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自動販売機

作者: ティアナ
掲載日:2026/11/02

会社からの帰り道、エヌ氏はいつもとちがう路地に入った。


近道のつもりだった。ところが、路地は思ったより長く、街灯も少なかった。古いビルのあいだを何度か曲がると、行きどまりの暗がりに、ぽつんと一台の自動販売機が光っていた。


ふつうの自動販売機ではなかった。


ガラスの向こうにならんでいるのは、ラベルのない銀色の缶ばかりだった。そのかわり、ボタンの下に、手書きの小さな札がついていた。


『勇気』『やる気』『やさしさ』『ぐっすり』。


値段は、どれも百円だった。


エヌ氏は、しばらく札をながめていた。ここのところ、仕事がうまくいっていなかった。朝、会社へ行くのがおっくうで、机に向かっても、何ひとつはかどらない。


ためしに、百円玉を入れて、『やる気』のボタンを押してみた。


ごとん、と缶が落ちてきた。


  *


缶の中身は、炭酸水のような味がした。


飲みおえたとたん、胸の奥が、かっと熱くなった。エヌ氏は、気がつくと早足で歩きだしていた。家に着くと、持ち帰った書類を広げ、明け方まで一気に片づけてしまった。


ふしぎと、少しも疲れていなかった。


その日から、エヌ氏は毎晩、あの路地へかよった。


大事な会議の前には『勇気』を飲んだ。言いたいことを、はっきり言えた。妻とけんかした夜には『やさしさ』を飲んだ。素直にあやまることができた。ねむれない夜には『ぐっすり』を飲んだ。


エヌ氏の仕事は、目に見えて順調になった。


  *


ひと月ほどたったある晩、自動販売機のボタンが、ぜんぶ赤く光っていた。


『売り切れ』


がっかりして帰ろうとしたとき、いちばん下に、見なれないボタンがあることに気がついた。


『買い取り』


札には、こう書いてあった。


『いらないものを、お売りください。商品の補充にご協力をおねがいします』


ボタンを押すと、取り出し口の上の小さな画面に、文字がならんだ。


『ねむけ 千円』『たいくつ 二千円』『ふあん 五千円』


エヌ氏は、少し考えて、『ねむけ』を選んだ。どうせ毎晩『ぐっすり』を飲むのだから、ねむけなどなくてもいい。


かすかな風が、胸のあたりを通りぬけていった。釣り銭の口から、千円札が一枚出てきた。


  *


それから、エヌ氏は、いらないものをつぎつぎに売っていった。


『たいくつ』を売ると、どんな単調な仕事も苦にならなくなった。『ふあん』を売ると、大きな取引も、平気でまとめられるようになった。『いらだち』も『はずかしさ』も、高く売れた。


画面にならぶ品目は、しだいに値段が上がっていった。


『いやな思い出 二万円』


『まよい 五万円』


エヌ氏は、それも売った。いやな思い出など、ないほうがいい。まよいなど、仕事のじゃまになるだけだ。


エヌ氏は、会社でいちばんの出世頭になった。何ごとにもまよわず、何ごとにもおそれず、何ごとにも腹を立てなかった。上司は、エヌ氏をほめちぎった。部下は、エヌ氏を、少しこわがるようになった。


妻は、ある晩、ぽつりと言った。


「あなた、ずいぶん変わったわね」


エヌ氏には、それが、ほめ言葉なのかどうか、よくわからなかった。わからないことを、気にもしなかった。


  *


ある冬の夜、エヌ氏は、いつものように路地のつきあたりに立った。


自動販売機の画面には、品目が一つだけ表示されていた。


『あなた 一億円』


エヌ氏は、画面をじっと見た。


一億円。それだけあれば、もう働かなくてもいい。家も、車も、何でも買える。


ほんの少し前のエヌ氏なら、ここで立ちどまったかもしれない。こわくなったかもしれない。何か、いやな予感をおぼえたかもしれない。迷って、迷って、結局は逃げだしたかもしれない。


けれど、エヌ氏は、もう『ふあん』も『まよい』も持っていなかった。


エヌ氏は、まよわずにボタンを押した。


  *


翌日の夜おそく、ひとりの若い男が、近道をしようとして、その路地にまよいこんだ。


行きどまりの暗がりに、自動販売機が光っていた。ガラスの向こうには、銀色の缶がならんでいる。どのボタンにも、手書きの札がついていた。


『勇気』『やる気』『やさしさ』『ぐっすり』。


そして、いちばん右に、新しい札が一枚ふえていた。


『中古の人生 百円』


その下で、釣り銭の口には、一億円の札束が、だれにも取られないまま入っていた。


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