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彼女を人質に取られました

作者: 熊出

 多忙だった。毎日が流れ星のように飛んで行った。朝から晩まで仕事漬け。土曜も仕事。休日出勤も時たま。

 会社は俺を薄給でボロ雑巾のようになるまで使い潰す気なのだ。そうと気がついてもう数年が経つ。

 短期間で辞めたら経歴に傷がつく。そう思い、ただ仕事をこなしている。

 そんな中での休日はまさに砂漠の中のオアシスだ。俺は十分に惰眠を貪ることにした。恋人から最近連絡がないが、今はそれよりも眠りたかった。ベッドに寝転がり、布団にくるまり、目を閉じる。至福の時間だ。


 ノックの音がした。

 誰だろう。俺の平穏な休日を邪魔する者は。どうせ新聞の勧誘か何かだろう。そう思い、放置しておくことにした。

 しかし、ノックの音は部屋に響き続ける。こうなれば出たほうが迅速に眠りにつけるという結論に辿り着くまでに時間はかからない。俺は溜息を吐いて、睡眠不足で重い体を引きずって玄関まで歩いて行った。

 すると、玄関の向こうで駆け足の音が遠ざかっていった。

 なんだろう。子供の悪戯だったのだろうか。そう思い、扉を開けることにする。

 扉を開けようとすると、重い何かにぶつかるような感触があった。


 その何かを押しやりながら、扉を開けきる。外に出て確認すると、封筒が貼り付けられたスポーツバッグが玄関の前に置いてあったようだった。持ち上げると、何か物が一杯に詰まっているらしく、思いの外重い。

 封筒には、俺の名前が記されていた。

 なんだろう。これも悪戯の一環だろうか。睡眠を邪魔された不快感が、俺の思考をマイナス方向へと働かせていく。

 とりあえず、封筒を開けることにした。


 眠気が一瞬で覚めた。封筒の中に入っていた紙の一行目には、こう書かれていたのだ。


 お前の彼女は預かった、と。


 慌てて、封筒に手を突っ込んで中の物を全て取り出す。そこには、縛り上げられ、口にガムテープを張られた恋人の写真があった。場所はどこかの工場だろうか。壁も床もコンクリートだ。

 警察という二文字が脳裏によぎる。ポケットの中にはスマートフォンがある。いつでも通報することは可能だ。

 慌てて手紙を読み進める。


 お前にこれから命令を与える、と手紙には書いてある。まず、この荷物を指定の時間までに県境の廃工場まで届けること。荷物はけして開けないこと。所定の場所で開けなければバッグの中の爆弾が機能して俺は死ぬこと。盗聴器がついているから警察や他の人間には連絡しないこと。


 これはなんの冗談だ。現実味がまるでない。ただ、写真の中で縛り上げられている彼女の悲しげな表情が俺の視線を釘付けにしていた。

 行くしかない。

 部屋に戻って、車のキーをテーブルの上から拾い上げ、玄関の鍵を閉めて外に出る。重いバッグを担ぎ、車の中に入って、エンジンをかける。

 未だに今の状況に対して現実味がない。なんの冗談だという思いは未だある。けれども、部屋で惰眠を貪る俺の日常は既に遠ざかり、非日常が俺の体を包んでいた。

 車を発進させる。指定の時間まではまだまだ余裕がある。しかし、早く着くに越したことはないだろう。


 車を運転する最中も、脳裏に浮かぶのは写真に撮影された恋人の姿だ。無事でいるだろうか。残虐な真似をされてはいないだろうか。

 そして、今後への不安も頭をよぎる。俺は何をさせられようとしているのだろうか。今後どんな扱いをされるのだろうか。俺が助手席に慎重に置いたバッグには何が入っているのだろうか。

 麻薬。

 そんな単語が、脳裏に浮かび上がる。


 ヤクザなんて警察に差し出す使い捨ての駒には事欠かないのではないのか? そんな思いが脳裏によぎる。

 それが爆弾まで用意して人を操作しようとする。仰々しい話だ。

 しかし、爆弾まで用意したということは、今後も俺をこき使う気なのではないのだろうか。警察に逮捕されるまで俺は体のいい運び屋として使い潰される。待っているのは絶望の未来だ。


 頭の中は曇り空。土砂降りで数メートル先もろくに見えやしない。だから、車のガソリンが切れかかっていることに気がついたのは、かなり車を運転した後のことだった。

 タイミングよくセルフのガソリンスタンドが見つかったので、そこに立ち寄る。機械に紙幣を入れ、給油を始めると、頭が少し冷静になってきた。


 本当に、爆弾などあるのだろうか。このような事件が許されているならば、今頃話を信用しなかった人間がバッグを開いて爆発が起きた、なんてニュースが何処かでやっていそうなものだ。

 もしくは、同様の被害者は日本の各地にいて黙々と指示に従っているのだろうか。ならばインターネットでその被害者を募って住んでいる土地等の共通点を調べあげ、誘拐された恋人の場所を特定することも可能なのではないだろうか。

 いや、それは突飛すぎる。どうやって被害者を募るというのだ。相手もインターネットの掲示板を全てチェックするほど暇ではないだろうが、たまたま同じ被害者が俺の元に募る可能性も同じほど低い。

 そして、もしも被害者が俺一人ならば、インターネットに書き込んだ瞬間に恋人は死ぬ。


 そして、冷静になった俺は、盗聴器があろうとも、スマートフォンのチャット機能は使えることに気がついた。

 大学時代の友人が起きているか、スカイプを起動して確認してみる。幸い、すぐに返事があった。


『どうした? なんか用か?』


 友人の打った文字が、俺を心を少し緩ませる。藁にも縋る思いで、俺は今の事情を箇条書して彼に送った。


『胡散臭い話だな』


 友人の返事は簡潔だった。俺も返事を送ることにする。


『けど、事実恋人が監禁されている様子が写真で撮られている。嘘じゃない、本当なんだ』


『お前、俺をからかってるんじゃないよな』


『俺は必死なんだ』


 しばし、返事が来るまで間があった。


『じゃあお前、相当ヤバい奴に目をつけられたみたいだな』


 友人の打った文字が、ただでさえ疲労で重い体にさらにのしかかってきた。


『バッグは開けないほうがいい。万が一ということがある』


『なら、俺はどうしたらいいんだろう』


『恋人のことは諦めたらどうだ?』


 簡潔な言葉に、一瞬頭が真っ白になった。その発想は、今までなかったのだ。それは、悪魔の囁きのようだった。


『警察に駆け込む。お前はそれでヤバい連中からはおさらばできる。平穏な日常が戻る』


『けど、そしたら恋人はどうなるんだよ』


 そんなこと、問わずともわかっていたはずだ。けれども、俺は訊ねていた。まるで、責任逃れをするかのように。


『海の魚の餌じゃね。仕方ねえよ。今生きてるかもわからないし、今回荷物を運んでもお前の枷になるだけだぜ』


 俺は返事を打てない。友人はタイピングを続ける。


『枷になるような奴は切り捨てろ。それが賢い生き方だ』


 悪魔のような文章が、友人の声で脳裏に再生され続ける。


『それともお前、一生訳の分からない運び屋を続けるつもりか? 逮捕されるまで?』


 友人はタイピングを続ける。

 俺は、しばし考えこんだ。脳裏に思い浮かぶのは、今までの恋人との交流の日々だ。大学で出会った。最初の頃は会うだけで胸が高鳴った。仕事で忙しくなっても、それを理解して、傍で支えてくれた。それを、俺は切り捨てると言うのだろうか。

 友人の言葉は、更新され続けていく。

 それを、俺の目は最早捉えてはいない。


 現実的な問題として、それしか手段はない。訳の分からない運び屋として一生を終えるなんて真っ平だ。ヤクザか過激派組織か訳の分からない組織の末端となるのも真っ平だ。

 けれども、俺が裏切れば恋人はどうなる。

 爆弾を用意するような組織だ。報復は壮絶極まるだろう。死ぬだけならまだいい。生きたまま甚振られ、死体すら見せしめに利用されるかもしれない。

 それは、嫌だ。

 何があろうとも、嫌だった。

 もう一度、恋人の笑顔を見たかった。


 俺は、眼から涙がこぼれ落ちるのを感じていた。

 何の涙がわからないが、俺は前に進むことにした。

 スカイプのプログラムを停止させて、スマートフォンをポケットに入れる。車の運転を再開する。

 頭の中で交互に考えが思い浮かぶ。警察に連絡する。素直に届ける。警察に連絡する。素直に届ける。迷いながらも、車を運転させ続ける。 


 そのうち、渋滞に捕まった。どうやら、前方で交通事故が起こったらしい。車の列は、動きそうにない。

 時間にはまだ余裕がある。目的地も近い。もしも指定の時間に間に合わなければ、爆弾はどうなるのだろう。恋人はどうなるのだろう。

 車の列は、動きそうにない。

 これを言い訳にできる。そう、心の何処かで安堵している自分がいた。けれども、次の瞬間、俺は車の扉を開けて、バッグを抱えて駆け出していた。


 そうだ、さっきの涙の意味がわかった。もう、引き返せないと理解したが故の涙だ。

 俺は、恋人を見捨てることができない。できるわけがない。そんな非情な人間に、俺はなれはしないのだ。

 後のことは、もう考えていなかった。息が切れ、足が痛むのも気にせず、駆け続ける。

 一生、運び屋でもなんでもやってやる。ただ、恋人の無事さえ確認できればそれでいい。仕事だって、必要ならば辞めてやる。空き缶拾いの浮浪者になってでも、恋人の命を守り続ける。


 そう、俺は決意したのだ。自分の人生よりも、恋人を取る、と。

 気が付くと、全身が汗まみれだった。下着はもちろん、服も濡れて、体にくっついている。

 俺は、県境にある廃工場に辿り着いていた。それを視界に収め、時計を確認した途端、今までの疲労が一気に体に襲いかかってきた。

 思わずバッグを抱えてその場に崩れ落ち、著しく乱れた呼吸を整える。


 今日は、俺の人生が変わる日だ。この頃には俺は、既に達観した思いでいた。

 あの扉を開けた瞬間、日常では関り合いのないような人種達との交流が始まる。そして俺はその手先として使い潰されるのだ。非合法な真似もいくつもさせられるのだろう。それももう、覚悟の上だった。

 恋人さえ守れればいい。それが、俺の望みだった。


 廃工場に歩み寄り、その扉に手をかける。扉は表面が錆びていて、思いの外重かった。体重をかけて、それを開いていく。

 薄暗い廃工場の中に、日光の光が差し込んでいった。ダンボール箱の山が、まず目に入った。


「来たぞ。荷物を持ってきた」


「時間がかかったな。彼女が惜しくないのか?」


 日光の届かない薄暗がりの中から、男の声が聞こえてくる。


「交通事故が原因で、渋滞が起こって車が動かなかった。だから、ここまで駆けてきた」


 薄暗がりの中で、男の目が僅かな光を受けて輝いているのが見えた。

 その目は、笑っているようだった。


「はははは、車を捨ててここまで走ってきたか。褒めてやろう。そこまで恋人思いだったとはな」


「いいから、恋人を返してくれ。荷物は持ってきた。これで取引は成立だろう?」


「はいわかりました、と素直に返すと思うのか?」


 男は懐に右手を伸ばした。どうやらスーツ姿のようだった。次の瞬間、その右手が取り出したのは、銃だった。

 銃口が、俺に向けられる。

 俺は、戸惑った。


「何をやっているんだ。俺を殺しても意味が無いだろう? 今後も俺も利用したい。そう思って、人質まで取ったんだろう?」


「お前は痕跡を残してきた。乗り捨てた車はどうなると思う? お前の恋人が失踪したという事実、乗り捨てた車。それらからお前は怪しまれ、警察にマークされるだろう」


 言われてみればその通りだ。恋人が失踪した時期と同じくして俺は車を乗り捨てた。それは何かあると勘ぐられてもおかしくはない。

 背筋に冷や汗が流れていく。心音が高鳴るのが聞こえてくる。俺は死ぬのか? こんな場所で、意味もなく、無様に死ぬのか?


「お前は利用価値がなくなったんだよ」


「そんなことはない。警察が来てもしらばっくれてみせる!」


「ここまでそのブツを運んできただけで十分だ。残念だったな」


 俺の脳裏に、今までの人生が一瞬で駆け巡っていく。

 そんな中で、俺が取った行動は、突進だった。疲労の溜まった足で、駆け出して行く。

 しかし、相手が銃の引き金を引くほうが速い。そんなこと俺にだってわかっている。わかっていたけれど、動かずにはいられなかった。

 乾いた音が、廃工場の中に響き渡った。

 しかし、それは一つではなかった。幾重にも重なった乾いた音。それが、廃工場に響き渡っていた。

 ダンボール箱の山が崩れ落ちていた。その奥から、クラッカーを鳴らしながら複数の人間が現れ、俺を取り囲むように駆け寄ってきた。


 日光の中に出てきた姿を見ると、どれも見知った顔ばかりだ。大学時代の友人達だった。

 中には、俺がスカイプで相談した友人までがいた。


「おめでとう!」


「おめでとう!」


「ご苦労様、おめでとさんね!」


「おめでとう~!」


 口々に彼らは祝いの言葉を述べる。俺は足を止め、呆気にとられてそれを見ていることしかできない。銃を俺に向けていた男は、その銃口を天井に向けて引き金を引いた。プラスチックの弾が天井にぶつかる音がした。

 そして、廃工場の奥から歩み寄ってきた人物を見て、俺は頭が完全に真っ白になった。

 そこにいたのは、誘拐されたはずの恋人だった。縛られることなどなく、穏やかに微笑んでいる。


「ね。バッグ、開いてみて?」


 言いたいことは山ほどあったが、事情が薄々と飲み込めてきた。俺は、バッグを開いた。

 目に入ったのは、砂の入ったビニールの袋の数々。それらを取り払っていくと、紙切れ一枚と、箱に入った腕時計が出てきた。

 紙切れにはこう書かれている。


 交際五周年おめでとう、と。

 友人達は勝手に盛り上がり、歓声を上げている。恋人は、少し困ったような表情で微笑んでいた。

 その時、表に車が二台停まる音がした。振り返ると、誰かの車と、俺の車が並んで停まっている。運転席に居るのも、見知った顔だった。


「さあ、ケーキも料理もあるから食おうぜ」


「記憶に残る記念日になっただろ」


「いやあ、しかし見直した。お前、きちんと恋人を取ったんだな」


 友人達は勝手なことを言って、俺を廃工場の奥へと連れ歩いていく。

 俺は疲労で痛みすら感じる足を引きずりながら、思わず呟いていた。


「主犯、発案者は誰だよ」


 殴ってやる。そう、心に決めていた。


 それから、一年が経った。

 俺は転職していた。あの神経を削るような選択をした後なら、転職の決意なんてあっさりとついてしまったのだ。

 元々少ない給料はさらに少なくなったが、土日は休めるし人間関係は良好だし良い職場だ。ここに骨を埋めようと思っている。

 そして、俺は結婚していた。あのドッキリの仕掛け人の一人だった、恋人と。


 そこに至るまでの紆余曲折は、今は省いておこう。

 ただ、俺は記念日や誕生日が近づくたびにこう言い続ける。


「もうドッキリはやめてくれよな」


 ドッキリはもう、一生分味わったのだ。




週一短編シリーズ三作目でした。なんとか日曜に間に合わせました。

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