君思い出す
確かにこの感情には名前があるはずだ。少なくとも、自分で存在を、名前を理解している。
けれど、何故だろう。
不意に彼女の声を忘れてしまう。
違うな。思い出せなくなると言う方が正しいか。
もし彼女に言ったりしたら忘れると思い出せないのと何が違うと怒られてしまうかもしれないが。
頭の中で彼女の声を探しても、ぼんやりとしか浮かばない。
まるで薄い雲のような微かで、か弱い存在が頭に浮かんでいるようだ。
思い出したいのに出てこない。喉に魚の骨が引っ掛かった時のようだ。
ただ、あの不快感とは違って、焦燥感や喪失感の方が明らかに強いのだけれど。
「なんで、思い出せないんだろうな」
小さな独り言は、誰かの耳に入るわけもなく一人きりの部屋の空気に吸い込まれた。
例えばもし、こんな言葉を彼女が聞いていたら、涙が零れないように必死になって怖い顔をしただろうか。
それとも困った顔で弱々しく笑っただろうか。
そのすべてはただの想像でしかない。
いつからか、会いたいと言わなくなった。勿論愛情が冷めた訳ではない。
自分の小さな我が儘に、彼女が苦しそうに謝るのが嫌だった。そんな痛々しい声より嬉しそうに弾ませた声を思い出したい。
彼女の笑顔だって考えない日はほとんどない。
日が経つにつれて、彼女の笑顔さえもが、声のように思い出せなくなると思うと怖くて仕方ない。
自分の世界から、彼女が消えてしまう気がしてならないから。
彼女は寒い冬の日に冷たい壁に寄りかかるのが好きだった。
小刻みに震えながら、余計に冷える行動をとる所は、何度見ても理解出来なかった。
同じ場所に座って、何故か安心するような気がした。
壁に背中を預けられる。
何より、いつも彼女がいた場所だからだ。
彼女は、どんな思いでここに座っていたのだろう。
もしも同じことを考えたのなら、自分は彼女の隣に座るべきだった。或いは自分の隣に誘うか。
彼女は拗ねていたんだ。
それは、寂しさ故に。
自分は当然エスパーなんかじゃないから、彼女の考えは分からない。
彼女に俺の考えが分からないことと同じように。
ただ、俺より寂しがり屋な彼女が飄々としている訳がない。俺を想っていてくれるなら。
気持ちの強さが、彼女を上回っている自信がある。その所為で彼女の想いの強さが不安だった。
彼女は今も俺を想ってくれているだろうか。彼女がいつものように笑ってくれれば、こんな下らない疑問いらなかった。
いつか彼女が話した、冗談半分の願い事は叶えられそうにない。
彼女がいなくなってしまった所為で、自分の中の彼女が随分と大きなものになった。全く今さらなのに。
姿を無くした彼女の代わりに置かれた紙。その中には変わらず笑う彼女がいる。
薄っぺらい紙は何の役目も果たさない。
言葉も耳も心も持たない紙をどうして彼女と同じように思えるんだ。
彼女が死んで、自分の世界も死んでしまったようだった。
紙の前に置いた、遅すぎた指輪は自分の指には小さすぎる。
誰かの為に、彼女の為に用意したものは、役目も果たせず埃を被っている。
彼女のいない世界で、明るく過ごすことなんて出来るわけない。
ただ一度、会うことができたら。声が聞けたら。