自動販売機
会社からの帰り道、エヌ氏はいつもとちがう路地に入った。
近道のつもりだった。ところが、路地は思ったより長く、街灯も少なかった。古いビルのあいだを何度か曲がると、行きどまりの暗がりに、ぽつんと一台の自動販売機が光っていた。
ふつうの自動販売機ではなかった。
ガラスの向こうにならんでいるのは、ラベルのない銀色の缶ばかりだった。そのかわり、ボタンの下に、手書きの小さな札がついていた。
『勇気』『やる気』『やさしさ』『ぐっすり』。
値段は、どれも百円だった。
エヌ氏は、しばらく札をながめていた。ここのところ、仕事がうまくいっていなかった。朝、会社へ行くのがおっくうで、机に向かっても、何ひとつはかどらない。
ためしに、百円玉を入れて、『やる気』のボタンを押してみた。
ごとん、と缶が落ちてきた。
*
缶の中身は、炭酸水のような味がした。
飲みおえたとたん、胸の奥が、かっと熱くなった。エヌ氏は、気がつくと早足で歩きだしていた。家に着くと、持ち帰った書類を広げ、明け方まで一気に片づけてしまった。
ふしぎと、少しも疲れていなかった。
その日から、エヌ氏は毎晩、あの路地へかよった。
大事な会議の前には『勇気』を飲んだ。言いたいことを、はっきり言えた。妻とけんかした夜には『やさしさ』を飲んだ。素直にあやまることができた。ねむれない夜には『ぐっすり』を飲んだ。
エヌ氏の仕事は、目に見えて順調になった。
*
ひと月ほどたったある晩、自動販売機のボタンが、ぜんぶ赤く光っていた。
『売り切れ』
がっかりして帰ろうとしたとき、いちばん下に、見なれないボタンがあることに気がついた。
『買い取り』
札には、こう書いてあった。
『いらないものを、お売りください。商品の補充にご協力をおねがいします』
ボタンを押すと、取り出し口の上の小さな画面に、文字がならんだ。
『ねむけ 千円』『たいくつ 二千円』『ふあん 五千円』
エヌ氏は、少し考えて、『ねむけ』を選んだ。どうせ毎晩『ぐっすり』を飲むのだから、ねむけなどなくてもいい。
かすかな風が、胸のあたりを通りぬけていった。釣り銭の口から、千円札が一枚出てきた。
*
それから、エヌ氏は、いらないものをつぎつぎに売っていった。
『たいくつ』を売ると、どんな単調な仕事も苦にならなくなった。『ふあん』を売ると、大きな取引も、平気でまとめられるようになった。『いらだち』も『はずかしさ』も、高く売れた。
画面にならぶ品目は、しだいに値段が上がっていった。
『いやな思い出 二万円』
『まよい 五万円』
エヌ氏は、それも売った。いやな思い出など、ないほうがいい。まよいなど、仕事のじゃまになるだけだ。
エヌ氏は、会社でいちばんの出世頭になった。何ごとにもまよわず、何ごとにもおそれず、何ごとにも腹を立てなかった。上司は、エヌ氏をほめちぎった。部下は、エヌ氏を、少しこわがるようになった。
妻は、ある晩、ぽつりと言った。
「あなた、ずいぶん変わったわね」
エヌ氏には、それが、ほめ言葉なのかどうか、よくわからなかった。わからないことを、気にもしなかった。
*
ある冬の夜、エヌ氏は、いつものように路地のつきあたりに立った。
自動販売機の画面には、品目が一つだけ表示されていた。
『あなた 一億円』
エヌ氏は、画面をじっと見た。
一億円。それだけあれば、もう働かなくてもいい。家も、車も、何でも買える。
ほんの少し前のエヌ氏なら、ここで立ちどまったかもしれない。こわくなったかもしれない。何か、いやな予感をおぼえたかもしれない。迷って、迷って、結局は逃げだしたかもしれない。
けれど、エヌ氏は、もう『ふあん』も『まよい』も持っていなかった。
エヌ氏は、まよわずにボタンを押した。
*
翌日の夜おそく、ひとりの若い男が、近道をしようとして、その路地にまよいこんだ。
行きどまりの暗がりに、自動販売機が光っていた。ガラスの向こうには、銀色の缶がならんでいる。どのボタンにも、手書きの札がついていた。
『勇気』『やる気』『やさしさ』『ぐっすり』。
そして、いちばん右に、新しい札が一枚ふえていた。
『中古の人生 百円』
その下で、釣り銭の口には、一億円の札束が、だれにも取られないまま入っていた。




