1 薔薇屋敷の朝
田舎の朝は早い。
夜明けとほぼ同時に起き出して、朝食の前に馬の世話をする。自分の馬は自分で面倒を見る、というのがエイヴォリー家の家訓だ。ついでに豚や鶏などの世話も手伝い、動物たちにたらふく食べさせてやってからようやく人間も食事をする。それがメロディの日課だった。
(ああ、鳥が鳴いてる……もう起きなきゃ)
いちばん早起きの小鳥たちが、窓の外でさえずっている。眠りから浮上したメロディは、なめらかなシーツの心地よさに少しばかり未練を覚えつつ、寝返りを打った。
「ん……?」
ぼんやり開けた目に赤いものが映る。
すぐそば、触れ合うほど近くに、透ける焔のような見事な赤毛があった。
うらやましいほどにさらさらと流れて、布団からはみ出した白い肩にかかっている。
(いいなあ……エチの髪って本当にきれい……これだけ癖がなかったら、櫛もほとんどいらないよね)
まだ半分寝ぼけながら、メロディは絹糸のような髪に指をくぐらせた。
それがくすぐったかったのか、伏せられた長いまつげが震えた。ゆっくり現れたきれいな菫色の瞳と、メロディの蜂蜜色の瞳が至近距離で見つめ合う。
「おはよう」
「…………」
メロディ以上に寝ぼけているようで、エチエンヌは返事もなくぼんやりとこちらを見つめ返していた。形の良い柔らかそうな唇からため息がこぼれる。女のメロディより遙かに色っぽく悩ましい。
無言のまま彼は動き、メロディを抱き寄せた。ぴったりと身を寄せて、甘えるように髪に顔をうずめる。
「エチ?」
ふれあう身体はまだ成長途中の華奢なもので、けれど硬く引き締まり性別の違いを見せつける。どれほど美しくても、やはり彼は男性なのだ。きっとこれから背も伸びて、どんどん男らしくなっていくのだろう。
今の、女よりも美しい姿が失われるのかと思うと、少し残念な気もするが、たくましく成長した彼も見てみたい。どんな青年になるのか楽しみだ。
「……って、なんでエチ裸なの?」
「……んあ?」
ぼんやりとされるがままになっていたメロディは、なめらかな素肌の感触にようやく気付いた。抱き寄せる腕も胸もむき出しだ。上だけでなく、どうやら下まで彼は何も身に着けていないらしい。さすがに口にするのは憚られる感触を布団の中で感じた。
「それに、なんで一緒に寝てるんだっけ」
「ああ? 一緒って何が……あん? 何やってんだ、あんた」
ようやくはっきり目が覚めたらしいエチエンヌは、いぶかしげにメロディをにらんだ。
「やってるのはエチの方だよ」
少し視線をずらして、いまだ抱きしめる腕を見る。
それでエチエンヌの方も気づき、小さな舌打ちを漏らした。メロディを放り出して寝返りを打つ。
メロディは寝台の上に起き上がり、周囲を見回した。薄い帳越しに見える室内のたたずまいは、見慣れた我が家の自室ではなかった。だが知らない場所でもない。ここも、たしかに自分の部屋だ。
――そうだ。ここはオークウッドの実家ではない。女王陛下のおわします、花の都カムデンだった。
ティペット通り十一番地、シャノン公爵邸。通称薔薇屋敷。それがここの名称だ。
ほんのひと月ほど前に田舎からやってきて、なんだかんだとあったけれど、結局ここで暮らし続けることになったのだった。
武骨で実用一点張りな田舎の城館とは違って、瀟洒な部屋だった。メロディが本格的にここで暮らすと決まってから、いくつか調度が取り替えられた。明るく優しい色彩で統一され、若い令嬢が好みそうな可愛らしい雰囲気に仕上がっている。屋敷の主の心遣いかそれとも女中達の意気込みなのか。床に敷かれた絨毯は可愛らしくも華やかな薔薇模様だ。
その薔薇の上に男物の衣服が乱雑に散っていた。
「エチって、寝る時全部脱ぐんだ?」
「それがどうした。見たいのか? 金出すなら見せてやってもいいぜ」
エチエンヌは布団に肘をついた姿勢で思わせぶりに掛布をつかんだ。
「え、別にいいけど。お金払ってまで見たいものじゃないし」
「なんかすげえムカつくんだけど!」
「で、さっきの質問に戻るけど、どうしてここで寝てるの? ここってわたしの部屋だよ」
「……ああ、間違えた」
エチエンヌは頭をかきながら起き上がった。ずり落ちた掛布が腰の辺りをきわどく隠す。どこからどう見ても男でしかない身体なのに、この色気はなにごとだろう。
「ゆうべ結構飲んだからな。ちゃんと自分の部屋に戻ったつもりだったんだが、どうやら思ってた以上に酔っぱらってたみてえだ。悪ぃな」
「ふうん。二日酔いは大丈夫なの?」
「はっ、あのくらいで二日酔いになんぞなるかよ」
「それならいいけど」
メロディは寝台から下りて床に散らばる服を拾ってやった。
その時部屋の扉が開いて、女中が入ってきた。
「まあお嬢様、もう起きてらしたんですか」
「あ、ドナおはよう」
「今朝こそはと思いましたのに。もっとゆっくり寝てらしてくださいな」
悔しそうに言われて、メロディは少し笑った。真面目な責任感でもって仕事にあたっている彼女は、毎朝メロディに後れを取るのが不本意らしい。
「そんなの気にしなくていいのに。わたしもここで働く身なんだから。ドナこそもっとゆっくりすればいいのに」
「そういうわけにはまいりません」
きびきびとやってきた彼女は、メロディが手にした衣服に目を落とした。
「あら? それはエチエンヌ様のものでは」
「よくわかるね」
「当然ですわ。洗濯だってわたし達の仕事ですもの。でもどうしてここにエチエンヌ様の服が……」
不思議そうに言いかけた彼女は、寝台の気配に気づいて顔を向けた。そしてたちまち硬直した。
「ああ、あのね……」
言いかけたメロディの腰を、伸びてきた腕がからめとった。引っ張られてメロディは寝台に尻餅をついた。
「じろじろ見てんじゃねえよ。金取るぞ」
「ちょっとエチ」
メロディの手からエチエンヌが衣服を取り上げる。ドナは顔を真っ赤にしていたが、はっと我に返ってメロディにつかみかかった。
「おっ、お嬢様! なんてこと! も、もう手遅れなのですか!?」
「え、なにが?」
「ああっ、どうしましょう! まさかこんなことになるなんて! だ……っ、旦那様ぁっ!」
すっかり取り乱した彼女が部屋を駆け出していく。呆気にとられて見送ったメロディは、答を求めてエチエンヌを振り返った。
「どうしたんだろう」
エチエンヌは答えず、だまって肩をすくめた。
日に日に陽射しは強くなり、季節は夏へ移り変わろうとしている。
屋敷の薔薇も盛りを過ぎて、そろそろ終わりを迎えつつあった。代わりに緑はいっそう濃くみずみずしくなり、花壇には夏の花が咲き始める。
早朝の空気はこのうえなく心地よかった。馬で少し駆けたいくらいだが、森と山ばかりの田舎と違って、この都会では難しい。公園に出かけて乗馬を楽しむのは貴族のたしなみらしいが、彼らは馬を駆けさせたりしない。ゆっくり歩かせて、出会う人々と挨拶をかわすのだ。
「お前も広いところで駆けたいよねえ」
ブラシをかけてやりながら、メロディは愛馬に話しかける。厩舎に押し込めてばかりでは可哀相だから、どこかで駆けさせてやりたいものだ。カムデンにそんな場所はあるだろうか。
世話を終えて屋敷内へ戻ると、食堂がなにやら騒がしかった。
「この馬鹿者がっ! 女性の寝台にもぐり込み、あまつさえ裸で寝るとは! なんという不埒な真似をするのだっ!」
「しょーがねーだろ、酔ってたんだからよ。オレだって、どうせならあんな発育不良の筋肉女よか副長の方がよかったよ」
生真面目な騎士のナサニエルは、今朝のできごとに頭から湯気を立てている。だが叱られる側のエチエンヌはどこ吹く風だ。
「ずるいなあ、エチ。そうか僕も酔ったふりしてハニーのとこに行けばよかったな」
「フェビアン、お前まで何を言うか!」
「笑いながら人の首絞めてんじゃねえ! てめえ軽く本気だろう」
「やだな、軽くないよ。真剣に本気だよ」
亜麻色の髪の青年は背後からエチエンヌの首を締め上げる。にこにこ笑う顔は陽気で優しげだが、腕に込めた力はけっこう容赦ない。
「く……っ、この変態野郎が!」
「裸で女の子の寝台にもぐり込んだ奴に変態呼ばわりされたくないなあ」
「――やれやれ」
朝に弱い薔薇屋敷の主はため息をついて、忠実な従者が差し出した熱いお茶に口をつけた。いつもはもっと寝坊助なのだが、今朝は早くにたたき起こされたため欠伸が止まらない。
「おはようございます、セシル様」
メロディは彼の隣、自分の席に腰を下ろした。
「ん、おはよう。君がいちばん冷静だね」
眠たげな顔がこちらを向く。そんなようすも絵になる人だった。
海のような深い青色の瞳に、南の太陽を思わせる金褐色の肌。男性にしては長すぎる黒髪がメロディには少々気になるが、社交界の女性たちにはそれも魅力のひとつと映るらしい。異国情緒あふれる神秘的な風貌だ。
今は椅子に収めている長身と艶めいた美貌で人目を引き付けてやまない人に、メロディはあらためて説明した。
「エチは酔っぱらって部屋を間違えただけですよ? 何もしてません。してたらさすがにわたしも目を覚ましますし」
「そうだろうね」
「いくら酔ってたって、間違えてわたしを殺そうとはしないでしょうし」
「違うちがうハニーちゃん、そっちじゃないから」
即座にフェビアンからつっこみが入る。彼はようやくエチエンヌを解放して自分の席についた。
「何もなかったからにしても、本当に冷静だよね。裸の男が隣に寝てて、びっくりしなかったの」
「セシル様や副長だったらびっくりしたかな。でもエチなら突飛な行動してもそう驚かないっていうか。何でもやりそうじゃない」
メロディは運ばれてきた料理に手をつける。焼きたてのパンにカリカリのベーコン、甘く柔らかい炒り卵。野菜のスープは塩加減が絶妙で、サラダも果物も新鮮だ。シャノン公爵邸の朝食は贅沢ではないものの、質と量で若者たちを満足させてくれる。
「いや、突飛とかそういう問題じゃなくてね」
「裸ってとこ? うーん、エチも十分鍛えていい身体してると思うけど、やっぱりまだ成長途中で細いしね。かっこいいって言うより、どうしてもきれいって印象の方が強いんだよね」
「きれいなのは当然だが、なんか腹立つな。てめえに子供扱いされる筋合いはねえぞ。オレよか年下のくせして」
「ひとつしか違わないじゃない」
「うん、どっちもお子様だね。だからそういう意味で言ったんじゃないんだけどねえ……団長、婚約者として何か一言」
「ジン、お茶のおかわりを」
「はい」
我関せずな主従に、苦い顔で息をつくナサニエル。フェビアンはおどけたしぐさで大げさに肩をすくめ、エチエンヌは白けた顔で皿をつつく。そしてメロディは朝からもりもり食欲を発揮していた。
いつもどおりの風景だ。
シャノン公爵セシルを筆頭に、副官としてナサニエル。メロディ、ジン、フェビアン、エチエンヌの四名を加えた計六名が、この屋敷に集う「騎士団」の総勢だった。
たった六人ぽっちの小さなちいさな騎士団。団と呼ぶのもおこがましいが、名前だけは立派に「薔薇の騎士団」という。
人前で名乗るにはちょっと恥ずかしいおしゃれすぎる名称だが、ちゃんと意味はあるのだった。
彼らは国境や治安を守るための組織ではない。王都には十分な人数をそろえた騎士団が二つも存在していて、王宮と街の守備に従事している。そうした組織とメロディたち薔薇の騎士団とは、設立目的がまったく異なっていた。
メロディたちが守るのは、団長セシルその人だ。
外見からわかるとおり、彼はこの国の生まれではない。遠い南の国シュルクの、王子として生まれた人だった。
イーズデイルがシュルクと和平条約を結ぶ際にかの国へ嫁いだ、エルシー王女の忘れ形見である。現女王の甥にあたり、両王家の血を引く高貴な生まれだったが、今では王族としての地位は失っている。
王位を継いだ異母兄によって国を追われたのだ。
暗殺されそうになったところをからくも脱出し、血縁を頼ってイーズデイルへ亡命してきた。王位継承権を放棄し貴族として気ままな日々を送っているが、彼の周りからきな臭さが消えたわけではない。
シュルク王ハサリムは、セシルがイーデズイルを後ろ盾に攻めてくることを恐れている。
もともとイーズデイルが南方諸国を植民地化していたせいもあって、ハサリムはイーズデイルに強い警戒心を抱いているらしい。始末しそこねた弟が王位を奪いに来ることを恐れ、今もせっせと暗殺計画を練っている。セシルにその気はないと言ったところで、信じてもらえるものではない。
刺客の手から彼を守るために、メロディたちはここにいるのだった。
亡き王女の象徴にちなんで、この家は薔薇屋敷と呼ばれている。薔薇のもとに集い、薔薇を守る。ゆえに、薔薇の騎士団という。
――とはいっても、初めからそれを目的として配備されたのはナサニエルだけだった。
ジンは幼い頃からセシルに仕えており、エチエンヌはイーズデイルへの旅の道中で拾われた。フェビアンは士官学校を中退してなりゆきでセシルの元へ来た。メロディも、最終的には団員として落ち着いたものの、当初は違う話があった。いや今もなくなったわけではないのだが、それはまた別の話だ。
特例的に正騎士として叙勲されたものの、本来ならせいぜい見習い身分がいいところである。
寄せ集め集団と、口の悪い者は言う。かなしいかな否定はできない。
(みんな腕は一流なんだけどね……)
フェビアンとエチエンヌはくだらない言い合いを続け、それを時折ナサニエルが叱責するが、長たるセシルはのんびり眺めるだけだ。彼が怒ったところを、メロディはまだ見たことがない。
主に忠実なジンは、無表情に黙々と給仕に徹している。同じ騎士団の仲間であり経験で言えば大先輩なのに、彼が共に食卓につくことはない。対等な同僚なのだからといくら言っても、ジンはへりくだることをやめなかった。卑屈なまでの態度に、むしろ趣味でやっているのではないかと思う時もある。
メロディの目にも、到底騎士団とは見えない風景なのだ。まして外部の人間が認めてくれるわけもないだろう。
しかたないよなあと思いつつも、やはり少し悔しいメロディだった。
「罰として、エチは今日一日メロディ君の希望に付き合うこと」
食事の後セシルに言い渡されたエチエンヌは、盛大に顔をしかめて抗議した。
「罰って、なんだよ。たかだか部屋を間違えたくらいで」
「メロディ君が常識から遠くあさってに外れた子であったことに感謝するんだね。普通ならよくて投獄、下手をすれば相手の親族になぶり殺しにされるところだよ」
「…………」
メロディの父と兄たちを思い出したのか、エチエンヌはしばし何とも言えない顔で沈黙した。
「なんなら、今からアラディン卿に報告の手紙を書こうか?」
「ばっ……てめえ、セシル! 脅迫する気かよ!」
「いたって普通のことを言っているだけだよ。お前がしたのは、そういう問題行動だったんだ。理解して、反省しなさい。そして罪滅ぼしをするんだ」
「……罪滅ぼしって」
げんなりとエチエンヌがこちらへ視線を向けてくる。メロディは首をかしげた。
「あの、セシル様、わたしは別に……」
「悪いことをしたら罰を受けるものだよ。きみが何かしたら、もちろん同じように扱うよ」
「あ、はい……」
セシルは穏やかに優しい笑顔を浮かべているのに、妙に逆らいがたいものを感じる。元王子様の威厳というものだろうか。
まあ、罰といってもそうひどいものではないのだし。
考え直して、メロディは笑顔になりエチエンヌの腕に抱きついた。
「じゃあエチ、訓練に付き合って!」
「……そうくると思った」
心底嫌そうにエチエンヌはうめいた。
「だって、まだエチと手合わせしたことないんだもん。いくらお願いしても相手してくれなかったでしょ」
「たりめーだ! なんでてめえみてえな暑っ苦しいやつに付き合って、オレまで汗くさくならなきゃなんねーんだよ! 大体だな、オレは正面きっての戦法なんて専門外なんだよ! 騎士の戦い方なんぞ知らねえっつの!」
「うん、ちょうどいいじゃない。きみもイーズデイルの騎士として正式に叙勲されたことだし、しっかり訓練しなきゃね。いずれ人前で剣を披露することもあるかもしれない。その時に恥をかかないよう、基礎からみっちりたたき直してあげるよ。うふふ」
なぜかうれしそうな笑顔でフェビアンがエチエンヌの背中を叩く。
「てめえはお呼びじゃねえんだよ!」
「そんな、水臭い。同じ団の仲間じゃないか。訓練はみんなでやろうよ、ねえハニー?」
「うん!」
「おい……っ」
「きみの大好きな副長にもご指導をお願いしよう。いいですよね、副長?」
「む? ――うむ、たしかに訓練は必要だな。いいだろう」
話を振られてナサニエルもうなずく。エチエンヌに逃げ道はなかった。
セシルが椅子から立ち上がり、部下たちに背を向けた。
「まあ、頑張りなさい」
「待てこらセシル! てめえが相手してやれよ!」
「私はこれからデートなんだ」
振り返らずにセシルは手だけをひらひらと振った。
「昼間で人目も多いから護衛はジンだけで十分だ。きみたちはしっかり訓練に励みたまえ」
そのまま長身が食堂を出ていく。ジンが影のように後を追うのを、部下たちはだまって見送った。
「今日のお相手は?」
ふたりがいなくなってから、メロディは訊ねた。フェビアンが答える。
「ブルック家の未亡人だったかな。推定年齢六十代前半」
「守備範囲広いね……」
「上方向に限ってな」
エチエンヌが鼻を鳴らした。
「相変わらず年増好みでやんのな」
「好みっていうか、乳離れできてないだけな気がするけどねえ」
若き美貌の公爵は女性たちに大人気で、社交の季節の近頃は毎日のように遊びに出かけるが、同伴者の年齢が三十歳を下回ることはない。
当然皆既婚者ばかりだ。未亡人ならまだいいが、現役の人妻の場合夫と喧嘩にならないのだろうかというのが、目下メロディの最大の疑問であった。