春の最愛に告ぐ
部屋の整理をしていると、懐かしいものを見つけた。埃をかぶったノートを拾い上げ、軽く叩く。
椅子に腰掛け、数年振りかにノートのページをめくった。
『□月△日
ははうえからにっきをつけるようにいわれたので、きょうからにっきをつけてみる。』
母様から渡されたノートに書き記したのは、これが初めてだったと思う。
日々の鍛錬や勉学に加えて日記などという、書く目的がわからないものを課題として出され、不満を募らせたものだ。
今となっては、書いていてよかったと思うが、当時の私からすれば、要らぬ課題が増えたとしか考えられなかっただろう。
そんな苦い記憶を思い出しながら、黄ばんだノートのページをめくった。
『□月△日
きょうはぼくのごさいのたんじょうびだった。
たんじょうびパーティーはなにごともなくおわった。
たのしかった、とおもう。ケーキはおいしかったのでまたたべたい。』
十九年生きてきた中で、最も美味しいと感じたのは五歳のときに振る舞われた素朴なケーキだった。
本来、貴族ならば味よりも見た目を気にする。華やかであればあるほど良いとされていたからだ。けれど、あの日だけ母様は見た目よりも味にこだわった。城で雇っているパティシエではなく、平民からの評判が高いケーキ屋にケーキを依頼していた。
当時はその行動の真意がわからなかったが……恐らく、母様は平民に対する差別意識を捨てさせ、本質を見極める目を私に養わせたかったのだろう。残念ながら、その目を得ることはなかったが。
未だ忘れられぬあの味に思いを馳せていると、微かにお腹が鳴った。これは決して、私が食いしん坊というわけではない。
パーティーに出されるケーキや料理は、どれも味が単調で似たり寄ったりなのだ。その点、平民が作る料理は美味だ。味や匂いは勿論、舌触りや後味まで拘っている。確かに雇っているパティシエの作る物も美味しいが、平民街で食べる屋台飯の方が背徳感も相まって、より美味しさを感じるのだ。まあ、つまり何が言いたいかといえば、平民の作る素朴な料理が食べたいということである。
数ヶ月分の日記のページをパラパラと捲り、私の人生が最も変わったであろう記述を見つけた。
『□月△日
あしたは、ぼくのこんやくしゃこうほにまたあうらしい。
そのこのなまえはパティスというらしい。
ほかのひとのように、ねこなでこえでいいよってこなければいいが』
懐かしい。自分で言うのもあれだが、私の顔は大変整っている。私がひとつ微笑を浮かべれば、周りの令嬢の顔が蕩けるほどだ。父様から受け継いだほっそりとしなやかな目に、母様から習った物腰柔らかな態度は、傲慢な令嬢たちには刺さるらしい。全くもって迷惑な話だ。私が魅了したいのは彼女たちではなく、私のお嫁さんだけだというのに。
この美貌のせいで学生時代ではよく付き纏われ、学園に休息地など存在しなかった。休める場所として挙げるのであれば、それは勿論パティスの近くだが。
とはいえ、彼女と会えるのは月に一回が関の山だった。何せ、私はパティスと婚約したことを周りに話したことが一度もないからである。理由は色々ある。
一つはパティスの身の安全を保証できないこと。これは周りの令嬢が主な原因だが、一番は私や他の令息に禁忌魔法とされる「誘惑」を使う愚か者がいたからだ。無論、私は惑わされなかった。何せあのような女に現を抜かす余裕などなかったからだ。どこへ行っても跡をつけられ、言い寄られ……パティス以外の令嬢全て消し去る方法を考え始めるぐらいには鬱陶しいと常々感じていた。
いつ、誰が、どこで私を見ているのかが分からない以上、パティスに会うことはできなかった。パティスに会いたすぎて、危うくあと一歩で道を踏み外すところだった。いや、パティスがいる限り絶対に有り得ないのだが。
話が逸れた。とにかく、未だに言い寄られ続けるのだから当時の私は気が気でなかっただろう。力を持たぬ非力な子供だったので。
彼女に会う前日の夜にはずっと「気持ちの悪い女性じゃありませんように」と、祈っていたものだ。
感慨深い。
『□月△日
てんしがいた』
簡潔な一言に思わず笑ってしまったのは無理もないだろう。
『てんしがいた』の文字の下には、消しゴムで乱暴に消した跡が幾重にも残っていた。ノートが凹むほど強く書き込んでいたらしい。まあ、結局残ったのはたったの一文だけだったが。
小さな頭を必死に回転させ、彼女が如何に愛らしかったかを書き連ねていたのだろう。その日を境に、それまで見向きもしなかったロマンス小説を読み漁り、彼女を賞賛する言葉を探し回るほどには浮かれていた。ちなみに、この日記を書いた日のうちに知恵熱を出した。
『□月△日
きょうはパティスとちゃかいをする。
ちゃかいをへてわかったのは、パティスはてんしではなく、はるのようせいだったことだ』
『□月△日
6さいのたん生日パーティーにパティスをしょうたいした。青色のドレスにみをつつんだパティスはかわいらしかった。
きっと、明日もかわいいのだと思う。そんなかわいらしいパティスに会えないのは歯がゆい。早くこんいんを結びたい』
『□月△日
パティスとデートなるものを市民街で行った。
不安ばかりがつのるデートだったが、どうやら大成功したらしい。なぜならパティスに「大好き」と言われたからだ。ぼくのおよめさんは今日もあいらしい』
『□月△日
母上がパティスのたん生日を教えてくれなかったせいで祝いそびれた。そのことにたいして母上にふんがいしたが、「これにこりたら自ら行動しなさい」とたしなめられた。受け身のままではだめだ。明日、パティスと会うのでいろいろ聞いてみようと思う』
『□月△日 メモ
パティスは青が好き
華やかなところよりも静かな場所が好き
外よりも家
ミステリーけいの本が好き
ケーキはイチゴがたくさんのっているのが好き
ピーマンとトマトとキノコとかぼちゃが嫌い』
『□月△日
パティスのたん生日を一ヶ月おくれて祝った。市民たちの間で人気のケーキ屋で特注したイチゴたっぷりのケーキは大変好ひょうだった。実によろこばしい』
ーー
ーー
ーー
『□月△日
今日は十五歳の誕生日を迎えたので、パティスに正式に婚姻を申し込んだ。ら、泣かせてしまった。私が動揺している合間に母様にぶたれた。とても痛かったが、パティスが「私でよければ」と言ってくれたのでどこが痛かったのか忘れてしまった。』
『□月△日
年齢的に、私の方が学園に一足先に入学することに気が付いて動揺が隠せない。今でさえ週に一度しかパティスに会えずストレスが溜まっているのに。ホリデーには帰れるらしいが、耐えられそうにない』
『□月△日
出発日にパティスがお見送りに来てくれた。可愛い。
パティスが「浮気しちゃダメですよ」って言った。可愛い
思わず抱きしめたら、ぽかぽかと叩かれてしまった。可愛い
あまりの可愛さに涙が出そうだったが、母様が居たので我慢した。
名残惜しいがパティスから離れて馬車に乗ろうとしたら、「頑張ってね」と頬にキスをしてくれた。彼女が学園を卒業したら真っ先に抱こうと思う』
『□月△日
あまりの辛さに日記を書くことを放棄していた。しかし、ようやくパティスが入学してくれたので、今日からまた毎日書こうと思う。制服に身を包み、僅かに緊張した面持ちをしていた彼女はとても可愛いらしかった。生徒会長紹介で私の名が上がったとき、誇らしげに頬を緩めていた姿は堪らなかったので、やっぱり抱こうと思う』
『□月△日
パティスに会いに行けない』
『□月△日
聖女候補の平民の動きが怪しい』
『□月△日
学友たちの様子がおかしい』
『□月△日
様子がおかしくなった学友たちに魔法痕がくっきりと残っていたので調べた。ら、案の定魅惑の魔法を使われていた。学業だけでなく魔法とも戦えというのか』
『□月△日
パティスが膝枕をしてくれた。あと頭を撫でてくれたのでもう少しがんばる』
『□月△日
何故俺が卒業パーティーでパティスとの婚約を破棄するという根も葉もない噂が立っているんだ、今すぐ彼女の誤解を時に行きたいのに平民が邪魔で行けない。歯痒い。やっぱり今すぐにでも首をはねても許されるのではないか』
『□月△日
明日が卒業パーティーなので、ようやくこの幼稚な茶番を終わらせることができる』
『□月△日
勢い余って全生徒の前でパティスに婚約指輪を渡してしまった。すごい歓声だった。耳鳴りが凄かったが、顔を赤らめたパティスのあまりのいじらしさに全てが吹き飛んだ。そのうち、パティスは難病に効くのではないかと思う』
『11月22日
結婚式を挙げた。花嫁姿のパティスは、いつもよりも、いや、いつも可愛らしいのだが、綺麗だった。』
この日記帳に唯一挟まれた写真をそっと指の腹でなぞる。
不意に、穏やかに問う声が私を呼んだ。
日記を閉じ、書斎机近くにある本棚に差し込む。そして、ようやく後ろを振り返った。
扉付近に立つ彼女は、ささやかに笑いながら問いかける。
「旦那様。何を読んでいたのですか?」
「私が幼い頃に書いていた日記だよ」
「あら、貴方がマメな人なのは知っていましたが……」
「意外かね?」
「ええ、とても」
顔を見合せ、くすくすと笑い合う。この穏やかな掛け合いが堪らなく愛しく、離し難い日常だった。
「ささ、旦那様。お手を」
彼女はそう言いながら、私の手を両手で包み込む。それでも尚、私の手を完全には包み込めないので、やはり小さくか弱い生き物なのだということを私に知らしめる。いじらしい彼女の手を壊れないように優しく握り返す。
「今日は娘が婚約者候補との顔合わせの日なのですから、早く行きましょう」
「……娘は」
「渡さないとか言わないでくださいね」
遮るように言われてしまったので、罰が悪くなり、肩をすくめる。彼女に促されるまま、私は椅子から立ち上がり、書斎机に背を向けた。
きっと、この先もずっと私はパティスに骨抜きなのだろう。記憶が曖昧になっても、きっと何度でも一目惚れをするだろう。
ねえ、知っているかい。貴方を一目見たとき、春のような女だと思ったことを。暖かく穏やかな陽だまりが、そのまま人間の姿をして歩いているような、そんな優しい雰囲気を纏った人よ。
春の妖精なのだろうと幼心に思うほどには、同じ人間だとは到底思えなかったことは、今でも言えていないけれど。
私は苦笑を浮かべながら、心の中で呟いた。
ああ、認めよう。私は君に――……
「パティス、フィラム」
その名を何度も口の中で転がす。そうして、溢れるように出た最愛の名は、自分でも驚くほど口に馴染んでいた。
パティス、パティス。私の月。私の色彩のすべて。私を人間たらしめる貴方。我が愛を象った人。私の胸に棲む愛の形をした人よ。
どうしようもなく溢れ続ける愛を、君にどう伝えようか。
「んもう、私はもうその姓ではありませんよ。ファレン様」
「ん〜? じゃあ、どんな姓だったかな」
私がそう尋ねると、彼女はムッとしたように答えた。
「パティス、ヘリオトロープですよ。旦那様」




