序曲
買い物を終えて店を出た瞬間、それは偶然目に飛び込んできた。
馬車の行き交う通りの向こう側、ほんの三十ヤードほどの先に立つ姿。
目のいいメロディには、それが知る人のものだとすぐにわかった。毎日見ている顔だ。今日も朝食の席で見た。あの時たしかに彼は、これからデートだと言っていた。だから一緒にいる女性は、デートのお相手なのだろう。貴族という雰囲気ではないので、庶民の富裕層だろうか。彼と同じ年頃のきれいな娘だった。
これから別れるところなのか、そばに馬車を待たせたままふたりは挨拶を交わしているようだった。
そこまでなら特に気にすることはなかった。女好きの同僚がいろんな女の子と付き合っていることは知っているので、あとで見かけたよと言って終わっただけだろう。
じっさいメロディはすぐに興味を失いかけて、その場を立ち去ろうとしたのだ。ところがその寸前、三十ヤード向こうの男女が近かった距離をさらに近づけ、抱き合ったものだから目が釘付けになってしまった。
ここは真っ昼間の往来、周囲には多くの人目がある。なのにそれを気にするようすもなく、若いふたりは顔を近づけていく。
メロディは驚きと羞恥に、その場で固まってしまった。
――こんなところであんなことをするなんて!
もっと静かな、他に誰もいないふたりきりの場所でならわかる。恋人同士ならそういうことくらいするだろう。そのくらいメロディだって理解する。でもこの人込みの中で恥ずかしげもなく熱烈な場面を見せつけるなど、あまりにはしたない、品位に欠けるふるまいではないか。
場末の男女ではあるまいに、まがりなりにも子爵家の嫡男としてあれはどうなのか。彼の不良っぷりを言い立てるのは今さらかもしれないが、もう少し自覚を持てと言いたくなった。
たっぷりと別れを惜しんだあと、ふたりは別々の辻馬車に乗り込んでその場を去っていった。最後まで凝視していたメロディの姿は、群衆にまぎれて気付かれなかったようだ。呆然としたまま取り残されたメロディに、うしろから声をかける者があった。
「レディ、いかがなさいましたか?」
男装で腰に剣まで提げたメロディをそう呼ぶのは、おそらくこの世に一人だけだろう。小柄な黒髪の青年が迎えに来ていた。
「……なんでもない」
ふりかえったメロディは心ここにあらずというようすでほてほて歩く。ジンはほんの少し首をかしげたが何も言わず、馬車へ向かう彼女のあとに続いた。
「おかえり。目当てのものは買えたかね?」
馬車へ戻った彼女を穏やかな声が迎える。長い脚を少し窮屈そうに収め、窓に肘をついてゆったりと微笑む主に、メロディはとりあえずうなずいた。
「はい……お待たせしました」
少女の妙なようすに、馬車の主も首をかしげた。彼女の後ろに立つ僕へ目をやれば、わからないと目線で返される。メロディが座席に落ち着き、ジンが扉を閉めるのを待って、セシルは問いかけた。
「どうしたね。何かあったのかい」
「…………」
言葉をさがしてしばし揺れていた蜂蜜色の瞳が上げられる。メロディはまっすぐにセシルを見つめて尋ねた。
「セシル様も、デートの最後はキスでお別れをしますか?」
がくり、とセシルの肘が窓から落ちる。あわてて姿勢を正し、彼は威厳をとりつくろった。
「突然に何だね」
「セシル様もいろんな女性とデートしてらっしゃいますよね。やはり最後は、キスをして別れるものなのでしょうか」
「いや、だから後ろめたい付き合い方はしていないと」
「ふたりっきりならわかります。誰も見ていなかったらしますよね」
「え、いや、だから私の場合は……」
「でもこんな街中の、人がいっぱいいる場所で周りを気にせずできるものなんでしょうか。驚く私が田舎者なだけですか? たしかに他の人はあまり驚いていないようでしたが……カムデンでは、普通の光景なんでしょうか」
「…………」
突拍子もない問いに目を白黒させていたセシルにも、なんとなく事情がわかってきた。つまりメロディは、人目をはばからずいちゃつく男女を見てきたらしい。たくましくも純朴に育ってきた令嬢には、刺激的なできごとだったのだろう。熊や猪は見慣れていても大人の世界はまだ知らない少女に、どう答えたものかと悩む。
「まあ……よほどに別れ難い気分だったのではないかな。もしかしたら当分会えないか、何か深い事情があったのかも」
苦しい返答に懐疑的な視線が返される。
「でも、フェンは見るたびに違う女の人とデートしています。今日の彼女も初めて見る顔でした」
「……ああ、フェビアン君だったのか」
一気に納得した。なるほど、そういうことか。
「それなら、あまり深く考えないことだね。彼は軽薄なように見えて、意外と線引きはきっちりしているから。女性関係でもめているところを見たことはないし、心配する必要はないよ」
「心配じゃなくて、呆れているんです。誰とでもあんなふうに付き合っているのかと思って。セシル様も、デートのたびにキスしてるんですか」
「だから私の場合は違うと」
どうしてこちらに矛先が向いてくるのだろう。セシルは頭を抱えた。
馭者席からようすをうかがっていたジンは、どうやら深刻な話ではないらしいと判断して、馬に笞を入れた。進み始めた馬車の中で、公爵と令嬢の会話は続く。
「デートといっても私の場合は社交の一環でね。フェビアン君のものとは別だよ」
「女性とお付き合いするからデートなんですよね?」
「……大きな意味ではそうなるが、お付き合いにもいろいろあるんだよ」
「…………」
よくわからないと、不服そうに頬をふくらませる少女にセシルは苦笑する。
「私の相手は既婚者ばかりだ。そういう親密な付き合いをするのは道義的に問題がある。まあ、貴族社会ではよくある話だが……それはともかく、私は後ろめたいことはしていないと言っているだろう。あくまでも社交の域だよ」
「……はい」
「フェビアン君の場合は、彼も相手も独身だ。だから多少親密になっても基本的に問題ない。当人同士が納得しているなら、それでいいんだ」
他人が口を挟む話ではないという言葉に、メロディは不服ながらもうなずいた。お互い決まった相手がいないなら、誰とどう付き合おうと文句を言われる筋合いではないのだ。
往来ではしたないふるまいをしても、それが子爵家の若君としてふさわしくないことだとしても、メロディにどうこう言う権利はない。メロディは彼の仲間ではあっても親族ではないのだから。
「……でも、はしたないのはやっぱりよくないです」
難しい顔でこぼす少女にセシルは困った顔で笑った。未婚の貴族令嬢として、メロディの意見は正しい。清く正しく育った、あるべき姿だ。すれた都会の貴族たちと違い、田舎で余計な知識を得ることなく育ったおかげだろう。
しかしキスだけでこの反応では、他にいろいろと知った日にはどうなることか。
フェビアンのことだから、おそらくその先の付き合いも経験しているだろう。そういった話はけっしてメロディの耳に入れないよう、あらためて厳重注意しておこうと考える公爵だった。