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薔薇の騎士団  作者: 桃 春花
第一話 亡き王女のための舞曲
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 ふと目が覚めたのは、喉の渇きのせいだろうか。

 室内は暗い。フェアリーランプの明かりだけが、ぼんやりと周囲を照らしている。

 まだ夜中だろう。女中たちもみんな寝ているはずだ。メロディは呼び鈴ではなく、水差しを探して頭を動かした。重かった。痛みも感じた。全身がひどくだるい。寝ているのに背中が辛い。これが発熱という状態なのかと、物心ついて以来初めて知った。

 風邪すらひいたことがなかったのに、知恵熱とは何なのか。たしかにここしばらく、頭を酷使していた。次から次へといろんなことがあって、考えることが多すぎて、とても対処しきれないほどだったが……熱を出すほど残念な造りだったとは。

 そばの台に水差しがあった。広い寝台の上から手を伸ばしても届かない。メロディはだるさをこらえて起き上がろうとした。上体を浮かせると、そっと押し戻された。

「寝てなさい」

 セシルがいた。気配を感じさせないほど静かに、彼はメロディの寝台に腰かけていた。

 メロディを寝させておいて、代わりに水差しを取ってくれる。

 そういえば薔薇屋敷に帰ってきたのだった。力強い腕に背中を支えられ、水を飲みながらメロディは思い出す。朦朧とする意識の中、実家の屋敷へ運ばせようとする兄たちに抵抗して、こっちがいいと必死に主張したことを覚えている。セシルにしがみついて、小さな子供みたいに駄々をこねた。落ち着いて思い出すと恥ずかしいことをしたものだ。

 でも、帰ってこれてよかった。

 喉をうるおしてほっと息をつく。セシルがグラスを取り上げ、メロディを枕へ戻す。

「ありがとうございます」

 セシルは微笑み、冷たい水でしぼった布を額に乗せてくれた。

「何か、他にしてほしいことは?」

 メロディは深く呼吸して、聞きたいことを思い出した。

「みんなは、どうしてますか? あの後どうなって……」

「ん」

 もう一度セシルは寝台に座り直した。

「殿下は王宮へ戻られたよ。リチャード君の怪我はけっこうひどいようだが、まあ大丈夫だろう。若いんだし、すぐに治るさ。兄君たちは屋敷に帰られた。君のことをずいぶん心配していたけどね。多分、明日また来るんじゃないかな?」

 メロディは小さく笑った。

「ええ、きっと」

 またフェビアンとエチエンヌが嫌がることだろう。

「ファラーは……まあ、まずは療養かな。といっても、少し落ち着けば尋問が開始されるだろうけどね。今回の件は表沙汰にはされていないが、女王陛下も大公殿下もいたく心を痛められている。ちなみにルイス殿下は、当分外出禁止だ」

 さらにメロディはくすくすと笑った。可哀相だが、あの王子様には妥当な処分だろう。

「そういえば陛下からの伝言があるんだった。君に、感謝しているとのお言葉だよ。本当はいくらでも逃げられたのに、殿下のために踏みとどまってお守りしたんだってね」

「わたしも助けていただきました。お互いさまです」

「そうか」

 セシルの手がメロディの髪を撫でる。くすぐったい感触にメロディは目を細める。身体はつらくても、静かで優しい時間がこのうえなく心地よかった。

「他に聞きたいことは?」

 問われて、少し考える。

 ずっと昔に、親戚の子から聞いたことをなんとなく思い出した。病気をした時にはわがままが言い放題だという話だった。みんな甘くなるから、とっておきのおねだりをする好機なのだと。

 メロディは病気というものに縁がなかったから、使えない手だと思って聞いていたものだ。それにそんなことをしなくても、家族はたいていの願いは聞き入れてくれた。普段からメロディは甘やかされ放題だった。

 でも、今――この人に、おもいきってわがままを言ってしまいたい。

 ずっと遠慮して黙っていたことを、メロディは初めてセシルにぶつけた。

「セシル様のことを聞かせてください」

 形のよい眉が軽く上がった。首をかしげる美しい人に、メロディは請い願った。

「シュルクで何があったのか、セシル様は何を考えていらっしゃるのか……何を望んでいらっしゃるのか。本当のことを、教えてください。全部」

 笑顔が水に混じって薄れていくように、ゆっくりと消えていく。

 しばらく無言でうつむいていたセシルは、ふと息を吐いて笑顔に戻った。

 これまでと何が違うとも言えない。けれどひどく淡い、はかなげな笑顔に見えた。

「シュルクで、か。そうだね、君には聞く権利がある。……王位争いと人は言うけれど、それはイーズデイルから見た話で、じっさいのところ争いと呼べるようなものはなかったんだよ」

 セシルは静かに話しだした。

「私を王にと望む者もいたけれど、それはごく少数で、ほとんどの者は兄が王になることを望んでいた。外国の息がかかった王などより、シュルクの血だけを引き、シュルクのことだけを考えてくれる王を求めていた。私も王になりたいなどと思ったことはないし、早くからその意志は表明していた。兄とは離れて育ったから、あまり親しいとは言えない、ほとんど他人のような関係だったけれど、別に憎み合っていたわけじゃない。争いなんてなかったんだ」

 これまで語られることのなかった話を、セシルは聞かせてくれる。巻き込んでしまったメロディへの誠意だろうか。彼の思いをひと言も聞き逃さないよう、メロディはじっと聞いていた。

「だが、いくら私が王になる気はないと言っても、それで済まされることではなかったんだ。それだけで済ませるには、イーズデイルの存在は大きかった。シュルクにとって――兄にとって、無視できないほどに。それを私はわかっていなかった」

 膝の上に組んだ手に、セシルは視線を落とした。

「……二年前のある夜、私の宮が襲撃を受けた。一応、正体不明の賊ということになるが、まあ兄のしわざなのは誰にでもわかることだ。無差別だったよ。宮にいた者全員が襲われた。私は……本当に愚かで……自分の立場が危ういものだとはわかっていた。気を抜けない状況だとも。だが、大丈夫だと……兄が王位に就くことはほぼ確定しているのだから、私が気をつけておとなしくしてさえいれば何事も起こらないと、愚かな考え違いをしていた。襲われるその瞬間まで、兄の考えに気づかなかった」

 うつむいた横顔を黒髪が隠す。セシルの表情が見えなくなって、メロディは布団から手を出した。伸ばしかけて、ためらった指先が力なく落ちる。

「兄にとっては、私が存在するだけで理由になったんだ。私はあの国にいてはいけなかったんだ」

「そんな……そんなの、セシル様が悪いんじゃないでしょう。兄上様がひどいんです」

「いいや、悪いのは私だよ」

 セシルは少し顔を上げてメロディを見た。こんな時にまで笑わないでほしいと思った。笑顔がかえって胸に痛い。

「私だって人間だ、兄の仕打ちを恨んでいないなどとは言えない。だが……私のせいなんだ。私が甘すぎたせいで、死ななくていい者を大勢死なせてしまった。もっと早くに、違う方法を選べたはずなんだ。そうすれば兄も弟殺しをする必要はなかった」

 メロディは枕の上で頭を振った。額から布が落ちた。こんな言葉は認められなかった。

「どうしてセシル様を殺さなければならないんですか。本人が王にならないと言ってるんです。イーズデイルだってそこまで干渉できないでしょう。何も、命まで狙わなくても」

「イーズデイルの植民地政策については、知っている?」

 唐突に、関係のなさそうなことをセシルは言った。メロディは目を瞬く。聞いたこともあるが、よく知らない話だった。

「あの……」

「今はそうでもないけど、先代の王の頃には、イーズデイルは植民地を増やすことに熱心だった。植民地というのはつまり、征服された国ということだよ。南の小国がいくつも、イーズデイルの支配下に組み込まれた」

「……征服って、軍事力によってですか」

「もちろん決め手はそれしかないね。金銀宝石や工芸品、香辛料や茶葉、珍しい生き物などを求めて、北方諸国はこぞって南に手を伸ばした。弱い国は次々攻め滅ぼされて、北の大国に貢がされる立場になったんだ」

 メロディは何も言えなかった。知らなかった。植民地というものが何なのか、どうしてそんなものが生まれたのか、これまで興味も持っていなかった。ただ遠くにある国で、そこからたくさんの綺麗なものが生まれると、そのくらいにしか認識していなかった。

 メロディが過去に聞いたのは、父が植民地というものによい思いを持っていないといった話くらいだ。だからエイヴォリー家では、贅沢な嗜好品は使われていなかった。貴婦人として常にドレスを着ていた母も、色鮮やかな鳥の羽で飾りたてるようなことはなかった。

 オークウッドでの暮らしは誰もが慎ましく、そして幸福だった。メロディにはそれがすべてで、自分たちの国のせいで財産を奪われる人々がいるなど、知りもしなかった。

 言葉が出ない。何を言っていいのかわからない。何を言う資格もないように思える。

「責めているわけじゃない」

 絶句する少女に優しく言って、セシルは頭を撫でてくれた。落ちた布を拾い上げ、水に浸してしぼる。

「君が生まれる前の話だ。そういうことがあると知っているだけでいい。今の陛下は先代とは違うお考えだしね。ただ、三十年ほど前には、南方諸国にとって北は大いなる脅威だった。それに真っ先に対抗しようとしたのがシュルクだ」

 冷たいものが、また額に乗せられる。

「もともと南でいちばんの大国シュルクが、さらに近隣諸国と同盟を組んで真っ向から対立の姿勢を見せた。さすがにこれには、イーズデイルも態度を改めなければならなかった。下手にシュルクと戦えば、そちらに手をかけているうちにせっかく手に入れた植民地が蜂起することにもなりかねない。もしも敗戦にでもなれば、今度は自分たちが支配される側になる。潮時だと悟ったイーズデイルは、これ以上の侵攻はないことを宣言し、互いに友好関係を保つという条約を締結した。その証として差し出されたのが、私の母だよ」

「え……」

 濡れて冷えた指が、メロディの頬を滑った。

「平和の架け橋――なんて言い方はあまりに嘘くさいね。ようするに人質だ。イーズデイルが約束を破らないための。そしてシュルクの方も、王女を丁重に扱うことで、イーズデイルに敵意なしと示した。ファラーが言った犠牲というのは、このことだね」

「…………」

 だからね、とセシルはそれてしまった話を戻した。

「私の存在は、シュルクにとって常に火種だったんだ。時代が変わり、両国が代替わりしても、それは変わらなかった。シュルクにしてみれば、いつイーズデイルが私の存在を利用してくるかわからない。私を不当に王位から遠ざけるのは友好を保つという条約に反すると、宣戦布告の口実に使われてしまうかもしれない。そうなる前に、始末をつけたかったんだ」

「そんな……」

「猜疑が過ぎるとも言えない。歴史上、戦の口実なんてこじつけやごり押しばかりだ。陛下にそんな気はないと主張したって、シュルクは安心できないさ。先の戦からたかだか三十年しか経っていないのだから」

「だからって……だからって、人を殺すんですか。何もしていない人を、そんな、あるかもしれない可能性のために」

「正しいとか正しくないといった次元では語れない話だね。でも兄にとってはそれが正義だったんだ。シュルクを守るため、己の権利を守るための」

 セシルは息をつき、しゃべり疲れたように少しの間黙った。

 ここではない別のものを見る目で、何かを思い出している。

「……兄としては、なんとしても私がイーズデイルへ入る前に始末してしまいたかっただろうね。今の状況もシュルクにとっては剣呑だ。私を旗頭にして堂々と攻め込む口実がイーズデイルには与えられてしまった。それをしていないのは陛下と、今の議会の方針のおかげだ。ファラーは悪く言ったけれど、私は素晴らしいと思うよ。戦なんてない方がいい。殺し合いなんて、ない方がいい……いつか兄上も、大丈夫だと落ち着ける日が来るだろう。このまま、何事もなく時間が過ぎれば……」

 それまでにどのくらいかかるのだろうか。その間、セシルは何度命を狙われても、じっと耐え忍ぶのだろうか。

 切なかった。ここで何を言えばいいのかわからない、どうしたら彼の力になれるのかわからない自分が、もどかしくて、悔しくて、切なかった。

「……私がいるからいけないんだと、師匠にも言われたよ。いなくなってしまえと。もちろんそれは私を逃がすための言葉だったとわかっているが……事実だよね。私がいたから、無駄に命が失われた。なのに一人だけ生き長らえて、のうのうと貴族暮らしをしているなんて……」

「それでも」

 懸命にメロディは口を開いた。言わずにはいられなかった。

「それでも、わたしはうれしいです。セシル様が死ななくて、今ここにいらっしゃるから、わたしたちは出会うことができました。わたしはそれが、うれしいです」

 何の解決にも、なぐさめにもならない言葉だ。少しも役に立たない、子供の言葉。そんなことしか言えない自分が申し訳ない。

「ありがとう」

 セシルは少し微笑みを深くして、メロディの頬を撫でた。

「さ、もう寝なさい。あまり考えているとまた熱が上がるよ」

 メロディの手を戻させて、布団を直す。立ち去りそうな気配を察して、メロディは急いで言った。

「あの! あの……セシル様は、やっぱり、大人の女性がいいですか?」

「…………」

 突然の質問に、セシルがちょっと目を丸くする。彼はふっと笑いをこぼした。

「そうだね」

「……そうですか」

 わかりきっていた答えを寂しく感じるのはなぜだろう。彼はメロディに優しくしてくれる。それだけで十分うれしいはずなのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。

「おやすみ。朝になれば、熱も下がってる。もう何も悩まず、ゆっくり眠るんだ」

 大きな手がメロディの目元を覆った。うながされてメロディは目を閉じる。近くを漂っていた眠気は、すぐに寄ってきた。とろとろと眠りに落ちながら最後にメロディは言う。

「明日……また、お話してくださいね……」

 答えはなかった。いやあったのかもしれないが、もうよく聞こえない。

 セシルの手が離れ、代わりに口づけが落とされたのが最後で。

 後は眠りにまぎれ、何も覚えていなかった。


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