常闇と狂咲
些細なきっかけで、血塗られた花は闇に狂い咲く。
晴天の下に建つ、私立香坂学園。四月も過ぎ、だいぶ生徒達も学校生活に慣れてきた様子。
となれば、遅刻者も増えてくるわけで。
時刻は、登校時間終了間近。広い中等部校内を歩き、階段を上がる生徒は二年V組を目指していた。
――キーン、コーン……
――ガラッ
「セーーーフッ」
――カーン、コーン……
遅刻者の声に続いて、始業ベルが空しく響く。
のんびりと教室に入ってきた生徒に、担任の祐奈が呆れ顔を向けた。
「玲ー、遅刻なら遅刻者らしく全力で走れや。つまらん」
「面白さ重視ィィィ? つーかセーフだよな? アウトじゃないよな?」
「ハイハイ、出席にしとくさかい。早よ席に着きぃ」
出席簿にペンを走らせる祐奈を横目に、玲は自分の席に着く。
「はよ玲」
「はよー、しのぶちゃん」
馴染みの人物に挨拶を交わす。その時、いつも目にするのは二個前の席。
「今日も来てねーの?」
「見た通り」
玲の前はしのぶ、その前は四月から空席のままだ。名簿によると、その席の生徒は『椎名 之亜』。しかし、その姿を見たことはない。
「何で来ないかねぇ?」
「さぁー、噂では不良系らしいよ。気になるんなら弟にでも訊けば」
「弟?」
「双子の弟、椎名 昊。あんた仲良いでしょ」
椎名昊、通称シン。入学式から不良系だった玲に声を掛けてきた勇気ある人物。見た目は優等生そのものなのに、玲と話が合うのは兄も不良系だからかと納得する。
「あとで訊いてみっか……それよかしのぶちゃん、今日一緒に帰れるっしょ?」
「えー……玲と帰ると喧嘩に巻き込まれんだよね」
「別に良くね?」
「良くねーよ」
何だかんだ言いつつ、一緒に帰ってやるのが桜乃しのぶという女の子なのだ。
そして全授業が終わり、生徒達は各自解散する。部活や委員会に行く者、補習や帰路につく者など行き先は様々。
その中で、一人屋上に向かう人物がいた。鉄製の扉を向け、碧眼は辺りを見渡す。排水タンクの横に見える影を見つけると、溜め息混じりで声を掛けた。
「ノア、帰るよ」
声に応じて、影が動く。現れたのはシンと同じ顔の少年だった。違うのは、不良系を全面に出した雰囲気と着崩した制服、そして真紅の瞳。
「これ、今日の分のノートな。手紙とか書類は家で渡すから」
「…………」
「あと……今日、玲くんにノアのこと訊かれた」
「………あ?」
鋭い視線が向けられるが、シンは臆することなく答える。
「笹川 玲、お前の二個後ろの席の人。僕達の学年で不良なのは、ノアと玲くんぐらい」
「…………」
「ほら、アソコ歩いてんのがそう。ちょっと見てみ」
促されるままに下を覗くと、背の高い男の姿が目に入る。確かに制服を着崩している様子は、不良系とも云えるだろう。
「桜乃さんと帰るんだー……あの二人、付き合ってんのかな」
「誰ソレ」
「桜乃 しのぶ、お前の後ろの席の人。ちょっと気ぃ強いけど優しい子だよ」
「ふーん……」
頬杖をしたまま、紅の瞳は二人を眺める。やがて視線は片方に定められた。
「そろそろ五月も終わるし、いい加減教室来れば?」
「……明日は行く」
「! 会いたくなった?」
その言葉にノアは答えないが、視線は嘘をつかない。
「会いたくなったのは、どっちなんだか……。ま、問題起こさなきゃいいよ」
軽い口調で呟くシンから見えない角度で、ノアは口角を上げる。
「桜乃しのぶ……どんな女か、見せてもらおうじゃねぇの」
次の日、教室に現れたノアにほぼ全員が興味を示した。ただ相手が相手なだけにまともに返事が来ないのだが、そこはV組生徒。その日の午後には順応していた。
しかし、ノアの目的には誰一人気付かない。
こうして時は過ぎ、紅葉舞う秋の日のこと。
「桜乃」
「なに?」
「少し付き合え」
帰りのホームルーム終了直後、不意にかけられた言葉。有無を言わさぬ勢いで、しのぶは体育館裏に連れて行かれた。
「何コレ、ベタな告白? 今時体育館裏は無いでしょ」
「ククッ……そうだ、と言ったら?」
「………は?」
妖しく笑うノアに、しのぶは怪訝そうに表情を変えた。
「お前は玲の女か?」
「違うと信じたいね」
「…………」
紅い瞳が、焦茶の瞳を見つめる。まるで心を見透かすように、その視線は執拗に深いものだ。
「……『愛するより愛されたい』」
「………!」
「お前、そういうタイプだろ」
「……からかうだけなら他当たって。あたし部活あるから―――」
――ダンッ!
「ぅわッ!」
踵を返そうとしたしのぶを、壁に腕を付くことで防ぐ。
「図星で焦ったか?」
「どけよテメェ」
「ほぅ……気が強ぇのは事実か。確かに前の席に居ればわかったが」
いつの間にか両脇に腕を張られ、壁を背にする体勢にさせられていた。
しのぶは意識を集中し、目の前の紅い瞳を見返す。
「どけ」
「断る」
「どかないと殴るよ」
「ご自由に」
――ヒュッ
――バシッ!
「―――!?」
「ホント気が強ェ女……」
殴りかかったしのぶの腕を掴み、ノアは楽しそうに笑う。対し、焦っているのはしのぶの方だった。
今まで、素手の攻撃を防がれたことはなかった。喧嘩も何回かしたが、男相手にだって負けたことがなかったのだ。
――ギリリ……
「痛っ……!」
「痛ェか? テメーは苦痛に歪む表情がイイなァ」
しのぶの手首を強く掴み、ノアは笑みを浮かべる。
「寂しい、誰かに傍にいてほしい、自分を愛してほしい。 なぜ感情を拒む。いつまで自分を偽り続ける気だ」
「煩いよ、あんたには関係ない」
「ク……ククッ……」
押し殺したような笑い声。黒髪が揺れ、紅い瞳が視界から消えた。
「愛してやろうか、お前だけを」
耳元で囁かれた言葉。その瞬間、金縛りにあったように身体が固まった。
「お前が俺を受け入れるなら」
――あたし、どうしたの。
「この髪も、この肌も」
――怖い。触るな。
「その声も、その心も」
――でも、離れないで。
「全部全部、好きになってやる」
ノアの指が口唇をなぞり、顎に添えられる。抵抗する気になれないしのぶは、されるがままになっていた。
「……目、閉じてろ」
「っ………」
その言葉に、従順に目を閉じる。
間近に感じたノアの吐息。震えそうになる手を必死で抑えた。
――ヒュンッ
「―――!」
――ドガッ!!
風を切る音がしたかと思うと、轟音が鳴り響く。驚いて目を開けたしのぶが見たのは、ノアに殴りかかった玲の姿だった。
「……人の濡れ場を邪魔するたァずいぶん野暮な野郎だな、笹川」
「人の合方に手ェ出す奴よりはマシだぜ。椎名」
玲の拳を、ノアは片手で防ぐ。二人の表情に変化は無いが、双方の拳には相当力が込もっているのが分かった。
――攻撃が防がれた……!
――コイツ……気配が無かった。
互いに視線を交え、拳を戻そうとはしない。勝負において、先に退いた方は負けなのだ。
「……しのぶちゃん、何されたの」
「な……何もされてないって。ほんと、大丈夫」
いつも語尾が上がるはずの玲だが、今は上がっていない。それだけ彼がシリアスな気分なのか。
「コイツに手ェ出すのやめてくれる」
「情けねぇな笹川玲。女一人にそこまで必死になるか」
「言っとくけど敵には容赦しねぇから。俺に向かってくる奴も、俺がムカつく奴も」
「…………」
自分より高い位置にある碧眼が自分を見下ろす。それが気に食わないのか、ノアはスッ…としのぶから離れた。
「桜乃、お前みてぇな女は嫌いじゃねぇ」
「椎名……」
「出来ればお前とヤりたかった。……けどよォ、それ以上にイイ奴を見つけたからもういらねぇ」
「―――?」
その瞬間、ノアの視線がしのぶから玲に移った。瞳孔が開き、獣のような紅の瞳が碧眼を捉える。
「笹川ァ、今度はテメーと戦り合いてぇもんだ」
「嬉しいねぇ、キミみたいな美人からのお誘いなんて」
穏やかに答えるが、相変わらず語尾は上がらない。
「今ここでどうだァ。一発くれぇ、大したこっちゃねぇだろォ」
疑問であるはずなのに、抑揚はまるでない。すでに、決定した事項のように。
「しのぶちゃん、部活でしょ。早く行きんさい」
「……ん」
体よくしのぶを追い払う。こんな喧嘩につき合わせる義理はないからだ。
何より、玲はノアを近づけたくなかった。
不気味なのだ。あの紅の瞳が醸す、ノアのすべてが。
「女を巻き込みたくねぇのか? 紳士だねぇ」
「ほざけ」
同時に腕を振り払う。空気がピリッ、と震えた。
体育館から部活動の音がした。
バスケ部なのか、ドリブルの音が複数聞こえる。
ドッ
ドッ
ドッ……
一瞬音が死ぬ。
二人が踏み切ったのは、同時。
陽が落ちるのは早くなっていた。
遅刻のペナルティで外周していたしのぶは、水道にて息を整えていた。
「あンのクソ部長……目の敵にしやがって……」
V組に向く視線は二種類だ。
憧れと羨望。嫉みと嫉妬。
一つ上のバドミントン部長は、後者の視線をしのぶに向けていた。公私混同は明らかである。
「大変だねぇ? 出る杭は打たれる、って?」
水道の裏から、聞き慣れた声がした。
「玲……ケガ、してる」
「平気だよ? この程度だし?」
裏へ回れば、口の端に血を滲ませた玲が座り込んでいた。いつからいたのかは、わからない。
「ったく、ませたガキもいたもんだねぇ? 俺らまだ十二、三だってのに?」
深いため息を伴う言葉。しのぶは使っていない方のタオルを濡らして、玲の頭へ落とす。
「恋だ愛だなんて、まだ早いだろ?」
そのタオルを受け取って、玲はしのぶの目を見据えた。驚くほど真っすぐで、すぐには言葉を返せない。
黙っていると、玲は邪気なく笑ってみせた。
「じゃあね」
借りて行く、という意味かタオルを振って背を向ける。止めることは、できなかった。
「桜乃ォッ! サボってんなァ!」
「っハイ部長ォ!」
喧嘩腰に来る部長に、同じく喧嘩腰で返す。
この女子部の部長は、性格に裏表がある人だった。
イビりとも取れる練習を熟す。
口を出してくれる先輩もいたのだが、それで部内がギクシャクするのが嫌でやめてもらっていた。
「お疲れさま、桜乃さん。大丈夫?」
「ハイ! お気遣いありがとうございます」
部活終了後には、こうして労いをかけてくれる。それで十分だった。
「高校では……イビられないくらいの力をつけますから」
「たのもしいわね。がんばって」
大半の先輩は優しかった。声をかけてもらいながら、裏門へ向かう。
裏門を使う人間は少ない。駅や寮へは、正門の方が近いのだから。
必然的に、しのぶは一人になる。泪が一緒になることもあるが、それも極稀だ。
「こんな夜の、女一人歩きは危ねぇなァ」
聞き覚えの、ある声。通り過ぎたばかりの門を振り返れば、紅色が目に入る。
「椎名……ケガ、してる」
気づけば、先と同じことを言っていた。
「思った通りの、奴だったぜェ? アレほどのバカ、そうは見れねェ」
所々に滲んだ血は、すでに固まっていた。だいぶ時間が経ってしまったのだろう。
「何なの? こんな時間、こんな場所で……もうあたしには興味ないんでしょう?」
「まるっきりなくなったわけじゃねぇ。それに……なくなると、困るだろう?」
その妖艶さに、魅せられる。
「あたしは、誰のものにもならない」
「そーかい。なら、堕とすだけだ」
血塗られた花が闇に狂い咲く、些細なきっかけ。




