7 宣戦布告
エチエンヌに対する取り調べが終わったのは、西の空が真っ赤に染まる頃だった。
ジェロームに声をかけられて廊下へ出れば、キンバリーとサリヴァンがそれぞれの部下を連れて帰るところだった。その中にエチエンヌの姿はない。ひとまず連行は免れたのだと安堵して応接間へ向かった。
扉に手をかけるより早く、中から開かれて赤い髪が現れた。
「エチ」
すぐそばに立っていたメロディに気づき、不機嫌そうなまなざしが向けられる。エチエンヌは無言で顔をそむけ、立ち去ろうとした。その腕にメロディは取りすがった。
「待って、話を聞かせて」
「聞きたきゃセシルに聞け。オレはもう十分しゃべった」
「エチと話をしたいの。わたしもフェンも、エチが犯人だなんて思ってないよ。そんなことするはずないって信じてる。だから……」
「信じる?」
ふっとエチエンヌが息を吐き出した。振り向いた瞳にメロディは言葉を失う。怒りとも呆れとも違う、ひどく冷たい色が浮かんでいた。
「めでてえな、あんたは。何を根拠にそんな寝ぼけたことが言えるんだか。オレのことなんぞ何も知らねえくせによ」
「そ、それは……」
「口先だけのきれいごと言ってんじゃねえよ」」
あまりに冷えた、痛烈な言葉にメロディは震えた。エチエンヌはさらに言葉の剣で胸を突き刺す。
「あんたのは偽善ってやつだよ。あんたの中に勝手に作り上げた、あんたに理解できる人間を相手に仲間ごっこをやってるだけだ。現実を知りゃそんな寝言は言えなくなるよ。なんもわかってねえくせに、さもお前のことを理解しているって顔で押しつけがましいこと言ってんな。反吐が出る」
強く振り払われてメロディは後ろに倒れかけた。誰かにぶつかり、抱きとめられる。
「エチ、しばらく外出禁止だよ」
メロディを支えながらセシルは告げた。
「無断で屋敷から出ないように。いいね」
「…………」
答えないままエチエンヌは踵を返す。すべてを拒絶する背中を見送った後、セシルは腕の中の少女を優しくなだめた。
「気にしなくていい。あれはただの八つ当たりだ」
「結局あれからどうなったんですか」
フェビアンの問いに軽くうなずいて、中へ入るようにうながす。応接間の椅子に落ち着いた彼らに、ジンがあらためてお茶を淹れてくれた。
「エチが現場にいたことは事実のようだ。本人がそう認めた。ただし、殺害には関与していない。争う気配と悲鳴が聞こえて足を向けたところ、倒れている男爵を発見したんだそうだ」
メロディの頭を撫でながらセシルは説明する。ほっとすると同時に別の質問が生まれた。
「それで、その後エチはどうしたんですか」
セシルは小さく息をついた。
「どうもしない。そのまま立ち去った」
「え……」
「あの子にとっては、道端で誰かが死んでいても、いちいち驚くことじゃないんだ。通報なんて思いつきもしないだろう」
フェビアンが納得の息を吐き出した。
「でしょうねえ」
「私にもわざわざ報告することじゃないと思ったんだろう。たしかに、カムデンの下町では殺人など珍しくもない。見に行ったのだって止めようとかいうつもりじゃなく、ちょっとした興味程度だったらしい」
セシルの命令でようやく一連のいきさつを話したエチエンヌに、キンバリーは完全に疑いを解いたわけではないものの、一応引き下がった。今後の協力を約束させ、もう日も暮れるからということで帰ったのだった。
「遺体の状況を確認したんだが、刺殺ではなく絞殺だったらしい。それだけでもエチのしわざじゃないと言い切れるね。やろうと思えばあの子にもできるけど、普通は使わない手だ。エチなら悲鳴を上げる暇も与えず一瞬で喉を掻き切るだろう。首を絞めるだなんて手間のかかることはしない」
「……はあ」
うなずきつつ、メロディは複雑な気分だ。なんだか弁護しているように聞こえない。
「じゃあ別の質問なんですけど、ヘニング男爵が夜中の港にいた理由ってのは聞き出せたんですか?」
フェビアンの問いにセシルはうーんとうなった。
「詳しいところはわからないな。商用だったらしいとしか……まあそれも、不自然な話だけどね」
「ははあ。それでキンバリー殿もあっさり引き下がったんですね」
意味がわからないメロディに、フェビアンは説明してくれた。
「つまり、男爵の方でも何か後ろ暗い、追求されたくない事情があるってことだよ。もしかしたら圧力でもかけられてるんじゃないかな。キンバリー殿には不本意な話だろうけど、うやむやに終わらせることになりそうだね」
「犯人を見つけないまま?」
「残念ながら、貴族社会じゃよくある話だ。金銭を狙った強盗のしわざ、とかいう結論になるんじゃないかな。男爵の名誉を守り、かつ犯人がつかまらなくてもしかたがないと納得させるためにはね」
「そんな……」
メロディには何一つ納得できない話だ。だがセシルもナサニエルもフェビアンの見解に同調した。
「しばらくは社交界でも噂になるだろうが、じきにおさまるよ。だから気にしなくていい。きみたちは普段どおりにすること。いいね」
そう告げてセシルは皆を解散させたが、気にせずにいられるわけがなかった。
メロディはエチエンヌの部屋へ向かった。扉を叩こうと手を上げかけて、途中で思いとどまる。今呼んでもきっと応えてはもらえない。無理に入ったところでさっきと同じ展開になるだけだろう。
声をかけるのはあきらめたものの、立ち去る気にもなれない。そのままメロディは、扉に背を預けて廊下に座り込んだ。
今自分がすべきこと、できることは何だろう。
立てた膝を抱えて考える。
何ができる気もしなかった。フェビアンのように知識があるわけでもなく、セシルのように権力を持つでもない。オークウッドにいた時と変わらず、守られているだけの子供だ。
思い知るほどに情けなさがつのる。ほんの二ヶ月ほど前、大人の仲間入りをしたつもりで意気揚々とカムデンへ出てきた時の、誇らしい気分が今思うと本当に恥ずかしい。十五歳になって剣を授かっただけで、それ以外何一つ変わってなどいなかったのに。
メロディは深くため息をついた。その時いきなり扉が開いて、メロディの頭をしたたかに打った。
「……何やってんだ」
冷やかに見下ろす少年を、メロディは涙目で後頭部を押えながら振り返った。
気配に聡いエチエンヌのことだから、扉の前にメロディがいることなどとうに気付いていただろう。それ以上何も言わず出てきて、さっさと歩きだす。
「エ、エチ、どこ行くの。外出禁止だってセシル様に言われたじゃない」
「外じゃねえ、厨房だ」
振り返らず足も止めないが、答えは返してくれた。
「いい加減腹減ってんだよ」
「あ……わ、わたしも……」
窓の外はもう暗い。そろそろ晩餐の時間だ。だが皆と一緒に食事する気にはなれないのだろう。エチエンヌは食堂を素通りして厨房へ向かった。メロディもその後をついていった。一度だけ、呆れた顔でエチエンヌは振り返ったが、無視することに決めたらしく放っておかれた。
晩餐の支度をしていた料理人は、忙しい最中にやってきた少年少女に文句も言わず隅の机を貸してくれた。エチエンヌと向かい合ってメロディは座る。白と茶色のぶち模様の子猫が寄ってきてドレスの裾にじゃれついた。
「ロージー、大分大きくなったよね」
レース飾りに爪を引っかけられても気にせず、メロディは可愛らしい生き物に目を細めた。
メロディがここへ来たのとほぼ同時期に拾われた子猫は、始めはがりがりに痩せていて無事育つだろうかと心配させたが、いいものをたらふく食べさせてもらいすっかり毛艶がよくなっていた。いたずら者で毎日誰かに悲鳴を上げさせている。主を含めて屋敷中の全員が被害に遇っていたが、愛くるしい毛玉に丸い目で無邪気に見上げられては、本気で怒れる者などいなかった。
裾を揺らして相手をしてやっていると、二人の前に皿が置かれた。無口なサミュエルは何も聞かずに料理を並べてくれる。
「ありがとう、サミー」
礼を言うメロディにうなずきだけ返して、晩餐の支度に戻っていく。セシルに負けないほどの上背があり、横幅は彼の倍もある。いかつく恐ろしげな顔面には大きな傷跡まであり、はっきり言って怪物じみた風貌だ。子供が見れば泣き出すだろうし、夜中に出くわしたらメロディだってちょっと驚く。しかしそんな見た目にそぐわず、シャノン邸の料理人は実に細やかな仕事ぶりで、いつも幸福な食卓を供してくれていた。
並んだ料理にメロディはこっそり笑みを漏らす。エチエンヌの好物ばかりだ。さりげなく添えられたデザートも、前に彼がおかわりを欲しがったものだった。
多分気付いているだろう。エチエンヌの顔にも、複雑なものが浮かんでいた。むっとしているように見えるのは、余計な気遣いだと怒っているのではなく、照れ隠しに違いない。
二人は会話もなく黙々と食事を済ませた。人間空腹だと気が立つものだ。その反対に、美味しいものを腹一杯食べれば幸せな気分になる。
エチエンヌのまとう雰囲気がいくぶん柔らかくなったのを感じて、食後のお茶を飲みながらメロディは口を開いた。
「美味しかったー。サミーのご飯はいつも最高だね。エチ、昨日外泊してもったいなかったよ。三日かけて煮込んだシチューがそれはもう絶品だったんだから。みんなおかわりしたの。もちろんセシル様も」
「……んだよ、もうねえのか」
「あるわけないじゃない」
ねえ、とサミュエルを見れば、彼はすまなそうな顔を見せた。
「サミーが悪いんじゃないもん。せっかくごちそう用意してくれてたのに、帰ってこなかった不良息子が悪いんだよね」
「誰が息子だ。ち、酒場の不味い飯なんぞ食うんじゃなかった」
「また作る」
「ああ、頼むぜ」
メロディは少し呆れて眉を上げた。
「エチってばまだ十六歳なのに、酒場になんか行ってたの」
「年は関係ねえよ。あんたはババアになっても行くこたねえだろうけどな」
「……面白いところ?」
「興味持つな。あんたが行くとこじゃねえっつってんだろうが」
空いた食器をサミュエルが下げる。飼い主の大きな足をロージーが追いかける。
「昨日は何か用事があって出かけてたの?」
「別に。適当にぶらついてただけだ」
メロディはお茶を飲み干す。そのままカップを両手で包み込み、言葉を選んで話しだした。
「……あのね、この間サリヴァン団長にいろいろ言われたでしょ。あれからずっと、考えてたの」
「…………」
「たしかにわたし、セシル様に認めてもらえるようなこと、何もしてないなあって。いちばん弱いし、知らないことばかりだし、誰の役にも立てないお荷物でしかないなって」
「…………」
「むきになって訓練頑張っても、すぐに強くなれるわけじゃないしね。すごく自分が情けなくて、落ち込んでたんだ」
行儀悪く頬杖をついて、エチエンヌはそっぽを向いている。
「自分ひとりだけがみそっかすだと思ってた。でもあの日以来だよね? エチもずっと機嫌が悪かった。なんだか苛々してるように見えた。もしかして、エチも気にしてた?」
ずっと考えて、ようやく自分ひとりで気付いたことを尋ねる。エチエンヌはわずらわしそうに舌打ちした。
「あんたもたいがいお節介だな。仲間ごっこはやめろって言っただろうが。オレが何を考えどこにいようが、あんたにゃ関係ねえ」
「関係ないわけないでしょ」
メロディはカップを机に下ろした。少し勢いあまって耳障りな音を立ててしまった。
あわてて気持ちを抑え、できるだけゆっくりと言う。
「こうして一緒にいるのに、関係ないなんて言わないで。同じことを感じていたのなら、わたしとエチは心が近いってことだよ。一緒に努力できるんじゃない?」
「同じなんかじゃねえ!」
エチエンヌが机を叩いた。いきなりの大声と音に、ロージーが飛び上がって逃げていった。
菫の瞳がきつくメロディをにらみつけた。
「オレとあんたは違う。同じとこなんか何もねえ。役に立たないだ? 別にセシルの役に立ちたいなんて思ってねえよ。認めてもらわなくて結構だ。オレはそんな真面目なこと考えてねえよ」
「じゃあ何をそんなに苛々してるの。何か気になることがあって、自分じゃ解決できなくて、気持ちを持て余してるんじゃないの? そういうの、わたしと同じだよ」
メロディも負けずににらみ返した。どれほど拒絶されても、今度は引くまいと歯を食いしばる。
「エチが気にしてることは何?」
「関係ねえっつってんだろうが! いい加減にしろ、しつけえよ!」
「しつこくて上等! 遠慮してたらエチは何も言ってくれないじゃない。たしかにわたしはエチのこと何も知らないよ。知らないから教えてほしいの。エチのことをもっと知りたいんだよ」
椅子を蹴ってエチエンヌが立ち上がる。厨房を出て行こうとする彼の前にメロディは回り込んだ。
「逃げないでよ!」
「てめえ……うぜえんだよ!」
エチエンヌがメロディの肩に手をかける。メロディは足を踏ん張ってこらえた。
菫の瞳と金の瞳が至近距離でにらみ合う。
「知ってどうすんだ。どうせ薄々はわかってんだろ、オレがろくでもねえ生き方してきたってことはよ。あのおっさんを殺したのはオレじゃねえが、他じゃさんざん殺したさ。今回はオレじゃねえってだけだ。信じるだの何だの、言われてもちゃんちゃらおかしいんだよ」
「それは昔の話でしょ。今のエチが、犯罪行為を続けてるわけじゃないでしょ」
「いつでもやってやるぜ? オレは自分が騎士様だなんて思ってねえからな。誇りだの何だのしゃらくせえんだよ」
「――このひねくれ者が!」
メロディは固く握りしめた拳を突き出した。まともに殴られて、たまらずエチエンヌが後ろにのけぞる。よろめく彼に、仁王立ちしたメロディは怒声を浴びせた。
「いつまでそうやって自虐的なことばかり言ってる! それで格好をつけたつもりか!? 責められるべきは過去の行いじゃない、今だ! 今のお前はたしかに情けない、騎士にあるまじき態度だ! 拗ねていじけてひねくれて、不貞腐れてるただの子供だ!」
顎を押えたエチエンヌは壁に寄りかかる。うつむいて答えない彼に、さらにメロディは言い募る。
「思うところがあるなら、なぜそれを克服しようとしない、問題と向き合わない! 克服したいという気持ちがあるから苛つくのではないのか!? ならば行動を起こせ、努力しろ!」
びしりと指を突きつける。
「お前がどれだけ否定しても言ってやる! お前はわたしの仲間だ! 過去に何があろうと、わたしはお前を蔑んだりしない。口先だけだと思うなら見ていろ、力ずくでも認めさせてやる!」
勢いよく背を向けて、令嬢は足音も荒く立ち去っていく。うつむいたままエチエンヌはずるずるとその場に座り込んだ。
力なくため息を吐き出す。
「……ドレスが拳で殴るなよ……」
目の前にぬっと大きな手が現れた。水で濡らした布巾をサミュエルが差し出していた。
「…………」
「…………」
無言の彼から、エチエンヌも無言で受け取る。顎に当ててまたため息を吐く彼の肩を叩き、サミュエルは仕事に戻っていった。
そんな一幕を廊下の物陰から見ている人たちがいた。
「青春だなあ、熱いなあ、かっこいいなあ……ハニー、きみはどこまで男前なんだ。兄貴と呼ばせてくれ」
「きみも青春に混じってきたらどうだね」
「いやー、僕もう二十歳だし」
「二十歳で青春じゃないなら、私はどうなるのかね」
「自分でお父さんだと認めたじゃないですか」
しょうもない言い合いをする主従に女中が割って入る。
「いいえ、旦那様も青春なさるべきです。さあ! 早くお嬢様の後を追ってくださいませ!」
「……追ってどうするのかね」
「きっと今頃お嬢様は泣いていらっしゃいます。傷ついてらっしゃいます。なぐさめて差し上げませんと」
「……いや、多分怒り狂ってると思うが」
「辛い思いをしている時に優しくいたわられると、女心にぐっと来るものなんです。今こそ旦那様の出番ではありませんか!」
「……フェビアン君、きみなら追いかける勇気が出せるかね」
ははは、と白々しい笑いが上がった。
「今はちょっと怖すぎて近寄れませんねえ。怒るとアラディン卿そっくりになるんだもんなあ。団長、結婚したら浮気は絶対禁物ですよ」
「そもそも結婚する勇気がないよ」
後ろに控えたナサニエルは苦笑混じりに息を吐く。視線の先でエチエンヌがのろのろと立ち上がり、力ない足取りで自室の方へ歩いて行った。
「かなり、効いたようだな」
呟きにジンがうなずく。
「脇の絞まった、よい一撃でした。剣術や馬術だけでなく、体術にも優れていらっしゃいます。お見事でした」
「いや、そういう意味で言ったのではないのだが……」
咳払いが響いた。執事が立っていた。
「皆様、お話の続きは食堂でなさってはいかがでしょうか」
ドナがあわてて厨房へ駆けていく。ジンもその後に続いた。残された三人は顔を見合わせ、おとなしく食堂へ移動した。
「まあ、悩むのは思春期組にまかせて、大人は大人の仕事しないとね」
「おや、一緒に暴れたやんちゃ坊主が生意気言ってるよ」
食前酒で乾杯しながら主従は癖のある笑みを交わす。
どうやらどちらも、このままで済ませるつもりはないらしい。
不穏な予感を覚えてナサニエルはため息をついた。きっと、最終的に面倒事の処理は、すべて自分が引き受けることになるのだろう。