1 夏の旅立ち
カムデンの北部、王宮近くに広がる高級住宅街の一角にシャノン公爵邸はある。
ティペット通り十一番地、通称薔薇屋敷。その名のとおりあらゆる品種の薔薇を集めた、春には素晴らしい景観を楽しめる庭を持つ。高位貴族の屋敷としては小さな方だが(それでも庶民から見れば十分にお城だ)洗練された造りと漂う品格はけっして他に劣らない。今日も働き者の使用人たちが丹念に手入れを怠らず、庭も屋敷もぴかぴかだ。
薔薇がひと休みした瑞々しい夏の庭を眺めるサロンで、屋敷の主が今後の予定を部下たちに告げた。
「来週からモンティースのカントリーハウスへ移動する。一ヶ月ほどの滞在を予定しているので、同行できる者は準備をしておきなさい」
「セシル様の領地はモンティースなんですか」
初めて聞いた話に楽しそうな顔をしたのはメロディで、エチエンヌはよくわからないという顔で聞き流していた。定住することのない流民の生まれで、貴族が王都と地方の領地を行き来することもまだ理解できていない。自分には関係のない話と早々に結論づけて、ただの旅行計画くらいに聞いている。今やセシルの養子となった彼こそ、もっとも関心を持つべき話なのだが。
「へえ、モンティースですか……それは初耳でしたね」
なんでもよく知っているフェビアンが、珍しく軽い驚きを表していた。
「それってどこだ?」
「エチは行ったことないのか。カムデンからそう遠くないよ。北西へ馬車でゆっくり行っても三日ほどだね。風光明媚で気候も穏やかな地方だよ」
「領地へ向かわれるのは、これが初めてですね」
ナサニエルの言葉にセシルはうなずいた。
「去年は亡命してきたばかりで、それどころではなかったからね。この屋敷とともに陛下からいただいたものの、ずっと家令に管理をまかせたままになっていた。さすがに今年は顔を出しておこうと思って」
セシルが領地へ向かうなら次の冬だろうとメロディたちは考えていた。冬になれば貴族は自分の領地へ帰っていく。中央で役職についている者を例外として、ほとんどの貴族はカントリーハウスで過ごすのだ。その予想より早かったが、不思議というほどでもなかった。
貴族たちが一斉に王都に集まる春とは異なり、この時期の社交は地方が中心になるのだ。近い領地同士で訪問し合ったり、親しい相手を自分の館に招いたりと、思い思いの夏を過ごす。オークウッドにあるメロディの実家にも、よく父の友人が訪れていた。
つまり今の時期カムデンにいても、かなり暇になる。それならばまだ一度も訪れていない領地へ行って、領民や館の使用人たちと顔合わせをしておこうと考えたのだろう。
「メロディ君とフェビアン君は、それぞれの領地へ帰らなくてはいけないのではないかね?」
主に問われて、メロディは首をかしげた。別にそのような指示は父からきていない。家を出てから数ヶ月、思い出せば恋しくもなるが、まだ里帰りには早いだろう。
「お心遣いは無用です。帰れと言われても帰りたくありませんから」
フェビアンは明るく笑いながら、あまり笑えない返事をした。
「……ご両親と、あまりいがみ合うものではないよ」
セシルの言葉も笑って受け流す。
「親父とは別にいがみ合っちゃいませんよ。それなりに仲良くやってます。けど士官学校を中退して、商売の勉強をするでもない息子なんて、向こうも帰ってくるなと言いますよ。団長のお役に立ってリスター家とシャノン公爵家とのつながりを深めた方が喜ばれるんで」
セシルは眉を上げ、呆れた表情をするだけで済ませる。フェビアンは両親とうまくいっていないのだろうかと、メロディは少し心配になった。
そういえば以前、彼の両親は打算だけで結婚したようなことを言っていた。家柄は立派でも没落しかかっていた貧乏子爵家の令嬢と、財産だけはたっぷり持っていた平民の男が、それぞれに必要なものを求めて夫婦となったらしい。愛情のない冷めきった関係だと言っていた。そうした両親を見ながら、どんな思いでフェビアンは育ってきたのだろう。
母を溺愛する父と、そんな夫を素っ気なくあしらうようでいてちゃんと愛している母。温かい両親のもとで育ったメロディには、想像するだけでもひどく寂しい環境に思えた。
(よけいなお世話かもしれないけど……なんだか、悲しいな)
「メロディ君は?」
セシルに声をかけられて、メロディははっと我に返った。
「あ、えと……すみません、何でしたっけ」
「どうかしたかね? 君の予定を聞いているんだが」
みんなに注目されている。あわててメロディは首を振った。
「いえ、私は何も予定はありませんので。ご一緒させていただきたく思います――はっ、もしかしてお邪魔ですか?」
気づかわれたのではなく、メロディを連れて行きたくない理由があったりするのだろうか。気付いて青ざめる少女に、セシルも急いで首を振った。
「いやいや、そういうことではないよ。むしろ君が来てくれた方が都合がいい――いや、心強い」
最後の言葉はどうにも付け足しくさかった。ジンは当然セシルから離れないだろうし、フェビアンとエチエンヌも同行する。何も言わないところからして、ナサニエルも同様だろう。これだけ腕の立つ護衛に囲まれて、なおかついちばん強いのはセシル自身ときた。そこにメロディが加わったところでどれほどのものだろうか。あきらかにお世辞だったが、邪魔でないならいいやとメロディは気にしないことにした。力不足を嘆いてもしかたがない。自分にできるのは訓練と経験を重ねることだけだ。だからできるかぎりセシルの行くところへは同行しようと決めていた。
「それならば、ご一緒させてください。セシル様の領地を、わたしも見てみたいです」
「ああ、もちろん。そう言ってもらえるとうれしいよ」
海の色をした瞳が優しく微笑む。それだけでメロディの気持ちも浮上した。住み慣れた領地や親しい人たちのもとへ戻りたい気持ちよりも、彼のそばにいたいという気持ちの方が強くなる。まだ領主本人すら足を踏み入れたことのない土地にも慕わしさを感じ、早く行きたいと思うほどだった。
まっすぐな親愛を向けられて、セシルがひそかにうろたえていることにも気付かない。周囲の仲間たちがぬるく見守っていることにも気付かず、メロディはご機嫌で夏の旅行に思いを馳せていた。
――それから六日後、薔薇の騎士団一行はモンティースへ向かう道中にあった。
馬車を二台連ねての旅路である。車中にいるのはセシルだけで、後続は荷馬車状態だ。六人分となると荷物も多くなる。ジンはセシルの馬車、エチエンヌは後続の馭者台で、それぞれ手綱を握っていた。他の三名は馬で周囲を守りつつ進む。
夏の日射しを浴びながらご機嫌で馬を進ませるメロディに、エチエンヌが呆れて声をかけた。
「なにをそんなに浮かれてんだ」
都会を抜け周囲が田舎の風景になっていくにつれて、メロディの機嫌は上昇し続けていた。
「だって久しぶりの景色だもん。やっぱりいいよね、自然の風景ときれいな空気は。この子も街の石畳より土の道の方が喜んでるよ」
軽く首筋を叩いてやれば、愛馬も機嫌よさげに鼻を鳴らす。
「空気はいいが、この日射しがなあ……ずっと外にいるから日焼けしちまったぜ」
晴れ渡った夏の空をエチエンヌはいまいましげに見上げた。女のメロディよりも美容にこだわる少年に、笑いがこぼれる。
「じゃあ日傘でも差してれば」
「ああ、出発前にでかいの用意してもらえばよかったぜ。あんたはよく平気だな。色が黒くなったらドレスが似合わなくなるぜ」
「別に、ドレスなんか似合わなくても……」
言い返しながらもふと気になって、馬車の中の人を見る。大きく窓を開けて風を入れながら、セシルは聞くともなしにこちらの会話を聞いていた。
「……セシル様も、色の黒い女はみっともないと思われますか?」
「ん?」
少女を見た顔がおかしそうに笑う。
「さて。こちらの人々の好みは知らないが、私から見れば多少日焼けしたところでみんな色白だからね。特に気にはならないな」
それもそうかと、あらためて彼の肌に注目してしまう。南方の国シュルクの血を引く彼は、メロディたち生粋の北方人よりもずっと肌の色が濃い。世界にはほとんど真っ黒な肌をした人もいるが、そこまで黒いわけでもなく、船乗りや農民など、強い日射しを日常的に浴びている者に似た色だ。けれど日焼けして黒ずんだ肌とは異なり、きめの整った肌に美しい艶をまとっている。長い黒髪や母親譲りの美貌とあいまって、見るものをどきりとさせるあでやかさがあった。
色が白かろうが黒かろうが、彼と並ぶとひどく見劣りしそうだ。
舞い上がっていた気持ちが少しばかり低下するメロディの前方で、先行していたナサニエルが「む」と声を上げた。
「おや? こんな昼間っから盗賊か」
フェビアンも気付いて楽しげに言う。道の先に土埃が上がっていた。こちらへ向かって猛然と走ってくる馬車がある。それを追う複数の騎影も見えた。どうやら旅人の馬車が襲われて逃げてきたようだ。
「行きます!」
まっさきに馬腹を蹴って飛び出したのはメロディだった。止める暇もなく襲撃現場へ突進していく。やれやれと苦笑したナサニエルとフェビアンは主を見、無言の指示を受けてあとを追った。
近付いてくるメロディを見て、逃げる馬車の馭者は挟み撃ちと思ったらしい。あわてて手綱を引っ張ったため馬が棹立ちになってしまった。同時に運悪く大きな石に乗り上げたようで、あっと思った時には馬車は横転していた。
「大丈夫か!?」
駆けつけたメロディは馭者のそばへ飛び下りる。馬車の下敷きを逃れた馭者は、苦痛にうめきながらも車内を気にしていた。
「お、お嬢様……」
扉を上にして馬車は倒れている。メロディは車体に乗り上げ、扉を開いた。
中をのぞき込めば、女性が二人折り重なって倒れていた。
「大丈夫ですか? しっかりして!」
中へ滑り込んで二人に手をかける。見たところ大きな怪我はしていないようだ。「お嬢様」らしい身なりのよい女性が、うめきながら目を開けた。
「ファ、ファニー……大丈夫?」
「うう……お嬢様……」
侍女らしい女性もどうにか身を起こす。メロディはふたりに手を貸して、ひっくり返った馬車の中で落ち着けるよう助けてやった。
「あなたは……」
黒い髪に緑の瞳をした、美しい令嬢が警戒の混じった目で尋ねてくる。安心させるようメロディは微笑んだ。
「ご心配なく、賊の仲間ではありません。あなた方を助けにきました」
「助けにって、でも……」
男装ではあっても自分より年下の少女に、黒髪の令嬢はますます複雑な顔になる。その時、野卑な声を上げながら追手が馬車を取り囲んだ。
「はっはー! 鬼ごっこはここまでだ!」
「どぉれ、中身は……? おっほ、こりゃあ別嬪揃いじゃねえか、ついてるな!」
いかつい髭面が真上の扉からのぞき込んでくる。ひっと悲鳴をのどにからませた侍女を、令嬢が抱きしめる。メロディはすっと冷たい顔になり、剣に手をかけた。
「お嬢さんたち、怖くないぜ出てきな――」
にやけながら腕を伸ばしてきた賊の身体が、不意に後ろへ引っ張られた。
「君らの相手はこっちだよ」
振り返る間も与えずフェビアンが馬車の上から蹴り落とす。
「なんだこいつ!」
短刀を抜こうとした男は、ナサニエルが振るった鞘付きの剣に殴られてやはり馬車から転げ落ちた。
「ちっ、邪魔すんじゃねえよ!」
「かまわねえ、男は殺しちまえ!」
「女どもには傷をつけるなよ!」
いきり立った賊たちが手に手に武器を握り、殺気を向けてくる。馬車の上に立ったまま、フェビアンはせせら笑った。
「たったそれっぽっちの人数で威勢のいいことだねえ。こっちも遠慮なしでいいですかね、副長?」
「一応生け捕りにしよう。他に仲間がいる可能性もあるから、生かしてこの地の代官に引き渡した方がいい」
「えー、めんどくさいなあ」
言いながらもフェビアンは、襲いかかってくる連中を手際よく叩きのめしていく。ナサニエルも虫を払うように、苦もなく賊を昏倒させた。賊の数は全部で七人。三倍以上の数ではあるが、その程度の差など何の足しにもならなかった。
メロディが馬車から顔を出した時には、とうに全部片づいていた。
「あれ、もう終わっちゃったの?」
「こんな連中、君が出るほどじゃないよ」
倒れた賊の頭を踏みつけながらフェビアンが振り返る。そんな爽やかな笑顔ですることじゃないだろうと呆れるメロディのそばから、声が上がった。
「フェビアン!?」
同じように外を見ようと顔を出した令嬢が、驚きを浮かべて彼を見ていた。
「……ダイアナ」
フェビアンの方も驚いているようだ。わざとらしいほどの陽気さが消え、真顔になって黒髪の令嬢を見ている。知り合いだったのかと偶然に驚いたメロディは、フェビアンの足元で賊が動いたことに気付いた。
「フェン!」
声をかけた瞬間賊が跳ね起きた。やや体勢を崩したフェビアンに襲いかかるのを見て、令嬢が悲鳴を上げる。だがフェビアンは動じなかった。繰り出された刃物を余裕でかわし、その手を捕らえて賊を引き倒す。背中に足を乗せ容赦なくひねった腕から鈍い音がした。
「ぎゃああっ!」
「ああ、ごめんね、折れちゃった? ま、腕が折れたくらいで死なないから大丈夫。君は元気すぎるからそのくらいでちょうどいいんじゃない?」
薄笑いを浮かべながらフェビアンはさらに力を込める。賊が死にそうな絶叫を上げた。さすがにメロディが顔をしかめ、ナサニエルも止めようとした時、彼らよりも早く黒髪の令嬢が叫んだ。
「い、いい加減にしなさいフェビアン! その悪い癖はやめなさいと言ったでしょう!」
真っ青な顔をして震えながらもきつい目でフェビアンをにらんでいる。目を丸くするメロディとナサニエルの前で、フェビアンは叱られた子供のように首をすくめて賊から手を放した。
自由になっても痛みのあまり動くことができないようで、賊はその場でうめいている。なんとなく気まずい沈黙が落ちた時、セシルたちが到着した。
「怪我人はいないかね?」
ジンが馭者台から下りるより早く自ら扉を開いて、セシルが降りてくる。その言葉に我に返って、メロディはさきほどの馭者を見た。
「軽傷のようです、心配はないでしょう。いちばんの重傷者はそこの賊ですな」
先にようすをたしかめたナサニエルが答える。それにうなずいて、セシルがこちらへ歩いてきた。
メロディは身軽に扉から身を持ち上げ、馬車の上に戻る。令嬢たちを引き上げようとしたら、続いてやってきたフェビアンが肩を叩いて下がるよううながした。
彼に譲り、メロディは馬車から飛び下りる。やってきたセシルとともに、助け出される女性たちを地上から見守った。
「先程彼女がフェビアン君の名前を口にしていたようだが?」
彼らに目を向けたままセシルが言う。メロディはうなずいた。
「知り合いのようです。フェンは、彼女をダイアナと呼んでいました」
「ダイアナ嬢ね」
「フェンの女友達の一人だろ」
やはり馬車から降りてきたエチエンヌが言う。メロディは首をひねった。
「そうだろうけど……でもなんか、違う気もするな」
「どういうことかね?」
見上げれば、セシルもメロディを見下ろしていた。青い瞳を見、もう一度ナサニエルやジンも手を貸して助け出された女性たちに目を戻し、メロディは小さく言った。
「もっと、親しい雰囲気に思えました」
フェビアンはもういつもの飄々とした態度に戻っている。そんな彼を見つめるダイアナ嬢の顔には、ひどく複雑そうな表情が浮かんでいた。