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薔薇の騎士団  作者: 桃 春花
第三話 きみがほしい
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16 逃げはゆるさない

 頬にふれる冷たさに、リリアンは悲鳴も上げられずに硬直した。

 ほんの少しセシルが動かせば、鋭い刃が柔らかな肉を切り裂くだろう。ぱくりと開いた傷口から真っ赤な血が流れ出る光景を想像し、冷たい汗が浮いてくる。

 刃を下へずらせば、首筋が無防備にさらされている。そこを切られたらどうなるかくらい、リリアンだって知っている。乱れそうな呼吸を彼女は懸命になだめた。

 よもやそこまではしないだろう。これは単なる脅しのはずだ。無抵抗の女を、それも貴族の令嬢を傷つけるなど、許されないおこないだ。そんなことをすれば公爵の方が罪に問われることになる。本気で傷つけてくるはずがない――そう思うのに、見下ろしてくる眼の冷たさが恐怖を駆り立てる。本物の殺意があるようにしか思えなかった。

 驚いていたのはリリアンだけではなかった。メロディも、仲間たちも驚いている。彼らにとっても、セシルのこんなふるまいは初めて見るものだった。エチエンヌは、彼が刺客を返り討ちにするところを何度も見てきた。初めの頃は悪魔にしか思えず怯えていたものだが、あれは身を守るための戦いで、今の状況とはまったく異なる。セシルの方から人を傷つけようとしているところなど、一度も見たことはなかった。

 騎士たちが驚くほどなのだ。荒事を見慣れていないヘクターやジモン村の村長などは、真っ青になっている。

 そろそろとフェビアンが戻ってきて、ジンにささやいた。

「今、確実に団長は怒ってるよね。間違いじゃないよね、あの人怒ってるでしょ?」

 仲間の注目を受けて、ジンはうなずいた。

「はい。かなりお怒りです」

 メロディは仲間と顔を見合わせた。

 いったいセシルに怒りという感情はあるのだろうか。そんな疑問をずっと持ち続けてきた。誰も見たことのなかった光景が、今目の前にある。

 それは想像よりもずっと静かで、けれど息詰まる緊迫感に満ちていた。

「ねえ、もしかしてシュルクでは、王族によるお手打ちとか普通にある?」

 ふたたびフェビアンに問われ、またもジンはうなずいた。

「王族に逆らった臣下や機嫌を損ねた奴隷が首をはねられることは、さして珍しくありません」

「団長がやったことは?」

「……一度だけ」

 常と変わらない無表情の中にも、少しばかり緊張があることを仲間たちは察した。

「セシル様の宮に仕えていた女奴隷が、暴行されたうえに殺されたことがございます。むごい殺され方でした。さんざんに殴られたあと、まだ息があるうちに油をかけて焼かれたのです」

 顔が歪むのをメロディは抑えられなかった。どんな神経をしていればそんなむごたらしい真似ができるのだ。まともな人間のすることではない。悪魔の所業ではないか。

「セシル様はたいそうお怒りになり、犯人を捕らえさせました。下位とはいえ、こちらの貴族に相当する身分の男で、他の王族とのつながりもございましたが、かまわずに死をお命じになりました。己が与えたものと同じ苦しみを味わえと――ご自身の手で打ち据えられたのち、火をかけられました」

「…………」

 これもまた、平静な気持ちでは聞けない話だった。

 目には目を、というわけか。殺された女性の苦痛と恐怖を思えば、けっしてやりすぎだとは言えない。当然の報いではある。しかしそうは思っても、実際に自分の手で実行するとなれば、躊躇する人間の方が多いのではないだろうか。

「……亡くなった人は、セシル様にとって特別な人だったの?」

 復讐せずにはいられないほどの想いがあったならば、理解はできる。

 ジンはほんの少し首をかしげてメロディを見返した。

「恋人という意味でお尋ねでしょうか。それならば違います。使用人の一人にすぎませんでした」

「なのに、復讐したの?」

「復讐というのは、逆上し、怒りの衝動に突き動かされた行動を指すと思いますが……セシル様はそうではなく、ただ許さないとおっしゃったのです。罪にふさわしい罰を受けよと」

 許さない――それは、先程リリアンにも向けられた言葉だ。

 リリアンにも罰を与えようとしているのか。それは一体どんな罰なのか。メロディは二人に目を戻した。

 こちらの声が聞こえていたようで、プラウズ伯爵があわてて椅子から立ち上がった。

「お、お待ちを。どうか、お赦しを。娘は少々悪ふざけが過ぎただけで、深く考えての行動ではなかったのです。私からきつく叱っておきますので、どうか……」

「人の財産を盗むような親が叱ったところで、意味も効果もあるまい。その程度で許せる罪ではない」

「し、しかし、結局は未遂で、何事もなかったわけですし」

「結果は関係ない。明確な悪意をもって行動したのだから、罪は罪だ」

「……なるほどね、そこが団長の怒りポイントなのか」

 どこか感心した声でフェビアンがつぶやいた。

「悪意で人を害そうとするのがまずいんだな。身内に手出しされたってのもあるのかな」

 ジンを見れば、三たびうなずきが返ってくる。

 言われてみればたしかに、本人からも聞いたことがあった。悪意で人を傷つければ怒ると言っていた。メロディもうなずくが、少しばかり引っかかりを覚えた。

「でも悪意って言うなら、今までだっていろいろあったよね」

 薔薇の騎士たちはさんざん嘲笑されてきたし、セシル自身も叔父であるチェスターの悪意をぶつけられてきた。それらは泰然と受け流していたのに、何が違うのだろう。

「馬鹿にして悪口言うくらいなら許せるんだろう。けどあのお嬢様は、それ以上のことをしちまったからな」

 エチエンヌが言った。リリアンはメロディを排除しようと実力行使に出たことで、一線を越えてしまったのだ。

「相手があんただから笑い話で終わったけどよ、これが普通のかよわいお嬢様だったらどうなってたと思う。結構シャレにならねえことをしたぜ、あの女は」

「……そうだね」

 もしも悪意を向けられたのがダイアナだったなら。あの場にメロディもエチエンヌもいなかったらどうなっていたのか。

 それを考えると、セシルの怒りは不思議なものではなかった。

 伯爵にも親としての愛情は普通にあるようで、必死にリリアンをかばい、セシルに赦しを訴えている。勝手なものだと軽蔑することもできるが、なんだか哀れに見えてきた。

「……たしかにリリアン様にも罰は必要だけど、剣を持ち出すのはいきすぎだよね」

「状況次第かなあ。被害者が王族だったら問答無用で死罪だよ。これがシュルクなら裁判もなしにその場で殺されるかもね」

「さすがにリリアン様だって王族に同じことはしないと思うけど……わたしは王族じゃないんだし、怪我ひとつしてないし、ここはシュルクじゃないよ」

 フェビアンは小さく笑ってメロディを見た。エチエンヌやジン、ナサニエルにも注目される。生真面目に見返す少女に、フェビアンは優しく尋ねた。

「ハニーは、それでいいの?」

 メロディは、はっきりとうなずいた。

「いきすぎた罰もよくないと思う。罪を裁く時は、最大限冷静に見極めて、相応の処罰を検討するものだって父様が言ってた」

 メロディの父も領主として、領内の犯罪に対処することがある。常に公平に、そして冷静に決定をくだしてきた父の教えは、メロディの中にしっかりと根付いていた。

 笑みを深くして、フェビアンはセシルに声をかけた。

「聞こえてるでしょ、団長。ハニーにドン引きされてますよ。このままじゃ嫌われちゃいますよ」

「引かれたのは君だろう」

 少しだけ声を柔らかくして、セシルは剣を引いた。

「私は君ほど加虐的ではないよ。許さないとは言ったが、処刑するなど言っていない。できることでもないしね」

「しかねない雰囲気に見えるからみんなびびってるんですよ。令嬢相手に剣を突きつけるなんて、いい趣味じゃないですよ」

「不快なたわごとを延々聞かされたくはなかったのでね。黙らせるには、これがいちばん効果的だ」

 引いた剣を膝には戻さず、セシルは横に預けるしぐさをした。すかさずジンが向かい、受け取って自身の腰に戻した。話の直前に、セシルが抜き取って借りていたのだった。

 メロディはほっと胸をなでおろした。よかった、やはりセシルは冷静な人だ。感情にまかせて暴力をふるうことはない。

 一度だけ自ら手をくだしたという処刑も、そうする経緯があったのだろう。

 伯爵と執事も息をつき、その場の空気がなごみかける。しかし一人、おさまらない人が低く声をしぼり出した。

「……どうして」

 目の前に突きつけられていた剣がなくなり、ようやく動けるようになったリリアンは、怒りと恨みに燃える目でセシルを見上げてきた。

「どうして、わたしがこんな扱いを受けるのよ……ありえないわ! 今まで誰からも、こんな無礼な扱いを受けたことはなかったわ! どうして、こんなことになるのよ!?」

「リリアン!」

 伯爵が黙らせようと叱りつけるが、令嬢は聞いていなかった。怒りに満ちた目をメロディにも向けてきた。

「わたしのどこがあの子に劣るというの!? あんな、醜く日焼けして、コルセットもつけずに太い身体をさらして、男みたいに髪を振り乱して走り回る野蛮人! 同じ女とも思えない山猿のどこがいいというのよ!?」

 メロディは呆気にとられて、ぽかんと口を開いてしまった。今はそういう話をしていたわけではないはずだが。なぜそっちに流れるのか、理解が追いつかない。

 いろんな意味で女らしさとは無縁なメロディには、彼女がなぜあんなに怒っているのかわからなかった。

 仲間たちの方はというと、多少は理解していた。たしかにリリアンは美しく、魅力的な肢体も持っている。これまで男たちからちやほやともてはやされ、口説かれてきたのだろう。そう扱われることが当たり前だった少女には、自分の魅力になびかない男の存在など認められないのだ。ましてそこに他の女が絡んでいるとあっては、絶対に許せないのだろう。

 フェビアンとエチエンヌが、両横からメロディの肩を叩いた。

「気にしなくていいよ、ハニー。君は醜くなんかない。誰が見ても絶世の美少女だって言うから。本当に」

「あの女に比べりゃたしかに太いしそのくせ胸元だけさっぱりしてるけどよ、贅肉で太ってるわけじゃねえ。鍛えて引き締まってっから見栄えは悪くねえよ」

「え、あ、うん……?」

 ふたりを交互に見て、わけもわからずメロディはうなずく。話についていけないが、なぐさめてくれたことはわかった。よくよく考えると山猿と評されたことはどちらも否定していないのだが、今のメロディにそこまで気付くことはできなかった。

「醜悪な人間ほど、己を知らないものだ」

 セシルの声は変わらず静かだった。

「少なくとも私はこれ以上、君と関わりたいとは思わない。君に対する罰だが、実質的な被害はなかったことと、まだ十代だということも考慮して、公式に訴え出ることはしない。ただし、すべての経緯をフェアクロフ夫人に報告しておく」

「な……っ」

 父と娘はそろって絶句した。

「こ、公爵様、それは……」

 抗議しようとする伯爵をセシルは視線だけで黙らせる。

「どういう人格なのか、どういうふるまいをしたのか。正しい情報は共有されるべきだろう。今後また誰かが被害を受けることのないように。そして通常の交際はもとより、縁談の際にも注意事項としてあらかじめ承知しておけるようにね」

 聞くうちに、リリアンの顔から怒りが抜け落ちて、みるみる青ざめていった。セシルが言ったのはつまり、イーズデイルの社交界にリリアンの悪行を周知させるということだ。女王の叔母にあたるフェアクロフ公爵夫人は、社交界の、特に女性たちの間で絶大な権威と発言力を持っている。彼女に問題のある人物として認識されれば、以後どこへ行っても冷たい扱いを受けることになる。最悪二度と人前に出られなくなるだろう。

 いまだに反省などまったくしていないリリアンだったが、今回の一件を言いふらされてはまずいということくらいは理解していた。彼女にとっては、暴力をふるわれる以上に厳しい処罰だ。

「公爵様、そのようなことをされては、リリアンはもう結婚もできなくなります。どうかご容赦を」

「それの何が問題かね? 何も知らない人物がだまされて結婚することになれば、そちらの方が気の毒だ。よくよく注意しなければならない相手だということを、事前に知らしめるのは当然の話だろう」

 伯爵の懇願を、セシルは素っ気なく突っぱねた。

「自分だったらどう思うか、考えてみたまえ。気に入らない相手を遠ざけるために、ためらいもなく犯罪行為をおかすような女性と結婚したいかね。他者を害して悪びれない人物と友人になりたいかね。そういう本性を隠されていたら、知った時に恨むのではないかね」

「…………」

「心配しなくても、フェアクロフ夫人は公正な方だ。必要以上に悪い噂をばらまいたりはなさらない。心を入れ替えて、自分で言ったとおり二度と悪事を働かなければ、そうした努力も認めてくださるだろう。ただし、うわべだけとりつくろってごまかせるとは思わないように。夫人はそんな芝居に騙される愚かな人ではない」

 リリアンは顔を覆って泣き始めた。細い肩をふるわせて、いかにも悲しげな声を漏らす。

「そんな……ひどい……そこまで……」

 本気で泣いているのか、これも芝居なのか。あまりに自然で判断がつかない。どちらであれ、もはや同情する者はいなかった。

 セシルはリリアンを無視して、壁際のジェラルドへ目を向けた。

「最後に、ジェラルド君の処遇だが」

 自分に話が向けられて、ジェラルドはびくりと身体を揺らした。はじめ、彼はふてくされ、周囲に怒りを向けていたのだが、これまでのやりとりを見るうちにすっかり勢いは失せ、小さくなっていた。セシルに注目されて震え上がる。父と同じく腑抜けた公爵だと馬鹿にしていた相手に、いまやすっかり怯えていた。

「……まあ、もう十分に罰はくだされたようだな」

 水に突っ込まれて拷問を受け、顔は青黒く腫れ上がったまま。歯が二本折れている。衣服も乱れた悲惨な姿に、さすがにセシルも厳しかったまなざしを緩めた。

「とんでもない。まだ足りないでしょ」

「フェビアン君、さっき私に何を言った?」

 部下の抗議は一蹴する。

「誘拐未遂に監禁未遂、さらには暴行未遂か――たしかに、彼も犯罪としか言えないことをしたな。ただ無差別な悪意ではなく、ダイアナ嬢一人へ向けられた執着なので、放置することで被害が拡大するという可能性は少なそうだ。更生を期待する余地はある」

 どうだろう、とメロディは首をひねった。どうもこれまでのようすを見ていると、プラウズ家の人々は自己中心的であまり良識を持っているようには思えない。罰を受けたからといって、素直に更生するだろうか。

「懲りずにまた手出ししてきたり、復讐をたくらむようなことがあれば、その時は遠慮なく斬り捨てればいい。そこまでくれば、殺したってもう咎められないだろう」

 メロディの疑問やジェラルドの期待を、セシルはあっさりと打ち砕いた。ジェラルドは反発もできずにごくりと喉を鳴らした。

 フェビアンが冷やかにジェラルドを見やる。本当は今すぐにでも斬り捨ててやりたいと思っていそうだ。誰もがやむなしと納得する状況さえ得られれば、彼は本気でやるとメロディたちは確信した。

「個人的な提案だがね、彼を軍に入れてはどうかね」

 セシルはプラウズ伯爵に言った。

「どこかの植民地に赴任して、五、六年しごかれてくるといい。それで頭が冷えるかもしれないし、帰って来る頃には、ダイアナ嬢もすでに結婚しているだろう」

 伯爵はなんともいえない顔で沈黙した。普通軍に入るのは、次男以降の爵位を継げない男子だ。フェビアンみたいなのは例外で、基本的に嫡男が軍に入ることはない。王都騎士団のキンバリーも、近衛騎士団のサリヴァンも、次男として生まれた人だ。

 家督と財産の大半を継げる長男とちがって、下の息子たちは自力で出世しなければならない。学者や医者、弁護士などになる人もいるが、いちばん手っとり早いのは軍人になることだった。それゆえ、貴族の息子たちはけっこう腕を鍛えている。そこへ、これまでのんびり嫡男暮らしをしてきたジェラルドが飛び込めばどうなるか――いくら伯爵家の嫡男だと威張っても通用しない。下っ端として扱われ、反抗すればたちまち袋叩きに遇うだろう。軍とはそういう場所だ。

 親としてはそんな目に遇わせてやりたくないが、これから先プラウズ家はかなり苦しい状況になる。その中でまた騒ぎを起こされても困るし、セシルの提案には心が揺らいだ。

「強制はしない。そこは君たちで決めたまえ。あと賠償金は、来月中には支払ってもらうよ。約束が守られなかった場合は国に訴えを提出する。そのつもりで」

 最後にとどめを刺して、セシルは話を終わらせる。プラウズ家の人々はそのまま帰ることを許されたが、葬式のような足取りであったことは言うまでもない。




 城に戻ってからずっと、ダイアナは床に臥せっていた。彼女は騎士たちとちがって、たくましい身体も精神も持っていない。令嬢としては十分に気丈な方だが、さすがに度重なる出来事が彼女をすっかり疲れさせていた。

 青ざめた顔で目を閉じている幼なじみを、フェビアンは静かに見下ろす。頬にかかる黒髪をそっと払い、少しだけ頭をなでたが、それ以上距離を縮めることはせず、しばらくして黙って背を向けた。

 部屋を出ようと歩き出した足が、しかしすぐに止められる。

 寝台から腕を伸ばしたダイアナが、彼の袖をつかんでいた。

「起こしちゃったか。ごめんよ、ようすを見に来ただけなんだ。ジェラルドたちへのお仕置きも終わって、もうみんな片づいたから、心配しないでゆっくり休むといい。二度とジェラルドが君に近付くことはない。もしまた手出ししてきたら、その時は遠慮なく斬り捨てていいって団長からお許しが出たからね。だから、今度こそもう大丈夫だ。安心しておやすみ」

 優しく微笑んでもう一度向き直ったフェビアンは、ダイアナの手をそっと外して戻させようとした。

 それに抵抗して、ダイアナは彼の腕にすがった。

「フェビアン、わたし……わたし、ずっと、あなたに言いたいことがあったの」

 決意をにじませて、ダイアナは身を起こす。フェビアンはおどけることで緑の瞳から逃げた。

「お説教は勘弁してくれよ。久々にやらかして、団長や副長にも叱られたんだ。もう懲りたから」

「そうじゃなくて……」

「落ち着いたらフィッシュバーンの別荘へ送ってあげるよ。そろそろご両親も来られる頃じゃないかい? 今回のことをちゃんと説明すれば、今後はご両親がしっかり君を守ってくださるよ。嫌なことは早く忘れて、残りの日程をのんびり楽しむといい。元気になれば、きっといい出会いがあるから。なんなら有望なのを紹介してあげようか? 別に女の子しか友達がいないわけじゃないからね。おすすめの男を知ってるよ」

「…………」

 緑の瞳から強い輝きが消え、失望と絶望が顔に広がっていく。それから目をそらし、フェビアンは背を向けた。

 ダイアナはもう呼び止めない。離れていく背中を泣きそうな顔で黙って見送る。

 フェビアンも振り向かずそのまま部屋を出ようとしたが、開いたままだった扉の向こうに立ちふさがった人がいた。

 金の焔が射抜かんばかりに強くにらみつけてきた。

「フェン、いい加減卑怯な真似はやめたら」

「なんだいハニー、藪から棒に。僕の何が卑怯だって?」

 笑ってごまかそうするのを、メロディは許さなかった。

「いつまでも知らんふりして逃げていないで、ちゃんとダイアナ様を受け止めてあげてよ。何も結婚しろって言ってるんじゃない。無理なら無理でもいい。その理由を、はっきり答えてあげて」

「やだな、なんの話……」

「いい加減にしろと言っているんだ!」

 ぶち切れたメロディが一歩踏み出す。強烈な威力を誇る拳がすでに用意されているのを見て、あわててフェビアンはあとずさった。

「その態度が卑怯と言っている! ごまかして、逃げてばかりで、少しもまともに向き合おうとしない。まったく誠意が感じられない。それがどれだけ彼女を傷つけていると思う!? どんなに辛い理由があろうとも、わけもわからないままごまかされて逃げ続けられるよりは、本当のことを知った方がいいに決まっているだろう! なぜそれがわからない!?」

 踏み込んできたメロディの後ろに、エチエンヌも姿を現した。彼は番人よろしく、戸口の守りについた。ふたりしてフェビアンを逃がすまいと、にらみを利かせている。

 メロディの気迫に押し戻されたフェビアンだったが、息を吐いて言い返した。

「それはちょっと傲慢な理屈だね。誰もが君と同じだけ強いと思うんじゃないよ」

「真実に耐えられない弱い人間なら、初めから求めない。とうにあきらめているだろう。ここまではぐらかされ、逃げられて、それでもあきらめきれなかった想いはけっして弱くないはずだ」

「そんなの、君の勝手な思い込み――」

「いいえ、そのとおりよ」

 ふたりの言い合いにダイアナが割って入った。力を持った声だった。一度はしおれかけた花が、ふたたびまっすぐに背を伸ばして立ち上がっていた。

 寝台から下りたダイアナに、隅に控えていたファニーがあわてて駆け寄りショールを羽織らせた。

 手早く髪を整えて、ダイアナはフェビアンの前まで歩いた。

「お願い、言わせて。聞いてちょうだい。わたし、ずっとあなたに謝りたかったの。あの時のことでわたしが許せないんでしょう。あなたにとてもひどいことをしたと後悔し続けてきたの。ごめんなさい――本当に、ごめんなさい。反省しているわ」

 てっきり愛の告白が始まると思っていたメロディとエチエンヌは、肩すかしをくらって目を丸くした。なぜダイアナが謝るのだろう。もしやふたりは以前は付き合っていて、彼女の行動が原因で別れたのだろうか。そんなことも考えたが、フェビアンは首を振ってダイアナを黙らせた。

「今さらそんなに謝らなくていいよ。たしかにあれは強烈だったけど、別にそれで君を許せないとか考えてないから」

「だってあのあと、あなたはわたしから離れて行ったじゃない! いつも最後のところでわたしを避けるのは、今でも許せないからでしょう? いいのよ、正直に言って。責められても当然だと思ってる。何を言われてもしかたがないと、わかっているから」

「いや、本当に怒ってないから」

「謝らせてくれないと、言えないじゃない! あなたが好きなのに、お嫁さんにしてって、言えないじゃない!」

「言ってるじゃねえかよ」

 思わずつっ込んだエチエンヌの口を、あわててメロディは押さえた。やはり愛の告白だったと緊張して見守る。しばし沈黙が続き、フェビアンが深く息を吐き出した。

「……ごめんよ、それは聞けない。君を許していないとか、そんな理由じゃない。君は何も悪くない……でも、聞けないんだ」

「フェビアン……」

 緑の瞳がかなしげに揺れる。フェビアンは優しく微笑んだ。

「ダイアナ、君は大切な幼なじみだ。心から可愛いと思っているよ。君の聡明さも、心正しさも、強さも、弱さも、全部かけがえのない宝だ。甘え下手で意地っ張りで、子供みたいな夢を見るところもあるけど、それも可愛いと思ってる。大好きだよ――けど、結婚はできない。君を、そういう相手には選べない」

「…………」

 光る雫が頬をつたった。あの夜のようにぬぐわれることはなかった。

 フェビアンは手を伸ばさず、今は何も隔てるもののないダイアナとの距離を、詰めることもしなかった。

「間違えないで。君が悪いからじゃない。そうじゃない。君は何も、まったくなにも悪くないから。嫌いだとか許せないとか、そんな理由じゃないから。僕だって悪くないけどね」

 最後にちょっとだけ肩をすくめて彼はぼやいた。

「悪いのはうちの親父だよ。全部親父のせいだ。許せないというなら、あっちの方だね。せいぜいがっぽり慰謝料ふんだくってやろう」

「……は?」

 ダイアナが目をまたたき、メロディとエチエンヌも意味がわからずに眉をひそめる。それぞれが、どういうことだと聞こうとした時、別の声に先を越された。

「なぜこっちに振る。お前の恋愛事情になど関与したことはないぞ」

 全員が驚いて振り返った。隣の部屋から、立派な身なりをした男性が現れていた。おそらく五十歳前後だろう。濃い茶色の髪に緑の瞳の、なかなかに男振りのいい紳士だった。

「小父様……」

 ダイアナが声を漏らす。フェビアンはすぐさま驚きから立ち直り、いつもの軽い態度に戻った。

「おや、いらしてたんですか」

「大至急と呼びつけたのはお前だろうが。人生にかかわる重大な事態だと言うので、ノックス伯爵の誘いを断ってわざわざ来てやったんだぞ。くだらない用件ならこっちが慰謝料請求してやる」

「親子の間で何を言っているんだ」

 紳士の後ろから、さらにセシルがやってくる。ナサニエルとジンも控えていた。

「全員、いったん外へ出なさい。ご婦人の寝室で騒ぐなど、失礼きわまりないよ。ダイアナ君は休むか、大丈夫なんだったら着替えてから出ておいで」

 猫の子をつまみ上げるように、セシルはエチエンヌとメロディの首根っこを掴んで部屋から引っ張り出した。自分が寝間着姿だったことを思い出して赤面するダイアナに、紳士も軽く会釈して後に続く。彼もまた、フェビアンをつかまえて。

 セシルに引っ張られながら、メロディは驚きをもって紳士を眺めた。

 とても堂々とした、風采のよい人だった。身につけた衣装は上品で、趣味がよい。カフスやタイピンにさり気なく使われた宝石も、おそらく最高級の品だ。それらが自然と身にそぐう風格があった。平民出の成金と、貴族たちの間で意地悪く交わされる悪口など、まったく似合わない。

 これがリスター子爵、フランク卿か。

 洒脱な二枚目ぶりが、片手に引きずる息子とよく似ていた。



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