの子かなりのコミュ障だ。しかしなぜずっと敬語なんだろうか。年上に見られてるんだろうか?そんな老けて見えるかなあ。
「俺、同じ1年生だし、現役だよ。敬語使わなくていいよ。」
「いっ、いえ、これは癖みたいなもんで。」
「なんか他人行儀だし、タメ口で喋ろうよ。」
「そっ、そうですか?じゃあ、頑張ります。」
「それも敬語だけどな。」
うーん、これはかなり重症だ。やりにくい。
「ごっごめんなさっ…ごめん、私、人と喋るの久しぶりですか…だから。」
「ん?そうなの?」
「高校のとき友達居なくて…」
…橙輔、お前の失礼な想像当たってたよ。
「そうだったんだ…」
「はい…あっ、うん…」
「…まあ、大学で作ればいいじゃん。」
「…」
「…」
また微妙な空気が流れる。話のネタを盛大に間違えた。
「次の方〜」
「あっ、はい。」
検査の順番を呼ばれた。よかった、この気まずい空気をリセットできる。検査のおばちゃんに感謝した。
「西浦さん、次何?」
「つっ次は身体測定です…だね。」
「…タメ口、無理しなくていいよ。」
「…慣れていくよ。」
聴力検査が終わったあとの廊下を歩きながらそんな会話をする。俺も次は身体測定だ。この時間の人は全員同じ順番なのだろうか。
「一緒だ。もう全部一緒かな?俺は身体測定して心電図で終わりだけど。」
「わっ私も。」
「ふーん、一緒だ。」
「一緒ですだね。」
西浦さんのタメ口が訳の分からないところまで来ている。
「134だね。3階。」
「そうだね。」
「…」
「…」
無言で歩く。やっぱり気まずい。まあ知り合いたてはこんなものだろうけど。話が止まったときはお互いの共通点を探すのがいいらしい。俺と西浦さんの共通点…
「なんで西浦さん数学科きたの?」
「えっ?」
「いや、数学科っていうか理学部って女子少ないんじゃん。数学科なんて西浦さんだけだったし。」
ガイダンスの日、橙輔が「1人居たし、女もう少しいるんじゃね!?」とか言っていたが結局数学科の女子は1人だけだった。
「あっ、あー、えーと。数学が1番得意だったから、かな?」
「…それだけ?」
「いっいや、そういうわけじゃないですけど…なんとなーく居場所いいかなぁ〜と思って。」
「そうなの?俺はなんか変な人ばっか集まってるかなーって心配してたけど。」
「うっ、うーん。まあだから居心地が良さそうと思ったと言いますか…なんていうか…」
「?そうなんだ?」
なんかよく分からん理由だ。変人が多いから選んだのか?まあ、西浦さんも少し変人と言えば変人だし…
「あっ、ここですね。」
そんな話をしているうちに身体測定の教室に到着した。また列に並ぶ。
「かっ梶谷くんは?どうして数学科?」
逆に質問をされた。話を振ってきたのは珍しい。
「あっ俺?俺はね、もともと工学部志望なんだ。」
「そっそうなんですか?」
「うん、物理工学科行きたかったんだ。前期落ちちゃったんだけど。」
「あれ?ということは後期?」
「そう、俺後期入学。」
前期落ちた時は本当に参った。判定的にもほぼ間違いなく受かる状態だったけどメンタルが崩壊しそうだった。
「ここの後期って凄い難しいんじゃないんですか?凄いね。」
「いやあ、前期で志望通りに行けた方がよっぽど立派だよ。」
「でっ、でもどうして数学科?工学部もあるよね?後期。」
「そこは西浦さんといっしょ。数学が得意だったから。数学科の後期って数学だけで入れるんだ。」
「あっ、そういえばそんなのだった気がする。」
「だからまあ、数学やりたいとかは思ってないんだけどね。」
どうしても現役じゃないとダメだったから選んだ選択肢だ。後悔はしていないが授業についていけるかとか興味を持てるかとかはやっぱり心配だ。
「そっそうなんですか…興味もてるといっいいね。」
「うん、そうだね。数学得意だったら、教えてくれ。」
冗談っぽく笑いながらそう言った。
「えっ、えぇ!?そっ、そんな私に、できることがあるですますでしょうか?」
言葉がおかしくなっている。焦りすぎだろ。っていうか焦る要素あったのか?
「いやいや、そんな。困ったらお互い助けようねってことだよ。」
「あっ、そっそっそうですか。わっ私でよければ、でっできることがあれば、おっ手伝いしますよっ、」
「うん、ありがとうね。なんか困ったら俺にも頼ってくれよ。」
「あっ、あっ、はいっ、ありがとうございましゅ!」
そう言いながらぺこぺこ頭を下げてくる。大袈裟な子だな。でも悪い子じゃなさそう。橙輔の言うとおり、見てるぶんには楽しい子だ。
「こちらこそ。」
すこし笑ってそう返した。それ以降は順番が呼ばれるまで話は無かったが、さっきまでの居心地の悪さは無かった。
「あのー西浦さん?」
「…」
「えーと、大丈夫?」
「…なんでだ…あれか…最近ケーキを食べすぎたか…?でも…これは…いくらなんでも…」
「えぇ…?」
問診票を見て西浦さんがブツブツ言っている。多分女の子には色々な事情があるのだろう。
「…大丈夫?」
「やはりテスト勉強の夜食は控えるべきだったか…?あっ、だっ大丈夫ですよ!」
やっと帰ってきてくれた。というか夜食はヤバいよ。うん。俺も食ってたけどさ。
「次行こうぜ。心電図で終わりか。」
「そっそうだね。心電図は139教室ですね。」
「うん、行こう。ちょっと人増えてきたし。」
同じ階の教室なのですぐに着いた。が、
「あっ、男女分かれてるな。まあ当たり前か。」
「おっ男は隣の140教室みたいですだね。」
「そうだね、じゃあ、また後で。」
「うっ、うん。」
そう言って、西浦さんと別れて、140教室に入る。当たり前かだが男だらけだ。服を脱がないといけないので、黙って服を脱ぎ始める。
「あれ、確か数学科の人だよね。」
「?」
後ろから声をかけられた。
「うん、そうですけど。」
「やっぱり。見たことある顔だなと思ったんだ。」
見ると、男にしては背の小さい奴だった。顔もとても幼く見える上にあまり男っぽい顔をしていない。中性的な顔ってやつだろうか。とても同い年には見えない。
「…?1年?」
「うん。やっぱり見えない?まだ高校生に見えるかあー。」
そんなことを言いながら笑う。正直高校生じゃなくて中学生くらいに見える。
「僕、大谷伶藤っていいます。同じ数学科だよ。よろしくね。」
「おう、梶谷蒼刀。よろしく。」
「蒼刀だね、下の名前でいいよね?僕も下の名前で呼んでいいから。」
「うん、下の名前の方が俺もやりやすい。」
首を縦に振る。俺にとっては3人目の数学科だ。
「ようやく大学で知り合いができたよ。ぼっちにならないか心配だったんだ。」
伶藤が安心した顔で話す。みんな考えていることは同じだ。
「蒼刀は凄いよね。すぐに友達作ってたじゃん。」
「え?」
「ガイダンスのときにひとつだけグループできてたでしょ?そこに居なかったっけ?」
「…あー。」
「そこ以外全然会話とか無かったし。結構目立ってたよ。」
笑いながらそう語る。やっぱり目立ってたか。あの2人うるさかったしな。
「…まあ、俺は話しかけられた側だし。」
西浦さんに話しかけたのは俺だが。
「そうなんだ。あの2人とも仲良くなりたいなー。」
…西浦さんはともかく、橙輔は会えば一瞬だと思う。
「というか上脱がないの?脱がないと検査できないよ。」
「あっ、そうだな。喋ってたら手が止まってた。」
見ると、もう伶藤は脱ぎ終わって居た。…顔も中性的だったが、体も凄く綺麗だな。こんな白い肌の男見たこと無いぞ。
「…?どうしたの?」
「えっ、いやっ、なにもないぞ。すまん。」
「そう?」
ニコっと笑う。笑った顔も男と思えないほど可愛い。なんだ、こいつ。その手の奴が居たら絶対に狙われるぞ。
自分の性癖の変化に歯止めをかけつつ慌てて服を脱ぐ。
「じゃあね、蒼刀。また授業で。」
「おう、またな。」
検査室を出ると伶藤と別れた。なんなんだあのショタ顔は。やっぱり変な奴しかいないのか。数学科は。
「かっ梶谷くん。」
「ん?あっ、西浦さん。待ってた?」
「いっ、いや。大丈夫。それよりさっきの女の子は知り合い?」
「ん?女の子?…あぁ、伶藤か。いや、数学科の奴だよ。さっきそこで会った。多分明日くらいには西浦さんも会うんじゃないかな。」
「えっ?そっそうなの。おっ女の子が他にもいたんですね。」
西浦さんが少し微妙な顔をする。
「いや、あいつ男だよ。検査室で会ったし。」
「えっ!?男子?おっ女の子かと思いました…」
「まあ男っぽくないよな。分かるよ。」
「あんな人も居るんだね…」
今度は西浦さんが安心したような顔をしていた。なんでだろう。
「あっ、そうだ。西浦さん。」
「えっ?あっ、はい。なんですだすか?」
「できたら俺の下の名前で呼んでくれない?上の名前で呼ばれるの好きじゃないんだ。」
「えぇ!?しっ下の名前ですか!?」
「うん、上の名前好きじゃないんだ。できたらでいいんだけど。」
「そっそんな…本当ですか?」
「うん。」
下の名前で呼べなんて多分変な要求だろう。普通の人だったら小っ恥ずかしいし。今までもなるべく下の名前で呼んできてもらった。
「恥ずかしったらいいんだけどね。」
「…しっ下の名前の方がいいんですか?」
確かめるように聞いてくる。
「そりゃね。ちょっと色々あってね。」
「…じゃじゃあ、そうする。頑張ります。」
「おっ、ありがとう。無理しなくていいから。」
なんか人に慣れてないみたいだし無理かなとは思ったが、了承してくれた。ありがたい。
「そっそのかわり、」
「?」
「私のこともしっ下の名前で呼びましょう。その方がフェアだよ。」
「?いいけど…恥ずかしくない?」
「いや、こうなったら、もうとことん頑張ります。呼んでください。」
「…?まあ、下の名前で呼ぶ方が俺も慣れてるしそっちの方がいいよ。」
「はっ、はい。」
「うん、ありがとう。緋梨さん。」
「!」
一気に顔が赤くなった。やはり無理している。
「だっ大丈夫か?」
「はい…大丈夫です。これは試練です。」
「無理すんなよ?大丈夫だから。」
「だっ大丈夫…あ、蒼…刀くん。」
「おう、なんか悪いな。ありがとう。」
「はい…頑張ります。」
やっぱり女子は恥ずかしがる人も多いが大抵頑張ってくれる人が多い。俺は優しい人に恵まれるらしい。
「…もう終わりですね。検査。」
「うん、そうだね。これからどうする?」
「私は…家に帰ります。荷物が今日家に届くらしいので。」
「そう?俺はサークル巡ってくるよ。今日午後からサークル新歓の日だし。」
「そっ、そうなんですね。じゃあ、さよなら。あっ蒼刀くん。」
「うん、バイバイ。緋梨さん。」
「…」
緋梨さんが赤くなりながら帰っていく。少し可愛い。
恥ずかしそうに帰っていく後ろ姿を見送りながら、緋梨さんの優しさに感謝した。
「ん?」
食堂で昼飯のカツ丼を食べていると、スマホが鳴った。すぐに確認する。
【着信 梶谷 青次】
「…」
あまり見たくない名前だった。しかし出ないといけない気もした。
「…あっ、」
悩んでいると、通話が切れてしまった。あっちも諦めたのだろう。
「…出れば良かったな。」
親父にはもう怒っていない。過去のことだ。ずっと根に持つほど性根も腐っていない。
ただ、かつての自分と親父との間に生まれた確執を忘れることもできない。親父は多分俺に対して謝罪の気持ちがあるのだろう。
「…」
嫌な思いをした。本当は心のどこがで許しきれていないのかもしれない。そんな自分が嫌だ。
俺は微妙な気持ちのままカツ丼をかきこんだ。