13
「兄君たちはまだカムデンに滞在しておられるそうだ。アラディン卿もじきに出てこられる。もう一度、彼らとゆっくり話し合っておいで。どうするのが君にとっていちばんいいのか、きちんと考えるんだ。ここではない、安全な場所でね」
セシルの言葉に、メロディは今度は逆らわなかった。
ファラーだけでなくセシルだって、メロディ一人にかまってはいられない状況だ。いちばん大変なのは彼なのだ。足手まといでしかないメロディが我を通すのは、迷惑以外のなにものでもないだろう。
「あちらにはもう連絡しておいたから。明日迎えがくる。支度をしておきなさい」
メロディの返事を待つこともなく、セシルはすでに手配を済ませていた。たとえいやだと言い張っても、無理やり追い返すつもりだったわけだ。
メロディは落ち込みながらも、黙って従うしかなかった。
翌朝ずいぶん早くに、迎えの馬車が到着した。メロディはフェビアンやドナに見送られて薔薇屋敷を出た。
「お嬢様、もう戻っては来られないんですか?」
ドナは残念そうに別れを惜しんでくれた。
「わからない……それは、多分、父様とセシル様が決めると思う」
「君はどうしたいのさ。お父上に全部任せてしまう気かい?」
荷物を運んでくれながらフェビアンが訊く。荷物といっても、わずかな着替えと身の回りのものばかりだ。あの部屋いっぱいの大荷物はそのままになっていた。
いずれ、あれも運ばせることになるのだろうか。
「フェンは、わたしとセシル様との縁談に反対なんじゃなかったの?」
「反対なんかした覚えはないよ」
「だって、考えろって言ったじゃない」
馭者に荷物を渡しながら、フェビアンはうなずく。
「そうだよ、ちゃんと考えて、君自身の意志で決めなって言ったんだ。君の意志で戻らないつもりなら、全然かまわないよ。でもそんなふうには見えないねえ」
メロディは唇を噛んでうつむいた。
「……わたしがいると、セシル様の足手まといだもの。それに……たしかに、結婚については、ちゃんと考え直すべきだと思ったの」
結婚するというのがどういうことなのか、それすらも理解していなかった自分を今は恥じている。まず恋をしろと言われたことが、胸に残っていた。
貴族の娘にとって、結婚は恋愛の結果ではない。だがメロディは、いろいろわかった上で割り切っていたわけではなかった。ただ何も知らず、知ろうともしていなかっただけだ。
こんな自分が結婚についてどうこう言うのは、やはりまだ早すぎた。
「ふうん……まあいいや。じゃあ兄上たちによろしくね」
フェビアンはあっさりと引き下がり、手を振る。彼とドナに挨拶を返して、メロディは馬車に乗り込んだ。
すぐに馬車は走り出し、屋敷の門をくぐる。遠ざかる景色を窓から眺めると、ひどく寂しい気持ちになった。
あそこで暮らした時間はひと月にもならないというのに、離れがたい思いに胸が締めつけられる。
見ているのが辛くて、メロディは窓から離れた。
遠くなっていく馬車を窓から見送っていると、音もなく部屋の扉が開かれた。
気配を忍ばせるのはエチエンヌのくせだ。慣れているからセシルも驚かない。
振り向く先で、赤毛の少年は扉にもたれた。
「急に思いきったもんだな。いいのかよ、あのまま行かせて」
セシルは窓辺から離れ、椅子に座った。
「いいんだよ。最初からこうするべきだった。あの子をここに受け入れたことが、間違いだったんだ」
「ふん……まあそうだな。一度は懐に入れておいて、なついた頃にまた放り出すたあひでえ話だ。面倒見る気がねえなら、最初から可愛がるべきじゃなかったよな」
「……手厳しいね」
セシルは苦笑する。エチエンヌは笑わなかった。
「放り出す必要があったか? たしかにガキだし、色気も洒落っ気もねえけどよ、お前にゃちょうど似合いだろ」
「珍しいね。お前が女の子を気に入るとは」
「別に、気に入ってなんかいねえよ、あんな筋肉馬鹿」
エチエンヌはふてくされた顔で言い捨てた。素直に認められるほど、彼も大人ではない。
「ただ、これまで見てきた貴族の女どもとは違ったからよ……オレがろくな育ちじゃねえことは薄々わかってるだろうに、何も聞かねえで普通に接してた。ジンがあれだけ卑屈になったって、馬鹿にもしねえでなんとか対等に付き合おうとしてた。あいつの方が馬鹿だけど……まあ、嫌いな馬鹿じゃねえ」
「そうだね、とてもいい子だ」
ごくわずかな日々の間に、メロディがこの屋敷の住人から通り一遍でない好意を得ていたことは知っている。少しも気取らず、わがままにも居丈高にもならない彼女を、誰もが気に入っていた。貴族の令嬢としては――いや女性としてかなり常識はずれなところはあるが、人柄は申し分ない。
自分もほだされた口だ。
「いい子だからこそ、こんなろくでもない男に関わらせておきたくないんだよ。このまま取り返しのつかないところまで巻き込む方が、よほどに可哀相だろう?」
「でもよ、お前はこれから、ここで公爵様として暮らしてくんだろ? いつかは結婚すんじゃねえの? だったら、ああいう奴の方が……」
「エチ」
セシルは静かな声で遮った。それ以上言うなという気配を悟って、エチエンヌが口を閉じる。
セシルは椅子の背にもたれ、目を閉じた。
「私は結婚などしないよ」
エチンエヌがそっと息を吐いたのがわかった。
「なんでもいいけどよ……正直、結婚とかオレにはよくわからねえし。お前はお前のしたいようにすりゃいいさ。それで後悔しないんならな」
セシルは笑いをこぼした。けして育ちがいいとは言えないのに、この少年は根がとても純粋だ。口の悪さとは裏腹に世話焼きで優しい気性なのを、認めないのは本人くらいなものだ。
「お前もいい子だね」
目を開けてもう一度彼を見れば、エチエンヌはそっぽを向いて憎まれ口で返した。
「気色悪ぃこと言うんじゃねえ。てめえに言われても不気味だっつの」
子供っぽい態度を笑って眺めていると、ジンが姿を現した。いつもどおりセシルの世話をしにきたのかと思っていたら、彼は来客を告げた。
訪問者の名を聞いてエチエンヌは訝しげに顔をしかめ、セシルは椅子から立ち上がった。
「メロディ、迎えに来たぞー!」
「きっとこうなると思って待ってたよ。お前に結婚なんてまだ早すぎたんだ」
「さあ帰ろう、今すぐ帰ろう。いやついでに王都見物でもしに行くか? 兄さんがどこへでも連れて行ってやるぞ。何でも買ってやる!」
まぶしくも暑苦しい三兄弟の来襲に、玄関ホールへ出たフェビアンとナサニエルはげんなりした。しかしうっとうしがってばかりもいられない。
「どういうことでしょう。なぜまたいらっしゃったのですか」
年長者の責任として、ナサニエルが進み出る。兄弟は不愉快そうに彼を見返した。
「何を言っている、そっちが迎えに来いと言って寄越したのではないか。まさか今になって、やはり返さないと言う気ではなかろうな」
「たしかにメロディは可愛い! 手放したくない気持ちはよーく理解できる! が、貴様らにはやらんぞ!」
ナサニエルとフェビアンは顔を見合わせた。
「あのー、迎えならさっき馬車が来ましたよ? もうとっくに、彼女はそちらのお屋敷へ向かってるんですが」
「なんだ? 迎えに来いと言っておきながら、そちらから送り出したのか?」
「いえですから、迎えの馬車が来た……って、ちょっと待って」
言いかけてフェビアンは顔色を変えた。ナサニエルも急いで二階へ向かおうと階段を振り返る。
しかし呼びに行くまでもなく、既にセシルが姿を現していた。
階段の途中で足を止めて、セシルはホールに集まった彼らを見下ろしていた。
「セシル様……」
セシルは数段降りかけて、また立ち止まってしまう。
いつもの穏やかな顔ではなかった。ほとんど愕然としたようすで、彼は手すりに手をついた。
後ろに続いていたエチエンヌが言った。
「おい……さっきの馬車、本当に伯爵家の馬車だったのかよ」
フェビアンは痛烈な舌打ちを漏らした。
「しまった……紋章がないのは目立たせないためかと思って……くそ、やられた!」
セシルは開かれた玄関扉の向こうに目をやった。とうにいなくなった存在を探しかけて手遅れを悟り、力を失ってうなだれる。
「セシル様」
ジンが寄り添う。
常に泰然としていたセシルが別人のように弱々しい声で呟くのを、その場の人々は聞いた。
「私は……また、間違えたのか……? また失敗したのか……?」
ジン以外の誰もが、彼のこんな姿を見たのは初めてだった。
部下たちも、出てきた使用人たちも、みな言葉もなく、うちのめされる主を見守る。
その中で不意に進み出たのは、エイヴォリー家のライナスだった。
彼は足早に階段を上がりセシルに歩み寄ると、いきなりその胸ぐらをつかんだ。
強引に顔を上げさせただけでなく、力まかせに壁に叩きつける。
ジンが止めに入る暇もなかった。ライナスは胸元をつかんだまま詰め寄った
「腑抜けるのは後にしろ。先にやることがあるだろう」
妹と同じ色の瞳が、金に光って間近からにらみつける。
「メロディを見くびるなよ。あれはたしかに子供で女だが、父上と俺たちが育てた立派な騎士だ。そう簡単にどうこうされるような奴じゃない。エイヴォリーの血を舐めるな」
「…………」
「その通り! メロディが誘拐されるのなんて、今に始まった話ではない!」
次男ティモシーも声を張り上げた。
「なにしろあの子は可愛いからな! 道を歩けば変質者や人攫いに狙われる。昔からしょっちゅうだ。我々にとってこんなこと、はっきり言って日常茶飯事だ!」
「……いや、おい……」
エチエンヌがつっこもうとして言葉を続けられずにいると、今度は三男ダニエルが言った。
「カムデンへ出てくる時だって、三度さらわれかけたさ。けど、そのすべてを、メロディは自分で切り抜けたんだ。俺たちは父上の言いつけ通り、いっさい手を出さず見守りだけにとどめていたんだぞ。どうだ、すごいだろう!」
「その話、今度詳しく聞かせてね……本当に気になるから」
脱力しながらフェビアンは言い、改めて主を見上げた。
その場の全員に見つめられる中、セシルは静かに顔を上げた。
ライナスの手に自分の手を重ね、放させる。長い髪をかきあげる彼にすかさずジンが紐を差し出す。髪を一つに結いながら、セシルは口を開いた。
「ナサニエル君」
「は」
「キンバリー殿に連絡を。至急だ」
「はっ!」
身をひるがえして駆け出す部下を見送ることもなく、セシルはきびすを返す。降りてきた階段をふたたび昇り二階へ向かうのを、ライナスも止めなかった。
それぞれが、自らの支度のために動き出した。