起・承
《第一章》
高くそびえるコンクリートの森。僕はそれを長大なビルの上から見下ろしている。腹の底に響くような重低音とやや冷たい緩衝液が、僕のいるコクピットを満たしている。僕はそれが嫌いだが、仕方がない。だって、一歩ここを出れば高濃度の放射線が僕らの身体を蝕むのだから。
「こちらサニー。聞こえるかしら、レイニー?」
「ああ、僕の大好きな声が聞こえてるよ」
イヤカム越しに聞こえる抑揚を抑えた女声に、僕は軽口を叩く。
「…作戦中よ、レイニー」
僅かに聞こえたため息に、僕は笑いを堪えながら言ってやる。
「そうだったな。これが終わったらディナーでもどうだい?」
言いながら僕は操縦桿を握る。
僕の乗ったおよそ十メートルの巨人はその鋼鉄の剛腕を軽々と持ち上げ、その手に握った鈍色のライフルを構える。
「あなたが生きていたらね」
そういって彼女が笑えるのは、僕たちがお互いを信頼しているからに他ならない。
「忘れないでくれよ?」
刹那に響いた銃声、或いは砲声が僕らの表情を強引にすり替える。
敵機は既に目前。僕は静かに息を吐いた。
現れたのは僕の乗る巨人の兄弟のような機体だった。僕よりも高い高度を維持して飛ぶその姿は、遠目に見れば飛行機のようにも見えただろう。・・・一人乗りの飛行機にしてはあまりに大きすぎるけれど。
だが僕の巨人『RAIN』は、十キロ先にあったこの機体を捉えていた。僕らの組織の特別仕様だ。四つのカメラアイがそれぞれの機能によって遥か遠くの、条件次第では五十キロ先の目標を補足するのだ。
そんなことも露知らず、敵の巨人は僕の直上を通過してゆく。これも特別仕様。メタマテリアル技術の結晶、光学迷彩だ。本来なら熱は感知されてしまうが、このあたり一帯を包む異常な熱気が僕らを覆い隠してくれた。
「追うわよ」
そう指示するのはサニーだ。了解、と短く返事をしてから僕らは巨人のブースターを点火。最大出力で巨人を追いかける。
光学迷彩を解き、露わになった僕らの巨人の姿。きっと名も知らぬ敵である彼、もしくは彼女はさぞ驚いたことだろう。そう意地の悪い顔でほくそ笑みながら僕は引き金を引いた。
連続する三つの、二重の砲声が繰り返す度に、目の前の巨人は姿勢を乱れさせ、大きくぐらつく。冷静な判断ができないでいる敵機パイロットは、超過負荷出力のブーストをかけて僕らを振り切ろうとするが、勿論、そうは問屋が卸さない。
敵機の背面に穿たれた極小さな穴から漏れ出す黄金色の液体に、弾丸の擦過で火が点く。
刹那。
敵機は内側から裂け、爆発する。響く轟音が巨人の装甲やコックピットの緩衝液ごと僕の鼓膜をびりびりと震わせた。
「お疲れさま」
彼女が無線越しにそう言ったので、僕はこう嗜めてやった。
「まだ、作戦中だ」
我ながら気持ちの悪いほど演技じみた口調で。
「意趣返し・・・のつもりかしら?」
まるで嘲るように言い放つ彼女の声はあくまでも冷静だった。
「西の空をご覧なさい」
僕はその一言で察した。察してしまった。嘘から出た真とはこのことだ。
「…ディナーには間に合いそうか?」
太陽は既に水平線に接しつつある。その夕日にカラスのように黒い染みを刻むのは敵機の群れだ。数は…数えたくもない。
「知らないわよ。あなた次第じゃないかしら?」
一見、というか一聞というか、冷たく言い放ったようにも思える言葉だが、彼女なりの激励だと思えばなんということもない。
僕は操縦桿を握り直すと、眩しい光を遮らんとするカラス達を睨み付けた。
「さあ、害鳥駆除を始めようか」
夕焼けを、轟く砲声が揺らした。
戦闘が終了したのは日暮れの間際だった。
陽光の残滓が尾を引く中、装甲のところどころを抉られた僕の愛機は母艦の格納庫へと移送されていく。 これから修理と改修を受けて『彼』はまた強くなるのだろう。
そんなことを考えながら僕は外れた肩を抱く。敵機の体当たりの衝撃で脱臼してしまったのだ。おかげでそれからずっと片腕でしか戦えなかった。不覚だ。
僕は医務室を目指して歩みを進めた。ひんやりとした潮風が心地よく頬を撫でた。
僕らの巨人を運ぶ母艦の名は『NOAH』。未曽有の核戦争の終結後、この荒廃した惑星の生命を救っている舟だ。この舟は大部分を兵器格納庫が占めているが、生活・居住区もそれなりに確保されている。僕としてはまあ、八十点くらいかな。何より僕の大好きなスシが、この艦では提供されていないからだ。もっとも、多くの海は放射能に汚染されていて、魚なんて食べられたものではないが。幸いにも深海魚は食べられるそうだが、生憎と僕はサシミでないと魚は食べない。残念だ。
そんな残念な艦の医務室には、それはそれは残念な美男…、否、男女がいるのだ。
「あらぁ、ひさしぶりねえ、うふふ」
「あーしまった、今回の遠征もクラウドだったのか」
「あら、照れなくてもいいのよぉ?あと、クラウディって呼びなさいな」
この医学的には男なはずの女は、この艦で随一の腕前と悪評を誇る軍医だ。どこから見ても美男子だと言 える風貌に相反して、中身は年頃の乙女。いわゆるオカマというやつ。別に僕はそんなことを気にしちゃいないが、最近は周りが五月蠅いもので、「お前がいつか、あいつに喰われちまいそうで怖い」だとか「お前もホモなのか」などと無粋な心配ばかりをするのだ。僕はそういった手合いの連中のほうが嫌いだ。だからそういう連中とは普段の付き合いはない。
「そんなことよりコイツをなんとかしてくれないか」
僕が右手で緩衝材入り特殊スーツを脱ぐと、クラウドの目つきが変わった。真剣な眼差しだった。その眼は淀みなく、脱臼した僕の左肩を見つめている。
「ただの脱臼ね。ほら、力抜きなさい」
「…待ってくれ。まだ心のじゅっ…」
ごき。
鈍い痛みとともに僕の肩が正常な位置に収まった。その鈍い痛みはまだじんわりと余韻を残している。
「くっ、うわぁ…痛い…」
痛いのは昔からどうにもだめなんだよなあ。
そんな僕の心を読んだかのようにクラウドは笑った。
「そんなことでよく『Angel』のパイロットが務まるものねぇ」
「…痛いものは痛いんだ。仕方ないじゃないか…」
そう、僕らの乗る巨人の正式名、または製品名は『Angel』という。World Arms社製の汎用兵器だ。僕らのコロニーを脅かす蛮族どもを打ち倒す機械天使。なんて残酷な天使だろうか。もっとも、僕らは正当防衛だから恨まれるようないわれはないし、味方は救っているのだから、僕らにとっての天使には相違ない。
僕とクラウドが軽口の応酬をしていると、医務室の扉が開いた。
この悪評高い名医の世話になろうという猛者はそう多くない。他の医務室が空いていれば、多くはそこにこぞって駆け込むだろう。
かくして現れた人影は僕のよく知る女性。
「やっぱり此処にいたのね」
そう言って微笑んだのはサニーだった。
作戦中とは打って変わって、こんなにも柔和な雰囲気を纏っている。分かりやすく言うと、「なんかいい匂いしそう」って感じだ。
サニーは何の躊躇もなく唐突にスーツを肌蹴させた。
…心臓に悪い。とても。
彼女の裸体が僕の視界に入ったかどうかはさておき、サニーはクラウドを呼んだ。
僕の背後で何やら笑っている。
「レイニーってば相変わらずこういう時はウブね」
「こんな男、この艦にはなかなかいないわよぉ?」
…なにやら馬鹿にされている気がするが、何も言うまい。
「サニーはどこを怪我したんだい?」
彼女らに背を向けたまま尋ねてみる。僅かな沈黙と衣擦れの音。
「右の脇腹よ。ほら、おっきな痣になってるわ。見る?」
「ぼ、僕は結構だ」
僅かに語尾が上ずってしまった。今度は隠す気もない笑い声が、小さな医務室に響き渡った。
僕はこの弛緩しきった雰囲気が好きだった。自分の気の許せる仲間たちと笑いあうこの時間、平和が。
しかしこれは相対的な平和だ。どこかで争いが起きているからこそ守られ、成り立っている平和。僕だけじゃない。サニーも、あるいはクラウドだって気付いているかもしれない。ただ僕らはその現実から目を背け、次の死線を越えるために、心を休めるのだ。
それは何よりも残酷な平和であるような気がした。
朝七時の目覚ましが鳴った。
僕はまだ目覚めきれない目をこすりながら、すぐ隣のもう一つの温度を確かめるようにそっと抱き締めた。
「…ん。おはよう…」
僕と同じように目をこすりながら彼女は――サニーは僕の腕の中で身をよじった。
ディナーの後、僕の部屋で呑みなおして・・・まあそういうことだ。
僕と彼女は恋人ではない。けれどこういうことはよくある。それだけの関係だ。
でも。本当は、僕たちは知っている筈だ。お互いの気持ちを。けれど僕らは目を背け続けるのだ。特別に気があるわけではない、と相手を欺かなければならないのだ。
僕ら――巨人のパイロットは仕事柄、死にやすい。だから仮に僕らが恋人以上の関係だとして、どちらかが先に死んでしまうと、残された側にも仕事上の支障が出る可能性がある。おまけにその仕事はコロニーや母艦の護衛という重要任務である。その責任は数十万人の命と同じだけ重い。
だから僕らは、あくまでも「それだけの関係」なのだ。「それだけの関係」だと、割り切らなければならないのだ。他の隊員はどうなのか、なんてことは知らない。
サニーはベッドを這い出てからもしばらくの間、ベッドの縁に腰かけ、一糸纏わぬ姿で僕の手を握っていた。けれど、やがて名残惜しそうに手を放すと、そのまま個人用の簡易キッチンにゆったりと歩いて行った。
僕は空いた手の平をそっと握った。
「コーヒー淹れるけど、レイニーも飲む?」
「ああ、いただくよ。ただ…」
「ミルクはたっぷり、でしょ?」
そう言って彼女はくすりと笑う。
窓のない部屋で朝日は差し込まないから、彼女の顔は見えない。ただ間接照明が仄かな影を浮かび上がらせるだけだった。
コーヒーを待つ間に左肩を回してみたら、痛みは引いていた。流石はクラウドだ。
彼女の淹れた絶妙に甘いコーヒーを飲み終えたころ、無情にも護衛隊召集のサイレンが鳴り響いた。
「先日の防衛戦の件だが…死傷者が思いの外多かった。おそらくは奴らの我々への対策が強化されているのだろう」
僕らの上官が昨日の戦果を報告している。僕は半ばそれを聞き流す。顔も覚えていないような仲間の死に、時間を割いて泣いてやる必要性は感じない。そう頭で理解している。そもそも僕は部隊のほとんどの隊員と深い関係を持たない。それぞれの死が仕事に支障をきたし得ることを僕が理解している証拠だ。
ただし、二人一組が原則であるために、僕らは最低でも一人とは接点を持つことになる。それはつまり、僕でいうところのサニーのような。勿論、僕らほど踏み込んだ関係を持つものは少ない、と思った方がいい。そもそも公私は分けるタイプが多い。
「それでは作戦開始は三十分後だ。至急、準備してくれ。では解散する」
僕がぼんやりしているうちに作戦確認が終わってしまった。
しまった。何も聞いていなかった。
実は、普段からこういうことは少なくない。というか多い。
同じ『母艦護衛隊』である、名も知らぬ仲間たちは一目散に発射台へと駆けていく。取り残されたのは二つの人影。勿論、一つは僕だ。もう一つは…、そう、彼女だ。
「また聞いてなかったんでしょう?」
あまりにも率直な物言いに僕はたじろいだ。なにしろ目の前には禿げ頭の上官がいて、こちらを睨んでいるのだから。しかも聞こえていたのだろう、唇の端を歪めている。
「それはそうなんだけどさ…。とりあえず行こうか?」
提案しておきながら、僕は有無も言わせず彼女の手を引いて、足早に召集ホールを出た。
僕らがホールを出るまで、上官の目からは不快光線が放たれていた。
今日の作戦は単純な母艦護衛だった。目的地は僕らの本拠地だ。ちなみに昨日は緊急の襲撃者殲滅作戦だった。
ただ一口に、単純、と言ってもあくまで比較の話ではあるのだが、ただ敵機を警戒し、疑わしきは撃滅すれば良いのだ。限られた資源を奪い合う際の、資本主義的計算に基づく高度な作戦行動を要求されないだけマシだ。
そう言った僕に、サニーは巨人に乗り込む前にこう告げた。
「それでも…油断はしないでね」
つまりは『死ぬな』と。
巨人に乗り込んだ後、いつも必要以上に話そうとしない彼女のことだ。無線越しにも言えることをあえて先に言っておいたのは、『いつも通り』を貫くためだろうか。
僕が笑って「当たり前だ」と答えると、彼女はすぐに巨人の胸部からコックピットへと滑り込んだ。
彼女の愛機には『VENUS』というコードが付けられている。流線形のパーツを多く用いた女性的なフォルムが特徴の、機動性重視の巨人だ。『戦女神』と言うべき風貌だが、そいつは兵器だ。だからその美貌は、幾度となく血と砲弾と油に穢されてきた。そしてそれはそのまま、積み立ててきた実績や戦果の数を意味する。
比べて僕の『RAIN』はまるで戦車のような武骨な風貌だ。『VENUS』に比べれば機動性に劣るが装甲は厚く、各種武装のバリエーションが豊かだ。それが『VENUS』の隣に並んでいるものだから、まるで女神を守る鎧の騎士のようにも見える。
「射出します。衝撃に備えてください」
無線によるアナウンスが響いた。
僕は慌ててヘルメットをかぶった。しっかりとロックをかけ、スーツとヘルメットを接続、そして密閉する。続けて手元のパネルを操作し緩衝液をコクピット内に注入する。コイツがないと、僕は急加速や爆発など諸々の衝撃でミンチにされてしまう。さらに、どういう理屈か知らないが、この液体はスーツを通して酸素を供給できるそうだ。だから僕らの装備に酸素ボンベは含まれない。
『メインブースター起動します』
人のそれとは違う無機質な音声が告げる。
僕らの射出装置は、装置そのものの加速に加えメインブースターによる加速を行う。それによって装置の小型化と驚異的な初速度を実現した。その速度は前時代の最先端戦闘機にさえ匹敵する…らしいが多分誇張だろう。
『射出します。五秒前、四、三、二、一。射出』
瞬間、僕の身体は強烈なGに晒される。僅かに息が詰まるが、スーツと緩衝液のおかげでどうにか呼吸はできている。
本当に一瞬で視界が開け、水平線だけがどこまでも広がる。
不思議なものだ。この海は放射能で汚染されている筈なのに、どうしてこんなにも僕の心を惹きつけるのだろう。もしかして、僕の身体には大航海時代の船乗りの血が流れているのだろうか。
「こちらサニー。機体は安定してるわ。北東へ向かいましょう」
「了解だ」
このままサニーと一緒に母艦から十キロ圏内を警備する手はずになっている。
僕は機体を北東に向け、ブースターを強めにふかした。
僕らの最大の敵は、母艦やコロニーを水面下から襲う潜水艦だ。潜航中の潜水艦の目視による発見は極めて困難。さらに、音波や電波による索敵もステルス技術の向上で事実上ほぼ不可能である。ゆえに難敵であることは疑いようがない。
しかし、それは発見するまでの話で、一度見つけてしまえば後はこちらのものだ。大量のミサイルや徹甲弾による飽和攻撃の餌食になるのは、もはや必然である。
だから僕たちはまず、対潜警戒を行う。それも目視で、だ。
先ほども言ったように潜航中の潜水艦はまず見つけられない。だが、潜望鏡での索敵のために浮上している潜水艦なら話は別だ。その程度の深度ならば、艦影を余裕で見つけられる。
僕の機体『RAIN』の複眼は視野角が大きいから広範囲の索敵に向いている。さらに、こいつには今日も秘密兵器が積んである。できれば使いたくないものだ。
「いまだ敵影なし、かぁ…」
ぼそりと呟いた僕を諫める彼女の声。
「警戒を怠らないで」
仕事スイッチの入った彼女は気高さすら感じさせる。
「作戦開始から何時間経った?」
警戒は怠らず、目を水平線に走らせながら尋ねた。僅かな沈黙。
「三時間よ」
「そうか。ありがとな、相棒」
「…気持ち悪いわ」
普段、特に母艦で、彼女に「相棒」だなんて歯の根が浮くような台詞は使わない。巨人に乗り込むとスイッチが切り替わるのは、僕も同じなのかもしれない。
「レイニー。何かの影が」
緊張感を含む声。身体を冷たい緊張が走る。見れば青い水面に薄暗い影が写っている。それもかなり大きい。
「敵影か」
「確認しましょう」
彼女は機体の機動力を生かして即座に近づく。そして…
「はあ…、ただの鯨よ」
流石の彼女も少し気が抜けたらしい。ため息交じりの報告は、ちょっぴり笑い出しそうな調子だった。浮上した鯨は暢気に潮を噴き上げる。その隣からは同じような一回り小さな影が浮上し…、ミサイルを撃ち出した。
―――潜水艦だ!
「対潜攻撃急げ‼僕はミサイルを落とす‼」
すぐに彼女は爆雷を撃ち込む。それらの多くが着弾し爆発した。大きな泡を生みながら、大きな艦影は海に消えていった。後にはただ黒い煙が立ち昇るだけだ。
僕は右手のライフルを構えた。だが、すでにかなり高い位置を飛ぶミサイルには届かない。飛んで行って撃ち落としてもいいが、ミサイルにはおそらく追いつかない。
・・・早速、秘密兵器の出番というわけだ。
僕は巨人の両肩に装備されているそれを起動した。
チャンスは二回。左右の一発ずつだ。再装填は間に合わない。
コンピュータがミサイルの軌道を予測。間違いなく母艦を狙っている。
ミサイルが放物線軌道の頂点に達した。
―――今だ!
引き金を引く。放たれた鋼鉄の砲弾はプラズマの尾を引きながら直進。ミサイルに一瞬で肉薄し、ミサイルを掠めた。敵ミサイルいまだ健在。
外した…が、まだだ。
間髪入れずに誤差修正された砲弾が放たれる。今度こそ砲弾は信管を抉り、ミサイルを撃墜。汚い花火を演出した。灰色の煙が静かに海へと落ちていく。
「レイニー、もしかして」
息をつく暇もない。なにしろここは戦場だ。だから、続く彼女の言葉は分かっていたことだった。
「敵潜水艦隊の存在が予想される。至急、増援求む!」
母艦への増援を要請した。これでしばらくすれば、対潜兵器満載の戦闘機が絨毯爆撃を行うだろう。問題は、それまでの足止めをしなければならないことだ。
「レイニー、エネルギー残量は」
サニーが問うた。
僕が先ほど使用した兵器の名は『レールガン』という。『電磁投射砲』とも呼ばれるこの兵器は電磁力によって磁性体の弾丸を射出する。その威力は凄まじいもので、大艦巨砲主義の賜物である大戦艦さえも一撃のもとに屠るという。しかしその反面、消費エネルギーも凄まじく、結果として巨人の活動時間を大きく削られることになる。
だから彼女は心配したのだ。
「大丈夫だ。まだ余裕はある。」
嘘だった。
残量は既に半分を下回り三〇パーセントに達しようとしている。
このままでは帰りのエネルギーが足りなくなる。それ以前に、この状態で敵の巨人に遭遇しようものなら…。「最悪」が起こらないことを祈るしかない。
「…分かったわ。対艦ミサイル、スタンバイ」
『VENUS』の両肩と背面に装備された四基十二門のミサイルポッドが、上空に向かって口を開いた。垂直ミサイルだ。上空まで一度上昇し、そこから目標を補足、追尾するように降下する。
僕もそれに合わせてポッドを展開した。
その直後のことだった。
海面が大きく波打ち、黒い影があたりを埋め尽くしたのだ。
影の正体は潜水艦。開いたハッチからは、僕らのそれよりもずっと高性能なミサイルが覗いている。それが潜水艦一隻当たり八門。掛けることの「沢山」。
これほどの物量で飽和攻撃をされてしまえば、その後は想像には難くない。
打てる手段は…、先手必勝だ。
「「ミサイル、全門斉射」」
打ち上げられたミサイル。それを狙う潜水艦の対空射撃は、捉えきれずに空を切る。
一定高度までミサイルが上昇していく間に、僕らはミサイルの再装填並びに次の行動を起こす。僕らの手持ちのミサイルでは、せいぜい半数を沈めるのがいいところだ。だから残りは「直接沈める」しかない。
ギャオウ、という獣の咆哮にも似た音とともに、僕らの機体は風に溶けた。同時に体には猛烈なGが襲い掛かる。
ブースターの噴射口からは鮮やかな青の炎が噴き出す。それが空中に三条二対の軌跡を描く。そして時折響く砲声が敵艦を沈めてゆく。
人間業ではない、と思う。
実際、僕の機体の正確無比な攻撃は、先ほどの『レールガン』も含め僕自身の力によるものではなく、『RAIN』に積まれた高性能コンピュータの演算機能によるものだ。そうでもなければ、超音速の動きをする機体から敵を確実に仕留めることなどできはしない。その筈だ。
それぞれが五隻ずつを仕留めるのにかかった時間は僅か十数秒。すでにミサイルは追尾を開始し、間近に迫っていた。…僕らを巻き込むほど間近に。
だが、あくまでも僕らは落ち着いていた。
瞬間、僕らの愛機はより一層の噴射炎を迸らせ、一気に加速した。先ほどに数倍するGが体に殺到する。視界の端が霞むようだった。
―――ブースターの超過負荷出力による急加速。通常より多くの燃料を消費し一瞬だけ音速を超える加速を行う。機体への負荷も大きく、当然、乱用はできない。
間一髪のところで爆撃の加害範囲を離脱する。
背後で連鎖的に爆発が巻き起こるが、今は後ろを確認できない。なにしろ、正面はいまだ黒い影が埋め尽くしているのだ。
僕らは背後から吹き付ける爆風を利用しさらに加速する。
「ミサイルの再装填は」
「もう終わってる」
僕は半ば叫ぶようにして答えるや否や、第二射を行う。狼煙を上げるように煙を噴きながらミサイルは上昇していく。潜水艦の対空射撃は虚しく空を切り続けている。
ふいに、上空から赤い光と薄い影が差した。
それらが、全ミサイルの同時被撃墜による爆炎と煙幕だとは、すぐには思い至らなかった。
立ち込める煙を引き裂くようにして黒い影が飛び出した。
そいつは亜音速の僕らを凌ぐ程の加速で僕に追いすがる。
巨人だった。
よく見ればそれは、実際に漆の黒に染まっていた。
容姿はサニーの『VENUS』にも似ているが、肩口や腕部から突き出した棘状のパーツが攻撃的な印象を与える。おそらくレーダーだろう。
さらに、機体のところどころに配置された紅い発光体が妖しさを醸し出す。
そしてブースターからは、火の粉なのか赤い粒子が漏れ出していた。
一言でいうなら、その姿は、残忍な獣だった。
僕は鳴り響いた砲声に我に返った。音源は漆黒の巨人の右斜め後ろ。『VENUS』だった。
彼女は僕を狙う黒の巨人をライフルで攻撃する。しかし、弾が当たる気配はない。互いに速過ぎてコンピュータの演算が間に合わないのだろう。
ほんの一瞬、注意が僕から逸れた。黒の巨人は極々僅かに軌道を右にずらしたのだ。
僕はそれを見逃さなかった。
僕は機体前面のブースターと、軌道修正用のスラスターを総動員して急減速を敢行。
反応が遅れた黒の巨人は僕のすぐ横を猛スピードで直線状に駆け抜け、ちょうど僕らに背を向ける配置となった。
エネルギー残量二十パーセント。
先手を打ったのは僕らの方だった。
ライフルの弾倉内の全弾を撃ち込む。残りのミサイルも全て黒の巨人に「直接」撃ち込んだ。
全弾命中。今日一番の爆発が巻き起こる。
あの巨人は何かがおかしかった。
そんな根拠のない感覚だった。
しかしそれは彼女も同じだったようで、彼女らしくない焦りを滲ませた声で「ライフル、リロード」と短く忠告をした。
沈黙。
いつの間にか潜水艦は姿を消し、波音だけが響く。
煙はいまだ、もうもうと立ち込めている。
サニーが突如、声を荒げた。
「レイニー‼直上‼」
刹那、一条の光線が『RAIN』の左肩を貫いた。
「――――‼」
―――今のは、一体なんだ⁈
僕はすぐに再加速した。左肩から先がそれと同時に海へと落下する。
どうやら装甲の薄い関節部分をやられたようだ。僕は唇を噛んだ。
僕の回避運動も虚しく、降り注ぐ光線が『RAIN』の機体に孔を開けていく。だが奇妙なことに、致命傷となる部分の損傷だけは免れていた。
時折、サニーのライフルが黒の巨人を掠めるが、巨人の狙いはあくまでも僕のようで、彼女には目もくれず執拗に追いかけて来る。
エネルギー残量十パーセント。
「――――まれ…」
前触れなく、ノイズ混じりの音声が耳に突き刺さった。
「―――止まれ」
年端もいかぬ少女のような、澄んだ声だった。また、澄みきった殺意だった。
少なくともサニーのものではない。では誰が・・・。
「お前は…誰だ…っ‼」
「レイニーどうしたの⁉」
片腕を失った愛機の姿勢制御に神経を擦り減らしながら、今にも詰まりそうな喉から言葉を絞り出す。サニーには無線がうまく聞こえていないのか、状況を把握しきれていない。
顔も見えない誰かは答える代わりにこう言った。
「大人しく従えば命は保証する。止まれ」
僕は気づいた。奴だ。あの黒い巨人のパイロットだ。
そのとき、僕はきっととても苦い顔をしたに違いない。それが相手に舐められていることによる屈辱のせいなのか、相手の圧倒的優位に対する敗北感によるものなのか。或いは、その両方か。少なくとも、僕らの無線をジャックできる技術に驚きを禁じ得なかったことは事実だった。
僕は迷わず反駁した。
「ふざけるな…!止まるならお前の方だ!」
たとえ死ぬとしても、その時はお前も道連れだ。
それに僕らにはまだ最終兵器が残されている。
あからさまな舌打ちが聞こえた。
「もう知らない」
そこに人の感情は感じられなかった。あるのはやはり透明な殺意だけだった。
ブツン、と耳障りな音を立てて無線は一方的に切られた。
背後に迫る黒の巨人は三つの鉤爪で構成された手をいっぱいに開く。その掌の中心にはひときわ明るい紅の結晶体が埋まっていた。一目で尋常でないエネルギー収束を見て取れた。
終わりを、覚悟した。
が、しかし、空を裂く耳鳴りのような高音で状況は大きく変わった。
「こちら対潜部隊、敵の巨人を確認!支援攻撃を行う‼」
先刻、僕らの要請した対潜航空部隊。これこそが今の僕らの最終兵器だ。響く高音は超音速のジェットエンジンのものだ。これほど頼もしい耳鳴りはないだろう。
対潜、と一口に言っても、積んでいるのは自動追尾型の対艦ミサイルだ。潜水艦はおろか戦艦の船腹にさえ孔を開ける。巨人ならばもはや言うまでもない。
不意打ちだった。
黒の巨人が音に気付いて動きを止めた次の瞬間には、複数のミサイルが着弾。盛大な破砕音とともに、黒の巨人は今日の記録を更新する爆炎に包まれた。
黒い煙を尾に引きながら、海に落下し大きな飛沫を上げたのは間違いなく黒の巨人だった。
おそらくミサイルはブースターを粉々にし、衝撃波で中枢系の回路を物理的に破壊したのだろう。敵機は今度こそ完全に沈黙した。
「…敵機、沈黙を確認」
緊張の中に安堵を溶かして、サニーは囁くように報告をした。
巨人の爆撃後、速やかに対潜攻撃に移った航空隊は、そのまますぐに母艦へ帰投した。それと入れ違いになるように大型の輸送ヘリと救助ヘリが駆け付けた。
研究対象として黒の巨人を回収するためだ。
僕らはボロボロの機体で(本当にボロボロなのは僕だけだが)、沈みゆく黒の巨人を予め引き揚げておいた。驚くべきことに、黒の巨人は未だにブースター以外の原形を留めていた。見た目以上に堅牢な機体だったらしい。僕らのミサイル一斉射に耐え切ったのも頷ける話だ。
ふいに、パイロットらしき「少女の声」が思い出され、頭をよぎった。
常に一歩遅い反応。それはまるで、玩具に夢中な子供のようだ。
いっそ清々しいほどに純粋な殺意。それはある種、無邪気であるとさえ言える。 虫の羽を笑顔で引きちぎる幼児のそれだ。
その思考は僕に残酷な想像をもたらした。僕は頭を振ってその想像を振り払った。
雲の間から垣間見える日はまだ高い。
大した怪我もなく、いろいろと「面倒」を済ませた僕は、徒然なるままに甲板に出ていた。
水平線を眺めながら潮風に当たっていると、だんだんと意識が遠退いていくような心地よい錯覚に襲われる。その錯覚の中で、先ほどの「面倒」のことをぼんやりと考えた。
「お疲れさま」
そんな中、潮騒に混じって聞こえたサニーの声に、僕は顔だけでゆっくりと振り向いた。
彼女の背後から差し込む夕日が眩しくて、僕は思わず目を細める。
「ああ、サニーこそ。お疲れさま、だね」
労いの言葉にふっと微笑むサニーに、一方で僕はぎこちない笑顔を向ける。
「あの黒い巨人のことでしょう?」
僕の心を読んだかのように、彼女は問いかける。
僕は思わず吹き出してしまう。
「アタリでしょう?」
「流石だね」と、僕は答えた。
本当のことを言えば半分はハズレだ。けれどサニーに妙な気を遣わせる訳にはいかないから、それは黙っておくことにした。
「あの巨人、執拗にあなただけを狙っていたわ。気づいてた?」
「ああ。きっと僕の足が遅いからだろうね。もっと鍛えようかな」
サニーは笑みを零した。
僕のつまらない冗談にさえ彼女は笑ってくれる。疲れている僕のことを気遣ってくれているのだろうか。彼女の方も疲れているだろうに。その優しさが心に染み入った。
「…黒の巨人は初め、『RAIN』を破壊しようとしなかった。それは何故かしら」
少しの沈黙があって、再び彼女は尋ねる。
そういえば、あの少女は僕に「止まれ」と言った。僕の愛機を傷つけこそすれど、致命傷を与えることはなかった。それは…―――
「レイニー、あなた、狙われているのよ。どこの誰とも知らない輩に、ね」
まさか、と思った。そもそも狙われる理由が見当たらない。恨みならどこでなりとも買っているし、そもそもこちらの素性が露見するようなことはなかったはずだ。しかし、僕の両の眼を貫く彼女の真剣な眼差しからは、何か根拠があるように思えた。
「…ぷふっ」
サニーが口元を抑えてプルプルと震え始めた。そこで僕は察した。
「冗談に決まってるじゃない。馬鹿ねレイニー」
悪戯っぽく彼女は笑った。
「そもそも捕虜にする以外考えられないでしょうに。誰でもよかったはずよ、どうせ」
僕はまた遊ばれていたのだ。よく考えてみれば分かることだったのに。
思わずため息をついた僕を見てサニーはまた笑った。まったく、悪戯好きなこの女をどうにかして欲しいものだ。
「まったく…覚えてなよ」
そう言いつつ緩んでいく頬を、僕は隠しもしなかった。
しかし、ふと覗いた彼女の顔は真剣さを取り戻していた。思わず僕までもが真顔になる。
「パイロットは、生きていたのかしら…」
一応は僕に向けて、彼女は呟く。
「…さあ。まあ知らなくていいことじゃないかな」
僕は柵に背中でもたれ掛かりながら、そうお茶を濁した。罪悪感のようなドロリとした感情が胸に満ちた。
また少しの沈黙の後「そうね」と彼女は納得したように呟いた。
もう日が暮れる。
まだ少し甲板に残る、と言うサニーを残して僕は割り当てられている自室を目指す。
パーカーの隙間から忍び込む潮風がひんやりと冷たい。
今夜は少し冷え込みそうだ。
今夜はサニーが一緒ではなかったから、僕は夕飯をオニギリと少しのおかずで済ませ、ベッドに転がり込んだ。そして部屋を満たす冷気から逃げるように布団を頭からかぶる。
しばらく眼を瞑り、柔らかな闇に身を投じていた。
今日は疲れた。色々と大変だったから。
身も心も疲れ果ててしまうことなど日常茶飯事なのだが、今回だけは少し話が違う。
甲板に出る前に済ませた「面倒」。それこそが、今の僕を蝕むものの正体だ。
僕は布団に包まったまま寝返りを打った。そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「レイニー、居るかしらぁ?」
間延びした語尾と低い声。クラウドだった。
「鍵は開いてるよ。入って」
僕はベッドから抜け出して照明を点け、クラウドを出迎えた。
きっちりとアイロンがかけられた白衣。丁寧に整えられた髪。厚めの化粧。右手にはクリップボード。左手には…魔法瓶のポット?
「こんな時間にどうしたんだい?」
率直な疑問をぶつけてみた。すると、彼は口元だけで笑って見せた。
「カウンセリングの時間よ」
「面倒」の後、足を運ぶのが億劫になって、怪我の一つも診せに行かなかったことを思い出した。一応、作戦後の診察は義務だ。
つまり僕のせいでクラウドは手間が増えてしまったことになる。
「ごめんよ。手間をかけさせてしまって」
「気にしないでいいのよぉ?あたし、世話を焼くのが好きなの」
口元を抑えて彼は笑う。そこに嘘や誤魔化しの意図は見受けられなかった。
僕が椅子を勧めると、クラウドは「ありがと」と一言礼を告げてから座った。その様子に、どこかの令嬢みたいだ、と思った。
「そのポットは?」
小さなテーブルの上に置かれた小さなポットを指しながら尋ねた。クラウドは白衣の両のポケットから、白無地の小さなティーカップを二つ取り出した。
「ハーブティーよぉ。アブナイ薬は入ってないから心配しないでちょうだい?」
「そんなつもりで言ったんじゃないさ」
少し斜め上の方向に解釈されたようで、僕は軽い弁明をせずには居られなかった。なんだか僕が彼を信用していないみたいじゃないか。
「さて、レイニー?あなた、隔離房で何かあったんでしょう?残さず吐きなさい」
僕がカップのハーブティーを飲み終わった頃。クラウドはしっかりとこちらの眼を見据えて、静かに、けれど強い口調で尋ねた。
いきなり核心を突く一言に思わずむせそうになるが、既にカップと口の中は空っぽだ。
「誰に聞いたんだ?」
「あたしたちは担当患者たちのことを知る義務があるのよ。効果的なカウンセリングのためには、人格を把握しなきゃいけないから。ま、あたしは軍医なんだけどねぇ」
意訳すれば、僕の上司―――つまりあの禿げの上官あたりに聞いた、ということだろう。
「そうだったね。…どこから話したものかな」
そう言いながら僕は、思い出したくもない「面倒」のことを思い返した。
母艦に帰投してから、僕とサニーは例の上官のところへ報告に向かった。まだ日が暮れるまでにかなりの時間があったと思う。
今回の作戦で、敵の巨人パイロットらしき人物と接触したことを伝えるべく、僕はサニーに先に行くように告げ、一人、司令室に残った。彼女に敢えて伝える必要はないから。
あの禿げの上官は僕の報告を聞いてから暫くの間、何も言わずにいた。聞いた瞬間には驚いたような顔をしていたけど、反応はそれだけだった。
やがて彼はおもむろにこう言った。
「そのパイロットに会ってみたいか?」
それに僕は反射的に「はい」と答えてしまった。僕は後に後悔する可能性を忘れていた。まさかとは思うけれど「意図的に」そうしていたのかもしれない。そうでなくても僕は、少女の声の正体を知りたい、という恋にも似た好奇心を抑えられなかった。あってはいけない想像が正しいことを願って、僕は大いに興奮したものだ。今ではその時の僕を殴り殺してやりたいと思っている。
とにかく、肯定の意を示した僕を上官は隔離房の集中治療室に連れて行った。
そこで見たのは、あの黒い巨人とは似ても似つかない、むしろ対照的な透き通る白をその肌に湛える…―――幼気な少女だった。いくつものチューブに繋がれ、浅い呼吸を繰り返す。目のあたりは包帯で巻かれ、微かに血が滲んでいる。きつく締められた拘束具がその柔肌に食い込んでいるさまは、背徳や非倫理を訴えかけていた。
「彼女があの漆黒の巨人の――『巨神』のパイロットだ。仮コードは『SNOW』」
絶句。
それは背徳の権化。
それは世界の残虐性。
それは…―――それは目を背け続けてきた現実。
いわば、僕らの平和の代償だった。
「レイニー。お前が今までに破壊してきた巨人のパイロットが、皆が皆このような者であった訳ではない。そこだけは履き違えるな」
慰めのようで実際に慰めであるその言葉が僕に安息をもたらすことはない。ただ僕は目の前の光景から目を離せなかった。
目の前には、僕が摘みかけた若い命が横たわっている。後に聞いた話では、なぜ生きているのかもわからないほど内臓はグチャグチャ、骨もボロボロ、おまけに一度も意識が戻っていないそうだ。
分厚いガラス越しの少女は死の淵でまどろむ。その寝顔は苦痛に歪んでいるようにも見えた。彼女を悪夢から解放してくれる王子様は、きっとこの世界には居ないだろう。
「彼女のうなじを見てくれ。白っぽいものが見えるだろう。あれは巨神と神経を直接繋ぐための機械だ。生体と完全に癒着、同化している」
痛みに耐えるかのように押し殺した声。その声の主が隣の上官のものであることに、一瞬だけ気づけなかった。過去に偉大な戦果を挙げた彼もまた、非情な機械では在り得なかった。
そんな上官の姿を目の当たりにしながら、一方で僕の中身は急速に冷えていった。僕の沈黙は、嫌悪感は、僕の中身に対するものだった。その事実が僕の中に深い影を落とす。
僕の沈黙を受けて、上官は続く言葉を紡いだ。
「おそらく、生後すぐにあの器具を植え付けたのだろう。あの器具は人骨の組成に近い。最新の技術とみて間違いないだろう。だからこそ彼女はまだ幼い」
もはや驚きはない。効率を、敵をいかにローコストに殺すかを突き詰めれば、いずれは辿り着く結論。『生まれながらの兵士の生産』。それを実行するのに必要なものは、既に技術ではなく、倫理の放棄なのだ。人としての生存をかなぐり捨て、生き物としての生存を望んだ結末。むしろ僕自身、納得してすらいた。
―――それゆえの、苦痛。
なぜ僕はそれを是とできるのか。僕の内に潜むこの残虐性はいったい何なのか。僕の内で足掻く人間性が問い続ける。答えはない。歯痒かった。
僕の苦悶の表情を履き違え、上官は言った。
「私も、彼女のような存在を産み出してしまうような、何処の『クニ』だか知らん連中が憎い。いつか我々がこの悲劇を止めなければ」
決意を新たに上官は部屋を出た。背後で自動ドアの閉まる音がした。
それを聞き届けてから、僕は大いに笑った。それは嘲笑に他ならなかった。
「―――なるほど、ねぇ…」
クラウドは最後のハーブティーを飲み干すと、緊張を解くように深い溜息をついた。
僕が見つめるカップの底には薄茶色のハーブの粉末がこびり付いている。
「あなたは自分の世界だけを守ろうとしている。自分の周りだけを守ろうとしているんじゃないかしら」
ぽつり、彼が言う。真顔で、重々しく。
「でも、気にすることはないわ。普通のことよ」
「普通、なのか…」
撃たなければ、戦わなければやられていたのは事実だ。僕たちはそういう世界に身を置き、縛られている。自分の手が届く範囲しか救えないことは僕自身理解しているし、敵であれば容赦はしない。だがそれでも。それでも、幼子の命を平気で奪えるような人間ではない、と信じたかった。
「あなたは一度、休暇を取りなさいな。上に言っておくわ」
それはおそらく、僕自身でも考えうる中で最善の案だった。どのみち『RAIN』はコロニーでの長期の修理が必要だ。その間、僕に仕事はない。
「…そうするよ」
「もちろん、サニーも一緒に、ね」
「…なんでそこでサニーが出てくるんだい?」
「…気持ちは伝えておくべきだと思うわ。あなたたちにそれなりの事情があるのは分かってる。でもいつ死ぬかわからない戦場だからこそ、自分に正直になるべきじゃないかしら。後悔した時にはもう遅いのよぉ?」
最後には微笑をたたえながら、彼は言った。すべてお見通しのようだ。
しかし彼の言うことを全面的に是とすることはできなかった。
「考えとくよ」
そうやって茶を濁すので手一杯だった。
去り際、クラウドは「あなたの話、一応、上には黙っておくわねぇ」と言い残していった。彼なりの心遣いなのか、僕はそれに感謝しておくことにした。
クラウドが部屋を出て行ってから少しして、上官から僕の部屋のラップトップPCに、僕宛の電子メールが送られてきた。内容は「コロニー到着後、二週間の休暇を与える。またコロニーへの帰途においても休暇とする」というものだった。
メールを確認してから暫くの間、僕はただぼんやりと天井を眺めていた。どれくらいそうしていたのかは分からない。だがドアをノックする音にハッと我に返った時には、もう日付は変わる寸前だった。
「レイニー、居る?」
聞きなれたサニーの声。心配の色を色濃く帯びた、とても優しい声だった。
後悔先に立たず、か…。
クラウドの言葉を思い出す。
サニーの声に覚えた安堵は、僕に自嘲をもたらし、さらにもう一つの気付きを与えた。それは自身では押し殺し、無いものとしていた筈の感情。気付いているのに気付かないふりをしていた感情。改めて気付かされたものだ。
「居るよ。入って」
返事をするや否や彼女はするりと部屋に入り、そして後ろ手に鍵を閉めた。右手に紙袋を抱え、優雅さすらも漂わせるように僕に歩み寄った。
「ダメじゃない、鍵。開けっ放しは良くないわ」
悪戯っぽく笑いながら僕を叱る彼女は、そのまま僕に背を向けて紙袋をテーブルに置いた。紙袋からは何やら香ばしい匂いが漂っている。
「クラウディから聞いたの。夕飯、きちんと食べてないんでしょ?」
そういって彼女は袋から小ぶりなパンを取り出した。冷め切ったはずのパンからは未だに食欲を刺激する芳香が放たれている。
ふいに、ある欲求が心を支配した。
それは食欲にも似た『渇き』を持つ。
それは今日という死線を潜り抜け、危うくも摘み取りかけた命を知ったことによる欲求だった。
―――後悔先に立たず。
その言葉がまた脳裏を過った。
僕はそっと彼女に近づく。パンを取り出している彼女の背後から、僕は彼女を抱き締めた。右腕を首から左肩に、左腕をお腹から腰のあたりに回す。
彼女の肩が一瞬、ピクリと跳ねた。そして僕の右腕にそっと触れながら囁く。
「…どうしたの、レイニー?」
慈悲。聖母のような慈悲を帯びた甘い声が聴覚を愛撫する。
「サニー…僕は…」
声が震えているのが分かった。頭は冷静なのに、たった五文字の言葉はちっとも出て来ようとしない。ただ抱き締める力ばかりが強くなり、彼女が少し苦しそうに身じろぎする度に、柔らかい感触が思考さえも溶かしていく。
少しの沈黙の後、聖母はまた囁いた。
「明かり…消してくれるかしら…」
僕は何も言わず彼女を離し、明かりを消した。
言えなかった。僕は臆病者だ。言葉にすることで変わってしまう関係ゆえに、自分の身の可愛さゆえに、想いを伝えることを僕の心は拒んだ。どこまでも合理的な機械のようだった。それを否定し、忘れようとして、僕は本能に身を委ねた。
夜は更け、雲のない空には漆黒の月が昇る。不気味なほどに静かな闇夜を、ただ極小さな星々の光だけが照らしていた。
《第二章》
かつてない死線を潜り抜けたあの日から三日ほどかけ、僕たちは本拠地たるコロニーに到着した。直径百キロ超の巨大な円形の浮島。鋼鉄の海上要塞。俗に『メガフロート』と呼ばれる代物である。特別な名前はなく、ただコロニーと呼ばれ、周辺では数隻の戦闘艦が哨戒を行っている。その多くは大艦巨砲主義の産物たる戦艦だ。複数基の連装砲による弾幕は巨人や敵母艦に対して有効であることが実証済みだ。赤外線誘導ミサイルのように囮の熱源で誤魔化されないのが強みなのだ。
コロニーに着いてから、母艦『NOAH』は各種物資の補給を行う。僕の巨人『RAIN』もそれに合わせて運び出されていく。これから本格的な修理・改修を行う予定になっている。僕は家には戻らず、愛機を追ってコロニーの工廠に直接向かった。ちなみに工廠のある工業区は、コロニーの円の中心に位置する。
乗り込んだ工業区画行きの回送バスの車両、その車窓から見える風景はどれも薄汚れた白に染まり、空の青色のせいで余計にくすんで見えた。耐食加工されたコンクリート製住居ビルの色なのだが、どうしても気分が落ち込む気がする。僕は嫌いだ。
「相変わらず陰気な場所ね、ここは」
隣でため息混じりに呟くのはサニーだ。僕の休暇に合わせ、バディである彼女にも休暇の命令が下っていた。それで暇を持て余した彼女は僕についてきたのだ。
僕には一つ気掛かりなことがあった。いつもは特別な用事さえなければ別行動をとる僕らだが、今日に限っては彼女がついてくる理由がわからないことだ。ただ「暇だから」では説明にならない。
彼女といると心にゆとりができる。それは、長い間作戦を共にしてきたことだけに由来するものではないだろう。だから彼女が僕についてくること自体は問題ない。何より、今の僕にはそれはとてもありがたい。しかし、彼女にも家族や友人がいるはずだ。もし彼女に妙な気を遣わせているのなら、それは僕にとってとても忍びないことだ。
「サニーは家族とか友達には会いに行かないの?」
「…え?」
弾かれたように僕の方を見るサニー。
―――しまった。
数秒遅れて、今まで敢えて踏み込まなかった領域に踏み込んでしまったことを悟った。相手のことを深く知ることは避けていた筈なのに。
周囲の喧騒ばかりが嫌に耳についた。長いようでおそらく一瞬だった沈黙が過ぎ、彼女は戸惑いながらも口を開いた。
「…私の親は、家族はいないの。物心ついた時には孤児院にいて…。友達も、今はもう会えないの」
聞かなければよかった、と後悔した。もしかするとあの少女、『SNOW』を目の前にした時の後悔にも匹敵するほどの後悔だった。僕はまた、不用意な発言で、好奇心で、傷つき、傷つけてしまった。
「悪いことをしたね、すまない…」
彼女は僕の謝罪に、申し訳なさそうな笑顔で「いいのよ」と返した。
暫くの間、バスの静かな走行音と車内の喧騒だけが僕らの間に満ちていた。
僕はその間ずっと、あることを話すべきか迷っていた。
「サニー。罪滅ぼし、って訳じゃないんだけど…聞いて欲しいんだ」
真剣な顔で、彼女の瞳を見つめた。そこに移る僕の顔にはまだ迷いの色が浮かんでいる。
「…聞かせてくれる?」
一呼吸置いて、彼女もまた真剣な表情で頷いた。
「僕は…、僕には…小さい頃の記憶が無いんだ」
今から話そうというのは、僕の過去の話。きっと「後腐れのない関係」にはおよそ必要のない話だ。
彼女の表情は変わらない。ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。
それを見て、僕は言葉を紡ぎ続けた。
「記憶があるのは…多分、十歳くらいの頃から、かな。気付けば僕も孤児院に居て、よく一人で本を読んでたのを覚えてる。不思議と、文字の読み書きはできたし、言葉は話せた。だから何かのショックで言語以外の記憶だけ飛んでしまったんだろう、って医者は言ってた。…そんな僕を他の子は怖がってたし、僕も他の子とは馴染めなかった。でも、一人だけ、母のように接してくれた人がいた。施設の大人だったけど、僕の遊び相手になってくれたその存在は、かけがえのないものだったと思う。その人のおかげで少しずつ、本当に少しずつ、僕は周りと打ち解けることができた。…大切なものがたくさん出来たんだ。でも、僕が十五になった年の冬に、火事が起きた。僕を除いた全員が、そこで焼け死んだ。崩れた瓦礫も相まって、遺体の区別もつかなかった。当時の貧乏人の家は木造の建物が多かったからね…、僕の孤児院もその例には漏れなかった。結局、僕は着の身着のまま放り出された。大切なもの全てを失ったんだ。……でも僕は……」
どうしてこんなに口が動くのか、どうしてこんなに話す気になれたのか、僕には不思議だった。でも、僕は続く言葉を口にできず黙り込んでしまった。サニーの方を向いていた顔はいつの間にか俯き、苦痛に歪んでいた。しかしその頬には、ほんの一筋の涙もないのだ。…あの時と同じように。
不意に、彼女が僕の肩を抱き寄せた。
程よく引き締まった柔らかい感触が僕の顔を包み込む。ハーブのような甘い香りがした。それは僕の脳に到達すると、軽い酩酊のような安らかさをもたらす。
「レイニー。孤児院で育ったなんて、私たち、お揃いね」
普通なら。普通なら、不謹慎極まりない発言だと思うはずだ。だがその言葉は、どんな慰めの言葉よりも僕を救ってくれた。
「ははっ…サニー、こんな時に言う台詞じゃないよ」
僕の顔には微笑が浮かび上がった。それを見てサニーも微笑んだ。
『次は工業エリアA-1です。お降りになる方は荷物の置忘れにご注意ください』
次の駅を知らせるアナウンスが喧騒の中に響いた。入り口を目指して人混みを掻き分けて進む労働者が目立つ。僕らも降りなければ。
「行きましょ」
サニーがその白い手で、僕の手を優しく引いた。
「ああ、行こうか」
僕はそれに応え、立ち上がった。そして彼女の先に立って、ごった返す人混みの中に歩みを進めた。
先刻の苦痛は既に忘れ、ただ僕は「通勤ラッシュのバスに乗るのはやめておけばよかった」という益体も無いことだけを考えていた。
薄汚れた剥き出しのコンクリートでできた道を歩くこと数分。目指す先に見えてきたのは艶のない白の金属製カマボコたちだった。勿論それはカマボコではなく、僕らの目的地たる工廠だ。それらは、周囲の濁った灰色の工場と比べると明らかに浮いていた。
僕は携帯端末を使って、そのカマボコたちの中から『201』とペイントされている筈のものを探し出し、そこを目指して歩き出した。あと十分は歩くだろう。
ふとサニーを見ると、彼女は立ち止まって黒煙の立ち昇る空を見上げていた。
「どうしたんだい」
僕が尋ねると、僕の方へ小走りに走り寄ってきた。
「雲が増えてきたわ。雨が降るかも」
言われて空を見ると、黒煙に混じって、コロニーの多くの建物と似た灰色の塊が浮かんでいた。雲は低く垂れこめ、こちらに向かっているように見える。
「降り出す前には着くよ。急ごう」
工場への通勤者の群れの中、歩くペースを速めつつ僕らは工廠へと向かった。
道行く人々は、放射線汚染環境下でも何の気負いもなく平然としている。それは遺伝子操作の賜物でもあり、長い年月をかけて放射性物質がそれなりに減少したためでもある。しかしそれでも、被曝によって癌の発生率は著しく高い数値を示し、平均寿命も短くなりつつある。現在では男女ともに六十歳ほどだ。かつての先進国に比べればかなり短いと言え、発展途上国ならば長い方だと言えるだろうか。
そんな彼らは特殊な金属繊維を織り込んだ特殊な衣服を着用している。見た目には洒落た格好にしか見えないが、実際に多くの放射線をカットできているらしい。健康意識の高い人だと、マスクや帽子なんかも着けるそうだ。今もちらほらと見受けられる。
その特殊な衣服を着用しているのは僕らも同じ。ただしマスクや帽子は着けていない。
着心地はまあ悪くないかな。七十点くらいだろう。すこしゴワゴワしているのが気に入らない。まるで質の悪い木綿のようだ。
通行人もいよいよまばらになり、僕らは工廠に辿り着いた。独特のオイルや金属の匂いが辺りに充満している。
カマボコの側面、半円状になっているところに入り口はあった。重厚そうな鉄扉が仁王像めいて立ちふさがる。
僕はポケットから取り出したIDカードを扉横のスリットに通した。ぴぴ、という電子音の後、扉が重々しく横滑りに開いた。
『レイニー・ブルード。認証しました』
同時に電子音声が告げ、僕は鉄扉の奥に進む。
油の匂いが途端に強さを増し、響く騒音に耳を塞ぎたくなった。
高さは裕に十五メートルを超える、横倒しになった半円柱状の空間。天井にはクレーンの移動用レールが張り巡らされ、実際に幾つものクレーンが忙しく動き回っては様々な形状のパーツを運んでゆく。作業員は『ANT』と呼んで尊敬の意すら抱いている…、と、サニーが言っていたのを思い出す。その作業員たちはしきりに何かを叫んでは、忙しなく動き回る。
認証を済ませたそのサニーが後から追い付いてきた。
「これは耳栓が必要だったかしら」
片耳を塞ぎながら、辟易とした表情でサニーは言った。五月蠅いのは嫌いらしい。
「そうかい?案外、いいもんだと思うけどなあ」
「え、何か言った?」
一方で僕は案外、こういったものは好きだったりするのだ。
大声を張り上げて聞き返した彼女に、微笑みで「なんでもない」と返す。
左右の壁沿いに目を走らせると、キャットウォークを張り巡らせた五枠二列の作業スペースの一つに、見慣れた影を見つけた。右列の奥から二番目だ。僕がサニーに指差しでそこを示すと、彼女は「心得たり」と大きく頷いた。
轟く騒音の中、僕らが歩み寄った影は勿論、僕の愛機『RAIN』だ。
大きな布を掛けられた僕の愛機は、いまだに左肩から先を失っていた。
掛けられた布のせいか、なんだか霊安室の遺体染みていて僕は極僅かに眉をひそめた。
「んん?あ、レイニーさんじゃないッスか!」
騒音に負けじと大声を張り上げながら、背後から男が近づいてきた。僕はその軽薄な口調に、振り向かずともその正体を確信していた。それ以前に、僕の知る限りこんなところで僕ら――特に僕――に話しかけてくる人間など、もはや数えるほども居ないのだ。
「あら、久しぶりね、シグレ?」
「どうもッス、サニーの姉御!今日も綺麗ッスね!」
「ふふ、褒めても何も出ないわよ?」
「あー、久しぶりだね、シグレ」
この前世紀のチンピラみたいな、薄青色のつなぎの男はシグレという。言動通りの軽薄さを持つが、巨人の修理・改修においての実力は折り紙付きだ。この工廠でいくつかの巨人の整備を受け持っていて、僕とサニーの愛機も担当してくれている。
…どうして凄腕の連中に限って、何かしらの問題があるのだろうか。もはや遺伝子レベルでの問題なのでは、とさえ思えてしまう。
「ああそうだ。すいません、レイニーさん。巨人、まだ到着したばかりなんスよ」
ぺこりと頭を下げるシグレ。素直に謝ることができるあたり、なんとも憎めない男だ。
「問題ないよ。それよりアレは何だい?」
そう言って僕は『RAIN』のさらに奥、浅黒い布に包まれ「KEEP OUT」と書かれたテープで縛り上げられた物体に目をやった。工廠の隅に在ってなお、その存在感は異様だった。そして僅かな既視感を抱く。
「アレは…『巨神』ッス」
僕は息を呑んだ。
サニーは何の事だか分かっていないのか、首を傾げている。
「巨神っていうのは…」
僕は思わず確認せずにはいられなかった。
「そうッス。お二人がやりあったっていう…あの黒いやつッス」
サニーは驚きの表情を浮かべ、僕は目を見開く。
別にどんな理由があったわけでもない。ただただ、戦慄したのだ。刻み付けられた異次元の黒い暴力が、細胞レベルでの恐怖を僕らに想起させた。
「今、動力の供給機関…要はエンジンなんスけど、それは取り外されて、研究棟で調べてるらしいッス。だからアレは文字通りの抜け殻みたいなもんッスよ」
心配しなくても襲ってきたりしないッスよ、と最後に付け足してからシグレは笑った。
「でもなんでこんなところに…」
乾き始めた喉に唾を引っ掛けながら問う。
「置くとこ無かったらしいッスよ。ま、一応、武装もここで解体する予定にはなってるんスけど」
事もなげに言い放った。
戦利品をそんなぞんざいに…、いや、割と日常茶飯事のことだった。工業区画はそこまで広くはないため、戦利品を妙な場所に仮置きすることが多いのだ。
なんだか馬鹿らしくなって、僕は考えるのをやめた。隣ではサニーが苦笑じみた溜息をついた。
「そんなことよりレイニーさん、『RAIN』のことなんスけど」
「ん、どうしたんだい?」
急に深刻な表情を作るシグレに、僕は一瞬たじろいだ。十分な間を取ってから、シグレが切り出した。
「動力系の負荷が許容量を大幅に超えてたんス。おかげで機関周りは全滅ッスよ。回路もやられてました。左腕も失くしてますし。…何が言いたいか分かるッスか」
「い…いやあ…ははは」
鬼気迫る形相で迫るシグレの顔面から逃げるようにして、僕は上体ごと顔を後ろに反らせる。
「ほとんど作り直しなんスよぉーーー!」
僕の肩を掴んで前後に激しく揺する。そんなシグレの顔は今にも泣きだしそうだ。
「そりゃあ危険な状態だったのは分かるッスよ!でもどうやったらここまで壊せるんすか!機関の予備なんて昨日で切らしちゃいましたよ!作ろうにも資材は許可下りないし…」
「…本当に申し訳ない」
僕はもう謝るしかなかった。傍観しているだけのサニーは苦笑。
僕らはこの後も散々愚痴を聞かされた。途中でシグレの話が脱線して、最近、彼女にフラれたことを知った。もしかして、それで機嫌が悪いだけなんじゃ…。
「…とにかく、その辺はどうにかしとくッス。次からはできるだけ無茶させないで下さいよ」
そう釘を刺されては、やはり頷くしかない。
いい加減に愚痴も尽きてきたのだろう。シグレは文句を吐くのをやめ、「じゃ、一週間後にまた来てくださいッス」と言い残して走っていった。僕は返事もできず、ただその背中を見送った。
「ま、仕方ないわよね」
僕の肩に、ぽん、と白い手が置かれた。
「うわ、降ってきたね」
ぽつぽつと、控えめな雨が鉛の空から降り始めた。
回送バスの窓を申し訳なさそうに濡らす雨を、僕とサニーの二人は車内から見ている。まだ正午を過ぎておらず、バスの乗客はまばらだ。僕らは、そのバスの最後尾の席に座っていた。
「傘、持って来てたっけ?」
サニーが重要なことに気が付いた。そう、僕らは傘を持って来ていない。不覚だ。
「バス停の傍に何かのお店が在ったはずだよ。そこにでも避難しようか」
「そうしましょ」
『えー、次は商業エリアC-3です。お降りの方はお荷物をお忘れなきようご注意ください』
会話を遮ったのは運転手のアナウンス。義務的な無機質さにマイク越しのノイズが拍車をかける。
僕は短く確認する。
「次だね。…靴紐」
「結んでるわ」
「荷物」
「端末だけ。ポケットよ」
「よし行こう」
二人並んで降り口に立つ。乗車料金は既に支払いを済ませてある。
バスが徐々に減速し、少しだけ身体がふらつく。
ぷしゅ。
扉が開くや否や、僕らは我先にと大降りになった雨の中へと飛び出した。
例の店までは直線で二百メートルほど。十五秒も要らないだろう。
僕らは笑いながら走った。水たまりに足を突っ込み、ときには足を滑らせながら、競い合ってただひたすらに走った。
店に辿り着いてから、途端に恥ずかしくなった。
子供みたいにはしゃぎながら店に飛び込んだ僕らを、客や店員の視線が突き刺したのだ。なにしろここはバーだ。静かに酒を飲む場所である。そこへ飛び込んだ僕らは否応なしに目立ってしまった。
びちょびちょに濡れた僕たちに、笑顔の店員が厚いタオルを貸してくれた。
「…何やってるんだろうね、僕たち」
「言わないでちょうだい」
赤面しながら、僕らはカウンターで注文したバーボンを煽る。喉が焼けるような感覚に脳が痺れる。同時に腹の底から全身がぽかぽかとしてきた。
「雨が止むまで、呑んでいようか」
今度はつまみと一緒にショウチュウを一杯、注文する。サニーは無言で首肯しながら、自分の分のワインを注文した。…ボトルで。
どうやら本気で呑むつもりらしい。望むところだ。
僕は追加でショウチュウを一本、ボトルで注文する。彼女の眼がこちらのボトルを睨み付けた。
僕らの負けず嫌いが、戦いの火蓋を切って落とした。
静かなる戦いの中、ジャズ調の音楽と地面に叩きつけられる雨の音だけが辺りを包んでいた。
雨は上がり、濡れたコンクリートの路面はしっとりと黒光りする。夜の街頭に照らされ、その中にたくさんの星が浮かぶ。空は未だに濁ったままで、月も星もそこには無い。生温い風が僕らの間を潜り抜け、空を目指して這い上がる。そんな風も、今の僕らにとっては涼しく感じられる。なぜなら…飲み過ぎたからだ。火照る身体には湿気た風でさえも心地よかった。
「…サニー。呑み…すぎだよ…」
そういう僕の方も少し呂律が回らない。
「何よ…。レイニー…だってぇ…」
足をふらつかせながら、そのおぼつかない足取りで僕らは歩いてゆく。
普段はこんなにお酒を呑めない。それは僕たちがお酒を苦手にしているわけではなく、仕事への影響を考えて規則で禁止されているからだ。しかし長期の休みの場合には当然、例外だ。
僕はサニーの腕を肩に回し、支えながら歩いた。二人してもつれそうになる足を、不安定に動かし続けた。歩きながら、僕は考える。
今日はプライベートに干渉し過ぎた。これ以上、一緒に居るのはまずい。とりあえずサニーを送り届けなければ。
自分でも驚くほど冷静だった。頭は酩酊で朦朧としているのに、なにか別の部分で考えているような、不思議な感覚を覚える。
「…サニー。…最寄りの…駅は、どこだい?」
少し酔いが醒めてきた。僕はサニーより酒に強いらしい。密かな優越感を抱く。
「…ん」
彼女が指差した場所は…今では数少ないホテルだった。ピンク色のネオン風LEDライトが眩しい。
「サニー、あれは駅じゃないよ…」
サニーの力が抜けていく。あ、これは…。
予想は的中。完全にサニーは沈黙。深い呼吸を繰り返し、規則的なリズムを刻み出す。
この夜、力の抜けた人の身体というものがとてつもなく運びづらく重いことを、僕は初めて知ることになった。
僕は苦労してサニーをホテルまで運んだ。彼女の家なんて僕は知らないのだ。
受付で部屋を一つ借りた。最後の一部屋だったようだ。ラッキー。
僕は部屋まで彼女を連れていき、シャワー室にあったタオルで汗を拭いてやる。
泥のように眠りこけるサニーは、身じろぎ一つしない。このまま死んでしまうのではないか、という不安が過りさえするが、ゆったりとした寝息に安堵させられる。
それなりに見慣れている筈の彼女の身体に激しく赤面しながら、僕は彼女にバスローブを着せた。…終わった頃には、とてつもない疲労感で息が上がっていた。
眠り続けるサニーの姿に既視感を覚えた。すぐにその記憶に思い当り、僕は溜息をついた。
仮コード『SNOW』―――あの少女の姿だ。
とても見た目には似ても似つかないが、状況には近いものがある。
片や眠り続ける女。片や離れた場所から見下ろす男。
僕は何も言わず部屋を出た。「お大事に」と書かれたメモだけを残して。
ホテルの支払いを予め済ませておいて、僕は帰路についた。
暗がりを照らすのは黄色っぽい光のLED街灯。等間隔に並んだそれは遠くまで真っ直ぐに続いている。二車線の道路を挟んで両側には住居ビルがたたずむここは、そのまんま生活区画と呼ばれている場所だ。その一角に小さな公園を見つけた僕は、ただ何となくそこのベンチに腰掛けた。自動販売機で買った甘い缶コーヒーをちびちび飲みながら、僕は空を見上げる。雲が僅かに裂け、光の粒がちらりとこちらを見下ろしていた。
「おじさん、何してるの?」
背後から聞こえた声に驚き、缶を取り落としてしまった。
その声は甘く、そして幼かった。こんな時間に居てはいけないほどに。
首だけで振り向くと、それはやはり幼い少女だった。暗がりなので判然としないが、確かに満面の笑みでこちらを見ている。
「…お嬢ちゃんこそ、何をしてるんだい?」
質問を質問で返す真似はしない方がよいが、子供相手なのだから許されるだろう。そもそも僕だっておじさん呼ばわりされているのだ。僕はまだそんな歳ではない。
「それはヒミツ!」
ただ無邪気に、可愛らしい仕草で唇の前に人差し指を立てた。
「おじさんはなにしてるの?」
子供は怖い。答えなければ答えるまで延々と聞いてくるものなのだ。僕は観念して、とりあえず話に付き合ってやることにした。
「歩き疲れたからここで休んでいたんだよ」
言いながら、中身の零れた缶を拾い上げた。
「へーそっかー」
笑いながら、少女は僕の隣に腰掛けた。ベンチを照らす光に少女の顔もまた照らされ、幼いながらも整った顔立ちが露わになる。
「家には帰らないの?」
僕は尋ねてみた。少女は何かを考える仕草をし、やがて口を開いた。
「後で帰る!」
つまり、まだ帰らない、ということだ。まだ幼い愛娘に深夜徘徊を許す親などいてたまるか、と僕は内心で毒づいた。
とりあえず、少女を家まで送り届けた方がよさそうだ、と僕は判断した。だが、少女は帰る気が無さそうだ。
「お家はどこ?おじさんが送っていくよ」
おじさん、というフレーズに複雑な感情を抱きながら尋ねるが、少女は頑なにこれを拒んだ。
「いや!まだここに居る!」
さて、どうしたものか。
「おじさんはどんな仕事をしてるの?」
少女を説得する術を考えていると、少女のほうから僕に尋ねてきた。僕は少し考えてから、こう答えた。
「みんなの…大切なものを…護る仕事をしているんだ」
あまりに婉曲な表現だったが、少女は納得したように頷いている。
「じゃあ、おじさんは正義のヒーローなんだね!かっこいいなぁ…」
正義のヒーロー。その言葉がどうにも自分に相応しくない気がして、僕は思わず笑っていた。
「そうかもしれないな」
と、思ってもいないことを口にして少女の頭を撫でた。くすぐったそうにしながら、少女もまた笑っていた。
「じゃあフユのこともやっつけちゃうの?」
「ん、どうして?」
「夜中に出歩いちゃう悪い子だから…」
この子の名前はフユというのか。
次の瞬間、僕は閃いた。
「今すぐお家に帰れば、やっつけないよ?」
「ほんと?」
「ああ、本当だよ」
つくづく純粋な子だ、と思わされる。見たところ十歳かそこらだろうが、ここまで無邪気なものなのだろうか。やや不相応な気がするが…。やはり子供は難しい。
「じゃあもう帰るね、おじさん!またねー!」
「えっ」
気付いた時にはもう、少女は暗闇の中に駆け出していた。
こんな遅くに一人で帰らせるのは流石に危ない。僕は少女を追いかけようと思ったが、既にその姿は見えない。家が近いのだろう、と自分で納得して僕も改めて帰路につくことにした。
―――またね。
思い出されるその言葉に、口元だけを微笑ませながら。
雲はまた厚くなり、低く垂れ込み始めていた。貴重な金属資源であるスチール缶をゴミ箱に放り込み、僕は夜の暗がりの中へと歩き出した。
窓から差し込む眩しい日差しに、僕は目を覚ます。壁に掛けられた無愛想な時計は午前九時を指している。
ベッドから這い出し、縁に腰掛ける。今日は隣には誰もいない。
飾り気のない殺風景な部屋を見渡すと、僕はのそりと立ち上がる。帰ってきてすぐに寝てしまったせいで、服は昨日のままだ。汗臭くなりつつあるその服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びに風呂場へ向かう。
シャワーを浴びて、服を着替えるとラップトップPCにメールが届いているのに気が付いた。僕は水を入れたポットをIHのコンロに掛けて、PC前のリクライニングチェアに座った。メールを確認してみると、送り主はサニーだった。ざっと目を通してみたが、要約すれば「昨日はごめん。埋め合わせはするから」といった感じだ。「気にするな」という旨の返信をして、椅子に深くもたれ掛かった。そのままぼんやりと思考する。
考えているのは昨日の夜の、あの少女のことだ。
思えば不思議な子だった。フユといったか。
フユは突然現れて風のように去っていった。子供らしい仕草と、意外にしっかりとしたいい子だったことが印象に残っている。だからこそ、彼女がどうして、あの時間のあの場所のいたのか、僕には不思議でならなかった。
僕はフユの家庭事情に首を突っ込みたいわけではない。だが、何故だか彼女のことが気になった
少女を一人で帰らせてしまったことに少なからず責任を感じているのだろう、と一先ずは結論付け、まずは昨日の公園へと向かうことにした。
ふと気づくと何かが噴き出す音がした。あ、やっちゃった。
もうもうと白煙を吐き出すポットに慌てて走り寄り、コンロを止めた。近くにあったコーヒー粉末を大量の粉ミルクと一緒にマグカップに入れ、お湯を注いだ。ミルクたっぷりコーヒーの匂いが部屋に漂う。僕はそれを火傷しないように気を付けて飲みながら、出かける準備を始めた。
昨日とは打って変わった晴れ間が広がり、コロニーを陽気に照らし出す。たったそれだけのことで風景が変わって見えてしまうのは、なんとも面白い。
軽い運動がてら、ジョギングで例の公園へ向かった。十キロはあっただろうか。公園に到着したころには心地よい疲労感が体に満ちていた。
走っている間だけ、僕は何も考えずにいられる。無の境地、というよりは、ただのランナーズハイだが、その時間は間違いなく僕に有益なものだ。
首に掛けていたタオルで軽く汗をぬぐい、公園を見渡した。人影はほとんどなく、遊んでいる子供たちに関しては全くいない。理由は単純だ。ここには遊具が無い。無いとは言っても一応、鉄棒が設置されているのだが…。これも時代の流れだろうか。
あの少女の姿も探してはみたものの、ここには居ないようだった。僕が諦めて踵を返したとき、後ろから掛けられる声があった。
「あ、おじさんだ!」
「うわあっ!」
素っ頓狂な声を上げて振り向いた先には例の少女、フユがいた。
まさかさっきまで見ていた方向から、背を向けた瞬間に、しかもすぐ近くから、声を掛けられるとは思わない。僕は口をパクパクさせながら、猛る鼓動を落ち着けようとした。
「えへへへー、びっくりした?」
屈託のない笑顔を向けるフユ。僕はまだ収まらない鼓動を無視して「ああ、びっくり、したよ」と、素直に頷いた。
「フユちゃん、でいいかな?今日はここで何をしてるんだい?」
内心、少女が無事だったことに安堵している。暗闇に消えたまま誰かに襲われていたりしたら、僕は罪悪感に駆られていただろう。いくら他人でも、子供なのだから尚更だ。
「今、ここに来たの!おじさん遊ぼうよー!」
名前についての返答はなかったが、多分合っているのだろう。一先ずそれは置いといて、問題は少女の要求についてだ。
「んー、何して遊ぼうか?」
「やったー!鉄棒する!」
正直言ってあと二週間の間、僕は完全に暇だ。だから、というわけではないが、遊んでやってもいいか、という気になった。
「そういえば、おじさんの名前ってなんていうの?」
そういえば僕のほうは名乗っていなかったな、と思い出す。
「僕はの名前は…レイニー、っていうんだ。よろしくね」
「よろしくー!」
…なぜだろう。サニーよりも明らかな他人であるフユに、僕は何を嫌がることも、気負いすることもなく接している。それこそ、僕は何の遠慮もしていない気がする。相手が子供だからすぐに僕を忘れてくれる、と高を括っているのだろう。
それを頭の隅で考えながら、日が暮れる頃までフユと遊んだ。
ここ一番の快晴の空は、この為にあったのだ、とでも言わんばかりに広がっていた。
「ねえ、おじさん。明日も来てくれる?」
夕方が近くなったころ、ベンチで一休みしていたところでフユが切り出した。その表情は遠慮がちで、一種の迷いの色を滲ませていた。
「…ああ、明日も来るよ。一緒に遊ぼう」
「やったー!約束だよ!」
何も考えないで済む付き合いを欲していたのかもしれない。単に子供が好きだったのかもしれない。何もかも忘れてしまえる時間が必要だったのかもしれない。
ただ一つだけ、僕がこの少女に何かをしてあげたい、と思ったことは事実だ。
―――償い。
その言葉がふと脳裏に浮かぶ。
それはすぐに思考の海に溶け、姿を隠してしまった。
「ねー、次は何するー?」
隣に腰掛けたまま、少女はこちらの顔を覗き込んでいた。相変わらずいい笑顔を浮かべている。僕はその頭を撫でてやりながら、オウム返しに尋ねた。
「何しようか?」
過ぎゆく時間を忘れて、僕はフユと遊んだ。
日が暮れ始めてからようやく時間感覚を取り戻し、フユと別れる。
「またねー!」
大きな声でサヨナラをする少女に笑顔で手を振り、歩き出す。名残惜しさなど微塵も感じさせない笑顔を思い出し、公園を振り返ったが、その時にはもう既に彼女の姿はなかった。
狐にでも化かされたかな、などと考えながら、僕は帰りのバスに乗り込んだ。
帰りのバスの中、静かなモーターエンジンの音に耳を傾けながら、携帯端末を開いた。
―――遠い昔から既に衛星は使い物にならないので、こいつはコロニー内の有線ネットワークに無線でアクセスする形で機能している。だから端末用の無線設備のない母艦では無用の長物だ。その代わり、各部屋には有線接続された据え置きのPCが設置されているのだ。
確認してみると、サニーからの連絡が一件届いていた。
『埋め合わせの件。明日の夜だけど、空けておいてくれないかな。無理にとは言わないけど。いい返事を期待してるから…』
埋め合わせ、か。
正直なところ、僕は彼女と一緒にいる時間を減らそうとしている。それは僕らが「踏み込み過ぎ」てしまったから。僕は彼女とある程度距離を置くことで、微妙な調整を試みているのだ。
彼女はそれを知ってか知らずか、距離を詰める選択をした。僕には彼女が考えていることが解らない。最近の彼女の行動にしてもそうだった。コロニーでのプライベートな行動を共にしたことなど初めてだったし、僕の目の前であんなに酒を呑んだのも初めてだった。
もしかして、彼女は…―――。
そう考えかけてやめた。余計な思考は迷いと悩みを増やすだけだ。
僕は少し考えてから『分かったよ。明日の六時以降は空けておく』と短いメッセージを送った。
僕は端末をズボンのポケットに捻じ込むと、次々と後ろに流れていく街灯の光を眺めた。その眼は既に半分ほど閉じられかけていた。
自宅に辿り着くや否や、強い疲労感に襲われた。子供のバイタリティを舐めてかかった結果がこれである。僕はシャワーを浴びながら皮肉な笑みを浮かべた。
だが、シャワーを終え着替えてみると、目が冴えてしまった。なんとも言えない気分になる僕。とりあえずPCを確認して、ついでに携帯端末も確認。確認してから、端末同士はデータを共有していることに思い当った。ちなみに着信はゼロだ。
気の向くままに、パンツ一丁でベランダに出た。そこから見える景色は家々の生活臭溢れる光と道路の街灯、そして満天の星空だけだ。街の明かりは最小限に抑えられているので、余計に際立っていた。
僕は深く吸った息をゆっくりと吐き出し、夜空に浮かぶ星々を眺めた。昨日の空とは打って変わって、煌くミルキーウェイが広がっている。かつて存在した東国では「アマノガワ」と呼んでいたらしい。
天に浮かぶ星の川と、空に零したミルクの足跡。面白いな、と一人笑みを浮かべた。
暫く、そのままの時間を過ごした。夜風に当たりながら、ぼんやりと夜空を眺める。ずっと眺めていると、急に空へと吸い込まれていくような錯覚を覚え、また一人笑う。
湿った風に雨を予感するまで、僕はそうしていた。
明くる日も僕は公園に出向いていた。予感に違わず朝から雨が降っていたが、僕はそれに何ら臆することなく家を出ていた。とはいえ、流石に雨の中を走っていく気にはならず、いつもの回送バスを利用した。このバスはコロニーの要所を回送するバスで、どこで降りても同じ金額だ。やたらと高価な自家用車を乗り回す人は少ないので、午前中のこのバスはいつも満員である。手ごろな金額と相まって絶大な人気を博していることは、もはや周知の事実でもある。ちなみにこのバスは巨人と同じWorld Arms社製だ。
そんなバスを降りて傘を差し、僕は真っ直ぐに公園に向かう。
この天気だから、フユは来ていないかもしれない。いや、来ないかもしれない。そう思ってはいても、まだ小さな少女との約束を破る気にはなれなかった。
いざ公園に着いてみると、やはり人影はなく、雨が地面の土を打つ音だけが響いていた。
ぱしゃり
背後で水溜りを踏む音がして、もしやと思い振り返る。…だが、そこに居たのは見知らぬ若い女性で、僕を白い目で見てから足早に去っていった。
思わぬ恥ずかしさから頭を掻き、溜息を吐いた時だった。
「おじさんだ―!」
驚いてものすごい速さで振り向いた。
その視線の少し下に、僕を見上げる形で傘を傾け、太陽のように明るく笑う少女がいた。
「おじさん、来てくれたんだ!」
これで三度目だ、フユに驚かされるのは。
フユは真っ白な傘を差し、真っ赤な長靴を履いている。
白雪姫と毒リンゴみたいだ、なんて思ってしまう。
「今日は何をしようか?」
フユにつられて僕も笑う。今日は空気を呼んでくれない天気に、内心では文句を言ってやりたい気分だった。
結局、雨の中では碌に遊べないことに気付いた僕らは、近くのカフェに入った。一応は平日ということもあって、客は多くない。僕らは店の奥まった場所にあるソファ付きの席に座った。
…平日?
「フユは学校には行ってないの?」
平日ならここに居るのはおかしい。コロニーの義務教育の過程には中学校まで存在しているのだ。
「学校…?」
メニュー表から顔を上げて、こちらを覗き込む。浮かんだ怪訝な顔が彼女らしくなく思われた。
「そう、学校。フユちゃんくらいの年の子なら、みんな通ってるんじゃないかな?」
思い切って訊いてみる。
「ん、行かない」
「…どうして?」
さらに踏み込む。もう後戻りはできない。
「おじさんといた方が楽しいから」
虚を突かれた。そう来たか。
僕は笑って「そうかそうか」と、フユの頭を撫でてやる。くすぐったそうにするフユを見て、僕に妹や子供がいたらこんな感じなのかな、と益体のない妄想をする。
「好きなのを頼んでいいからね」
「うん!」
無遠慮さはいかにも子供らしい。これだから、何かをしてあげたくなるのだろうか。
少女が店員に何やら長ったらしい名前を伝えているのを聞きながら、僕のほうはコーヒーを一杯だけ注文した。僕の注文を取った女性店員は僕らを見比べるようにして「娘さんですか?可愛いですね」と言った。…やはり僕は「おじさん」に分類されてしまうのだろうか。「そうでしょう?」と相槌を打ちながら、少し悲しくなった。
日が暮れ始めた頃に、僕は自宅とは正反対の方向に向かうバスに乗り込み、端末にチャージされたお金の残金を確認していた。またもや、子供を舐めてかかっていた。まさかあんなものを頼んでいたとは…。
というのも、カフェでフユが頼んだメニューは『ドリームパッフェ=エクセレントインパクト=グレートセカンド』とかいうふざけたネーミングの巨大パフェだったのだ。あれを実際に目の当たりにしたとき、僕は衝撃で言葉を失った。およそ一メートルはあろうかという巨塔は、マカロン・ウエハースチョコ・プリン・アイスクリーム各種・ホイップクリーム・生クリーム・イチゴ・メロン・板チョコ・シュークリーム、エトセトラエトセトラ…で構成されていた。さながら天を貫く神話の塔のようだった。
浮かんだ素直な感想は―――…誰だよ、こんなの作ったやつ。
しかもそれをフユは食べ切った。僕は財布の危機を感じていよいよ怖くなったが、幸いにも彼女はそれだけで満足してくれたようだった。…その時のまだ余裕のありそうな表情は、僕をさらにぞっとさせたものだ。
その後、会計の時にもう一度絶句することになったことは言うまでもないだろう。
そんなわけで予想外の出費に頭を悩ませていた。もっとも、護衛隊の高給のおかげで、お金だけは腐るほどあるので、それ自体は問題ではないのだが。
…サニーに御馳走になるわけだし、問題はないかな。
そう。僕は現在、サニーとの待ち合わせ場所に向かっている。降りしきる雨が車窓を打ち、帰途のサラリーマンに囲まれている。時折鼻を刺す酸っぱい匂いは加齢臭だろうか。僕はうんざりしながら目的地への到着を待った。
僕がバスを降りたのは『商業エリアB-1』。有数の高級料理店が集まる区画だ。
コンクリートとアスファルトを濡らす雨の匂い。その中を道なりに行くと、一軒の店があった。名前は『ウミノサチ』。…人の名前みたいだ。
その店のノレンの前に、見慣れた姿があった。
「ごめん、待たせたかい?」
僕が微笑して尋ねる。サニーも微笑を返しながら答える。
「そんなことないわ。こっちこそ、わざわざ呼び出してごめんなさいね」
マルデコイビトミタイな会話をして、ノレンを潜る。閉じた傘を店員に預け、狭い店内の、数少ない席の隣り合う二つに僕らは腰かけた。カウンター形式の座席で、この店にはそれ以外の座席は存在しなかった。まさに高級店、と言ったところか。
彼女が「適当にお願いします」と手慣れた様子で注文すると、料理長らしき人が仏頂面で頷いた。それがまたいかにも職人染みていて、思わず飲みかけのコブチャを吹き出しそうになった。
僕が眺めている中で、料理長―――通が『イタマエ』と呼ぶその人は魚の切り身をスライスし、小さく握った白米の上に載せる。その一連の作業に要した時間は、わずか五秒。恐るべきスピードだ。
かくして提供された料理は…そう、スシだ。正直なところ、料理と呼べるのかは定かではない。だが、そこに文句をつけても仕方のないことだ。
最初のスシのネタはテカテカと艶めく赤身が特徴的なマグロだ。僕は小皿に出した醤油に少しだけ浸したそれを、一口で頬張った。脳天を突き抜けるワサビの香りと、舌の上の柔らかな食感と深みのある味に、僕は表情をとろけさせる。
瞬きする間に、次のネタがやってくる。今度はタコだ。
先ほどと同じように口に放り込むと、これもまた同じワサビの香りが突き抜ける。だが一方で舌触りと、コリコリとした噛み応えの違いが、噛むほどに味わい深くなるタコをより引き立てた。
やはり旨い。スシは最高だ。
僕は脇目も振らず、美味なるスシたちに舌鼓を打ち続けた。僕が一息つくと、同じくスシを食べ続けていたサニーも手を休める。
「僕がスシ好きなの、知ってたのかい?」
「ええ。…前に自分で言ってたわよ」
「あれ、そうだったかな」
「ボケが始まったのね」
「まだまだ若いのには負けないさ」
「そこじゃないでしょ」
二人して小さく笑う。
サニーが何気なくポツリと言った。
「レイニー、今日は何をしてたの?」
大きく踏み込んだ彼女の発言。既視感のある違和感を感じた。
作戦中ではなく、本来なら完全にプライベートな時間に、僕のことにさらに踏み込もうとする彼女の言動。
生じる疑惑。それは昨日、考えかけてやめた一つの懸念。
「どうしてそんなこと訊くんだい?」
笑顔で、しかし無意識にやや険のある声色で尋ね返す。
彼女の顔に表れる一瞬の逡巡。
「…なんとなくよ、なんとなく」
「ふぅん、そっか」
どこかのエリート社員らしい三人組の、楽しそうな笑い声が聞こえる。僕は熱い緑茶を一口啜った。
「知り合いに会いに行ってたんだ」
ある意味では正しく、ある意味では間違っているが。
「ああ、そうなの?」
サニーは少し驚いたようにこちらを見た。
「サニーは?」
これ以上の追及を恐れたのか、僕は反射的にそう尋ねていた。。これくらいのことなら訊いても問題はないだろう、と自身の中でいい加減な線引きをして。
「わたし?…私はそうね…恋人に会いに行ってきたの」
「えっ」
サニーは真剣な顔でそう嘯いた。
思わず僕の口から出た感動詞を、彼女はどう捉えただろうか。
「サニー、君、恋人が居たのかい」
だとしたら大問題だ。僕はその顔も知らぬ男から、サニーを寝取ったことになりはしないか。それ以前に、いつから交際しているのだろうか。護衛隊に配属されて、かれこれ三年以上を共に過ごし、二年ほどの夜を共にしてきた。まさか、彼女はどこまでもインモラルな人物だったとでもいうのだろうか。…あくまでも身体だけの関係を続けている僕が言えたことではないが。
「とても素敵な人よ。クールで、意外と無口なの。実は一年前から結婚も考えてるわ」
どう考えてもインモラルな話、というか爆弾発言だ。サニーは何を考えているんだ?
「サニー?ということは僕は…君をボーイフレンドから……」
公共の場で口にすることは流石に憚られたので、後半はぼかし気味になってしまう。
恐々しながら尋ねる僕を、彼女は正面から見つめ返した。
「まあ、そうなるわね。別に…気にしなくて……ふふっ」
突然吹き出したかと思うと
「あははははは!そんなわけないでしょレイニー。流石にそこまでユルくないわよ?」
サニーの笑い声と発言に例の三人組がギョッとして振り向いた。しかしその視線はすぐに、彼らが新たに注文していたスシに吸い込まれていった。
「はあ…心臓に悪いよ、サニー…」
冗談でよかった、と安堵する傍ら、いまだに冷や汗を掻き続ける僕はこれ見よがしに溜息を吐いた。…サニーの悪戯は、たまに洒落にならないので注意が必要だ。
「ほんとのことを言うとね、ずっと寝てたのよ。二日酔い」
ああ、と納得した。同時に、よくもまああれほどの冗談を即興で作り上げたものだ、と苦笑する。その演技はいつものように、真に迫るものがあった…ような気もする。
「二日酔いはもう大丈夫なのかい?」
「ええ、大丈夫よ。昨日はほんとに悪かったわね。あんなに呑んだの、初めてだったから。加減が分からなかったのよ…」
照れくさそうな、申し訳なさそうな顔で彼女は言った。
「だから今日は『奢り』よ!たくさん食べて頂戴?」
にんまりと口角を上げ、目を細めて笑いかけるサニー。僕はにやりと笑い返した。
「後悔しないでくれよ?」
その言葉の意味を彼女が正しく理解した頃には、既に無数のスシが僕の胃の中に消えていた。
「まさかここまで食べるなんて…聞いてないわよ」
苦い笑みを作る彼女は、お手上げだ、とでも言わんばかりに両手を上げて見せた。
小降りになりはしたものの、いまだ降り続ける雨が僕らの靴を濡らし、街灯は雨に光を反射させながら輝いている。
そんな中、僕らは傘を並べて歩いている。
「油断大敵、ってね」
「これは一本取られたわね…。因果応報かしら」
僕は今までに受けた悪戯の仕返しとして、たっぷりと高価なネタばかりを選んで食べ続けてやったのだ。勿論、一つずつ味わって食べたが。
「それにしてもいいお店を知ってるんだね。美味しかったよ。『ウミノサチ』なんてノレンは伊達じゃないね」
僕は調子よくそんなことを言ってみる。これぞ勝者の余裕だ。
「ま、養殖なんだけどね」
「ははっ、確かにそうだ。あれじゃ詐欺だね」
二人して笑い合う。
これでいいのだ。否、これがいいのだ。
なんでもない会話をして、相手に対し過度に踏み込まず、互いを自身を慰める手段として利用する。それが僕らにとっての日常なのだ。それは守るべき尊いものなのだ。そしてそれは、僕らの、暗黙の、共通の認識のはずだった。
その、筈だった。
「ねえ。…レイニーの家は、ここから近いの?」
やや踏み込んだ質問だったが僕は、それぐらいなら、と気にせず答える。
「ん、そうだね。歩いて十分くらいかな」
「…へえ、そうなんだ…」
一拍置いて、彼女は言葉を繋いだ。
「…今夜泊めて、って言ったら…迷惑かな」
…まさか。
胸に起こったざわめきが、いくつもの意味を帯びて踊り狂う。大量の感情が入り乱れ、軽い眩暈を引き起こした。
「…それはまた、どうして」
足を止め聞き返すと、彼女はまた一拍を置いて答える。
「二日酔い、って言ったでしょう?実はまだ、少し、辛くて…」
ところどころ言い澱みながら、それでも彼女は最後まで言葉を紡いだ。
瞬間。あの疑惑は、予感は、確信へと成った。
きっとその言葉の、少なくとも半分は嘘だ。僕と同じ空間に、少しでも長く居続けようとするための嘘だ。…何度も騙されている僕だって、そこまで鈍くはない。
結局のところ、彼女は禁断の一線を越えようとしているのだ。今まで頑なに保持し続けた一線と、その上に成り立つ関係を、今まさに打ち壊そうとしている。
彼女にも、それなりの事情と覚悟があってそうしたのだろう。そう思うことはできた。だが…今の僕にはそれを良しとできるだけの余裕はなかった。
だから。僕は彼女の言葉の真意に気付かないふりをした。いつもの鈍い男を、意図的に演じた。
「それは大変だね…。でも、ごめん。今日はちょっと用事があってね…泊めてあげられないんだ」
嘘だ。
「…そう。無理言って、ごめんなさいね」
辛いような、悲しいような、そんな表情だった。眉を顰め、少しうつむいた顔。
避けんとした危機は去ったというのに、胸のざわめきは治まらなかった。
ただ短く、一言を返した。
「…気にしなくていいよ」
見上げる夜空から、冷たい雨が降り続けている。心なしか、その勢いは激しくなったように思えた。
雨雲は姿を消し、快晴の空が広がる朝。僕は何に起こされるでもなく、ベランダに出ていた。手元ではいつものコーヒーが甘い匂いを漂わせている。
今日もフユのところに行くことになっていた。昨日の別れ際に「明日も遊んでくれる?」と、可愛らしく頼まれては流石に断り難い。なにより、することもないのだ。
きっとしばらくの間は一緒に遊ぶことになるのだろう、と予感しながら、僕は着替えを始めた。
《第三章》
今日も僕は、いつものバスに揺られる。いつもと同じ車窓の風景に、いつもと同じ乗客の喧騒。
ただ一つだけ違うのは、今日の僕はフユと遊ぶわけじゃない、ということ。今日の僕は工廠を目指しているのだ。
『一週間後にまた来てくださいッス』というシグレの言葉を思い出したのは、フユと遊び始めて五日が経とうとしていた日の夕方だった。思い出せたことは、もはや奇跡に等しかったが。
フユとの別れ際、「明日は遊べない」と聞かされたフユの顔は悲しそうだったが、「またね」と言って、視線を合わせてしゃがんでいた僕の頬にキスをしてくれた。そのときの照れくさそうな笑顔は、夕日に赤く染まっていた…気がしなくもない。
ともかく僕は、シグレの言い付け通りに工廠に向かう。騒がしい電車の中に少々辟易しながら、僕はバスに揺られ続けた。
いつ来てもこの場所…工廠は、あらゆる騒音と、慌ただしく働く人や機械で溢れている。僕はこの場所や騒音が嫌いではない。雑多な音のすべてが一体感を持っているように感じられるからだ。バスの中の無秩序とは程遠いのだ。
「ああ、来ましたッスね」
以前には僕の愛機『RAIN』が置かれていた場所に、つなぎの男シグレは立っていた。
「『RAIN』はどうしたんだい?」
「ああ、彼ッスか…そのことについて少し、いいッスか?」
何やら神妙な面持ちで、シグレは僕に顔を寄せてきた。
「結局、『RAIN』は作り直しになったんス」
「ああ、そうなんだね」
それ自体は驚くようなことではない。僕の愛機はこれまでに二度ほど転生を遂げてきたから、というのもあるが。
シグレは続けた。
「それでッスね、新しい『RAIN』には試験運用として、例の『巨神の心臓』のコピーを組み込んだんス。だから、レイニーさんにはその実験も兼ねてテストをお願いしたいんス」
「…ん?『巨神の心臓』だって?」
「はい、『心臓』ッス。エンジンのことっすよ。ま、詳しいことはまだあんまり分かってないんスけど。あと『巨神』に装備されてた外付け武装も、一部は用意してるッス」
「ははっ…」
僕は笑うしかなかった。鹵獲したばかりの兵器をいきなりコピー製造してしまう開発班の仕事ぶりもそうだが、得体の知れないものをいきなり機体に取り入れるなど…もはや正気の沙汰ではない。僕からすればとんだブラック企業だ。
「嫌ならいいんスけど、その場合のレイニーさんの仕事は、あと三週間はないっすよ」
僕としては早く仕事に復帰し、歪み始めた日常を修復したいところだ。
僕はたっぷり十秒は考えてから答えた。
「オーケイ、やるよ」
両手を上げて降参の意を表明する。それを見てシグレは、満足げににやりと笑う。
「じゃ、射出機のとこまで行くッスよ」
シグレは意気揚々と、僕は新兵器に心を密かに躍らせながら、直通の地下輸送路へと向かった。
新しい『RAIN』はまだ塗装を終えていない真新しいな状態だった。生まれたて、とも言える。
装甲板の特殊複合合金が持つ独特の鮮やかな色味が、炉にくべられた火を連想させる。両腕に握られた黒いライフル状の装備は、一部からあの妖しい赤色を覗かせている。
身の毛がよだつのを感じた。身体が震えあがった。しかし今回のそれは純粋な恐怖ではなく、あの暴力を支配下に置いたことに対する万能感だったかもしれない。
「操縦方は変わりません。最大速力が大幅に向上していますが、機体強度がいまだに追いついていませんので、無理はさせないでください。それから…―――」
長々とした話は聞き流す。こういう説明は基本的に、説明をしたかどうか、が重要で、形式張ったものなのだ。僕は長い話が嫌いなので、いつもまともには聞いちゃいない。
「とりあえず暴れ過ぎなきゃいいわけだよね」
「そういうことです」
説明役を押し付けられたらしい若い男が首肯した。分かる男だな。出世しそうだ。
慣れ親しんだスーツに身を包み、慣れた手つきでヘルメットを装着、固定、スーツと繋いで密閉する。透明度の高い緩衝液が足元から注入され、ひんやりとした感覚が足元から這い上がってきた。
瞬きをする間に全システムが起動し、イヤカムに『システムアクティベート』と音声メッセージが再生される。
「こちらレイニー。いつでもいける」
無意識のうちにスイッチが入る。抑揚を抑えた低い声がその証拠だ。軽口は叩くが、あくまでも最低限の緊張を保った状態。いわば『戦闘モード』だろうか。
「了解ッス…ん?」
ビー!ビー!ビー!
突如として警報音が響き渡る。続いて『住民の皆さんはすぐにシェルターへ避難してください』という爆音のアナウンスがコロニーに繰り返し響き渡る。遠征時の母艦でなら聞くことも多い音だ。だがここはコロニー。状況は最悪だ。
「馬鹿な!場所がバレたのか?偵察機は発見できなかったぞ!」
そう叫んだのはあの禿げ頭の上官だろうか。
「原因は後で考えるッスよ!出撃可能な部隊を集めてくださいッス!この際、バディの有無は構わないッス!」
シグレの声だ。実験の担当者として同席していた彼だが、咄嗟に正確な指示を出している。
『敵機およそ三十!すべて巨人です!対空砲火!ってぇーーー!』
また別の男の声。哨戒部隊の直通無線のようで、音声のノイズがひどい。僅かな砲声も混じり、ノイズはより激しくなる。
『敵機多数撃破!残りおよそ二十!目的はおそらくコロニーです!』
『くそっ!あいつら…無視しやがって!』
誰かの怒声混じりの報告が、場の緊張感を強めていく。無線越しにもそれが分かるほどに。
「出撃準備間に合いません!」
「なんだとっ?まずい…まずいぞ…!」
本来なら、敵機の襲撃に先んじて偵察機を発見できるはずだ。衛星が使えない今、頼りになるのは実際に発見することしかない。衛星を介さない直通の無線も、磁場の乱れから基本的に遠方には届かないため、偵察機の発見さえできれば襲撃までに体勢を整えることができる…はずだった。しかし今この時、その前提がいかなる手段によってか覆された。
不測の事態に、対応が遅れていく。このまま後手に回れば、僕らは海の藻屑だ。
「…レイニー。聞こえるか」
声は緊張を孕むものの、いたって堂々とした口調。それは百戦錬磨の航空隊を率いた者、あの上官のものだった。
「聞こえていたように状況は一刻を争う。無理は承知だ。…頼む!」
無線の向こうがざわついた。そこはおそらく、急造の作戦指令室にでもなっているはずだ。
…敵機の到着まで猶予はない。いつものように、反射的に答えていた。
「了解。ノーカウントで行きます」
「頼む…!」
ごっ、という、衝撃音とも風切り音とも取れぬ音が響き、視界の端が白く霞んだ。今までに体験したことのない加速が、僕の新たな愛機を彗星のごとく大空へと撃ち出した。
僕は開けた視界を瞬時に見渡す。コロニー上空からはまだ敵機を視認できない。
「敵機は二十二機、西だ。どれも量産型と思われる。だが武装はコロニーにとって脅威だ。巨人に対してならば言わずもがな。せめて足止めをしてくれ…頼む!」
僕は既に、上官の悲痛な叫びには耳を貸していなかった。
―――かつて僕を恐れさせた暴力の一端が、今は僕の手の中にある。
その事実、或いは僕の本能的な部分が、僕の残虐性を呼び覚ましたのだ。
この力を振るいたい。この力で…守りたい。
…守りたい?…何を?
迷いや問いを置き去りにするように、ブースターを大きくふかした。
出撃時よりもなお強い、殺人的な加速で僕―――僕の愛機『RAIN』は駆け出した。赤い謎の粒子を大量に撒き散らしながら、燃え盛る彗星のように西へと飛んだ。音すらも置き去りにするように。
真っ直ぐに飛んだ数分のうちに速さには慣れ、時を同じくして眼前に敵機が迫っていた。
細い人型の影は海と同じ空色にペイントされ、ろくな装備は積まれていない。代わりにその背中には巨大な…巨大な爆弾だけが剥き身で背負われていた。そのためか速度は比較的小さい。しかしこれは…。
―――トッコウ…?
かつての大戦においても、どこかの国で用いられたという手段。最終手段にして、最悪の禁じ手。爆弾を抱えて飛び込む自爆攻撃。
それ以外を想像するには難しいほど、あまりに露骨な姿勢だった。途中の戦艦を狙わず、真っ直ぐにコロニーだけを目指して飛ぶ姿は、それほどまでに鋼鉄の面に必死の形相を呈していた。
しかし。しかしそれでも、僕はやるのだ。
両腕の黒いライフルを構えながら、光の尾を引いて飛ぶ。照準を合わせる。それを加速した思考で一瞬のうちにこなし、そして、躊躇なく、引き金を引いた。
ばしゅ ばしゅ
気の抜けた音で放たれたのは赤い光線。かつて僕の愛機を蜂の巣にした、魔獣の眼光。それは寸分の狂い無く、先行する二機の巨人の動力機関を紙のように貫き、爆発四散させた。
光の軌跡を赤い粒子が舞う。
強い。応援など待たずして、勝てるかもしれない。そう思わせるに足る破壊力だった。
気持ちが静かに昂ぶり、脳は頭のもっとも冷静な部分を残して激情に打ち震えた。ドーパミンやアドレナリンといった脳内物質が溢れ出すのが分かった。その知覚とともに思考が加速する。自分以外のすべてがゆったりと流れていく。
僕は唇を舐めた。狩りをする肉食獣がそうするように。
「さあ!次はどいつだ?」
叫びながら加速する。音速を超え、更なる加速を敢行する。加速に耐えかねた外部アンテナが海の彼方に飛んでいく。
機体が加速する度に、思考速度もギアを上げていく。脳細胞が、そのシナプスが、焼き切れようとも知ったことではない。僕は引き金を引き続ける。
乱射される光線は敵機の心臓部を的確に撃ち抜き、爆散させる。味方の爆風に呑まれ、体勢を崩しかけたものを体当たりで弾き飛ばす。超超音速の体当たりは一撃で敵機の巨体をひしゃげさせ、飛んで行った敵機は別の機体に激突して諸共に爆発する。存外に堅牢な新生『RAIN』は掠り傷さえ負っていないようだった。
加速を続けたまま、体当たりとライフルの掃射、急旋回を繰り返す。そのたびに爆炎と爆煙が巻き起こり、赤い光線が迸り、ブースターから漏れる赤い粒子が血飛沫のように乱れ舞う。超超音速の『RAIN』が風を切り、巻き起こす衝撃波―――ソニックブームは、ときおり敵機の抱えた爆弾を誘爆させさえした。
それはまさに一騎当千の力。巨人すらも踏みにじる『巨神』の力だった。その力、暴力は敵を畏怖させるには申し分のないもののはずだった。
しかし、神速の『RAIN』を捉える術もなく、そもそも戦闘の姿勢を見せない敵襲撃部隊は、それでもなお、臆せずコロニーを目指して飛んでいく。
「無視してんじゃねえっ!」
ふいに苛立ちを覚え、叫んだ。
そのどす黒い感情の奔流は心に流れ込むと、大きな渦を巻き始める。
機体の負荷を顧みない急加速。いかに堅牢な新生『RAIN』といえども流石に耐えかねたのか、どこかが軋む音がコクピット内で耳障りに響く。それを無視して、僕は取りこぼした獲物に追い縋る。その瞳の瞳孔は、獣の獰猛さを湛えて大きく開いていた。
残るは片手で足りる程度の数だ。
一番近い二機を両腕のライフルで撃ち落とす。爆煙を切り裂いて飛び出し、赤い粒子の尾を引きながらさらに加速。
刹那。
ばきん
最悪が、鳴り響いた。
ライフルを握っていた両腕が、そのままの状態で制御を失った。関節が負荷に耐えきれず破損してしまった、という情報がヘルメットに映し出された。
さらに悪いことは重なる。
飛行時に軌道を修正するためのスラスターと、三基あるブースターのうち二つが、同じ理由で機能を停止したのだ。つまり、もう直進くらいしかできない。
それでも。このまま体当たりすれば、残る二機を落とせる、と判断し、加速はやめない。赤い粒子が『RAIN』の吐く血反吐のように溢れた。限界を主張しているのだろうそれは、機体の周囲にまとわりつくように広がっていく。
突如。敵機のうち一機が、急減速した。その背中を僕の正面に合わせて。
僕は、自爆攻撃が自分に向けられる可能性を、さっぱり失念していた。
その甘さが、僕をここで殺すのか。
避けることもできず、僕は大型爆弾に真正面から突っ込んだ。
海面に大きな穴を開けるほどの爆発。
強い衝撃とともに、機体が揺れた。その衝撃は僕の腹の底に響いた。
それだけだった。
僕自身は全くの無傷。機体のダメージはそれなり。
それはあり得ないことだった。
コロニーの浮力保持隔壁に孔を開ける爆弾の爆発をまともに浴びて、これだけで済むはずがない。
そこで僕は我に返った。
―――まだ残ってる!
しかしもう無理だ。僕は戦えない。両腕の破損でライフルは撃てず、推進力関係機器の故障で体当たりを仕掛けることもままならない。
コロニーの方へと向かっていく敵機の背中。しかもコロニーは既に目前。僕はそれを、なんとか高度を維持したまま見送ることしかできない。無線が故障していることにも、今しがた気付いたところだった。
万事休す、だった。
「くそっ…!」
しかし。
響いた高音。
それは、あの『巨神』との戦いの結末を彷彿とさせた。
しかし今回の応援は…―――白銀の女神だった。
そう、『VENUS』だ。
青白い閃光を身に纏うように、風のように颯爽と駆け付けると、正確無比なライフル捌きで敵機を爆散させ、次の瞬間には爆炎を裂いて飛び出すと、僕の機体に近づいた。
歴戦の戦乙女。その姿は、硝煙と煤に汚れて、一段と美貌を増したように見えた。
彼女は無線が通じないことを知っていたのか、僕に向かって空いている方の腕でサムズアップした。
僕は身体から熱が引いていくのを感じた。脳は冴えわたり、冷静さを取り戻す。異様な昂ぶりは既になりを潜めていた。
彼女が、『RAIN』を抱えるようにして飛ぶ。コロニーの窮地を救った英雄を慈しみ、讃えるように。
心を、深い安堵が満たしていた。その源がどこにあるのか、よく分かった気がした。
「ご苦労だった…!レイニー!」
帰り着くなり、僕らを、上官をはじめとする作戦関係者一同の盛大な拍手が迎えた。サニーは「手柄はレイニーのものよ」と言って居なくなってしまったが。
「君の活躍でコロニーは救われた。何と礼を言っていいやら…」
禿げの上官は僕の手を握って感極まっている。僕は何度かその手を上下に振ってから、そっと放す。
「仕事を全うしただけです。それよりもデータは取れましたか?」
武勲を鼻にかけようともしない僕の言葉に呆気にとられる上官一同だったが、すぐに気を取り直して、シグレが答える。
「ええ、ばっちりッス。機体の耐久力もまだまだ改善の余地がありそうッスけど、充分に参考になるのが取れたッスよ。機体の修復はまた大変そうッスけど…」
最後のボヤキに周囲の空気が弛緩する。僕も追従して笑う。
「じゃあ、また明日にでも来るよ。上官、次の遠征はいつですか?」
「ああ、一週間後だ」
「ありがとうございます。シグレ、それまでに…」
「勿論ッスよ!任せてくださいッス!」
「よろしく。ではみなさん、お疲れ様でした」
そう言って出撃待機室を出た僕の背中を、再び沢山の拍手が見送った。
大役を成し遂げた僕を、今日ばかりは軍属の車が送ってくれた。
寡黙な運転手は何も話さず、夕方のラジオからはパーソナリティの明るい声や出演者の笑い声だけが、どこか淡々と流れていた。
到着したのは、僕の家ではなかった。なぜなら、僕がそうするよう頼んだからだ。
では、ここはどこかというと…サニーの自宅だ。六階建てのごく普通のマンション。外観は(どこも同じようなものだが)薄汚れた縦長の豆腐だ。その一階のエントランスに足を踏み入れる。
僕は先ほどまでサニーの住所など知らなかった。だから職権を濫用して、サニーの個人データを教えてもらったのだ。
そういえば、そのときの管理職員は僕の名前を聞くや否や、すぐにサニーの住所を教えてくれた。バディだと、こういう時に便利だ。
僕は緊張をほぐそうと軽く息を吸い、胸のあたりに少し溜めてからエントランスのインターフォンに部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押した。
ぴんぽーん、と耳障りの良い電子音が鳴り、数秒遅れで応答する声が聞こえた。
「はい…えっ。…レイニー?」
向こうからはこちらの様子が見えているようで、はっ、と息を呑む音が聞こえた。
「やあ、ちょっと話がしたくて。迷惑だったかい?」
「そんなことないわ」
その口調が弾むように聞こえた気がしたのは、都合のいい勘違いだろうか。
「ほら、上がってきて」
背後で自動ドアが開く。
「ありがとう、悪いね」
僕はカメラに手を振りながら、小走りに自動ドアを潜った。
六階、つまり最上階の、一番端の部屋。大きなビルの多いコロニーでは珍しく日当たりもいい優良物件。それが彼女の家だった。
僕はドアに備え付けられたベルを鳴らそうと手を伸ばした。するとドアは、前触れもなく勢いよく開かれ、僕の指に対し垂直に激突した。
「ぐはぁっ⁉」
べき、と小気味のよい音を立てて、僕の右の人差し指は突き指を強いられた。
「あ、ごめんなさい」
呆気にとられるあまり素直に謝ってしまうサニーに、思わず痛みを忘れそうになったが、やっぱり痛みが勝った。流石にこれは痛い。
「…と、とりあえずあがって頂戴?」
左手で右の人差し指を押さえて痛みに耐えながら、僕は彼女の部屋の玄関に踏み込む。
「話がしたいなら端末の通話でもよかったでしょうに…」
靴を脱ぐ僕に、彼女は疑問を投げかけた。申し訳なさそうな表情には、一方で迷惑そうな色は見えない。
「そういうわけにもいかないんだよ」
「大事な話なのね」
「そんなところだね」
少し言葉を濁しながら、僕はあくまでも平静を装う。こういうのはサプライズ性が大事だと、何かの本で読んだ。…いや違う、クラウドに教わった。
僕はそのままリビングに案内され、促されるままにソファに腰掛けた。彼女は僕の人指し指に手早く湿布を巻き付けると「コーヒーを淹れるわ。待ってて」とキッチンに向かった。なぜか湿布は「左手」の指に巻かれていた…。
残された僕はそわそわしながら部屋を見渡す。
薄い赤系と白っぽい色で構成された部屋は綺麗に整えられ、いかにも年頃の女性らしかった。ほとんど帰ることのないコロニーの自宅をここまで綺麗にしておけるものなのか、と驚かされる。しかも、なんだかいい匂いがする。…コーヒーの匂いとかではなく。
次の瞬間には大きめの可愛らしいベッドが目に入り……なんとなく目を逸らした。
「お待たせ。はい、ただのコーヒーだけど」
これまた可愛らしいカップに、茶色っぽいコーヒーが満たされてやってきた。湯気が立ち昇り、香りがふわりと優しく舞った。
「ありがとう、サニー」
言って、コーヒーを一口啜る。上品な風味とミルクの甘さが幸福感を携えて喉を通ると、僕は思わず、ほっ、と息をついた。どうにもサニーの淹れたコーヒーは僕の淹れたものより美味しい気がするが、きっと気のせいではないだろう。
「それで?話って何かしら」
何口目かのコーヒーを啜ってから、彼女は切り出した。
僕はカップをガラスのテーブルの上に置き、気持ちを切り替えた。ここからが正念場だ。
「サニー、大事な話があるんだ」
「それはさっき聞いたわ」
いきなり出鼻を挫かれる。だが僕は屈しない。
軽く深呼吸し、息を整える。
「僕は…これまで、いろんなものを避け、遠ざけてきた。喪う痛みに怯えて、踏み込むことをやめ、同時に踏み込ませなかった」
サニーは無言で僕を見つめている。その心には、今、何を思うのか。
「僕は、君にさえ、本当の意味で心を開いたことはないんだ。どんなに体を重ねても、君のプライベートには極力、踏み込まなかった。いつか戦いの中で喪うかもしれない、その恐怖に駆られて。…僕は利己的で、弱い人間だ」
彼女は俯き、やはり無言で、首を横に振った。
「でも」
息を大きく吸う。
彼女は俯いたままだ。
「でも今日、取り逃した最後の一体を君が倒してくれたときに、僕は気づいた。君への、揺るぎない信頼に。君が居なくなってしまうなんて、そんな心配は要らないんだ、って。だから、僕は、君に伝えようと思うんだ」
彼女はいまだに俯いている。
僕は言葉を、強張る喉から絞り出した。
「僕は今まで、君がいたから戦えたんだ。僕は君と一緒に居たい。…ずっと、僕と一緒にいてくれないか」
彼女は、何も言わず、俯いたままソファから立ち、僕に背を向けた。
「…あなたの、仕事のためだけなのかしら?」
か細い声だった。震えてもいた、気がした。
「…いいや」
僕も立ち上がる。
「ずっと、って言っただろ。…愛してるよ」
サニーが、大粒の涙を湛えた瞳で、こちらをぱっと振り返った。
「遅いのよ…、馬鹿…!待ってたのよ?ずっと…」
そう毒づきながら、僕の胸に顔をうずめた。
静寂が満ちる空間に、サニーの嗚咽だけが響く。
僕は彼女をそっと抱き締めた。
僕の躊躇が、彼女を苦しめていたのかもしれない。実際、僕自身は苦しんでいた。身体は重ねても、交わることのない心に、彼女は不満と苦痛を感じていたかもしれない。
―――後悔先に立たず。
僕はその言葉を思い出す。
ああ、後悔してばかりだな。
だが、サニーのことに関して、もう二度と後悔はしないだろう。否、僕がそうさせない。
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、サニーがおもむろに顔を上げた。
僕はそれが愛おしくなって、そっと、熱いキスをした。
「コーヒー、冷めちゃったわね」
僕らは二人して、とうに冷め切ってしまったコーヒーを一気に飲み干す。
「冷めてても美味しいじゃないか」
「もう。お世辞はやめてよ」
照れ笑いする彼女にカップを渡し、僕はソファに腰掛けた。
「今日は泊まっていくの?」
外を見ると、日はもう完全に沈んでしまっていた。
「…そうだね。迷惑じゃなければそうしようかな」
僕は照れくささから、そわそわしながら言った。
「今更なに言ってるの、レイニー?」
満面の笑みでサニーが言う。
「…ずっと居ていいのよ」
彼女もまた、言いながら照れくさそうに笑っていた。
僕は思わず彼女を抱き締めた。
一週間。その間、僕たちは抑圧されてきたものを解き放った。失った分の時間を取り戻そうと、あらゆることをした。コロニーの綺麗な夜景を一緒に見たり、美味しい料理をたくさん食べたり、昼過ぎまで二人同じベッドで眠ったりした。
それでも、僕たちには時間が足りなかった。もっと愛し合いたいのに、無情な作戦召集命令は、傲岸不遜にも僕らの間に割って入ってきた。
雲一つない清らかな晴れの日。海鳥たちはやかましく囀っている。
僕らは割り当てられた母艦の、僕の部屋で着替えを行っていた。
「今日から遠征ね。資源が集まるといいけど」
前回と同様、僕らの遠征は、手つかずのまま放置されている陸の資源を回収することを目的としている。だが、僕らの任務は厳密にいうと、陸の資材を回収する間における回収要員の警護だ。
「少しずつだけど、量は減ってるからね。集まるかな…」
その放置資源は、言ってみればただのスクラップだ。しかし、金属資源、というものが現代においてどれだけ貴重なものか。そんな金属資源を狙う輩は、僕ら以外にもやはり存在するもので、陸の連中においても例外ではない。おまけに陸の連中は回収において、圧倒的な地の利を得ている。結果として、僕らは回収量を、毎度少しずつ減らしてしまっているのだ。それでも、今のところは黒字だが、このままではジリ貧だ。
「陸の人たちと和解できればいいのに…」
そう呟くサニーは、どことなく切ない表情をしていた。
そもそも、僕らが陸で暮らさないのには大きく二つの理由がある。
一つは放射線汚染濃度。
陸に比べ海上の方が汚染度合いが低いらしく、多数の生き残りを考えれば、それなりの危険を鑑みてもこちらに分があるそうだ。護衛隊の教育でそう学んだ。
もう一つは理由として…というか原因としては最悪なものだ。…それは、過去の因縁。
僕らの母艦『NOAH』が各地の人間を救ったとき、効率的な生存のために、救う人間を選別したらしい。たとえば、技術者や政治的な実力者、軍人を優先したそうだ。そのとき陸に残された人間が、今の陸の住民だ。
そんなことをされては怒るのも当然なわけで。
現在でもその怨恨は消えずに残っている、というわけだ。
資源の不足しがちな今、サニーの言葉は海の住人の悲願であり、叶わないと分かっている遠き理想郷なのだ。陸に住みさえすれば資源の不足には困窮しないはずだ、とコロニーの人間は常に思っているのだから。
「ま、過去は変えられないものだからね」
思い出せる過去の少なさに僅かに自嘲しながら、僕は言った。
「でも、私たちはどこかで変わらないと、いつまでもこのままでしょ?」
「…それはそうだけど」
実際、どうすることもできないのだ。いっそ『世界を丸ごと改変することのできる力』でもない限りは。
「でも、まず私たちは目の前のことを片付けないとね」
そう言って僕の背後で、特殊スーツに着替え終えた彼女は笑った。
僕たちは軽いキスをして作戦ホールに向かった。
「まもなく本艦は抜錨するが、隊員諸君に重大な報告がある」
威厳ある口調でそう言い放ったのは、あの禿げの上官だ。そういえば名前は何だったか。
「今回の遠征より、諸君の駆る巨人には新技術を用いた機関を搭載した」
ほんの少し、ざわめきが広がる。僕とサニーは知っていたから、特に驚くことはなかった。数秒でざわめきが収まる。ここらは流石に訓練されているだけはある。上官は続けた。
―――要するに、部隊の巨人全てに例の『巨神の心臓』とやらを積み込んだらしい。
僕の戦闘データがどれほど役に立ったかは知らないが、相変わらず、うちの愛すべき変態たちは仕事が早い。そう素直に感心した。
「―――以上だ。抜錨は三十分後だ。第一護衛隊は準備しておくように。解散!」
皆がそろってホールを後にする。僕はまた、途中から何も聞いていなかった。まあ、いつものことなので気にしてはいけない。
「レイニー」
低い声が聞こえた。見まわすと声の主は上官だった。小走りに近づいてくると、部屋に戻ろうとしていた僕を引き留めた。
「お前の巨人、『RAIN』のことについてだが」
ああやっぱりか、と思う。実はあれから一度も、巨人の件ではシグレのところに顔を出していないのだ。 そのことについて上官に伝言を残していたのだろう。流石に巨人のことに関して、メールでのやり取りをするのは安全性に欠ける。
「シグレからですか?」
「ああ、そうだ。…一応、他言無用で頼む」
「どうしたの?」
サニーがやってきた。…タイミングが悪い。
「…あら、お邪魔かしら」
「いや、お前もいて構わん。レイニーのバディだからな」
そのくらいの機密、ということだ。だが、巨人のこととなると軽視できない。僕らの命に関わるからだ。
僕は少し意識して気持ちを切りかえる。
「『RAIN』の機関についてだ。『巨神の心臓』を積んでいることはさっき話したな?だがそれには制限がかけてあるそうだ」
大きすぎる出力に機体のパーツが耐えられなかったことを思い出す。無理な運動を繰り返したとはいえ、それでもやはり信頼性には欠ける、と判断したのだろう。
「レイニー、お前は経験済みだろうが、あれは速すぎて大多数が制御できんそうだ。そのための対策、だ」
そういわれて、仮コード『SNOW』の少女を思い出す。うなじの白い器具は制御を円滑化するために必要だった、ということだろう。やはり、ただの人間には荷が重いのか。
上官の言葉は続く。
「だがレイニー。お前の機体だけは別だ」
「は?」
おっと。つい驚いてとても失礼な発言を。
「…なぜですか」
訊かずにはいられない。
「お前に適性があると判断した」
「はあ…」
溜息とも、相槌とも取れるような気の抜けた言葉が漏れた。
「まあ納得がいかんのもわかる。だが、現状であれを最大限に活用できるのはお前しかいないのだ。他のやつにもできるかもしれんが、そんな博打に賭けるつもりはないからな」
合理的と言えば合理的だ。まあ、前回のように無茶をしなければいいだけの話である。
「とにかく、覚えておけばいい、ですか」
「ああ、そういうことだ。頭の片隅にいれておけ。ではな」
上官は背を向けてホールを出て行った。その背中は、いかにも軍人然として、威厳に満ちていた。
「レイニー、あなた、実は結構すごい人なんじゃない?」
神妙な顔で話を聞いていたサニーは、茶化すように言った。
「実は、は余計だよ」
そう言って僕はサニーの額に軽めのチョップをかました。
出港から三日が経過し、延延と広がる海原の代わり映えしない姿にもそろそろ見飽きてきた。沈みかけた夕日は空に燃えるようなグラデーションを描き出し、反対側の空には既に半分以上が満ちた月が昇り始めている。
「お腹が空いたな、サニー」
「あと五分。集中なさいな」
低く冷たい声色は今までと変わらないが、どことなく優しくなっている気がした。
空腹感は緊張と集中に上塗りされて極限まで薄くなってはいるものの、その集中力を内側からがりがりと削り取っていく。もう帰りたい。
「日が暮れるわ。戻りましょう」
「よし帰ろう!」
夕日の残滓が彼方へと吸い込まれ、辺りは星明りに照らされるだけの、ほぼ完全な暗闇に包まれた。一寸先は闇、というのはこういう感じなのか、などとずれたことを考える。我ながら、何を考えているのか。
僕は巨人『RAIN』の暗視モードを起動する。すると、直前まで真っ黒だった視界が、白っぽい景色に早変わりした。その中には水平線を識別できる程度の明暗が生まれていた。
赤外線をはじめとする不可視波長の微弱な光線を捉え増幅して表示する、旧時代からの技術だ。既に古いと言えるこの技術だが、実はあまり進歩していない。
「うーん。まだ少し見にくいな」
「こればかりは、ね」
愚痴をこぼした僕を戒めるでもなく、同意を示すようにサニーは言う。
レーダーに不審な影が写ったのは、その次の瞬間だった。
ぴぴっ
レーダーの異状を告げる音が、僕らの緊張の糸をぴんと張り詰めさせる。
「こんな時間に敵…?」
サニーは狼狽えるようにして呟く。
通常なら日が落ちる前、明るい時間に作戦行動を起こすのが定石だ。夜間の行動は互いに不利益に働くため、まずありえない。だから、前回のように、闇に紛れて撤退できる日暮れ間際の襲撃が多いのだが、完全に日が暮れてからというのは初めてだ。
ゆえに、僕らは躊躇った。
無線の中継機を設置してきたので、応援要請は可能だ。だが到着には時間がかかる。付近の仲間がすぐに駆け付けてくれもするが、掛かる時間は未知数だ。
僕は、湧き上がる感情の波を抑えながら考え、サニーに尋ねた。
「どうする?ここで食い止めるか?」
「照明弾はある。制限時間は十分ってところね」
「充分だ。いくぞ」
「了解」
十分と充分を掛けた高等な洒落を聞き流しつつ、彼女は照明弾を装填、星の瞬く夜空に撃ち上げた。
間を置いて炸裂した閃光は太陽めいて夜空を塗りつぶし、辺りを真昼よろしく照らし出した。
それを機に暗視モードを切り、僕らは敵機との距離を詰める。僕の方は最大速力とまではいかないが、夜風に紛れるように駆ける。赤い粒子が尾を引いた。
近づくほどにレーダーは正確性を増す。同時に敵機の数は増えていく。その数、十機ほど。そのどれもがそれなりの改造を施された機体だ。両肩には小型のミサイルポッド。片手には大型のマシンガン。それが分かる程に敵は目の前に迫っていた。
「斉射、はじめ!」
レーザーライフルが光線を絶え間なく吐き出し始める。光は流れ星のように飛翔し、一瞬間ごとに敵機に殺到する。数機の装甲を飴のように溶かし、光線は突き抜ける。圧倒的な熱エネルギーに焼かれた装甲は煙を噴き上げる。
だが、かすり傷程度だ。
事前に予測して光線を避けるなど、並大抵のことではない。相当の手練れだ。
敵機群はすれ違うように飛び去った僕らに追い縋り、弾丸の嵐で分断しにかかった。
僕らはそれぞれ逆方向に急旋回し、あえて分断されてやる。
不利には変わりないが、僕らには無尽蔵のスタミナがある。持久戦ならこちらに軍配が上がるだろう。しかし、残り十分と無い猶予はそれを許しはしない。
だから、目的は別のところにあった。
例によって、秘密兵器を用意しているのだ。それは『心臓』が可能にした、文字通りの新兵器だ。
僕はヘルッメットのディスプレイの端にちらりと目をやった。
CHARGE:60%
上々だ。
僕は唇を舐めた。その瞬間を待ちわびるように。
真昼の夜空を駆け抜ける僕たちを、各五機ずつが追尾している。放たれる弾丸は装甲を掠るが、致命打にはならない。
僕は時折、機体を反転させてレーザーを撃ち込む。しかし振り向いた時点で予測されてしまい、直撃はしない。だが確実に、装甲を抉っていく。
しかし、ときには回り込まれ、進路を塞がれ、どこかに誘導されていくのを感じていた。それは戦闘勘というよりは、野性の為せる業だった。
しかし獣と同様に、気付いた時には遅かった。海面ぎりぎりに誘導されていると分かったとき、僕の懐にはウニのような棘付きの丸い物体が。
機雷だった。しかも海中から敵を感知して飛び出してくる特殊なタイプだ。そんなものがあることは知らなかった。敵の技術も日進月歩している、というわけだ。或いは、World Arms社の新兵器か。
何にせよ、珍奇な兵器に僕の反応は遅れた。誰にともない怒りがふつふつと湧き上がる。それに同期するように、赤い粒子は広がる。
爆風にバランスを崩した僕に、畳みかけるように敵の銃弾やミサイルが殺到した。
僕は確信した。
避ける必要はない。
刹那、巨大な爆風が僕を中心にして巻き起こる。爆風が海面を割り、巨大な水柱が屹立する。敵機群は油断なく、爆煙を中心に旋回を続けている。敵に追われ続けるサニーは、持ち前の機動力で敵の誘導を巧みに回避し続けている。
残り五分を切った。
立ち込める煙が晴れたとき、敵機パイロットはどんな顔をしただろうか。そう考えるだけで昂ぶり、思わず笑い出しそうだった。
煙が晴れたとき、『RAIN』は全くの無傷だった。擦過痕こそあれど、それはどれも先ほどの集中砲火によるものではない。
僕の周囲に漂う赤い粒子が一等星のように赤く明るく輝き、しぼんでいく。
きっとそれは、想定されていた機能ではない。だが、僕は直感的に、いける、と思った。
敵機は焦りからか、僕に急接近する。至近攻撃でなら装甲を抜ける、とでも思ったのだろうか。
だが、やつらはこの本質を見誤っている。
それ以前に、僕にはその状況がまたとない好機でしかない。
CHARGE:COMPLETED
僕は嗤った。そして秘密兵器を起動。
それは、実際には何ということもない二本の特殊な金属レールで構成される、たった一基の放電装置だった。
だが、威力のほうはそうはいかない。コイツを使うためだけにサニーと距離を取ったのだから、生半可な威力では許されないのだ。
ほぼ無限の機関から、膨大なエネルギーを喰らい続けたこいつの電圧は、もはや計測の域を超えていた。『心臓』から得た新技術が無ければ保持できないほどに。空気という絶縁体を通してなお、絶縁保護された 敵機の回路を直接焼き切るほどに。
パン
放電は一瞬だった。夜空の短命な太陽よりも強烈な閃光を放って、凄まじい電子の流れが敵機すべての回路を粉々に弾き飛ばした。回路を破壊する目的の兵器だったが、パイロットも無事では済まされなかっただろう。きっとこんがりと焼けている筈だ。流れきれなかった余剰分の電流は、海へと吸い込まれて大量の海水を爆発させた。
僕は満足げに鼻を鳴らした。新兵器の威力には大満足だ。しかし、無差別範囲攻撃、というのはいただけない。…実戦でしか試せないような試作品ならこんなものだろうか。
気付けば残り時間は二分を切っている。
何気なくサニーの様子をうかがうと、敵機の数はもう二機を残すのみだった。
先ほどの閃光を、うまく目くらましに使ったのだろう。巧いものだ。
僕はレーザーライフルを構え直し、真っ直ぐに空を目指した。まるでヨダカのように。
雲を突き抜ける勢いそのままに、僕は赤い粒子をばら撒きながら一直線に敵機のうち一機を弾き飛ばした。一対一なら、きっと今の僕たちは負けない。
弾き飛ばした敵機にライフルを乱れ撃つ。輪切りのレンコンみたいになった敵機はそのまま沈黙し、沈黙を保ったまま海の藻屑となった。
背後で爆風が巻き起こった。僕は結果を知っていたから、何も驚くことはない。ゆったりと機体をそちらに向けた。
「お疲れ」
無線越しの労いに彼女はいつものように答えた。
「それ、フラグっていうのよ」
かと思えば、同じなのは口調だけだった。
「ま、お疲れさま、ね」
そう言って彼女が笑ったのが、僕には分かった。
僕たちはまだ知らなかった。更なる絶望を。
新たな絶望の担い手が、すぐそこまで迫っていることを。
真実を覆い隠す嘘のように、真昼の残り火は消え去る。
残ったのは闇を見下ろす瞳のような月だけだった。