1話 マヨヒガ
歩けど歩けど何もないかんかん照りの道。
旅人が迷い込んだ奇妙な館と、館の主人。ゆったりと微笑むそのひとは、旅人に椅子をすすめる。
「かんぜんに迷った…」
がらごろ旅行鞄を引いてかれこれ一時間は歩いたというのに、どこにも辿り着かない。
どこまで行ってもそっけない平原に囲まれた平坦な畦道が続いている。
そもそもどこかを目指してるわけじゃないからどこにも着かないのは当然といえば当然だけれど…。
それにしても暑い。カーゴパンツの腰のあたりがぐっしょり湿って気持ち悪い。
熱をはらんだぬるい風が正面から顔を撫でていく。頭の後ろでお団子に結った髪の隙間にも入りこんできて、余計に汗をかいていることを意識させられた。
「今どのあたりなんだろ…」
本当に困ってしまって立ち止まる。額に張り付く前髪を指先で払って汗をぬぐった時、ようやくこの街に入ってから延々快晴のままだと気がついた。いつまでもかんかん照りだ。
そして視線の先には平地、平地、平地。
「…とにかく日陰…涼める場所を…」
考えるのをやめてはあはあ言いながら再び歩き出す。この陽射しの下で立ち止まっていれば焼け焦げてしまいそうだ。というか人っ子一人いないこんな場所をぷらぷら歩いていて大丈夫なのかな。
日射病で道端に倒れている自分を想像して面白くもないのに一人でヘヘヘと笑ってしまう。頭が茹ってきた。
「…ん?」
ふと顔を上げると、道の向こうに三角の大きな屋根を持つ家屋が見えた。店か、人家か。あれを見落とすとは思えないけれど、さっきからあったのだろうか?
この際なんでもいいから、行くだけ行ってみよう。中に入れてもらえたら最高。
がらごろ、本格的にお荷物になってきた鞄を引きずるように歩き出す。
すぐ前まで行ってみると、それは思っていたよりずっと大きな家だった。お屋敷と言ったほうがいいかもしれない。
大きな鉄の門の隙間から見える庭には柔らかそうな芝生が敷かれており、花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、花びらに乗った水のつぶがきらきら日光を受けて光っている。
つまり誰かが世話をしてるってことだ。…でも、人の気配はない。
重たそうな門には鍵がかかっておらず、片手で押すとぎいと簡単に開いてしまった。
やっぱり空き家なのかな…。
思わず一歩門の中に入った瞬間、ふっと暑さが和らいだ気がした。目に見えない膜を通り抜けたみたい。
改めてよく見ると、芝生も花もこのきつい陽射しを感じていないようだった。
砂粒ひとつ落ちていない石敷きの道を通って玄関まで行き、扉にぺたりと耳をつけて中の様子を伺う。…物音ひとつしない。
試しに真鍮のノブを回してみたら、こちらも鍵はかかっていなかった。
「不用心…!」
ここで一歩引いて改めて家を見上げる。じりじりと日の照りつける畦道と、沈黙している屋敷。中からはすでにひんやりとした空気が漂ってきている。
「…おじゃましまーす…」
結局涼みたいという欲求に簡単に負けてしまった。
細く開けたドアの隙間から顔を出して呟くが、思ったとおり返事はない。
本当にごめんなさい、と胸の中で呟いて中に滑りこんだ。
扉を閉めると、ふつりと空間が閉じられる感じがした。空気そのものがしんと息を潜めていて、外で聞こえているはずの鳥の鳴き声や風に木々が揺れる音さえ遠くなった気がする。
──今まであちこち歩いてきたけれど、こんなに静かなお屋敷は初めてだ。
人の気配はないのに、つい昨日まで使われていたような感じがする。例えるなら、さっきまで遊んでいたドールハウスから人形だけ取り除いたみたいに。
木目の美しい床に埃が積もったりしていないし、廊下に置かれた棚や置物に指を滑らせてもつるつるときれいなものだった。掃除が行き届いている。
「なんなんだろ…」
言いながら次々に部屋を見て回る。あるドアの向こうは豪奢な家具の並ぶ客間で、またあるドアは洗濯物こそないけれど洗濯室のようだった。コンロをいくつも備えた大きな厨房もある。これは相当なお屋敷だわ。
だからこそ人の不在が際立った。
一体何があって、このお屋敷は空っぽになってしまったのだろう。
一階から順番に開けていって、多分これが最後だろうというドアの前に立つ。
がちゃ、と今までの続きで遠慮なく開けて一歩中に入ってから、視線の先に人がいることに一拍遅れて気がついた。
そこは書斎だった。壁いっぱいの大きな本棚と、どっしりした年代物らしい書き物机。そして本棚に指を滑らせている長身。
すでに踏み込んでしまった体がぎくりと固まるのと同時に、灰色がかった長い髪をひとつに結んだ背中がゆったりと振り返る。
「おや、こんにちは」
その人は、外の暑さとはまるで無縁な、この屋敷そっくりの静かで涼しげな佇まいだった。
私の登場に少しも驚いた風ではない。よく見ようとするように細められた目の色はくすんだ青で、その目にかかる髪はやわらかそうにウェーブしている。学者みたいなゆったりした服は見るからに仕立てが良い。
「あっ、こんにちは…じゃなくて! ごめんなさい人がいると思わなくて…」
無断侵入! 叩き出されてもおかしくないどころか下手をすれば捕まってしまう。
きっかけさえあればすぐにでも踵を返そうとしている私に、その人はおかしそうに首を傾げた。
「どうぞ、座って」
涼やかな微笑みとともに片手で壁際の椅子を示された。
「…えっ」
素直に従ってもいいものか、戸口に立ち尽くして様子を伺う。座った途端人が出てきて拘束されるんじゃないか。
そんな迷いを見てとったのか、その人はくすくす笑って近づいてきた。
「私はこの家の主人だ。そう怖がらないで」
そしてすいと白い手を差し出す。
「…アイです。はじめまして」
差し出された手を握り返してから、あることに気がついて付け足した。
「ごめんなさい、今のところ私の名前はこれだけで」
主人だという人は構わないよというように肩をすくめた。
それからくるりと本棚の方へ戻っていく。
「君はどうしてここに?」背中越しに声が飛んできた。
「ええと、旅の途中でして」
「なるほど、旅人か。どこへ向かっているのかな?」
「目的地というものはなくて…足の向くままに旅をしています。ただ、この街を抜けるのにちょっと困っていて。あんまり暑いから、歩き続けられないんです」
椅子を引いて机に戻ったその人は、机の上で両手を組み覗き込むようにこちらを見た。
「ふむ。それでは季節の変わるまでここで働くかね?」
「はあ?」
面談のような会話だと思っていたらいよいよ面接になった。
「あの、旅人なんですが」
「聞いたよ。働いたことがないのか?」
「ありますが…」
旅の中で一時的にてきとうな店で働いたり人の手伝いをすることはある。それでも探してもないのに向こうから職が来ることはあまりない。そこでようやく屋敷の人気のなさを思い出した。
「使用人に暇を出されたんですか? それで手伝いが必要だと?」
「──ああ」
その一瞬、涼しげな目の奥が膜を張ったようになった。次の瞬間には元通りの微笑みに戻っている。
「そうだね。理由があって、今ここには誰もいないんだ。私もすっかり退屈していて…」
言いながら机の上に積んだ本の山を崩し始めた。
「旅に出るまでの間、話し相手になってくれたらいい。あとはちょっとした雑用も。どうする?」
すっかり流れに置いて行かれていたけれど、どうする、と呼びかけられて大きく息を吸い直した。
窓の外は気持ちのいい快晴で、さあ焼かれにおいでと歌っているようだった。
「……具体的に、何をすれば?」向かい合うように椅子に腰掛ける。
「言ったとおりだよ。私の生活の手助けさ。難しいことはない。訳あって給料は出せないが、屋敷の中のどこでも好きに使えばいい。ああそうそう、服も設えようか。使用人の制服ならいくらでも余りがあるはずだ。君の身長は?」
急に饒舌になったかと思うと、長い腕で身振り手振りを交えだす。
「…楽しそうですね?」
「そりゃあ君、楽しいさ。人とこうして話すこと自体久しぶりなものでね」
にこやかに微笑むその顔は、たしかに会話を楽しむ人間特有の弾みがあった。
勝手に入りこんだ旅人を歓迎するほど暇を持て余した孤独なお金持ちだろうか。
「それで? 答えは?」
灰色の髪の下で、くすんだ青がじっと私を見つめている。断られることなど考えていないような、あるいは考えたくないと思っているような色で。
「……ありがたい申し出に感謝します。ぜひ、この気候が変わるまで、ここに置いてください」
椅子の上で一礼した私の頭上で、ぱちんと手を打ち鳴らす音がした。
満足そうな男性の顔と目が合う。
「決まりだ。やることは色々あるぞ。自分の部屋を決めて──あとで空き部屋を教えるから──それから服だな」
言いながら意外にもてきぱきとした動作で立ち上がり、言葉を挟む隙もなく戸口へ向かう。
「…ああ」
ノブに手をかけたところでふいに足を止めた。
「ここで働く上で決まりが二つある」
くるりと振り向いて、長身の体がこちらを見下ろす。
その目にはそれまでとは違う、どこか張り詰めた緊張のようなものがあった。
「ひとつは、私に嘘をつかないこと」すいと長い指が立てられる。
「嘘をつけば私にはわかる。どんな内容であれ、私の前では全ての嘘を禁じる」
語る声は変わらず穏やかだが、ある意味で主人らしい有無を言わさぬ響きを帯びている。
「本当にわかるのか試そうなどとも思ってはいけない。嘘をついたその瞬間に終わりだ。わかるね」
「……はい」
さっきまでの問答で嘘をついていたらどうなったのだろう。あるいは、あれこそが試験だったのかもしれない。
今の男性からはひやりと冷気のようなものが放たれている。
「もうひとつは、地下室に行かないこと」
こちらの目をじっと覗いたまま、もう一本指が立つ。地下室なんてあったっけ?
「この屋敷のどこかに地下室への扉がある。君は見つけられるかもしれないし見つけられないかもしれない。いずれにせよそこには行くな。開ければ君は死ぬ」
死ぬ、とその言葉は反応が遅れるほどさっぱりと告げられた。
目を見開いたまま何も言えずにいると、ふっと男性の表情が緩む。
「──なんて。実は地下室の扉は開かないんだ。錆びついてしまったのかな。閉じ込められてしまってはいけないから、もし開いていても入ってはいけない。いいね?」
これは現実的な警告、とウインクされた。見かけよりも茶目っ気がある。
「あとは、この屋敷のどの部屋でも自由に入っていい。鍵もかかってない。…君は一通り調べたあとかな?」
しかも家探しがバレていた。ちょっと小さくなって「すみません」と呟く。
男性は楽しげに目を細めていた。
「話は終わり。さて、行こうか」
一度で空気を変えて、ゆったりした裾を捌くように長い足でどんどん廊下を進んでいく。
ここで待つべきかと思っていると、途中で振り返って早くおいでと手招きされた。




