10
曲者の影はふたつだった。
一人はドレスの女、もう一人は背の高い男だ。
男の方がメロディの前に立ちふさがって邪魔をしようとしたが、また皿が飛んできた。頭にくらって男がふらつく隙に、メロディは横をすり抜ける。暗がりでもたつく女にあっという間に追いついて、その腕をつかまえた。
「わわっ……リチャード……じゃ、ないなっ。放せっ」
暴れる人影から発せられたのは、なんと男の声だった。メロディの手を振りほどこうとする力も、女のものではない。
ますますメロディの頭に血が上った。
「この不埒者がっ!」
腕をとらえたまま足払いをかけて、地面に引き倒してやった。うつ伏せになった背中に足を乗せ、おもいきり腕をねじ上げる。
「ぎゃーっ! 痛い痛い、放せーっ!」
「女の格好までして幽霊騒ぎを起こすとは、なんのつもりだ!? こそこそと陰湿な真似をして、卑怯者めが!」
「よーし、よく言った! やっちゃえやっちゃえ!」
「おお、ぶちのめせ!」
フェビアンとエチエンヌがはやし立ててくる。もう一人の曲者は彼らに取り押さえられていた。
「ま、待て……っ、その方はっ」
メロディを制止しようとするのを、フェビアンが首に腕を回して締め上げる。
「ぐっ……あ……」
「んふふふふ、遠慮しなくていいよハニー。存分にいたぶってやりな」
「あー……いや、君たち」
セシルの声は誰も聞いていない。
「痛い痛い痛い折れるうううぅっ! 放せこの無礼者ーっ!」
「謝れ! セシル様に謝れ! 無駄に怖がってしまったわたしに謝れ!」
「そーだ謝れー」
「いい加減にしろフェビアン・リスター!! 面白がってないでこの暴力女を止めろっ」
ジンがランタンを持って近づいてきた。メロディのそばに膝をついて、女装男の顔を照らしだす。
「セシル様、いかがいたしましょう」
振り向くと、セシルも来ていた。彼はメロディと女装男を見下ろし、息を吐いた。
「メロディ君、もういい。放してやりなさい」
「ですが」
「大丈夫、それだけ痛めつけたら逃げる力は残ってないよ。今さら逃げたところで無駄ですしね、王太子殿下?」
「――え?」
思いがけない呼称にメロディの手から力が抜ける。自由を取り戻した女装男は、起き上がろうとしてうめき、肩を押さえて座り込んだ。
「王太子……え? セシル様、今、王太子殿下って……?」
「ん」
セシルはぽんぽんとメロディの頭を叩いた。
「フェビアン君も、リチャード君を放してやりなさい」
「えーつまんなーい」
「ふざけるな」
ナサニエルが叱る。解放された男はよろめきながらメロディたちの方へやってきて、女装男に寄り添った。
「殿下、大丈夫ですか」
「……大丈夫なわけあるかっ」
女装男は猛然と顔を上げて抗議してきた。
「なんなんだこの女はっ。いや本当に女か!? 腕がもげるかと思ったぞ! よくもこの私に暴力を振るってくれたな。覚悟しろ、反逆罪で牢に放り込んでやる!」
「おーや、曲者の分際でえらそうに」
フェビアンが来て女装男を見下ろす。月とランタンの明かりに照らされた顔には、常とは違う酷薄な笑みが浮かんでいた。造りが端正なだけに、そんな顔をすると凄味がある。
「牢に入るべきなのはそっちでしょ。公爵をつけまわした不審者殿」
「わっ、私を不審者だと」
「この状況で他にどう呼べと? 女装してつけまわすような変態を、王太子殿下だなんて呼びたくないなー。国民としてそんな恥ずかしい事実、認めたくないですよ」
「う……」
黙って見ていたメロディは、ゆっくりと視線をセシルに移した。平坦な声で訊く。
「王太子殿下なんですか」
「ん。殿下なんだ」
「そうですか……」
「な、なんだその残念そうな声は。不敬だぞ、メロディ・エイヴォリー!」
「……わたしをご存知なんですか」
「ふんっ、私が知らぬことなどない。君が従兄の花嫁に名乗りを上げて押しかけてきたことも、全て承知だ。しかし君のようなじゃじゃ馬――いや、そんな言葉では足りん、暴れ馬だ。猛獣だ! 従兄にはふさわしくない。さっさとオークウッドへ帰るがいい!」
「きゃんきゃんやかましい奴だな。本当にこれが王子かよ。オレが言うのもなんだが、世も末だな」
エチエンヌが身も蓋もなく言う。これにも女装男――ルイス王太子は抗議したが、一同はしみじみと頷き、嘆息した。
「リチャード君、君がお止めしないと駄目だろう。甘やかしすぎだよ」
「……申し訳ありません、閣下」
「やれやれ。とりあえず撤収だ。話は屋敷でしよう」
セシルの指示を受けて、一同はぞろぞろと引き返す。ルイスもリチャードに助けられて立ち上がった。
なんとなく、全員が無口になる。さっきのようにおしゃべりで盛り上がる気分にはなれなかった。馬鹿馬鹿しい疲労感に見舞われていた。
しかし突然、先頭を歩いていたジンが足を止めた。荷物を置いた場所まで、まだ距離がある。どうしたのかと思いながら歩くメロディを、エチエンヌが腕を伸ばして止めた。
「――?」
鞘走る音がかすかに響いた。フェビアンとナサニエルが腰の剣を抜いていた。ジンは既に双剣を抜きはなっている。
遅ればせながらメロディも腰に手をやった。これでわからないほど鈍くはなかった。全身を緊張させて、周囲の気配をさぐる。
「な、なんだ? 何をしている」
一人ルイスだけがきょろきょろしている。
「殿下――」
リチャードが言いかけたが、その瞬間には始まっていた。
周囲の物陰から一斉に飛び出してきた者たちは、誰もが抜き身の剣を握っていた。
襲いかかる曲者の集団を、薔薇屋敷の面々が迎え撃つ。
夜中の公園に剣戟の音が上がった。うろたえるルイスを、リチャードとセシルが前後に挟んでかばう。
「メロディ君――」
セシルの声が聞こえたが、メロディは構わなかった。かまう余裕がなかった。曲者が斬りかかってくる。一撃目はかわし、二撃目以降は剣で受け流した。
突然の襲撃に鼓動が乱れる。間近から殺気をぶつけられて身体がこわばる。思うように動けない。
「がっ」
不意に目の前の相手が呻いて倒れた。喉に小さなナイフが刺さっていた。
「びびってんじゃねえ、殺らなきゃ殺られるぞ」
エチエンヌだった。彼は長剣を持っていない。上着の下に仕込んだ極細のナイフを使っている。背後からの攻撃をほとんど振り向きもせずにかわし、滑るような動きで逆に相手の背後を取った。
後ろから回した手で、喉元をかき切る。
夜空を背景に、高々と血しぶきが上がった。
鼓動がさらに大きくなった。メロディは乱れる呼吸を必死に抑える。
フェビアンとナサニエルも、着実に敵を仕留めていた。
ナサニエルは力強い剣で攻撃をはね返し、間髪を入れずに踏み込む。相手に体勢を立て直す暇を与えず斬りつける。
フェビアンはさらに速く動いていた。激しい剣戟があったと思った次の瞬間には、もう相手を斬り伏せている。冷やかな顔で死体を乗り越え、次に向かう。
彼らの間を、黒い影が走る。
ジンは燕のように駆けた。双剣を手に曲者へ向かい、ほとんど打ち合うこともなく通り抜けた後には死体が残される。複数に取り囲まれても問題にはならなかった。二本の剣が踊り、またたく間に死体を増やしていく。
それほどに腕の立つ彼らでも、すぐに撃退できる数ではなかった。
曲者の数は、おそらく五十に近いだろう。一個中隊ほどもいる集団だ。
メロディにも次々襲いかかってきた。何も考えてはいられなかった。ほとんど反射的に剣をかまえ、攻撃を受け流す。危なくなるたび、仲間の誰かが助けに入ってくれた。だが彼らもそれぞれ襲われている。そのうちメロディも、自力で撃退しなければならない状況になった。
必死に戦った。まだ動揺の残る意識とは裏腹に、動いているうち身体はなめらかさを取り戻した。幼い頃から叩き込まれた技が、頭より先に状況に対応していく。敵の攻撃をさばき、反撃の隙をさがす。見えた、と思った瞬間には剣を突き出していた。
「うぁ――っ」
悲鳴が上がった。致命傷を受けた敵が、どうと倒れる。痙攣する身体の下に、みるみる黒っぽいものが広がった。
「…………」
荒く息をつきながら、メロディは呆然と立ちすくんだ。剣を介して伝わってきた、骨を断ち肉を貫く感触に総毛立つ。
後ろから襟首をつかまれた。振り払う暇もなく凄い力で引っ張られる。
寸前までいた場所に、斬撃が通り抜けた。
「ジン!」
片腕にメロディを抱き込んで飛びずさりながら、セシルがしもべを呼ぶ。
飛ぶ鳥の速さで駆け寄ったジンが、彼らを守った。
不意に、周囲を闇が包み込んだ。
分厚い雲が月明かりを遮っていた。ランタン一つではとても足りない。同士討ちを恐れて、全員が足を止めた。
メロディの耳元に「し……」とセシルの声が囁く。
息を殺すメロディの周囲で、物音が続いた。入り乱れる足音と、打ち合う剣の音。合間に上がる悲鳴――そのたび身をすくめては、仲間のものではないと知ってほっとなる。
視界が利かない中、濃密な血臭を意識した。闇とともに全身にねっとりまとわりついてきて、むせかえりそうになる。こめかみが激しく脈打っている。頭痛がする。くらくらしてまっすぐ立っているのがつらい。セシルが抱いてくれていなければ、倒れてしまいそうだ。
気分が悪い――。
どこかで指笛の音が響いた。
合図だったのだろう。殺気が一斉に消えた。
足音と気配が引いていく。逃げる敵を仲間たちは追わなかった。完全に敵が去ったことを確認してから、セシルの元へ戻ってくる。途中ジンがランタンを拾ってきた。
セシルの腕がメロディから離れた。剣を収める音が聞こえたが、振り向いて見た彼に武器は見当たらない。すぐ近くにいる、リチャードの方だったのだろうか。
「みんな、怪我はないかね」
セシルは落ち着いた声で部下たちに訊いた。めいめいが無事を答えた。
「今のは……まさか、シュルクの刺客か」
ルイスが言った。リチャードに守られていた彼は、顔をこわばらせつつもどうにか毅然と立っていた。この状況の中取り乱さずにいるのは、さすが王太子の意地と面目といったところか。ドレス姿でさえなければ、素直に立派だと称賛できたのに。
「さて?」
セシルは首をかしげた。
「誰が狙われたのでしょうね……とにかく、帰ろう。長居は無用だ」
「団長、この始末はどうします?」
地面を見回してフェビアンが尋ねる。暗がりの中に、累々と死体が横たわっていた。
「王都騎士団に任せよう。たしか近くに、詰め所があったね」
「あー……それしかないですよね。なんか、後が怖いけど」
メロディは剣についた血糊をぬぐい、どうにか鞘に収めた。その時になって、全身にびっしょり汗をかいていたことに気がついた。
服で手のひらをぬぐう。震えがおさまらない。
「お怪我はございませんか」
ジンに問われる。黙って首を振る。
こわばる指を、大きな手が包み込んだ。
セシルに手を引かれ、仲間たちに囲まれて、メロディは屋敷への道をたどった。