4 キース・サリヴァン
セシルは怒らない。
何をされても言われても怒らない。
そもそも実の兄に命を狙われても、大人しく我慢して引き下がるような人物だ。もしや生まれる時に、怒りという感情を落っことしてきたのではないかとすら思う。
――だが怒らないのと咎めないのとは違った。
「私のことはジンとナサニエル君がいるから心配いらない。きみたちはここをちゃんと綺麗にしなさい。終わるまで帰ってこなくていいから」
そう言い残して団長様は帰ってしまった。置き去りにされたメロディたちは、空きっ腹を抱えたまま広い店内の清掃業務に従事することとなったのだった。
悪いことをしたら罰を受けるもの、と今朝彼から言われたばかりだ。まさかその日のうちに現実になるとは思わなかった。
「フェビアン、この棚そっちの壁へ移動してくれ」
店主のマシュー親父に指図されて、フェビアンはがっくりと肩を落とした。
「おやっさん、それもう片づけじゃないよね、ついでに模様替えだよね」
「いきのいい若いのが揃ってるんだ、使わない手はないだろう」
親父さんはからからと笑って抗議を聞き流した。
「僕ら腹ぺこなんだよ、力出ないよ」
「何言ってる、鍛えてるんだろう? 終わったらうまいもん食わせてやるから頑張れ」
「今食わせてくれよ」
エチエンヌの要求も通らなかった。
「食ったらよけいに動けなくなるよ。楽しみは先にある方がいいだろうが。ほれ、口ばっかり動かしてないで、働け働け」
「セシルの時とえらく態度が違うじゃねえかよ……」
「本来はこういう人だよ。エチ、そっち持って」
しかたなく男二人は大きな棚を持ち上げる。えっちらおっちら運ぶ姿を視界の隅に認めながら、メロディは床の汚れと格闘していた。
伯爵令嬢の生まれではあるが、掃除には慣れている。実家では毎朝家畜小屋を掃除していた。まとわりついて邪魔をしてくる動物たちがいないから、こっちの方がずっとやりやすい。せっせと掃除する傍らで、同じようにモップを手にした娘が遠い世界に旅立っていた。
「噂なんてあてにならないわねえ。権力争いに負けた情けない王子様だとか、まだ王位を狙ってあれこれたくらんでるんだとか、いろいろ言われてるけどさあ。ぜんっぜん違うじゃない。あーんな素敵なお方だったなんてぇ。少しも偉そうにしないし、あたしみたいなのにも優しくしてくださって、弁償のこととかすごく誠実だし。ああ、やっぱり本物の王子様はお心も美しいのね」
「アリス、僕はもう過去の男かい」
「ヘタレで乳離れのできない年増好きだぞ。どこが素敵なんだよ」
フェビアンのため息もエチエンヌのつっこみも届かない。
「何よりあのうるわしくも神秘的なお姿! 漆黒の絹の髪に不思議な色の肌……まるで夜の精霊よね! 精霊の王子様? ああんどうしよう今夜絶対夢に見るわーっていうか見たいー。王子様、どうかあたしの夢に現れてください!」
だんだんわけがわからなくなってきた。精霊の王子様ってどんなだろう。モップを動かしながらメロディは首をひねる。
「いっそもう一人の王子も連れてきてやるか? アレ見せりゃ目が覚めんじゃねえの」
「残念、あの人基本的に女性には紳士的だよ。庶民の女の子相手でも丁寧に接するね」
「やっぱセシルの親戚か……」
「うちの父様連れてきたらどうなるかな」
ふと思いついたことを呟けば、二人して首を振られた。
「やめとけ。あのねーちゃんにゃ刺激が強すぎる」
「一生こっちの世界に帰って来られなくなるから」
「やれやれ……アリス! さっさとゴミ出し済ませちまいな!」
夢見るアリスを叱っておいて、親父さんは戸口へ向かった。また誰かが来たようだった。臨時休業を告げようとした親父さんは、入ってきた人の姿におや、と声を上げる。
「失礼する」
「こりゃあ、サリヴァン様」
背の高い騎士が部下を従えて入ってきた。ほんの少し前に会ったばかりの人物だ。手を止めて注目するメロディたちに、サリヴァンの方も気付いて視線を向けてきた。
「ここで何をしている?」
温度のない声に答えたのはフェビアンだった。
「上官命令で勤労奉仕の真っ最中です」
「……なるほど」
うなずいただけで済ませ、サリヴァンは親父さんに向き直った。
「被害の弁償についてだが、いつものようにこちらと王都騎士団で折半する。あちらにも話は通してあるから、双方に請求してくれ」
「いやあ、それがですね」
親父さんは頭をかきながら、セシルとの一幕を語って聞かせた。
「全額、公爵様がお出しになるとおっしゃいまして」
「…………」
考えるようすのサリヴァンにフェビアンが声をかけた。
「今回はそれでいいんじゃないですか? 難癖つけてきたのはヴィンセントたちの方ですけど、まあこっちも対応まずかったですしね。乱闘引き起こした責任は認めますよ」
色の薄い瞳が振り返る。
「払うっつってんだから任せときゃいいじゃん。セシルは金持ちなんだから出させりゃいいんだよ」
「エチ」
エチエンヌを小突いておいて、メロディはサリヴァンの前へ出た。
「あの、さきほどはご挨拶もせず失礼いたしました。メロディ・エイヴォリーと申します。初めまして、サリヴァン団長」
モップを持ったまま頭を下げる。
「このたびは、お騒がせして申し訳ありませんでした」
セシルとキンバリーに謝っておいてこちらに何も言わないというのは筋が通らないだろう。三人目の団長にもメロディは丁重に謝罪した。
「なるほど、きみがメロディ・エイヴォリーか。ではそちらがエチエンヌ?」
「ああ? そーだけど何か? 悪ぃがあんたみたいなのはオレの好みじゃねえな。もうちっとがしっとしてて、でもってあったかみのある、うちの副長みたいなのが好きなんだけど」
エチエンヌの軽口にサリヴァンは取りあわなかった。
「もう一人のジンという団員は」
「うちの団長の後ろで置物みたいにじっと立ってたのがそうですよ。先に帰ってるんでここにはいません。もーやだなー、ついでに調査ですか?」
「単なる確認だ」
フェビアンにもそっけなく返し、サリヴァンはメロディに目を戻した。どうやら薔薇の騎士団の構成員については把握済みらしい。ということは、メロディが伯爵家の娘であることも知っているのだろうが、令嬢扱いする気はなさそうだった。
手を腰の後ろに回し、メロディたちの上官であるかのように訓示してきた。
「当方の団員が非礼を働いたことは謝罪する。不愉快な思いをさせてすまなかった。だがそちらも、次からは動く前に考えることだな。フェビアン、きみは口が動きすぎて余計なことを言う傾向にある。わざと相手を怒らせて面白がっているだろう。そのような態度だから嫌われるんだ、改めろ。それから、エチエンヌ」
「……あ?」
「きみの態度はおよそ騎士として認められるものではない。言葉づかいも、姿勢も、何もかもだ。それでは下町のごろつきと変わらん。もう少し立場にふさわしい品位を身につけたまえ」
はっきりと非難されたエチエンヌは、鼻を鳴らしてそれに応えた。
「よけいなお世話だ。てめえにゃ関係ねえだろうが。ほっとけよ」
「エチ!」
無礼な反応にサリヴァンは怒らなかった。冷ややかな表情のまま続ける。
「たしかに、私にはあまり関係がないな。だがヴィンセントたちが近衛の評判を落としたように、きみの言動はシャノン公爵の評判にかかわるだろう。薔薇の騎士団という、創設間もなく世間からはあまり認められていない組織を、さらに貶める結果にもつながる。きみはそれでよいと?」
「……知るかよ」
エチエンヌはそっぽを向いた。
「オレは騎士になりたかったわけじゃねえ。認めてもらいたいわけでもねえ。世間だの何だの、どうでもいいね」
「では、なぜ公の許にいる?」
「…………」
「気に入らないなら騎士位を返上し、退団すればよかろう。公の護衛だけが目的ならば、身分は不可欠というものではないはずだ」
サリヴァンは容赦ない。メロディははらはらしながら見守った。彼の言い分はもっともだが、エチエンヌが素直に聞き入れるとは思えない。癇癪を起こすのではないかと気が気ではなかった。
「利益だけは甘受し、それに付随する責任からは逃れる。卑怯だな。騎士でなくとも許されぬふるまいだ」
「キース、そのくらいにしてやってよ」
見かねたフェビアンが割って入った。
「エチはこんな子だけど、悪い奴じゃないよ。人間それまでの生活と急に変わるなんて無理だって。少しずつなんとかするから、大目に見てよ」
「るっせーぞフェン! 口出しすんな!」
「うるさいのはきみ。ちょっと黙ってて」
かみつくエチエンヌをフェビアンは軽くにらんだ。
メロディはエチエンヌのそばへ行き、そっと腕を取った。菫色の瞳が苛立たしげにこちらを見る。無言で首を振って落ち着けとうながした。
「うちはこれで、結構仲良くうまくやってるんですよ。団長も、一見放任主義なようでいて、必要なとこは押さえてます。気ままに見えて実は色々考えてる人ですからね、全部承知の上で責任持つつもりなんだと思いますよ」
「よけいな世話と言われれば、たしかにその通りかもしれん」
引き下がるのかと思ったが、サリヴァンの言葉には続きがあった。
「だが私には、公のなさりようが正しいとは思えない。あの方は諸君をただ甘やかしているだけのように見える。……どうやら、自身を守る楯ではなく、庇護の対象としか見ておられないようだ」
言葉が胸に突き刺さり、メロディは息をのんだ。思わずエチエンヌの腕を取る手に力がこもった。
「うちの子、と口にしておられたな。部下に向ける言葉ではない。諸君は世間のみならず、公ご自身からも認められていないのではないかな」
それでよいのか、とふたたび問いが突きつけられる。
フェビアンは答えなかった。陽気でおしゃべりな彼が珍しく押し黙る。
エチエンヌが舌打ちをし、床を蹴った。
それぞれに黙る三人を見回した後、サリヴァンは親父さんに了承を伝えて出ていった。
フェビアンがため息をひとつこぼし、掃除に戻る。
メロディとエチエンヌも、のろのろと作業を再開した。
仲間たちはすぐにまたおしゃべりを始めたが、メロディはそれに加わる気になれず、一人黙々と床を磨いた。
頭の中でサリヴァンの言葉が何度もよみがえる。
セシルに、認められていない――?
指摘されて、初めて気付いた。
そんなはずはない、と反論できる材料が、自分の中に何ひとつありはしないということを。