『悪役令嬢アルベルティーヌの優雅なる日常・七』―失敗した人間まで片づけんな―
ヴァルモン公爵家では、最近、誰も失敗しない。
紅茶は常に適温だった。
書類は一枚たりとも順番を違えず、花瓶は割れず、食器の触れ合う音さえ必要以上に響かない。
廊下を急ぐ足音もなければ、新人使用人が先輩に小声で注意される姿もない。
完璧だった。
完璧すぎて、アルベルティーヌは怖くなった。
(そんな家あるかい)
朝の光が差し込む私室で、アルベルティーヌは白磁のカップを持ち上げた。
湯気の立ち方まで美しい。
一口含む。
熱すぎず、ぬるすぎず、茶葉の香りも十分に開いている。
(昨日も適温。今日も適温。先週から一回も猫舌殺しが来てへん)
(マルタの管理が行き届いとる? いや、それにしても限度あるやろ)
向かいでは、マルタが今日の予定表を確認していた。
「お嬢様。何かお気に召しませんか」
「いいえ。大変おいしゅうございますわ」
(おいしいから怖い言うてんねん)
アルベルティーヌはカップを置き、室内を見回した。
いつもなら窓辺の花を替えているはずの若い侍女がいない。
栗色の髪を短くまとめた、まだ十七歳のエマという少女だ。
働き始めて半年ほど。
手際は決して悪くないが、緊張すると左右を間違える癖があり、先月は右手用の手袋を二組持ってきた。
アルベルティーヌが笑って指摘すると、泣きそうな顔で何度も頭を下げていた。
その後、マルタから「手袋は逃げません」と教えられ、ようやく少し肩の力が抜けたところだった。
だが、三日前から姿を見ていない。
「マルタ」
「はい」
「エマは、今日はお休みかしら」
予定表をめくっていたマルタの指が止まった。
ほんの一瞬。
マルタでなければ気づかなかった程度の間だった。
(止まったな)
(今、北の熊が止まったな)
「エマは現在、別邸で勤務しております」
「別邸?」
「はい」
「いつから?」
「三日前からでございます」
「なぜ?」
マルタは予定表を閉じた。
「衣装部屋で不手際がございました」
「どのような?」
「お嬢様が翌日お召しになる予定だったドレスへ、紅茶をこぼしました」
アルベルティーヌは瞬きをした。
「そのドレスは?」
「染み抜きを終え、問題なく保管されております」
「破損は?」
「ございません」
「火傷をした者は?」
「おりません」
「ほな、何で人まで消えとんねん」
室内が静まった。
アルベルティーヌは自分の口元を押さえた。
(出た)
(まだ朝やぞ)
マルタは表情を変えなかった。
「配置換えは、侍女頭の判断でございます」
「呼んでくださいませ」
「かしこまりました」
「家令も」
「はい」
「お父様とお母様は?」
「旦那様は執務室に、奥様は朝の来客をお迎えする準備中でございます」
「後ほど、お時間をいただきます」
マルタは一礼し、部屋を出ていった。
アルベルティーヌは一人になった室内で、冷め始めた紅茶を見下ろした。
(紅茶こぼした)
(ドレスは無事)
(怪我人なし)
(せやのに、本人だけ別邸送り)
(何やそれ)
怒りが胸の奥で形を持ち始める。
だが同時に、別の違和感が浮かんだ。
最近見かけなくなったのは、エマだけではない。
庭園で植木鉢を割った若い庭師。
書類の封蝋を間違えた事務係。
廊下で銀盆を落とし、派手な音を立てた給仕。
誰も叱責されているところを見ていない。
翌日には、姿そのものが見えなくなっていた。
(待て)
(まさか、今までも全部)
扉が開いた。
入ってきたのは、白髪交じりの家令ボルドーと、侍女頭のロザリーだった。
二人とも長くヴァルモン公爵家へ仕えている。アルベルティーヌが幼い頃から知る、信頼できる使用人たちだ。
だからこそ、余計に分からなかった。
「お呼びと伺いました」
ボルドーが深く頭を下げる。
「エマを別邸へ移したのは、あなた方の判断ですの?」
「左様でございます」
ロザリーが答えた。
「本人へは、何と説明を?」
「しばらく別邸で経験を積むよう申しつけました」
「紅茶をこぼしたから?」
「お嬢様のお召し物を損ねかけましたので」
「損ねておりませんわね」
「今回は、幸いにも」
「では、次に同じことをしないよう教えればよいのでは?」
ロザリーはわずかに目を伏せた。
「お嬢様のお側へ置き続けるのは、適切でないと判断いたしました」
「誰にとって?」
「……公爵家にとってでございます」
(出た)
(でっかい主語出た)
(公爵家が自分で喋ったんか)
アルベルティーヌは微笑んだ。
できる限り、優雅に。
「公爵家のどなたが、そう判断なさったの?」
「それは……」
「あなた? 家令? お父様? お母様?」
ボルドーが静かに答えた。
「我々でございます」
「具体的に」
家令と侍女頭が顔を見合わせる。
その一瞬で、アルベルティーヌの胸の奥の虎が立ち上がった。
「失敗したんは紅茶こぼしたことやろ。何で本人まで片づけとんねん」
声が低くなる。
「割れた花瓶片づけるんと同じように、人まで見えん場所へ動かして、それで問題解決した顔すんなや」
ロザリーの肩がわずかに強張った。
ボルドーは頭を下げたまま、動かない。
「申し訳ございません」
「謝罪を求めているのではありません。理由を聞いております」
「お嬢様がお怒りになることを、避けたかったのでございます」
アルベルティーヌの言葉が止まった。
「……わたくしが?」
「はい」
ロザリーが顔を上げた。
長年仕えてきた侍女頭の目には、反抗も敵意もなかった。
ただ、慎重さがあった。
「お嬢様が使用人の小さな失敗を厳しく責めたことは、一度もございません」
「でしたら」
「ですが、お嬢様が王宮や他家でお声を上げられたことは、使用人たちも承知しております」
アルベルティーヌの喉が詰まった。
「新人の者には、区別がつきません。王太子殿下へ向けられたお声と、自分へ向けられるかもしれないお声が、同じものに思えるのでしょう」
(うち、家では猛獣扱いなん?)
(王には吠えた)
(王太子にも吠えた)
(侯爵夫人にも吠えた)
(そら新人侍女から見たら、次は自分やと思うか)
怒りが、行き場を失って胸の中を回った。
ボルドーが続ける。
「我々も、お嬢様には外で十分にご心労があるものと考えております。家の中で起きた小さな問題まで、お耳へ入れる必要はないと」
「誰が、そのように?」
「旦那様と奥様から、小事は我々で処理するよう申しつけられております」
父母の名が出た瞬間、アルベルティーヌは天井を仰ぎたくなった。
(うわ)
(愛情の気配するやつや)
(怒りにくいやつや)
(悪意やったら三倍は吠えられたのに)
「マルタ」
「はい」
いつの間にか戻ってきていたマルタが、扉のそばに立っている。
「あなたは、知っていましたの?」
「配置換えが行われていることは」
「なぜ、わたくしに言わなかったの?」
「旦那様と奥様の方針に反するためでございます」
「あなたまで」
アルベルティーヌは眉を寄せた。
マルタは淡々と続ける。
「ただし、エマが別邸へ移されたことについては、本日中にお伝えする予定でございました」
「なぜ今日?」
「三日目の本日、お嬢様がご自身でお気づきにならなければ、夕刻にはお伝えするつもりでございました」
「試していたの?」
「確認しておりました」
「何を?」
「お嬢様が、使用人一人が消えたことへ気づかれるかを」
家令と侍女頭が、今度はマルタを見た。
アルベルティーヌはしばらく何も言えなかった。
「……気づきましたわ」
「はい」
「それで?」
「お嬢様は、問題だけでなく、人も見ておられます」
ほんの少しだけ、胸が軽くなる。
だが、マルタはそこで終わらなかった。
「ですが、それを皆が知る機会はございませんでした」
(北の熊、今日も爪が鋭いな)
「お嬢様が使用人の失敗を責めないことを知っているのは、長くお側に仕える者だけです。新人には、王宮で響いたお声の方がよく知られております」
「そんな」
「よく通るお声でございますので」
「褒めておりませんわよね」
「事実を申し上げております」
アルベルティーヌは額へ手を当てた。
「エマを呼び戻してくださいませ」
「それは」
ロザリーが迷う。
「本人へ、まず尋ねてください」
「お嬢様のお側へ戻るかどうかを、ですか」
「ええ。戻ることを望まないのであれば、無理に戻す必要はありません」
言い切ってから、アルベルティーヌは二人を見た。
「ただし、わたくしに関係することで、わたくしの知らないまま人を動かすのは、今日で終わりにします」
「承知いたしました」
「お父様とお母様へは、わたくしからお話しいたします」
ボルドーとロザリーが退室した後、アルベルティーヌは椅子へ深く座り直した。
「……マルタ」
「はい」
「蜂蜜飴を」
「まだ大きなお声は出ておりません」
「自分へ向けて出そうですの」
マルタは少しだけ間を置き、蜂蜜飴を一つ差し出した。
その日の午後。
ヴァルモン公爵と公爵夫人は、娘からの呼び出しを受け、家族用の小さな応接間へ揃って現れた。
父は執務服のまま。
母は来客用の華やかな衣装から、淡い青の室内着へ着替えている。
二人とも娘の顔を見るなり、何があったのか察したらしい。
「エマのことを知ったのね」
母が先に言った。
「ご存じでしたの」
「ええ」
「別邸へ移すことも?」
「許可した」
父の答えは短かった。
「なぜですの?」
「お前を煩わせないためだ」
想像していた通りの答えだった。
だからこそ、アルベルティーヌは困った。
「わたくしが、紅茶をこぼされた程度で煩わされると思っておられたの?」
「そうではない」
父は首を横に振った。
「お前が、その者を責めるとは思っていない。だが、お前は外で十分に余計なものを背負っている」
「余計なもの?」
「王宮の不始末。王太子の未熟さ。貴族たちの無責任。お前が口を出さなければ、そのまま流されていた問題だ」
母が静かに続ける。
「あなたは正しいことを言っています。けれど、正しいことを言えば、相手が必ず素直に受け入れるわけではありません」
「それは、承知しております」
「いいえ。あなたは、言ったその場の反応しか見ていないことが多いのです」
アルベルティーヌは言葉を失った。
「どういう意味ですの?」
父が背もたれへ身を預ける。
「お前が王へ物申した翌日、王宮から届いた問い合わせへ答えたのは誰だと思う」
「……お父様?」
「お前が王太子の軽率さを指摘した後、婚約関係を維持するのか、家としてどう考えているのか、各派閥へ説明したのは?」
母が微笑む。
「わたくしです」
「クラリス様の茶会の後、ローゼンタール家との関係が悪化しないよう、訪問の順番を整えたのも?」
「それも、わたくし」
アルベルティーヌは二人を交互に見た。
「……毎回?」
「必要な時には」
父は平然と答えた。
「なぜ、わたくしにおっしゃらなかったのです」
「お前が間違っているとは思わなかったからだ」
「なら、なおさら」
「正しいことを言った娘に、その後の泥まで全部踏ませたくなかった」
その言葉は、アルベルティーヌの怒りを一度に奪った。
(うわ)
(愛情や)
(真正面から来た)
(これ、どないして吠えたらええねん)
母は困ったように笑う。
「あなたには、自由に言葉を使ってほしかったのです。家へ戻った時くらい、何も心配せずに過ごしてほしかった」
「だから、使用人の失敗も?」
「小さなことは家令と侍女頭へ任せるようにしました」
「その結果、失敗した本人まで、わたくしの見えない場所へ動かされております」
母の笑みが消えた。
父も眉を寄せる。
「そこまでの指示はしていない」
「ですが、そう運用されていました」
「……なるほど」
父は目を閉じ、短く息を吐いた。
「我々の言葉が足りなかったな」
「わたくしの方もですわ」
アルベルティーヌは、膝の上で手を組んだ。
「使用人の小さな失敗を責めたことはない。それだけで十分だと思っておりました」
「責めないことを、わざわざ宣言する者も少ないでしょう」
「ですが、皆は、わたくしが怒ると思っていた」
母が少し考え込む。
「王宮での噂が、家の中へも入っているのね」
「噂だけではありませんわ。実際に、わたくしは何度も吠えております」
「自覚はあったのね」
「お母様」
「ごめんなさい」
母は笑いを堪えながら謝った。
アルベルティーヌは唇を尖らせかけ、慌てて淑女の微笑みへ戻す。
「守ってくださったことは、感謝しております」
父母が黙る。
「わたくしが言葉を使えるように、その後ろで支えてくださっていたことも」
喉の奥が少し熱くなった。
怒りではなかった。
「ですが、わたくしの言葉の続きを、わたくしから取り上げないでくださいませ」
「続きを?」
「わたくしが言ったことで、誰が困ったのか。誰が説明を求めたのか。家が何を背負ったのか。それを知らないままでは、わたくしは好き勝手に吠えて帰ってきただけです」
(ほんまにな)
(誰が頭下げたかも知らんと、責任がどうとか偉そうに言うてたんか)
内心の虎が、自分へ向かって低く唸る。
「全部一人で背負わせろとは申しません。わたくしも、家の一員ですもの」
アルベルティーヌは父を見た。
「けれど、わたくしの分まで、勝手に終わらせないでください」
次に、母を見る。
「わたくしが言った言葉の後始末へ、わたくしも参加させてくださいませ」
父は長く黙った。
やがて、わずかに口元を緩める。
「参加、か」
「はい」
「すべてを任せるとは言わんぞ」
「わたくしも、すべて任せろとは申しません」
「ならば、次からは報告する」
母も頷いた。
「社交界で必要になった説明も、あなたへお伝えします」
「ありがとうございます」
「ただし」
母が人差し指を立てる。
「夜中に届いた問い合わせへ、あなたがその場で猛虎弁の返書を書くのは禁止です」
「書きませんわ!」
「本当に?」
「書きません!」
「今、少し出ていたわよ」
「気のせいですわ」
父が小さく笑った。
その笑い声を聞き、アルベルティーヌもようやく肩の力を抜いた。
翌日、エマが本邸へ戻ってきた。
正確には、連れ戻されたのではない。
まずロザリーが別邸へ出向き、本人へ事情を説明した。
そのうえで、アルベルティーヌのそばへ戻るか、このまま別邸で働くかを選ばせた。
エマは一晩考え、戻って話をしたいと答えた。
私室へ入ってきた少女は、以前よりも背筋を固くしていた。
「お呼びいただき、ありがとうございます」
「座ってくださいませ」
「いえ、わたくしは」
「話を聞く時、一人だけ立たせる趣味はございませんの」
エマが驚いたように顔を上げた。
アルベルティーヌは、自分でも少し言い方が硬かったと思った。
(あかん)
(事情聴取の後遺症が残っとる)
マルタが椅子を引く。
エマはおそるおそる腰掛けた。
「紅茶をこぼしたことについて、話してくださいます?」
「はい。衣装部屋で、お嬢様のドレスを確認している際、茶器を載せた盆へ袖を引っかけました」
「なぜ、衣装部屋へ紅茶を?」
「ロザリー様へお持ちする途中でした。近道をしようとして」
「なるほど」
アルベルティーヌは頷いた。
「ドレスは無事です。怪我人もいません」
「はい」
「それでも、あなたは別邸へ移された」
エマの指が膝の上で強く組まれる。
「……わたくしは、お嬢様のお怒りに触れたのだと思いました」
「誰かに、そう言われたの?」
「いいえ。ですが、直接謝罪することも許されず、翌朝には荷物をまとめるようにと」
「怖かった?」
エマは迷った後、小さく頷いた。
「お嬢様に叱られることも、怖うございました」
「ええ」
「ですが、何も申し上げる機会がないまま、自分がいなかったことにされる方が、もっと怖うございました」
その言葉は、アルベルティーヌの胸へまっすぐ刺さった。
(人まで片づけんな)
(うちが言う前に、本人に言われたやないか)
「申し訳ありませんでした」
アルベルティーヌは頭を下げた。
エマが息を呑む。
「お嬢様が?」
「わたくしの家で、わたくしに関わる失敗をしたあなたが、わたくしの知らないところで動かされました。わたくしにも責任があります」
「ですが、お嬢様は何も」
「何も知らなかったこと自体が、問題ですわ」
アルベルティーヌは顔を上げた。
「わたくしのそばへ戻りたいとお思い?」
エマの目が揺れた。
「戻らなくても、罰にはいたしません。別邸で働きたいなら、その希望を尊重します」
「……戻りたいです」
「本当に?」
「はい」
今度の返事は、少しだけ強かった。
「次は、紅茶をこぼさないようにいたします」
「次は、衣装部屋を近道に使わないようにしてくださいませ」
「はい」
「もし、また何か失敗したら?」
エマの顔が青ざめる。
アルベルティーヌは慌てて言葉を続けた。
「隠さず、まず報告してください。マルタか、ロザリーへ」
「お嬢様へ直接ではなくて、よろしいのですか」
「いきなりわたくしへ来いと言われても、怖いでしょう」
「……少し」
「正直で結構ですわ」
アルベルティーヌは微笑んだ。
「ただし、人を動かす前に、本人へ話す。わたくしに関係することを、わたくし抜きで片づけない。これは家令と侍女頭にも伝えます」
エマは何度も頷いた。
マルタが横から口を挟む。
「加えて、お嬢様が大きなお声を出された場合には、後ほどご本人から説明していただきます」
「マルタ」
「はい」
「最後の項目は何ですの?」
「再発防止策でございます」
「誰の?」
「お嬢様の」
(うちの対策まで混ざっとる)
数日後。
エマがアルベルティーヌの私室へ紅茶を運んできた。
少し緊張していたが、盆を持つ手は安定している。
「本日の茶葉は、南部から届いた新しいものでございます」
「楽しみですわ」
エマがカップへ注ぐ。
その時、窓から強い風が吹き込んだ。
カーテンが膨らみ、テーブルの端に置かれていた紙が舞う。
エマが反射的に紙を押さえた。
盆が傾いた。
紅茶が、アルベルティーヌの袖へ少しだけかかった。
客間が凍った。
エマの顔から血の気が引く。
マルタは動かない。
扉の近くにいた別の侍女も、呼吸を止めていた。
(来た)
(試されとる)
(ここで眉一つ動かしたら、また別邸送りや)
(お淑やかに)
(お淑やかに)
(お淑やかに)
アルベルティーヌは、ゆっくりと袖を見た。
熱くはない。
量もわずかだ。
「エマ」
「は、はい!」
「火傷はございません?」
エマが何度か瞬きをした。
「ございません」
「では、布を」
「はい!」
差し出された布で袖を押さえる。
「この程度なら、染みにはならないでしょう。淹れ直してくださいませ」
「……はい」
エマは今にも泣きそうな顔で、それでも逃げずにカップを下げた。
新しい紅茶を淹れ終え、深く頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
「次は、紙を先に片づけてから注ぎましょう」
「はい。必ず」
エマが部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、アルベルティーヌは大きく息を吐いた。
「……マルタ」
「はい」
「今のわたくしは、優雅でしたわよね」
「必死さは十分に伝わってまいりました」
「優雅かどうかを聞いておりますの」
「努力は認めます」
(褒め方が人事評価やねん)
そこへ、廊下から父の声がした。
「入ってもよいか」
「どうぞ」
父と母が揃って入ってくる。
「先ほど、廊下でエマが泣いていたぞ」
アルベルティーヌは青ざめた。
「やはり怖がらせましたの!?」
「安堵して、だそうだ」
「……安堵」
「失敗を報告しても、姿を消されなかったことが嬉しかったのでしょう」
母が微笑む。
「少しずつですわね」
アルベルティーヌは椅子へ座り直し、蜂蜜飴の袋へ手を伸ばした。
「今回は、吠えておりませんわ」
「お声には出ておりませんでした」
マルタが答える。
「ご自身へ向けては、随分と吠えておられましたが」
「心の中まで管理しなくてよろしくてよ」
「業務ですので」
――こうして、ヴァルモン公爵家では、失敗した使用人が姿ごと消えることはなくなった。
代わりに、失敗を報告する者は、扉を叩く前に一度だけ深呼吸するようになった。
報告を受ける公爵令嬢も、返事をする前に一度だけ深呼吸するようになった。
どちらが先に慣れるかは、まだ分からない。
本人だけが、静かに頭を抱えていた。
(お願い。家の中くらい、普通に怖がらんといて)
【作者】
今回は、アルベルティーヌの自宅回でした。
【アルベルティーヌ】
外で散々吠えさせた挙げ句、今度は家の中でまで猛獣扱いですの?
【作者】
実際、王にも王太子にも侯爵夫人にも吠えてるやん。
【アルベルティーヌ】
誰が吠えさせているとお思いで?
【作者】
私です。
【マルタ】
主語と責任が明確でございます。
【作者】
最近、何を言ってもそこへ戻ってくる。
【父】
娘を守っただけだ。
【母】
あなたが自由に言葉を使えるよう、少し整えていただけですわ。
【アルベルティーヌ】
守ってくださったことには感謝しております。ですが、わたくしの言葉の続きを、わたくし抜きで終わらせないでくださいませ。
【父】
次からは報告する。
【母】
一緒に後始末をしましょうね。
【マルタ】
ただし、夜中に猛虎弁で返書を書くことは禁止でございます。
【アルベルティーヌ】
書きませんわ!
【作者】
まだ出てる。
今回は、守ることと、本人の責任まで引き受けることは同じではない、というお話でした。
失敗を表から消しても、失敗そのものがなくなるわけではありません。
そして、誰かを怖がらせたつもりがなくても、怖がられていないとは限りません。
アルベルティーヌは今回、外へ爪を出すよりも、自分の爪をしまったまま相手の話を聞くことに苦労しました。
失敗する側も、報告を受ける側も、まだ練習中です。
【マルタ】
お嬢様、蜂蜜飴を。
【アルベルティーヌ】
今回は吠えておりませんわ。
【作者】
心の中では、だいぶ吠えてたけどな。
【アルベルティーヌ】
誰のせいで猛虎になったと思っとんねん。
【マルタ】
今回は、正しくお使いになりました。
お読みいただき、ありがとうございました。




