7
チェスターとの一部始終を、ファラーは近くで見ていたらしい。
「よく辛抱なされましたな。ご立派でした」
ファラーはセシルを労った。
「チェスター殿下にも困ったもので。あの方は、王位を継げなかったことを根に持っておられるのですよ。唯一の男子だから、当然ご自分が王位に就くものだと思っていらしたのです。わが国は長子相続制だというのにね」
その恨みがゆがんだ形となって、セシルへの八つ当たりに変化しているのだ。王になりそこねたという点では同じながら、二人の立場や状況は違う。セシルを見下しあざ笑うことで、チェスターは自尊心を満足させているらしい。
とうに承知していることだった。他人が気にするほど、セシルは腹も立たないし傷つくこともない。ただくだらないと思うばかりだ。
「ありがとう。でも、悪口を言うだけで満足しておられるのだから、私から見れば可愛いものだよ。剣も矢も飛んでこない。無害なお方だ」
おっとりと返す言葉の裏にあるものを察し、ファラーは表情を改めた。
「……かの国の方は、大いに有害ですな。いまだにあなたを狙っておられる」
声を落としてファラーは言った。
「追放までしておきながら……」
「追放、ね」
穏便な表現に、セシルは薄く笑った。じっさいは、そんなのんびりしたものではなかった。
王位を巡る問題の決着は、武力によってもたらされた。セシルは殺されそうになったところを、危うく逃げ出してきたのだ。
ほとんど着の身着のままだった。一緒に逃げられたのはジンだけだった。宮にいた召使たちは、おそらく誰も生きていないだろう。自分が逃げるのに精一杯で、助けてやる余裕もなかった。
生まれ育った宮殿を、己の足で走って出た夜のことは、きっと生涯忘れられない。
行くあては母の祖国だけだった。だが船を使えばひと月で来られる距離も、一年かけて陸路をたどるしかなかった。海の上では襲われても逃げ場がない。国から出たくらいであきらめてくれるほど、あの兄は甘くない。追手はどこまでも、執拗に襲ってきた。
今こうして無事に生きていられるのは、ひとえに師匠のおかげだ。自分とジンを幼い頃から鍛えてくれた人は、襲撃があるだろうことを予測していた。文無しで逃げても行き倒れるだけだと、宝物蔵からごっそり奪ってきた財宝を放って寄越し、自身は宮に残って刺客を引き受けてくれた。無茶な目にばかりあわされて、優しくされた記憶などひとつもない相手だったが、彼のおかげで今がある。
あの夜とは別世界のような、呑気な光景を眺める。遠くにチェスターの姿も見えた。取り巻きに囲まれてご機嫌なようすだ。
チェスターはセシルが、普通に国を出てきたと思っている。当時の経緯を知れば、さぞ喜んで大笑いすることだろう。
「兄は私が、イーズデイルを後ろ楯にして、王位を奪いに来ることを恐れているのだよ。敵には容赦ない強い人だが、反面臆病なところもある。ある意味、実に王にふさわしい人だ。私の首級を上げるまでは、けっして安堵できないのだろうね」
「あなたはそれを、いつまで我慢なさるのですかな」
ファラーの声がさらに低くなった。
目を戻せば、おそろしいほどに真剣なまなざしにぶつかった。
「まともなやり方ではなく、暗殺という手段で王位を手に入れたような人を、許しておかれるのですか。本来ならあなたが王になっていたはずなのに。不当に奪われたものを取り戻そうとは思われませんか。まさしく、イーズデイルを後ろ楯として、戦われればよいではありませんか」
セシルは首を振った。
「不当か正当かは、人によって受け取り方が違うだろう。シュルクでは、兄のやり方はさして問題視されていない」
「我々には到底受け入れがたいことです。そのような人物を王に戴く国となど、安心して付き合えません。あなたに、かの国の王位に就いていただきたい」
「無茶を言う」
セシルはファラーに背を向けた。
「そんなことを言ってると戦争になるよ。陛下は国民を戦に駆り出すことなど、望んでおられないだろう。私もね、今の暮らしが気に入ってるんだ。もう面倒なことは御免だよ」
再び歩き出した彼に、ファラーはついてこなかった。
ただ言葉だけが背中にぶつけられる。
「あなたのために命を落とした家臣たちの、仇を討とうとも思われないのですか」
「…………」
思わず足が止まる。
それでもセシルは振り返らなかった。
「戦ったところで、彼らが生き返るわけじゃない。死者の数が増えるだけだ」
我ながら、言い訳じみた答えだと思った。自嘲の笑いがこぼれた。
隣に座る人物を、メロディは信じられない思いで見つめていた。
どこからどう見ても、美しい娘だ。女のメロディですら胸が高鳴るような、なまめく色香をただよわせている。それなのに、花のような唇から漏れるのは、
「馬鹿面さらしてんじゃねえよ。いい加減口閉じろ」
――この、粗雑きわまりない男の声。
詐欺だと、大声で叫びたい。さっきの女声、女言葉はどこへ消えたのか。
「エチ……きれいだね……」
脱力しながら、そう言うしかなかった。
女装のエチエンヌは、ふふんと笑った。
「たりめーだ。オレはあんたと違って、自分を磨くことに手抜きしねえからな」
ならついでに、その口調も何とかしてほしい。
「でも中身が男じゃちっともありがたくないけどね。僕はハニーの方がずーっと可愛くて魅力的だと思うよ」
二人の前にはフェビアンが立っている。こちらも、どこの貴公子かといういでたちだった。
「ふたりとも、いったいその格好は何ごとなの。どうしてここにいるの」
彼らが追い払ってくれたおかげで、今は知らない人に取り囲まれることもない。気兼ねなく話せるのがありがたい。
「うちの親父も一応子爵なんでね。公爵に恩を売る機会だと言ったら、快く招待状を譲ってくれたよ」
「ふうん……って、フェン子爵家の息子だったの? 長男? 次男?」
「一人っ子でーす」
「ならなんでセシル様にお仕えしてるの。わたしにはありえないとか言っときながら!」
フェビアンはおどけるように笑った。
「いや僕の場合も一般的とは言えないんでね。親父は庶民出の婿養子だよ。金だけは持ってる成金が没落貴族の娘と結婚したっていう、ありがちな例。いずれは家を継ぐことになるだろうけど、商売にはあんまり興味なくてねえ。親父も退学になってすごすご帰ってくるようなドラ息子は許してくれなくてさ。自力で出世しろって放り出されちゃったんだ」
「……はあ」
それぞれの家庭には、それぞれの事情があるものだ。
メロディは感心とも呆れともつかない気分とともに、納得するしかない。
「で、社交界デビューの感想は? 早々と脱落しちゃってるけど、少しは楽しめた?」
「まさか、覗きに来たの?」
半眼になるメロディに、フェビアンは悪びれずに皿を差し出す。料理や菓子がたくさん乗っていた。
「君があまりに危なっかしかったから、心配だったんだよ。食べないの? お腹空いただろ」
「無理。とても入らない。下手に食べたら戻しちゃいそう」
いつもならうれしい心遣いも、今は辞退するしかない。
代わりにエチエンヌが皿を奪い取り、遠慮なく口に放り込んだ。
「ちょっと締めすぎかな。でも、他にも理由がありそうだね」
彼らはいつからいたのだろう。チェスターとのやり取りは、見ていたのだろうか。
見ていなかったとしても、何があったのかは承知しているようすだった。
「セシル様は……イーズデイルの人々に、どう受け取られているんだろう。いつも、あんなひどい目にあってるの」
セシルがイーズデイルへやって来てから、一年が経過している。メロディの知らない一年間を、二人は見てきたはずだ。
「大半の貴族は、冷やかし混じりに成り行きを見守ってるってとこかな。王弟殿下ほど露骨に敵視する人は滅多にいないよ。このまま団長が、公爵として着実に足場固めをしていけば、彼らは親しく付き合おうとするだろう。でももし風向きが変わるようなことがあったら、一斉に離れていくだろうね」
「そんな」
「有益な相手とはぜひお近づきになりたいけど、変に巻き添えくらうようなことになっちゃ困る。ま、当たり前の心理だよね。一見華やかな社会でも、みんな神経つかって周囲の動向に目を光らせてるのさ」
「上品ぶって飾りたててるくせに、中身はろくでもねえな」
「何を今さら。世界の常識だよ」
鼻を鳴らすエチエンヌに、フェビアンは笑い飛ばして見せた。
メロディはとても笑える気分ではなかった。
利用価値があれば近づき、なければ放り出す。それはあまりに利己的なふるまいではないか。誰もがセシルをそんなふうにしか見ていないのだとしたら、悔しいどころでは済まされない。ひどすぎる話だ。
唇を噛む少女に、フェビアンは諭すように言った。
「ひどいと思うのは、一方的な見方だよ。誰だって、自分と自分の家族を守りたい。領地と領民を守らなきゃいけない。おかしな相手と関わり合いになって、余計な危険を招き入れるわけにはいかない」
「…………」
「君もね、単純な正義感じゃなくて、もっと広い目で見て考えようね。もし団長と結婚したら、彼に降りかかる災難はエイヴォリー家にも降りかかる。オークウッドの領民たちの暮らしにも関わってくる。それを踏まえた上で、彼と結婚しようと思えるかどうか。なかなか重大な決断だよ。同情してる場合じゃない」
メロディは驚いて顔を上げた。
主を弁護するどころか、見捨てた方がいいと言わんばかりの言葉だ。軽薄でふざけたことばかり口にしていても、フェビアンはセシルを主として認めていると思っていた。それがこんなことを言うなんて、信じられない気分だ。
「でも、父様は……」
「アラディン卿にはアラディン卿の考えがあって、君を団長に引き合わせた。でも、君は君で考える必要があるよ。何も考えず言われるままに従えば、いつかそれを後悔することになる。貴族の結婚なんてほとんど政略と打算の産物だけど、どうせなら幸せに暮らせる方がいいからね。どんなことが起きたって、自分で決めた道なら納得できるだろ」
「…………」
「そいつは、てめえの経験談か?」
冷やかな声でエチエンヌが口を挟んだ。フェビアンは軽さのない笑顔で答えた。
「そうだね。親父は貴族の肩書を手に入れて、母は贅沢な暮らしを手に入れて、互いに満足している。愛情のない冷めきった関係でも、幸せな結婚だと言うよ。自分に何が必要かを考えて決めた結果だから、納得できてるんだ。それもまた、正しい判断だよね」
メロディはふらりと立ち上がった。
静かなところへ行きたかった。ここはにぎやかすぎる。混乱した頭を鎮めるには、人のいない場所が必要だ。
「どこ行くの」
「……ちょっと、外の空気を吸ってくる。気分が悪くて……」
「マジに大丈夫かよ。顔色悪いぞ」
「うん、ここ暑いから……外で休んでくる」
「一人で大丈夫? エチ、一緒に……」
「ごめん。ひとりにして」
メロディは二人から顔をそむけた。今は誰とも話したくない気分だった。
「落ち着いて、ゆっくり考える……セシル様が戻ってくるかもしれないから、ここにいてね」
背を向けて歩きだせば、ふたりはついて来なかった。
歳は近くても、彼らはメロディよりずっといろんなことを知っている。田舎で気ままな暮らしばかりして、世の中の難しいことなんて両親に任せきりで、メロディは何も知らず、何も考えずに育ってきた。無知で世間知らずな、本当に子供だった。
いろんな気持ちが胸の中をうずまいていた。チェスターや貴族たちに対する怒りもあった。悲しさもあった。でもそれだけでは済まされないことも知った――教えてもらってやっと気づけたという事実に、情けなさも覚えた。
父が本当のことは教えずにメロディを送り込んだのも、自ら知って、考えさせるためだったのだろうか。最初から嫁に行けと命じたのでは、メロディが自分で考えることはなくなる。たとえ不満はあっても、尊敬し信頼する父の言葉に逆らおうとはしなかっただろう。でも、それではいけない。メロディ自身の人生を決めることなのだ。だから、何も言わなかったのではなかろうか。
会場の外には庭園があった。篝火が焚かれ、建物近くでは同じように喧騒を逃れてきた姿をまばらに見かける。連れ立って談笑している人々もいた。彼らに気づかれないよう、メロディはさらに建物を離れ、庭園の奥へ向かった。
人けのない静かな場所まで歩いても、足元に不自由することはなかった。振り返れば巨大な松明のように、離宮は煌々と夜景の中に浮かび上がっている。
異常な眺めだった。
田舎の夜は静かで暗い。聞こえてくるのは、風の音と生き物たちの息づかいだけだ。
月がなければ一歩も歩けない闇が訪れる。けれどそれは、心地のよい闇だった。一日の疲れを癒し、団欒や眠りを包み込んでくれる穏やかな静寂だ。
ここにはそんな夜は訪れない。闇を拒むようになおも明るく照らし出し、その中でたくさんの人々が、さまざまな思いを抱えてうごめいている。
暑かったはずなのに寒気を覚えて、メロディは腕をさすった。
その時だった。誰もいないとばかり思っていたすぐ近くの場所から、かすれた悲鳴が聞こえてきた。
メロディは反射的に声の主を探した。足を早めて、声がした方向へ向かう。
植え込みが途切れて、小さな休憩場が現れた。可愛らしい噴水とベンチがある。そこからずり落ちて、一人の婦人が地面にへたり込んでいた。
「どうなさいましたか」
メロディは婦人に駆け寄った。
メロディの母と同じ年頃だろうか。その人は何かにひどく怯えたようすで、がたがたと震えていた。
「奥様? 大丈夫ですか? しっかりなさってください」
肉付きのよい身体を支えて、メロディは声をかける。それに気づいているのか、いないのか。うわごとのように、婦人は呟いた。
「エルシー姫様……」
「え?」
どこかで聞いた名だと思いながら、メロディは婦人が見ている方へ目を向ける。
音もなく、物陰を動く人の姿があった。
若い女性だった。暗さと距離のせいで瞳の色はわからないが、明るい色の髪をしている。身にまとうドレスは派手なほどに華麗なのに、けっして下品にはならない高貴さがある。
こちらを見る顔は美しかった。凛とした中にも艶やかさを帯びた、印象に残る美貌だ。
それが誰かに似ているような気がして、メロディは訝しむ。するとまた、腕の中の婦人が呻いた。
「あ、ああ……姫様……どうして……」
――姫?
今にも白目を剥きそうな婦人を見下ろしながら、はたとメロディは気づく。
エルシー姫。その名前は知っている。
父から聞いた名だった。異国へ嫁いだ、女王の妹姫。
セシルの母親だ。
さきほど見た顔は、たしかにセシルによく似ていた。彼よりずっと線が細く、身にまとう色彩も淡いため印象は少し違うが、ここしばらくで見慣れた顔だちだった。
だが。そんなばかなと思う。
エルシー姫はもう十年も前に、遠い異国で亡くなっている。ここにいるはずのない人だ。
脳裏に、チェスターの言葉がよみがえった。
――亡き王女の亡霊が現れるそうだ。
ただの意地悪なあてこすりだと思っていた言葉が、頭の中にわんわんとこだまする。
亡霊。そんなばかな。
メロディはおそるおそる顔を上げた。もう一度よく確かめようと、先程の場所を見る。
目を離したのは、ほんの少しの間だった。まだそこに、人の姿はあるはずだった。
だがどこにも見つからない。煙のように消え失せて、無人の暗い庭園が広がるばかりだ。
背中に冷たい汗が流れた。頭がくらくらして、身体から力が抜けていく。代わりに鼓動は苦しいほどに乱れ、息もままならない。
目の前がかすんでいく。先に婦人の方が気を失い、寄りかかってくる重みを感じた。それが最後の記憶だった。