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悪役令嬢アルベルティーヌの優雅なる日常

『悪役令嬢アルベルティーヌの優雅なる日常・七』―失敗した人間まで片づけんな―

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/19

 ヴァルモン公爵家では、最近、誰も失敗しない。


 紅茶は常に適温だった。


 書類は一枚たりとも順番を違えず、花瓶は割れず、食器の触れ合う音さえ必要以上に響かない。


 廊下を急ぐ足音もなければ、新人使用人が先輩に小声で注意される姿もない。


 完璧だった。


 完璧すぎて、アルベルティーヌは怖くなった。


(そんな家あるかい)


 朝の光が差し込む私室で、アルベルティーヌは白磁のカップを持ち上げた。


 湯気の立ち方まで美しい。


 一口含む。


 熱すぎず、ぬるすぎず、茶葉の香りも十分に開いている。


(昨日も適温。今日も適温。先週から一回も猫舌殺しが来てへん)


(マルタの管理が行き届いとる? いや、それにしても限度あるやろ)


 向かいでは、マルタが今日の予定表を確認していた。


「お嬢様。何かお気に召しませんか」


「いいえ。大変おいしゅうございますわ」


(おいしいから怖い言うてんねん)


 アルベルティーヌはカップを置き、室内を見回した。


 いつもなら窓辺の花を替えているはずの若い侍女がいない。


 栗色の髪を短くまとめた、まだ十七歳のエマという少女だ。


 働き始めて半年ほど。


 手際は決して悪くないが、緊張すると左右を間違える癖があり、先月は右手用の手袋を二組持ってきた。


 アルベルティーヌが笑って指摘すると、泣きそうな顔で何度も頭を下げていた。


 その後、マルタから「手袋は逃げません」と教えられ、ようやく少し肩の力が抜けたところだった。


 だが、三日前から姿を見ていない。


「マルタ」


「はい」


「エマは、今日はお休みかしら」


 予定表をめくっていたマルタの指が止まった。


 ほんの一瞬。


 マルタでなければ気づかなかった程度の間だった。


(止まったな)


(今、北の熊が止まったな)


「エマは現在、別邸で勤務しております」


「別邸?」


「はい」


「いつから?」


「三日前からでございます」


「なぜ?」


 マルタは予定表を閉じた。


「衣装部屋で不手際がございました」


「どのような?」


「お嬢様が翌日お召しになる予定だったドレスへ、紅茶をこぼしました」


 アルベルティーヌは瞬きをした。


「そのドレスは?」


「染み抜きを終え、問題なく保管されております」


「破損は?」


「ございません」


「火傷をした者は?」


「おりません」


「ほな、何で人まで消えとんねん」


 室内が静まった。


 アルベルティーヌは自分の口元を押さえた。


(出た)


(まだ朝やぞ)


 マルタは表情を変えなかった。


「配置換えは、侍女頭の判断でございます」


「呼んでくださいませ」


「かしこまりました」


「家令も」


「はい」


「お父様とお母様は?」


「旦那様は執務室に、奥様は朝の来客をお迎えする準備中でございます」


「後ほど、お時間をいただきます」


 マルタは一礼し、部屋を出ていった。


 アルベルティーヌは一人になった室内で、冷め始めた紅茶を見下ろした。


(紅茶こぼした)


(ドレスは無事)


(怪我人なし)


(せやのに、本人だけ別邸送り)


(何やそれ)


 怒りが胸の奥で形を持ち始める。

 だが同時に、別の違和感が浮かんだ。


 最近見かけなくなったのは、エマだけではない。

 庭園で植木鉢を割った若い庭師。

 書類の封蝋を間違えた事務係。

 廊下で銀盆を落とし、派手な音を立てた給仕。


 誰も叱責されているところを見ていない。


 翌日には、姿そのものが見えなくなっていた。


(待て)


(まさか、今までも全部)


 扉が開いた。


 入ってきたのは、白髪交じりの家令ボルドーと、侍女頭のロザリーだった。

 二人とも長くヴァルモン公爵家へ仕えている。アルベルティーヌが幼い頃から知る、信頼できる使用人たちだ。


 だからこそ、余計に分からなかった。


「お呼びと伺いました」


 ボルドーが深く頭を下げる。


「エマを別邸へ移したのは、あなた方の判断ですの?」


「左様でございます」


 ロザリーが答えた。


「本人へは、何と説明を?」


「しばらく別邸で経験を積むよう申しつけました」


「紅茶をこぼしたから?」


「お嬢様のお召し物を損ねかけましたので」


「損ねておりませんわね」


「今回は、幸いにも」


「では、次に同じことをしないよう教えればよいのでは?」


 ロザリーはわずかに目を伏せた。


「お嬢様のお側へ置き続けるのは、適切でないと判断いたしました」


「誰にとって?」


「……公爵家にとってでございます」


(出た)


(でっかい主語出た)


(公爵家が自分で喋ったんか)


 アルベルティーヌは微笑んだ。


 できる限り、優雅に。


「公爵家のどなたが、そう判断なさったの?」


「それは……」


「あなた? 家令? お父様? お母様?」


 ボルドーが静かに答えた。


「我々でございます」


「具体的に」


 家令と侍女頭が顔を見合わせる。


 その一瞬で、アルベルティーヌの胸の奥の虎が立ち上がった。


「失敗したんは紅茶こぼしたことやろ。何で本人まで片づけとんねん」


 声が低くなる。


「割れた花瓶片づけるんと同じように、人まで見えん場所へ動かして、それで問題解決した顔すんなや」


 ロザリーの肩がわずかに強張った。

 ボルドーは頭を下げたまま、動かない。


「申し訳ございません」


「謝罪を求めているのではありません。理由を聞いております」


「お嬢様がお怒りになることを、避けたかったのでございます」


 アルベルティーヌの言葉が止まった。


「……わたくしが?」


「はい」


 ロザリーが顔を上げた。

 長年仕えてきた侍女頭の目には、反抗も敵意もなかった。


 ただ、慎重さがあった。


「お嬢様が使用人の小さな失敗を厳しく責めたことは、一度もございません」


「でしたら」


「ですが、お嬢様が王宮や他家でお声を上げられたことは、使用人たちも承知しております」


 アルベルティーヌの喉が詰まった。


「新人の者には、区別がつきません。王太子殿下へ向けられたお声と、自分へ向けられるかもしれないお声が、同じものに思えるのでしょう」


(うち、家では猛獣扱いなん?)


(王には吠えた)


(王太子にも吠えた)


(侯爵夫人にも吠えた)


(そら新人侍女から見たら、次は自分やと思うか)


 怒りが、行き場を失って胸の中を回った。


 ボルドーが続ける。


「我々も、お嬢様には外で十分にご心労があるものと考えております。家の中で起きた小さな問題まで、お耳へ入れる必要はないと」


「誰が、そのように?」


「旦那様と奥様から、小事は我々で処理するよう申しつけられております」


 父母の名が出た瞬間、アルベルティーヌは天井を仰ぎたくなった。


(うわ)


(愛情の気配するやつや)


(怒りにくいやつや)


(悪意やったら三倍は吠えられたのに)


「マルタ」


「はい」


 いつの間にか戻ってきていたマルタが、扉のそばに立っている。


「あなたは、知っていましたの?」


「配置換えが行われていることは」


「なぜ、わたくしに言わなかったの?」


「旦那様と奥様の方針に反するためでございます」


「あなたまで」


 アルベルティーヌは眉を寄せた。


 マルタは淡々と続ける。


「ただし、エマが別邸へ移されたことについては、本日中にお伝えする予定でございました」


「なぜ今日?」


「三日目の本日、お嬢様がご自身でお気づきにならなければ、夕刻にはお伝えするつもりでございました」


「試していたの?」


「確認しておりました」


「何を?」


「お嬢様が、使用人一人が消えたことへ気づかれるかを」


 家令と侍女頭が、今度はマルタを見た。


 アルベルティーヌはしばらく何も言えなかった。


「……気づきましたわ」


「はい」


「それで?」


「お嬢様は、問題だけでなく、人も見ておられます」


 ほんの少しだけ、胸が軽くなる。


 だが、マルタはそこで終わらなかった。


「ですが、それを皆が知る機会はございませんでした」


(北の熊、今日も爪が鋭いな)


「お嬢様が使用人の失敗を責めないことを知っているのは、長くお側に仕える者だけです。新人には、王宮で響いたお声の方がよく知られております」


「そんな」


「よく通るお声でございますので」


「褒めておりませんわよね」


「事実を申し上げております」


 アルベルティーヌは額へ手を当てた。


「エマを呼び戻してくださいませ」


「それは」


 ロザリーが迷う。


「本人へ、まず尋ねてください」


「お嬢様のお側へ戻るかどうかを、ですか」


「ええ。戻ることを望まないのであれば、無理に戻す必要はありません」


 言い切ってから、アルベルティーヌは二人を見た。


「ただし、わたくしに関係することで、わたくしの知らないまま人を動かすのは、今日で終わりにします」


「承知いたしました」


「お父様とお母様へは、わたくしからお話しいたします」


 ボルドーとロザリーが退室した後、アルベルティーヌは椅子へ深く座り直した。


「……マルタ」


「はい」


「蜂蜜飴を」


「まだ大きなお声は出ておりません」


「自分へ向けて出そうですの」


 マルタは少しだけ間を置き、蜂蜜飴を一つ差し出した。


 その日の午後。


 ヴァルモン公爵と公爵夫人は、娘からの呼び出しを受け、家族用の小さな応接間へ揃って現れた。


 父は執務服のまま。


 母は来客用の華やかな衣装から、淡い青の室内着へ着替えている。


 二人とも娘の顔を見るなり、何があったのか察したらしい。


「エマのことを知ったのね」


 母が先に言った。


「ご存じでしたの」


「ええ」


「別邸へ移すことも?」


「許可した」


 父の答えは短かった。


「なぜですの?」


「お前を煩わせないためだ」


 想像していた通りの答えだった。


 だからこそ、アルベルティーヌは困った。


「わたくしが、紅茶をこぼされた程度で煩わされると思っておられたの?」


「そうではない」


 父は首を横に振った。


「お前が、その者を責めるとは思っていない。だが、お前は外で十分に余計なものを背負っている」


「余計なもの?」


「王宮の不始末。王太子の未熟さ。貴族たちの無責任。お前が口を出さなければ、そのまま流されていた問題だ」


 母が静かに続ける。


「あなたは正しいことを言っています。けれど、正しいことを言えば、相手が必ず素直に受け入れるわけではありません」


「それは、承知しております」


「いいえ。あなたは、言ったその場の反応しか見ていないことが多いのです」


 アルベルティーヌは言葉を失った。


「どういう意味ですの?」


 父が背もたれへ身を預ける。


「お前が王へ物申した翌日、王宮から届いた問い合わせへ答えたのは誰だと思う」


「……お父様?」


「お前が王太子の軽率さを指摘した後、婚約関係を維持するのか、家としてどう考えているのか、各派閥へ説明したのは?」


 母が微笑む。


「わたくしです」


「クラリス様の茶会の後、ローゼンタール家との関係が悪化しないよう、訪問の順番を整えたのも?」


「それも、わたくし」


 アルベルティーヌは二人を交互に見た。


「……毎回?」


「必要な時には」


 父は平然と答えた。


「なぜ、わたくしにおっしゃらなかったのです」


「お前が間違っているとは思わなかったからだ」


「なら、なおさら」


「正しいことを言った娘に、その後の泥まで全部踏ませたくなかった」


 その言葉は、アルベルティーヌの怒りを一度に奪った。


(うわ)


(愛情や)


(真正面から来た)


(これ、どないして吠えたらええねん)


 母は困ったように笑う。


「あなたには、自由に言葉を使ってほしかったのです。家へ戻った時くらい、何も心配せずに過ごしてほしかった」


「だから、使用人の失敗も?」


「小さなことは家令と侍女頭へ任せるようにしました」


「その結果、失敗した本人まで、わたくしの見えない場所へ動かされております」


 母の笑みが消えた。

 父も眉を寄せる。


「そこまでの指示はしていない」


「ですが、そう運用されていました」


「……なるほど」


 父は目を閉じ、短く息を吐いた。


「我々の言葉が足りなかったな」


「わたくしの方もですわ」


 アルベルティーヌは、膝の上で手を組んだ。


「使用人の小さな失敗を責めたことはない。それだけで十分だと思っておりました」


「責めないことを、わざわざ宣言する者も少ないでしょう」


「ですが、皆は、わたくしが怒ると思っていた」


 母が少し考え込む。


「王宮での噂が、家の中へも入っているのね」


「噂だけではありませんわ。実際に、わたくしは何度も吠えております」


「自覚はあったのね」


「お母様」


「ごめんなさい」


 母は笑いを堪えながら謝った。


 アルベルティーヌは唇を尖らせかけ、慌てて淑女の微笑みへ戻す。


「守ってくださったことは、感謝しております」


 父母が黙る。


「わたくしが言葉を使えるように、その後ろで支えてくださっていたことも」


 喉の奥が少し熱くなった。


 怒りではなかった。


「ですが、わたくしの言葉の続きを、わたくしから取り上げないでくださいませ」


「続きを?」


「わたくしが言ったことで、誰が困ったのか。誰が説明を求めたのか。家が何を背負ったのか。それを知らないままでは、わたくしは好き勝手に吠えて帰ってきただけです」


(ほんまにな)


(誰が頭下げたかも知らんと、責任がどうとか偉そうに言うてたんか)


 内心の虎が、自分へ向かって低く唸る。


「全部一人で背負わせろとは申しません。わたくしも、家の一員ですもの」


 アルベルティーヌは父を見た。


「けれど、わたくしの分まで、勝手に終わらせないでください」


 次に、母を見る。


「わたくしが言った言葉の後始末へ、わたくしも参加させてくださいませ」


 父は長く黙った。


 やがて、わずかに口元を緩める。


「参加、か」


「はい」


「すべてを任せるとは言わんぞ」


「わたくしも、すべて任せろとは申しません」


「ならば、次からは報告する」


 母も頷いた。


「社交界で必要になった説明も、あなたへお伝えします」


「ありがとうございます」


「ただし」


 母が人差し指を立てる。


「夜中に届いた問い合わせへ、あなたがその場で猛虎弁の返書を書くのは禁止です」


「書きませんわ!」


「本当に?」


「書きません!」


「今、少し出ていたわよ」


「気のせいですわ」


 父が小さく笑った。


 その笑い声を聞き、アルベルティーヌもようやく肩の力を抜いた。


 翌日、エマが本邸へ戻ってきた。


 正確には、連れ戻されたのではない。

 まずロザリーが別邸へ出向き、本人へ事情を説明した。

 そのうえで、アルベルティーヌのそばへ戻るか、このまま別邸で働くかを選ばせた。


 エマは一晩考え、戻って話をしたいと答えた。


 私室へ入ってきた少女は、以前よりも背筋を固くしていた。


「お呼びいただき、ありがとうございます」


「座ってくださいませ」


「いえ、わたくしは」


「話を聞く時、一人だけ立たせる趣味はございませんの」


 エマが驚いたように顔を上げた。


 アルベルティーヌは、自分でも少し言い方が硬かったと思った。


(あかん)


(事情聴取の後遺症が残っとる)


 マルタが椅子を引く。


 エマはおそるおそる腰掛けた。


「紅茶をこぼしたことについて、話してくださいます?」


「はい。衣装部屋で、お嬢様のドレスを確認している際、茶器を載せた盆へ袖を引っかけました」


「なぜ、衣装部屋へ紅茶を?」


「ロザリー様へお持ちする途中でした。近道をしようとして」


「なるほど」


 アルベルティーヌは頷いた。


「ドレスは無事です。怪我人もいません」


「はい」


「それでも、あなたは別邸へ移された」


 エマの指が膝の上で強く組まれる。


「……わたくしは、お嬢様のお怒りに触れたのだと思いました」


「誰かに、そう言われたの?」


「いいえ。ですが、直接謝罪することも許されず、翌朝には荷物をまとめるようにと」


「怖かった?」


 エマは迷った後、小さく頷いた。


「お嬢様に叱られることも、怖うございました」


「ええ」


「ですが、何も申し上げる機会がないまま、自分がいなかったことにされる方が、もっと怖うございました」


 その言葉は、アルベルティーヌの胸へまっすぐ刺さった。


(人まで片づけんな)


(うちが言う前に、本人に言われたやないか)


「申し訳ありませんでした」


 アルベルティーヌは頭を下げた。


 エマが息を呑む。


「お嬢様が?」


「わたくしの家で、わたくしに関わる失敗をしたあなたが、わたくしの知らないところで動かされました。わたくしにも責任があります」


「ですが、お嬢様は何も」


「何も知らなかったこと自体が、問題ですわ」


 アルベルティーヌは顔を上げた。


「わたくしのそばへ戻りたいとお思い?」


 エマの目が揺れた。


「戻らなくても、罰にはいたしません。別邸で働きたいなら、その希望を尊重します」


「……戻りたいです」


「本当に?」


「はい」


 今度の返事は、少しだけ強かった。


「次は、紅茶をこぼさないようにいたします」


「次は、衣装部屋を近道に使わないようにしてくださいませ」


「はい」


「もし、また何か失敗したら?」


 エマの顔が青ざめる。


 アルベルティーヌは慌てて言葉を続けた。


「隠さず、まず報告してください。マルタか、ロザリーへ」


「お嬢様へ直接ではなくて、よろしいのですか」


「いきなりわたくしへ来いと言われても、怖いでしょう」


「……少し」


「正直で結構ですわ」


 アルベルティーヌは微笑んだ。


「ただし、人を動かす前に、本人へ話す。わたくしに関係することを、わたくし抜きで片づけない。これは家令と侍女頭にも伝えます」


 エマは何度も頷いた。


 マルタが横から口を挟む。


「加えて、お嬢様が大きなお声を出された場合には、後ほどご本人から説明していただきます」


「マルタ」


「はい」


「最後の項目は何ですの?」


「再発防止策でございます」


「誰の?」


「お嬢様の」


(うちの対策まで混ざっとる)


 数日後。


 エマがアルベルティーヌの私室へ紅茶を運んできた。


 少し緊張していたが、盆を持つ手は安定している。


「本日の茶葉は、南部から届いた新しいものでございます」


「楽しみですわ」


 エマがカップへ注ぐ。


 その時、窓から強い風が吹き込んだ。


 カーテンが膨らみ、テーブルの端に置かれていた紙が舞う。


 エマが反射的に紙を押さえた。


 盆が傾いた。


 紅茶が、アルベルティーヌの袖へ少しだけかかった。


 客間が凍った。


 エマの顔から血の気が引く。


 マルタは動かない。


 扉の近くにいた別の侍女も、呼吸を止めていた。


(来た)


(試されとる)


(ここで眉一つ動かしたら、また別邸送りや)


(お淑やかに)


(お淑やかに)


(お淑やかに)


 アルベルティーヌは、ゆっくりと袖を見た。


 熱くはない。


 量もわずかだ。


「エマ」


「は、はい!」


「火傷はございません?」


 エマが何度か瞬きをした。


「ございません」


「では、布を」


「はい!」


 差し出された布で袖を押さえる。


「この程度なら、染みにはならないでしょう。淹れ直してくださいませ」


「……はい」


 エマは今にも泣きそうな顔で、それでも逃げずにカップを下げた。


 新しい紅茶を淹れ終え、深く頭を下げる。


「申し訳ございませんでした」


「次は、紙を先に片づけてから注ぎましょう」


「はい。必ず」


 エマが部屋を出る。


 扉が閉まった瞬間、アルベルティーヌは大きく息を吐いた。


「……マルタ」


「はい」


「今のわたくしは、優雅でしたわよね」


「必死さは十分に伝わってまいりました」


「優雅かどうかを聞いておりますの」


「努力は認めます」


(褒め方が人事評価やねん)


 そこへ、廊下から父の声がした。


「入ってもよいか」


「どうぞ」


 父と母が揃って入ってくる。


「先ほど、廊下でエマが泣いていたぞ」


 アルベルティーヌは青ざめた。


「やはり怖がらせましたの!?」


「安堵して、だそうだ」


「……安堵」


「失敗を報告しても、姿を消されなかったことが嬉しかったのでしょう」


 母が微笑む。


「少しずつですわね」


 アルベルティーヌは椅子へ座り直し、蜂蜜飴の袋へ手を伸ばした。


「今回は、吠えておりませんわ」


「お声には出ておりませんでした」


 マルタが答える。


「ご自身へ向けては、随分と吠えておられましたが」


「心の中まで管理しなくてよろしくてよ」


「業務ですので」


 ――こうして、ヴァルモン公爵家では、失敗した使用人が姿ごと消えることはなくなった。


 代わりに、失敗を報告する者は、扉を叩く前に一度だけ深呼吸するようになった。


 報告を受ける公爵令嬢も、返事をする前に一度だけ深呼吸するようになった。


 どちらが先に慣れるかは、まだ分からない。


 本人だけが、静かに頭を抱えていた。


(お願い。家の中くらい、普通に怖がらんといて)

【作者】

今回は、アルベルティーヌの自宅回でした。


【アルベルティーヌ】

外で散々吠えさせた挙げ句、今度は家の中でまで猛獣扱いですの?


【作者】

実際、王にも王太子にも侯爵夫人にも吠えてるやん。


【アルベルティーヌ】

誰が吠えさせているとお思いで?


【作者】

私です。


【マルタ】

主語と責任が明確でございます。


【作者】

最近、何を言ってもそこへ戻ってくる。


【父】

娘を守っただけだ。


【母】

あなたが自由に言葉を使えるよう、少し整えていただけですわ。


【アルベルティーヌ】

守ってくださったことには感謝しております。ですが、わたくしの言葉の続きを、わたくし抜きで終わらせないでくださいませ。


【父】

次からは報告する。


【母】

一緒に後始末をしましょうね。


【マルタ】

ただし、夜中に猛虎弁で返書を書くことは禁止でございます。


【アルベルティーヌ】

書きませんわ!


【作者】

まだ出てる。


今回は、守ることと、本人の責任まで引き受けることは同じではない、というお話でした。


失敗を表から消しても、失敗そのものがなくなるわけではありません。

そして、誰かを怖がらせたつもりがなくても、怖がられていないとは限りません。


アルベルティーヌは今回、外へ爪を出すよりも、自分の爪をしまったまま相手の話を聞くことに苦労しました。


失敗する側も、報告を受ける側も、まだ練習中です。


【マルタ】

お嬢様、蜂蜜飴を。


【アルベルティーヌ】

今回は吠えておりませんわ。


【作者】

心の中では、だいぶ吠えてたけどな。


【アルベルティーヌ】

誰のせいで猛虎になったと思っとんねん。


【マルタ】

今回は、正しくお使いになりました。


お読みいただき、ありがとうございました。

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