8
「――……して。いいよ、もう帰るから」
耳に心地よい低めの声が、すぐ近くから聞こえる。
「ああ……まあいい。どうせ向こうも会いたくはなかろう。黙って帰ったところで、気にはされないさ」
頬にぬくもりを感じた。大きな手が添えられている。
無意識に父だと思い、頬をすり寄せる。でも聞こえてきた声は、父のものではなかった。
「ん、気づいたか」
さらりと黒髪を揺らして、セシルが覗き込んできた。
「セシル様……?」
「気分はどうかね」
「はい……」
質問の意味もよく理解しないまま、メロディはぼんやりと彼を見返した。
日焼けしたような麦酒色の肌に、夜色の長い髪。深い青色の瞳。
昼と夜とを、空と大地と海とを、その身に表した姿だ。
艶を帯びた目元に、泣き黒子があるのを見つけた。小さいし、肌の色が濃いから、今まで気づいていなかった。そういえばここまで間近で見つめ合ったのなんて、池に落ちた時以来だ。
とりとめのないことを思いながら、メロディはぼうっとしていた。ふわふわといい気分だった。
「メロディ君? 大丈夫かい?」
セシルが心配そうに頬を軽く叩く。ようやくメロディの意識が、少ししっかりしてきた。
「あ……はい……あれ? わたし、何を……」
頭を動かせば、周囲が明るいことに気づく。
そこは暗い庭園ではなく、建物の中だった。
舞踏会の会場ではない。控室だろうか、こぢんまりとした部屋だ。音楽とざわめきがかすかに聞こえてくる。
メロディは長椅子に寝かされ、セシルに膝枕してもらっている状態だった。
なんでこんな状態に、と考えて、気を失う直前に見たものを思い出した。
「おっ、お化け!」
叫んで、勢いよくメロディは飛び起きた。顎に頭突きをくらいそうになったセシルが、あわててのけぞる。
「お化け?」
「みみみみみ見た、見ちゃった、見ちゃいましたああああぁ」
半泣きになってセシルの胸元にすがりつく。まだそこにいないかと、びくびく周囲を見回す。頭の上で、うーんとセシルがうなった。
「夢を見たのかね」
「ちっ、違っ、本当に、お化けがっ」
「いないよ。落ち着きなさい」
頭を撫でられる。しかしメロディは首を振った。
「ほ、本当に見たんです。いたんですようっ」
「ああ、わかったから。ちょっと、待ちなさい。まだ動かないで……」
「うわああぁん、父様ぁっ」
恐怖に取り乱したメロディは、ここにはいない父を求めて立ち上がろうとした。
その瞬間、ずるりと変な感触が身体を滑り落ちた。
「……?」
見下ろすと、ドレスが変な具合にくしゃくしゃになっていた。胸元を飾っていたはずのレースとリボンが、腹の辺りまで下がっている。
頑丈に身体を縛っていた下着までが、緩んでずり落ちていた。
「――はぇっ!?」
頓狂な悲鳴を上げて、メロディは胸元を押さえた。そこはほとんど肌がむき出しになっていた。
「だから言ったんだ。苦しそうだったから、後ろを緩めたんだよ」
肩に柔らかな重みがかかる。セシルが上着を脱いで、着せかけてくれていた。
「少しだけと思ったんだが、上手くできなくて。結局全部開くような形になってしまった。すまないね」
「い、いえ……お、お手数をかけまして……」
メロディはありがたく上着を借りながら、ずり落ちたドレスとコルセットをかき寄せる。顔と耳が熱かった。
どうりで、すっかり楽になっていたわけだ。
胴を圧迫する不快な苦しさは、なくなっていた。
「こちらの女性の衣装は、窮屈すぎるよね。君みたいに気絶する人は多いらしいよ。そのために、こうした控室まで用意されている。なぜそうまでして身体を締めつける必要があるのかと不思議に思うが」
「……本当ですよね」
気にさせないように、セシルは普通の口調で明るく言う。しみじみ頷くメロディは、気を失ったのはドレスとコルセットが原因だったのかと理解していた。
――ならば、庭園での出来事は、現実ではなかったのだろうか。
セシルの言うように、夢を見たのだろうか。
そんなはずはと思いつつも、だんだん自信が持てなくなってくる。
「団長、馬車の用意ができましたよ」
「おー、気がついたか」
フェビアンとエチエンヌが部屋に入ってきた。起き上がっているメロディに気づいて、それぞれに安堵の表情を浮かべた。
「か、帰るんですか?」
メロディはセシルに訊く。立ち上がった彼は、眉を上げてメロディを見下ろした。
「まだいたい?」
「いえ……でも、いいんですか?」
おそらく、庭園で気を失ってからさほどの時間は経過していない。帰るには早すぎるはずだ。
「構わないよ。義理は果たしたからね。私も、今日は忙しくて疲れた。さっさと帰って休みたい」
そう言ってくれるのは、きっとメロディに気を遣わせないようにという配慮だろう。
申し訳ない気分もあったが、彼の思いやりに甘えさせてもらうことにした。
エチエンヌが寄ってきて、緩めた服を直してくれる。もう帰るだけだから、とりあえず脱げなければいいと、適当に紐を締め、ボタンを止める。
身なりがなんとかなって、椅子から立ち上がろうとしたメロディを、先にセシルが抱き上げた。
「え? セ、セシル様?」
ひょいとメロディを片腕に抱いて、セシルは踵を返す。
「まだ無理はしない方がいい」
「いえっ、もう平気です! 歩けます! 基本的に身体は丈夫です!」
「いやいや、君は具合が悪くてもう耐えられないんだ。だから我々は急いで帰る。と、いうことにしてくれたまえ」
「はあ?」
呆気に取られるメロディにまた上着を着せかけて、セシルは笑った。
「これなら誰も、文句は言えない。チェスター殿下もね。せいぜい、辛そうに寄りかかっていてくれたまえ」
「…………」
呆れて脱力してしまった。
優しい思いやりだと思っていたのに、どうやら本当に帰りたかっただけらしい。
不調を演じるまでもなく、気が抜けてセシルの肩にもたれかかった。
「……でも、この抱き方って、なんか……なんか、違いませんか?」
「ん? 嫌かね? でも横抱きにすると、両手がふさがってしまうからな……なるべく片手は空けておきたいんだ。こんな小さくて軽い荷物なんだし」
「小さいは余計です」
すぐそばの頭をどついてやろうかという気分になる。
「かわいそうに、ハニー。王子様に抱いて運ばれるという、乙女の憧れの状況なはずなのに、どこからどう見てもお父さんと子供だよ」
「筋肉乙女にゃお似合いだろ。どうせ色気もねえんだからよ」
後ろをついてくる二人は、完全におもしろがっている。
メロディは屈辱に耐えながら誓った。明日からもっとたくさん食べて、意地でも背を伸ばしてやる。
おかげで幽霊を見た(かもしれない)という恐怖は、すっかり吹き飛んでいた。
しかし外へ向かう途中の人々の視線が、意味ありげで気になった。
扇の陰で交わされる囁きが、耳に聞こえてくる。
「……エルシー様の亡霊が……」
「やはり……」
「本当に、ご子息をさがして……?」
メロディはそっとセシルの顔を見た。気づいていないはずはないのに、動じることのない静かな横顔だ。そのままの歩調で外へ向かう。
聞きたかった。でも、聞いていいのかわからない。
抱いているのと反対側の手で、セシルがメロディの背中を軽く叩いた。子供にするようなしぐさが、今度は腹も立たず、なぜか切ない。
メロディはぎゅっとシャツをつかみ、彼の肩に顔を伏せた。
エルシー王女の幽霊が目撃されるようになったのは、ここひと月ほどの間らしい。
何人もの貴族が、見たと証言していた。
噂はどんどん広まり、信憑性のないものも増えてくる。明らかに嘘っぽいものも少なくなかったが、昨夜の目撃談に限れば本物だと断言できた。
なにせ、メロディも一緒に見たのだから。
「じゃあ、本当にあれは幽霊だったの……?」
舞踏会の翌日。公爵とその部下たちは、薔薇屋敷のサロンに集まって、会議という名の雑談をしていた。
日当たりのいい南東の部屋は、セシルのお気に入りだ。用のない時はよくここでお茶を飲んだり本を読んだりしている。大きな掃き出し窓からは、緑の芝生と満開の薔薇が見えている。天気がよければテラスへ出て、外でお茶を楽しむこともできる。
室内にはシュルクから輸入したらしい豪華な絨毯が敷かれていた。椅子もあるが絨毯の上に直接座ってもいいように、大きなクッションがいくつも置かれている。メロディにはなじみのない習慣だったが、シュルクではこうして床に座ってくつろぐものらしい。
メロディはクッションを抱えて行って、ナサニエルのそばに座った。大きい人にくっついていると、少しは安心できる。
「幽霊などいないよ」
セシルが興味なさそうに言った。
「で、でも……」
「何かがいるのは事実でしょ。何もいなければ、目撃されることはない。ちゃんと人の目に映る何かが、いるんですよ」
フェビアンの言葉に、メロディはすくみ上がる。
「やめて、フェン。その言い方やめて」
「……ハニー、君いい反応するねえ」
「何びびってんだ、筋肉女がよ」
「だって……」
おびえてナサニエルにへばりつくメロディを、みんなが珍しいもののように眺めていた。
「意外な弱点だったな」
セシルの言葉に、めいめい頷く。
「そうやってると、普通の女の子に見えるよねえ」
「ち、くっつくんならセシルの方へ行けよ。副長まで独り占めすんな」
「だ、だって、この中でいちばんがっしりしてて強くて頼りになりそうだし」
「それは否定しねえが、強いってえならいちばんはジンとセシルだ。あいつらを頼れ!」
「エチ、男の嫉妬は見苦しいよ」
「うるせえ、フェン。ったく、女のこういうとこが嫌いなんだ。騎士になりたかったとか言いながら、てめえも結局男にすがる女かよ」
「そんなこと言ったって、怖いものは怖いんだもん、しょうがないじゃない!」
「お前たち、いい加減にしないか」
間に挟まれたナサニエルが、眉間にしわを寄せる。
セシルはくすくすと笑っていた。
ジンは騒ぎに関心を持つようすもなく、切り分けた菓子を配っている。
片や、優雅な元王子様。片や、童顔で小柄な従者。いくら強いと聞かされても、寄らばの大樹にするには、いささか心許なさを覚えてしまう。
エチエンヌに睨まれても、メロディはナサニエルから離れなかった。
「そんなに怖がらなくてもいいんじゃないのかなあ。噂が本当だとしたら、少なくとも団長やその仲間に悪さをするとは思えないんだけど」
「フェン!」
一瞬怖さも忘れて、メロディはフェビアンをとがめた。今のは、あまりに無神経な発言だと思った。
幽霊はエルシー王女――セシルの母だと、言われているのだ。
そんな話を、そもそもセシルの前ですること自体、申し訳なく思う。
だが当の本人は気にするようすもなかった。
「幽霊などいないよ。そんなものは、ただの幻だ」
醒めた口調で言う。
「まあ幽霊かどうかはさておいて、何かがうろついてるのは事実なんですよ」
「そもそもなんでそれが、セシルの母ちゃんだってわかるんだよ」
母ちゃんって――と、メロディは呆れてエチエンヌを見る。王女に対する表現ではないだろう。
「言ってるのはみんな、年配の人ばかりだからね。過去にエルシー姫と会っていて、その姿を記憶に残している人たちだ。今はもういない人が、昔のままの姿で現れた。だから幽霊だって騒ぎになったんだよね」
「そいつらの見間違い、あるいは他人の空似って可能性は?」
「どうだろうね。僕は見てないし、エルシー姫のことも知らない。何とも言えないな。ハニー、君はじっさいに見て、どう思った?」
みんなから注目されて、メロディは口ごもった。怖くて思い出したくもないけれど、そういう記憶に限ってしっかり脳裏に焼きついている。ただそれを、この場ではっきり口に出すのはためらわれた。
「私のことなら気にしなくていい。幽霊など一切信じていないからね」
「な、なんでそんな自信たっぷりに言えるんですか。いるかもしれないじゃないですか」
「いないよ。いるなら、もっと早くに出てきているはずだ」
セシルは静かに言った。
「あれほど帰りたがっていた故郷なんだ。幽霊になれるなら、亡くなった後さっさと飛んで帰ってるだろう。十年も経ってから現れるなんて、おかしいじゃないか」
「…………」
「母だけじゃない。他にも、幽霊になりそうな者は大勢いる。だが誰も、出てきてなどくれなかったよ」
誰のことを思って言っているのだろう。メロディは静かな顔を見つめる。
むしろ出てきてほしいといった雰囲気だ。幽霊でもいいから会いたいと思う人が、セシルにはいるのだろうか。
「ハニー?」
フェビアンにうながされて、メロディは我に返った。
「ええと……見たのはほんの一瞬なんだけど……若い女の人だったの。暗くてはっきりはわからなかったけど、多分金髪の……セシル様に、よく似た人」
いくら否定されても、昨夜のことを思い出すと、ぞっと背筋が粟立つ。
セシルは軽く息をついただけで、何も言わなかった。
ナサニエルはそんな彼を、気づかわしげに見守っている。エチエンヌはどうでもよさげなふりを装い、ジンは相変わらず感情の読めない無表情だ。
一人フェビアンだけが、場違いな明るい声で言った。
「団長に似た女性、つまりエルシー姫に似た人物であるという話は本当だったわけだね。さて、ここでもう一つ、興味深い話がある。昨夜僕らが会場で聞き込みした結果判明したことなんだけど、幽霊が現れたと言われている場所や日時にね、ある法則があったんだ」
「法則?」
いつの間にそんな聞き込みをしたのだと思いつつ、メロディは続きを待つ。全員の関心を引けたと確認して、フェビアンは言った。
「でたらめな情報は省いて信憑性の高いものだけに限るとね、夜会や園遊会や舞踏会――つまり、大勢の貴族たちが集まる場所で目撃されている。最近噂になったのは、社交の季節になったからとも言える。茶会や食事会のような、少人数しか参加しない限られた空間内での集まりでは目撃されていない。大勢の人間が集まって、ちょっとくらい予定外の人間が混じっても気づかれないような場所ばかりだ。そして――これがいちばん重要なんだけど」
一旦言葉を切って、フェビアンは全員を見回した。
「その集まりには、必ずシャノン公爵が出席していた」
「…………」
思わずメロディはセシルを見た。
セシルのいる場所に、エルシー姫の亡霊(?)が現れる。
それでは息子をさがしているという、噂のままではないか。
「と、いうのが、僕らの調査結果です。ね、団長? これはもう、放置しておけませんよね」
「…………」
「一度や二度ならともかく、こう何度も続くようじゃいろいろまずいでしょ。社交界をちょっとにぎわせてる程度で済んでるうちに、手を打った方がいいと思うんですが」
セシルは息を吐いた。
「そうだな……いい加減、やめさせるか」
しかたなさそうに、彼は言った。
メロディは目を丸くした。やめさせるって、誰に、何を?
――誰かが、わざと幽霊騒ぎを起こしているということなのだろうか。
「はーい、団長のお言葉が出ましたので、決定でーす。では、引き続き幽霊退治の作戦会議に移ります!」
「ゆっ、幽霊退治!?」
悲鳴のようなメロディの声に、フェビアンはにっこりと微笑んだ。あまりに爽やかすぎて、逆に腹の内を勘繰らずにはいられない笑顔だった。
――どうしよう。なんだかものすごく黒く見える。
内心おののくメロディには構わず、彼は言った。
「出てきてくれるのを待つなんて面倒くさいですからね。こっちから仕掛けて、引きずり出してやりましょう。とっつかまえて、たっぷりお仕置きしないとね。ふふふ」
心底楽しそうに、フェビアンは笑う。
メロディは心に刻んだ。
けっして、彼を敵に回してはならないと。