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剣と剣のぶつかり合う音が、のどかな午後の公園に鳴り響く。
刃先をつぶした試合用の剣でも、見物の客たちにとっては刺激的な音だった。
王都の中心に広がる公園は、日頃は貴族たちの社交の場として活用されている。広い園内には馬車のまま走れる道もあれば、遊歩道や馬で通るための道もある。人工の大きな池は豊かに水をたたえ、舟遊びに興じることもできた。今日も何艘かのボートが漕ぎ出して、日傘の貴婦人が水上からの眺めを楽しんでいる。
季節は春の盛り。貴族たちにとって、まさに社交の本番だ。
そんな華やかな季節の公園に、いささか無粋な音と声援が響いていたが、この日ばかりはとがめられることはなかった。むしろ人々はそれを楽しみ、自らも歓声を上げている。
近衛騎士団と王都騎士団による、親善試合が行われているのだ。
大陸国家が領土を争い、時に宗教などを理由にして、血を流し合った戦乱の世は遠い。今の時代に大きな戦いはない。地方へ行けば、国境付近で小規模な紛争があったり、賊の討伐や領主間のもめごとの仲裁に騎士団が出動することもあるが、女王のお膝元である王都カムデンでは、騎士といえば街の治安維持に働くものという認識が強かった。
そうした役目に就く王都騎士団とは別に、もうひとつ都に存在するのが近衛騎士団だ。その名が示す通り、王族と王宮の警備のための組織である。どちらの騎士団も戦とは縁の遠い組織なため、騎士の本来の役目を忘れるなという啓発も込めて、こうした試合が時折行われているのだった。
ただ、そうした目論見が成功しているかどうかは、定かではない。
弓の腕を競う射的競技に続いて、馬上槍の試合が行われ、最後の剣術試合で人々は興奮の極みに達していた。武器を取っての勝負、肉体と技とのぶつかり合いも、貴族たちにとっては単なる娯楽だ。日頃目にすることのない荒々しい光景に、驚き喜んでいる。
競技場に設けられた貴賓席では、両騎士団の長が試合のなりゆきを見守っていた。
近衛騎士団の長はロナルド・ファラー。いかにも貴族的な、風采のいい人物である。年は五十に届くが鍛え抜かれた身体は堂々たる貫祿を放ち、少しも衰えを感じさせない。実は爵位を持たず卿の称号どまりなのだが、優れた実績と穏やかな人柄とで、貴族社会でも一目置かれている人だった。
これに並ぶ王都騎士団の長はアルフレッド・キンバリー。ファラーとは、さまざまな点で実に対照的な人物だった。
まだ四十前でありながら、黒い頭髪は危機的状況にある。てかてかと光るほどに油をつけて撫でつけ、薄くなった部分を隠しているが、部下たちからはひそかに「ハゲザル」というあだ名を献上されていた。サルの由来は常にキイキイわめいているから、ということだ。体格も小柄で痩せており、ひとことで言えば貧相である。これでも伯爵家の次男なのだが、ファラーと並ぶとあまりにも見劣りして気の毒なほどであった。
そのキンバリーは、尖らせた口髭をひねりながら、近くに座る人物に話しかけた。
「見物ばかりというのも退屈ではありませんかな。この際ですから、そちらの騎士にも参加させてはいかがです、閣下」
厭味っぽい口調におっとりと答えた人物は、まだ若かった。
「騎士と言ってもね……うちの子はみんな見習いだから。正騎士の身分を持っているのは、ナサニエル君だけだよ」
「ナサニエル・クライトンですな。かなり腕の立つ騎士と聞いておりますが」
ファラーが、こちらは好意的な声と表情で言った。
「たしか、元は王都騎士団に所属していたのでしたか」
「よくご存知ですな、ファラー殿」
キンバリーが甲高い声でつんと言う。
「たしかに、腕はよい騎士です。しかし融通の利かない男でしてな。あまりに堅苦しすぎて、我が団では周りとなじめず何かともめごとの種でしたよ」
「それは、王都騎士団の方々が、少々くだけすぎとも言えますぞ。まあ市井の民を相手にする役目柄、そうした柔軟さも必要でしょうが」
「おっしゃる通りです。我々は近衛の方々のように、ただ澄まして控えていればよいというわけにはいきませんのでな。この都で日々発生する犯罪や騒動を取り締まるため、常に走り回っておるのです。状況に応じて臨機応変に対処できる者でなければ勤まりません」
刺々しくも当てつけがましい言い方であったが、ファラーは怒らなかった。軽く眉を上げただけで聞き流す。そうした態度の違いにも、両者の差が如実に表れていた。
近衛騎士団と王都騎士団の仲が悪いのは、今に始まった話ではない。
いくつもの厳しい条件によって選抜され、王族の傍近くに仕える近衛騎士たちは、それだけに自負の思いも強い。家柄も条件に含まれているので、それによって他者を見下す者も少なくない。同じ都で働きながら、しかも自分たちの方が実質的に活躍しているというのに、格下の扱いを受けて王都騎士団の面々が納得できるわけがなかった。
両団の騎士の間で喧嘩騒ぎが起きるのも珍しくはない。王都の名物風景である。
この親善試合には、そうした関係を少しでもよくしようという目的も含まれているのだが、あまりうまくいってはいないなと、若い人物はのんびり考えた。
親睦どころか、むしろ対立を深めている。
闘う騎士も応援する仲間たちも、団の面目にかけて、意地でも負けるものかという気迫と殺気に満ちていた。呑気なのはどちらの陣営にも属さず、ただ面白がって見物している観客たちだけだ。
そもそも両騎士団長同士が、到底仲良しとは言えない関係だ。ファラーは常にていねいな態度で接しているが、それでもキンバリーには気に入らないらしく、親睦とは遠い態度で接していた。
いつの世も、どこの国でも、いちばんの課題は人間関係だ。
難しいものだなあと、声には出さず独りごちながら、若い人物は欠伸をかみ殺した。
公園から一歩外へ出れば、外周の植え込み沿いに物売りの屋台が軒を並べている。
公園は基本的に誰でも入れるので、貴族だけでなくちょっと裕福な市民も、時間があれば楽しみにやってくる。そんな人々を目当てにする屋台のひとつで、揚げたばかりの肉詰めパンを買う者がいた。
他の客の邪魔にならないよう脇にのいて、その場でパンを頬張る。日除けと塵除けを兼ねたフードを目深にかぶっているため、顔はよくわからなかったが、小柄な体格や可愛らしい声からして、まだ子供であることは明らかだった。
よほど空腹だったのか、子供はあっと言う間にパンを平らげた。連れていた馬が甘えるように鼻を鳴らす。小さな手が馬の鼻筋を撫でた。
「ごめんね、お前もお腹空いたよね。どこかで一服させてやれたらいいんだけどなあ」
フードの下の視線が、植え込みの向こうへ向けられた。
「ねえおじさん、公園って、この子が食べられる草とかお水とかある?」
旅装や馬に括りつけられた荷物などから、子供が都の住人でないことはすぐにわかった。田舎から出てきたばかりなのだろうと察し、屋台の主人は鷹揚に答えてやる。
「そうさなあ、草はもちろんあるし、池や小川があるから水も飲めるが……」
公園などというものは、よほどの都会でないと見かけない。この子が知らないのは当然だった。自然に囲まれた田舎の人間には、わざわざ人工の自然風景を町中に造り出すという発想など理解できないだろう。
「ただ、今日は入らない方がいいな。叱られるかもしれんぞ」
「勝手に入ると怒られる?」
「いや、普段はそんなことねえ。まあ、よっぽどあやしげな風体だと追っ払われるけどな。今日は特別なんだよ。ここからでも、ちょっとは聞こえねえか? 近衛騎士団と王都騎士団の親善試合やってて、騎士様だのお貴族様だのが大勢集まってるんだよ」
「へえ……騎士団同士の試合?」
興味をそそられたようすで、旅の子供は植え込みに近づいた。手綱を完全に放しているが、よく慣れた馬が逃げるそぶりはない。それに油断して、そろりと近づいてくる人影には気づいていなかった。
「無理無理、そんなとこから覗いたって見えやしねえよ」
屋台の主人は笑い飛ばした。
「坊やはどこから来たんだい?」
「……えと、オークウッド」
「へえ、そりゃまた、ずいぶん遠くから来たんだなあ。坊や一人でかい? お父っつぁんか誰か一緒じゃねえのかよ」
話をしながらも、主人は手元の作業からは目を離さない。次々とパンを揚げて、合間に訪れる客の応対をする。
「うん、わたし一人」
「そいつぁ偉ぇな。何しに王都へ来たんだ? お遣いか?」
「ううん、ある方の元で奉公することになって。あ、そうだおじさん、ティペット通りのシャノン公爵邸って、ここからどう行けばいいかわかる?」
振り向いた旅人は、主人が答えるより早く「あっ」と声を上げた。主人が驚いて顔を上げると、旅人の馬からぱっと離れる人影があった。その手に革袋が抱えられている。馬に括りつけてあった荷物だ。
「どっ、泥棒!」
旅人が叫ぶ。その時には、もう泥棒は脱兎の勢いで駆け出していた。
「おじさん、この子見てて!」
「あ、おい」
短く頼んで、旅人は泥棒を追いかける。屋台の主人は、押しつけられた馬と共に、呆気にとられて小さな後ろ姿を見送った。
逃げ出した泥棒の方はというと、相手が見るからに田舎者の子供ということで、完全に舐めてかかっていた。追いつかせずあっさり逃げきる自信があったのだが、何気なく振り返った瞬間ぎょっとなった。思ったよりも近くを走る姿が目に飛び込んできた。
「それを返せ! 金目の物なんて入ってないぞ!」
恐ろしく足の早い子供だ。あわてて泥棒は速度を上げた。しかしこの辺りは一本道で、ただまっすぐ逃げるしかない。入り組んだ路地に飛び込んで追手を巻くという真似ができない。子供が息を切らして諦めるのを期待したものの、まるでそんなようすもない。どころか、ますます距離が縮まっているような気がして、泥棒は真剣に焦った。
ここで盗んだ荷物を手放そうとはしないのが、彼としても意地の見せどころである。
頭を巡らせ、素早く判断した泥棒は、ちょうど現れた入り口から公園の中へ飛び込んだ。
試合も最後の一組となり、なかなか決着のつかない伯仲した勝負が繰り広げられていた。
観客は固唾をのんで見守り、両騎士団の応援団はますます目を血走らせる。
先に剣を取り落としたのは近衛騎士の方だった。
だが彼は、審判に猛然と抗議した。
「私の突きの方が先に入った! その時点で勝敗は決していたのに、こいつは攻撃を止めないで闘い続けたのだ。これは、明らかに反則だ!」
言われた方も、負けてはいなかった。鼻で笑って言い返す。
「何が突きだ、ほんのちょっと服を撫でただけじゃないか。あんなもので一本取れたと思う方がどうかしてるぜ。本当に突きが入っていたなら、反則も何もそれ以上動けなくなってるはずだろうが」
「当たったのは事実だ! 勢いの問題ではない、あの時点で私の勝ちだったのだ!」
「これだから近衛のお人形さんは困るぜ。相手にそれなりの打撃を与えてこその一本だろうが。実戦の場で、かすっただけで敵が降参してくれると思ってるのかよ」
「これは試合だ! 見苦しい言い訳はよせ!」
「見苦しいのはどっちだ! 負けてぎゃあぎゃあわめくんじゃねえよ!」
見ていたファラーは盛大にため息をついた。
「やれやれ……すぐ喧嘩になるな。しようのない連中だ」
キンバリーがフンと鼻を鳴らす。
「明らかな勝敗がついてから抗議を申し立てるとは、近衛の方々も存外礼儀がなっとりませんな」
「どちらの言い分を認めるかは後にして、先にあれを止めねばなりますまい」
言い合いをしているのは、試合の当事者だけではなかった。双方の応援団からも野次と怒号が飛び交い、ついでに物も飛んでいる。いつもの喧嘩とはいえ、大勢の貴族が見ている前で、これ以上みっともない真似を晒すわけにはいかなかった。
ファラーが席から立ち上がり、騒ぐ部下たちを一喝しようとした。
その時、人垣から飛び出した者があった。
続いてもう一人、飛び出してくる。よく見ればその二人は騎士ではなく、先を行く方は小脇に荷物を抱えた庶民の姿で、後を追う者は旅装であることがわかるのだが、頭に血が昇った騎士たちはそこまで冷静に観察していなかった。
続けとばかりにわっと飛び出してくる。たちまち両騎士団入り乱れての乱闘になった。
「ぬお……あ、あの馬鹿者どもめ」
キンバリーも急いで席を立った。
「ええい、やめい! やめんか!」
声を張り上げるが、興奮した騎士たちの耳には届かない。ファラーはもう一度ため息をついて、傍に控えていた部下に命じた。
「来客の方々を誘導して、避難していただけ。巻き込まれて怪我人が出てはいかん。閣下、あなたもお下がりください」
声をかけられた人物は、ある一点を面白そうに眺めていた。
「おやおや……ずいぶんすばしこいね」
取っ組み合う騎士の群れの中、駆け抜けていく二人の姿を、彼の目は追いかけている。
「あ、殴られた――ほう、それでも逃げるか。大した根性だ。追手も見事だね。騎士たちを投げ飛ばしてるよ」
「公爵閣下! どうか、お下がりください」
ファラーにせき立てられて、ようやく立ち上がる。とたん、彼らの視線の高さが逆転した。並外れた長身の人物は、避難するどころかひょいと騒ぎの方へ足を踏み出した。
「閣下、どこへ行かれます!? 危のうございますぞ!」
「ん、大丈夫」
気負いのないようすでさっさと歩き出す。あわてて追いすがろうとしたファラーだったが、目の前に椅子が飛んできた。
「誰だ、椅子など投げたのは! やるならせめて素手の殴り合いにせんか」
そんなことを言っている間にも、長身の公爵は騒ぎの向こうへ姿を消してしまう。
さらにその先には、春の日差しにきらめく池があった。
いくら逃げても執拗に食らいついてくる追手に、泥棒は今や恐怖すら感じていた。
貴族の群れに飛び込んでも、ためらわずについてくる。騎士たちが乱闘を始めてくれたおかげでうまく逃げおおせるかと思ったのに、その騒ぎすらすり抜けて追ってくる。突っ立って邪魔をしている貴族の女を突き飛ばし、悲鳴を背に公園の奥へと走った。
坂を駆け下りると眼前に池が広がった。彼は一直線に桟橋へ向かった。そこには使われていないボートが一艘残っていた。
楕円形の池は、周囲を回るとそれなりの距離になる。追手が走って追いかけるうちに、対岸まで漕ぎ着けてしまえという目論見だった。
しかし桟橋に足を乗せたとたん、背後に不吉な音と振動が響いた。
坂を通らず近道した追手が、段差を下りる手間も省いて一気に飛び下りてきたのだ。泥棒の背後に着地して、抱えた荷物に手を伸ばした。
「返せ!」
狭い桟橋の上での揉み合いになった。
この期に及んでもまだ荷物を手放そうとしなかった泥棒は、意地というより混乱していただけである。手を放せば逃げられるということに考えが及ばず、なんとか振り払おうと暴れる。相手は自分よりはるかに小柄な子供だ。力ずくで倒してやれと肘で打ちつけようとした。ところがまた目論見が外れた。
攻撃をあっさりとかわした旅人は、流れるような動きで脚を振り上げた。きれいに半回転しながら、泥棒を蹴りつける。見事な回し蹴りをくらって、とうとう泥棒は荷物から手を放した。そのまま桟橋から吹っ飛んで、高々と水しぶきを跳ね上げた。
ようやく荷物を取り戻した旅人は、ふらつくこともなく体勢を維持したまま、足を下に戻す――はずだった。
ところがそこに、踏むべき地面がなかった。
「あ――」
身体が後ろに傾ぐ。
桟橋を踏み外して、背中から池に落ちそうになった。
すると腕を掴まれた。助けようとしてくれる人と、間近で視線がぶつかった。
深い青色の瞳だった。海の色だと、とっさに思う。艶を放つ金褐色の肌と、驚くほどに長い黒髪が印象的だった。
また腕を掴んだ方も驚いていた。
フードの下からこぼれ落ちたのは、見事な蜂蜜色の巻き毛だった。同じ蜂蜜色の大きな瞳が、無垢な驚きを浮かべてこちらを見返している。
両者は一瞬、状況を忘れて見つめ合った。
そしてそのまま、池へ落ちた。
再び派手な水しぶきが上がった。
「公爵様!」
「あーっ、公爵閣下ぁっ!」
見ていた人々は青ざめて桟橋へ集まってくる。すぐに黒髪の公爵は水上へ顔を出した。
「うーむ……ちょっと、間に合わなかったか」
池の水深は、大人の男性がぎりぎり背の立つ深さだ。長身の彼は余裕で顔を出せたが、もう一人はそうはいかなかった。水の中でもがく身体をつかまえ、持ち上げてやる。どうやら、腰の剣や抱えた荷物のせいで、うまく泳げなかったらしい。片腕に抱いて水の上に出してやると、いくらか水を飲んだらしくひどく咳き込んだ。
「大丈夫かね」
「は……はい……」
ぜいぜいと息をついて、ようやく顔を上げる。そして、自分が巻き込んでしまった人の姿に、たちまち青ざめた。
「……ごめんなさい……」
「うん。格好よくは、決まらなかったな」
のほほんと笑う彼に、駆けつけた騎士が桟橋の上から声をかけた。
「セシル様、お怪我はございませんか?」
「ああ、大丈夫」
答えた彼は、腕の中の子供が「セシル?」と小さく呟いたことには構わず、その身体をさらに上へ持ち上げた。
「先にこの子を頼むよ」
「は」
騎士は両手を伸ばし、強い力で小さな身体を引き上げる。その横からもう一人が手を伸ばした。
「セシル様」
「ん」
少年めいた顔だちの従者に手を借りて、公爵は身軽に桟橋へ乗り上げた。濡れた長い髪をかき上げ、己の身体を見下ろして苦笑する。
「あーあ、ずぶ濡れだ」
「まあ、たいへん、公爵様」
「どうぞ、こちらをお使いくださいまし」
貴婦人たちが我先にと、刺繍とレースで飾られた絹のハンカチを差し出してくる。全身ずぶ濡れの人間に、そんなものでどうしろと言うのか。公爵は微笑んで辞退した。
「ありがとう。でも濡れるから、あまり近寄らないで」
そんな彼に、人垣を縫って現れた部下たちが声をかけた。
「よう、水もしたたる色男」
「あははー、見事に落っこちましたねえ。水泳にはちょっと気が早いですよ」
主に対する敬意を欠片も見せずに、若い二人は笑う。公爵は肩をすくめた。
「心優しい部下たちでうれしいね。さすがに風邪をひきそうなので、すぐに馬車を回してくれるかな。屋敷へ帰るよ」
「本当だ、これは大変。大丈夫?」
そう言った若者は主の横を素通りし、桟橋の上でへたり込む小柄な人物に駆け寄った。
助けられてからずっと、その旅人は公爵だけを見つめていた。
「あ、あの……もしかして、シャノン公爵様でいらっしゃいますか?」
公爵の部下たちが、そろって質問の主に注目する。傍に膝をついた若者が「そうだよ」と答えてやった。
とたん、旅人はびしりと背筋を伸ばして立ち上がった。音がしそうなほど勢い良く頭を下げる。
「大変失礼いたしました! わたしはアラディン・エイヴォリーの娘、メロディと申します。父の命で、公爵様にお仕えするため、オークウッドより参りました!」
これを聞いた部下たちが、驚きに目を丸くする。一人公爵だけが、疲れたように呟いた。
「やっぱり……そうだと思った」
濡れた二人は、同時に小さくくしゃみした。