序曲
悪魔だ。
目の前で、黒い悪魔が踊っている。
二匹の悪魔が軽やかに身をひるがえし、くるくると入れ変わる。そのたびに上がる悲鳴と血潮。瞬く間に目の前が赤く染められ、動かない木偶の数が増えていく。
こんな光景、見たことがない。想像もしなかった。
人が死ぬところも血が流れるところも嫌というほど見てきた。女が犯されるところも、泣いてすがる老人が蹴り飛ばされ財産を奪われるところも。それらは物心ついた時から常に周りにあった風景で、自分にとって何一つ珍しくないものだった。
死ぬのは自分たち以外の者だから。犯されるのも、奪われるのも。それらは常に、自分たちの手によってなされることだったから。
だから今、目の前で起きていることが理解できない。なぜ仲間が倒れるのだ。なぜこちらが死んでいく?
それをなしているのは、たったの二人。こちらは倍どころか十倍の数で向かったのに。
見た目はまるで強くなさそうな連中だった。依頼主から腕が立つと聞かされたので念のため全員で向かったが、どうせ大半は見物に回るだけだろうと高をくくっていた。自分は見張り役だ。よけいな邪魔が入らないよう、周囲を警戒するのが役目だった。それだけ、だったのに。
いったい何が起きている?
気づけば地上に立っているのは、二匹の悪魔の他には自分一人だけだった。
いや、そうとは言えない。
自分はとうに腰を抜かしてへたり込んでいた。仲間をすべて片づけた悪魔が、こちらを振り返りゆっくり近づいてくるのを、逃げることも立ち向かうこともできずに、ただ震えながら見つめるしかない。
身体が動かない。全力でここから逃げ出したいのに、腕も足も馬鹿みたいに震えてまるで使い物にならない。まして戦うなど論外だった。
「仕事」に加わるようになってからかなり経ち、もう何人殺したか知れない。十分な能力を身につけたと思っていたが、到底この悪魔たちに対抗できるとは思えなかった。教師でもあった仲間たちが、あんなにあっさりやられたのに、どうやって自分一人で戦えというのか。無理だ。できるはずがない。
足音がすぐそばで止まる。
おそろしく背の高い悪魔は、血糊をまとわりつかせた剣を両手にだらりと下げ、黙って自分を見下ろした。
猛り狂うでもなければ嘲笑するでもない、静かな顔で立っている。悪魔というのは意外に美しいものなのだなと、どうでもよいことを考えた。恐怖が過ぎて、感覚がどこか麻痺してしまったか。
強く、恐ろしく、美しい悪魔。
深い青の瞳に魅入られて、逃げ出すこともできない。
死ぬのか。みじめでちっぽけだった人生が、ここで終わるのか。
いっそそれは救いなのかもしれない。このまま必死に生きて、そして何が得られるというのだろう。未来に希望など持てたことがなかった。どんなことなら望めるのかもわからない。行き交う人々が当たり前に手にしているものの何一つ、自分には与えられなかった。望んだところで手に入るとも思えなかった。
――ただ、生きたかった。死にたくなかった。みじめなままで終わりたくなくて、その思いだけで這いつくばってでも生きてきた。
そう、救いならば、すべての終わりではなく、希望がほしい。
光ある未来がほしい。
「――お前、いくつ?」
悪魔が口を開いた。美しい姿にふさわしい、甘くやわらかな声だ。ああ、だから悪魔は人を惑わせることができるのだろうか。
優雅に膝を折って、悪魔が目の前にしゃがみ込む。
「ずいぶん可愛らしい顔をしているが、男の子だね? いくつなの」
何を聞いているのか。
自分の年齢など、なぜ悪魔が知りたがる?
そもそも正確な年齢なんて知らない。夏に生まれたということは聞いていたから……多分誕生日は過ぎているはずだが。
「……十四」
からからになった喉から、かろうじて声を絞り出した。そうか、と悪魔はうなずいた。
「ならば、判断はできるね。選びなさい。ここで死ぬか、私と共に来るか」
悪魔と一緒に?
それは地獄へ連れて行かれるということだろうか。
どんな神の教えとも無縁に生きてきて、一般的な宗教概念など持ち合わせていない。どこかで聞いた言葉だけが脳裡に浮かぶ。地獄とはどれほど恐ろしい場所なのだろうか。
想像しても、今よりおそろしいことなどないように思えた。これまでの生活だって、十分最低だった。きっとどこへ行ったって変わりない。
死にたくない。生きていたい。ならば、従うしかない。
あきらめて目を閉じた。
どこへでも行く。何でもする。だから、いつか。
いつか――希望を見いだせるだろうか。
――そして、目を開き。
光を、見た。
輝きをまといながら、金色の少女が自分を覗き込んでいる。
蔑みも怯えもなく、ただ愛らしく無垢なまなざしでこちらを見つめている。
――ああ。
知らず、ため息がこぼれた。
きっと、これが天使というものだ。
未来を――幸せを、信じられる気がした。