◆第5話 魔法師アリアドネ(後半)
その日は、部屋に戻るまでの廊下が、いつもより長く感じた。
侍女たちの視線が丁寧に避けられているほど、逆に「見られている」気がするし、
騎士たちの足音が遠ざかっていくほど、胸の奥がざわつく。
テオとは、さっき別れたばかりだ。
護衛の交代だか、報告だか、いつもの“職務”の一環だと言って。
一歩離れた途端、何かが抜けて、何かが残った。
(……なんだよこれ。俺、もう子どもじゃないのに。
いや、子どもなのか?でも中身は高校生だし……)
自室の扉を閉めた瞬間――
「ミナトちゃん大丈夫~?魔力がふわ~ってすごいことになってるよ?」
リーンが心配そうに俺の頭を撫でる。
その指先は軽くて、くすぐったいのに、触れられた場所から熱がじわっと広がった。
胸の奥が、じわりと熱かった。
心臓じゃなくて……もっと深いところ。魔力の核――みたいな場所。
「……っ、これ、まただ。」
アリアに魔力鑑定をしてもらった記憶が蘇る。
全身を奔ったあの奇妙な“ざわつき”が再び強まった。
虹色の瞳の奥で、光が揺れる気がする。
髪は微かに光り、体温も上がっていく。
視界の端がきらっと瞬いて、呼吸のたびに胸が熱を含んで膨らむのが分かる。
(やばい……これ、やばい……!)
俺は反射的に鏡の前へ行った。
確認してどうなるって話じゃない。
でも、“今の自分”が怖くて、目で確かめないと落ち着かなかった。
鏡に映る自分。
頬が桜色に染まり、虹の瞳は普段の倍以上に煌めき、長い黒髪は風もないのにゆるく揺れていた。
「ちょ、これ……やばいって……!」
声が裏返った。
自分で言って、自分でさらに恥ずかしくなる。
リーンは、そんな俺を見て目を輝かせる。
「うん!チョーやばい!ミナトちゃん本当に面白いねぇ~!」
「ちょ、面白がってないで助けてリーンちゃん!」
「助けてって言われても、ボク、こういう“わー!”ってなるの好きだし!」
「好きで済ますな!」
リーンは悪びれず、俺の髪を指で持ち上げて、光り方を観察するみたいに眺める。
その仕草が、もう完全に“妖精の好奇心”で、余計に腹が立つ。
「ミナトちゃん……成長してない?」
リーンがさらっと言う。
その「成長」って単語が、やけに刺さった。
成長。
身体のことか。魔力のことか。
それとも……両方か。
「うそだろ…!?今のまま、安定してて欲しいんだけど!?」
俺は肩を抱くように腕を回して、深呼吸を繰り返す。
だが、息を吸うたびに胸の奥が熱を増す。
(こんなの、他の誰かに見せられるかよ……!無理だって……!)
熱が増すたびに、身体が勝手に“反応”しようとする。
(やめろ、俺の身体。勝手に何か起こすな。俺の意思を置いてくな……!)
その時――
コンコン、と控えめなノック音。
「ミナト様、失礼します。お身体の具合は……?」
「……っ!」
テオだ。
どうしてこのタイミングで。
扉に手をかける音だけで、身体の奥まったところが“ひゅっ”と縮む。
「ちょ、待っ……!テオ、今は……!」
俺が止めようとした瞬間、扉の向こうでテオがわずかに黙る。
「……ミナト様?」
その声が、低くて、落ち着いてて。
変な話、安心する声で――だからこそ、余計にまずい。
リーンが扉のほうへ飛んでいき、悪意なく(本当に悪意なく)叫んだ。
「テオ、いらっしゃ〜い!ミナトちゃん、すごいことになってるよー」
「リーンちゃん!!」
もう遅い。
扉が開いて、テオが入ってくる。
視線が俺に向いた瞬間――空気が変わった。
騎士団長としての警戒が、一気に濃くなる。
「……これは……危険ですね」
「ちょ、ちょっと!?いま“危険”とか言った!?俺なに!?どういう意味!?テオ何感じ取った!?」
自分の声が必死すぎて、情けない。
でも必死になる。
だって、俺の身体が俺の言うことを聞いてないから。
テオが一拍おいて、真面目な顔で告げる。
「ご安心ください。理性は保っておりますので」
「理性の話してねぇ!」
「ですが、私が理性を保っていることは重要です」
「……なんでだよ!!」
言い返した瞬間、リーンがにっこにこで羽を揺らす。
「テオ、理性あるのえらいね!」
「あぁ、最初に気づいたのが私でよかった。」
「他の誰かだったらどうなってたの俺!?」
テオは俺へ一歩近づき、距離を測るように目を細めた。
その視線が――触れてもいないのに、肌に触れたみたいに熱い。
「熱が……」
短く言って、テオは手袋を外す動作をした。
その仕草だけで、俺の喉が鳴る。
「……触れても?」
テオの問いは、丁寧だった。
“護衛”だからじゃない。
俺の意思を、ちゃんとそこに置こうとしてくれている。
「だ、大丈夫……だと思う……」
声が小さくなる。
自分で言って、自分で恥ずかしい。
でも――逃げ出したいのに、逃げられない。
このざわつきが続くほうが、もっと怖い。
テオの指が、そっと俺の額に触れた。
触れた瞬間、熱が逃げるようで、逆に“触れた場所”だけが熱くなる。
そっと触れた指先は、武人とは思えないほどあたたかく
そして、ほんの少し、震えていた。
(やば……テオの指……こんなに優しいんだ……)
その距離、息が重なるほど近い。
テオの吐息が、かすかに頬にかかる。
俺は肩がすくむのを必死でこらえた。
「魔力の波が乱れています。
さきほどアリア殿が言っていた“属性二重構造の反応”……おそらく進行中です」
「だ、だからって……テオ、近……!」
「近くでなければ、何が起きているのか正しく判断できません」
正論が、俺の心を追い詰める。
近い。分かってる。必要なのも分かってる。
でも近い。近いってば。
言葉は真面目なのに――
声が低く、落ち着いていて……耳に落ちるたびゾワッとする。
(俺、この声……好きすぎるんだよ……!)
思考が危ない方向へ滑りそうになって、俺は必死に唇を噛んだ。
テオの指が、今度は手首へ移る。
脈を取るみたいに、指先がとまる。
その一瞬、身体の奥が“びくっ”と跳ねた。
「ミナト様、脳が覚醒状態に入っています。痛みは?」
「な、なんか……くすぐったい……あと、変に気持ちよ……いやなんでも!忘れて!」
言った瞬間、死にたくなった。
俺、今、何言った?
テオの目が一瞬だけ見開かれる。
そして、視線がすっと――胸元へ落ちそうになって、ギリギリで戻る。
「……その……胸が、さらに……」
「見ないで!?いまはッ!ほんとに!!」
俺が叫ぶと、テオは顔を背けたまま咳払いした。
「……失礼。これは……大変魅力的な……いえ、いまは魔力反応の問題です」
「いま、“魅力的”って言ったよな???」
「言ってません」
「言ったぞ!?絶対言ったからな!?」
リーンが腹を抱えて笑う。
「テオ、言ってたよー!ボクも聞いたー!」
「リーン、黙れ!」
テオは短く息を吐き、俺の手首をやや強く握り直した。
その圧で、俺の身体が少しだけ落ち着く。
(……これで落ち着くの、最悪じゃない?)
落ち着く。
触れられて落ち着く。
つまり、俺の身体は――テオに触れられている状態を、より“安全”だと判断している?
そんなの、冗談じゃない。
心臓がもたない。
――バンッ!
突如、扉が勢いよく開き、アリアが駆け込んできた。
「ミナトちゃーん!?やっぱり反応きてるじゃないのッ!?」
赤紫のウェーブヘアがふわりと広がり――
いつも通り、胸も揺れた。
視線が釘付けになる俺の動揺もそっちのけで
リーンが両手を広げてアリアを歓迎する。
「アリア、いらっしゃ~い!」
「リーン!アナタ、もう少し早く教えてくれない?!」
「えー?気が付いてすぐに知らせ出したよ~?」
アリアがイライラとリーンに視線を向けるが
全く響いていない声が返ってくる。
…リーンちゃん、一応助けを呼んでくれてたのか。
「ちょっとアタシの目を離したすきに、またこんな色っぽい匂い出して……わぁ、テオの顔すごいわね」
「……アリア殿、扉はノックを」
「してる暇ないでしょ。ミナトちゃん、もう“次の段階”きちゃってるわよコレ」
「次の……段階?」
「あー……その服、すでにサイズあってないわね。ちょっと失礼」
「ちょ、アリア!?やめ――」
アリアは容赦なく俺の服の胸元を軽くつまみ、サイズを測るように形を整える。
「んー……Gから、Gプラスって感じ?成長痛とか出てない?」
「で、出てる!!恥ずかしいからやめてっ!!」
「やっぱり。魔力の“光属性”と“闇属性”が混ざりはじめてるのよ。身体的な変化は自然な反応」
手首を掴んだままだったテオが低く咳払いした。
「アリア殿、ミナト様にむやみに触れるなと……」
「なに?嫉妬?かわいいじゃない」
「嫉妬ではありません。護衛としての当然の――」
「テオ、自分もミナトちゃんの手首掴んだままなの気づいてる?」
テオの動きが止まる。
そして何事もなかったかのようにスッと手を放した。
本当に気づいてなかったのか……
「アリア殿、お願いですから……」
「はいはい、じゃあ魔力検査の続き行くわよ。
これ以上はアタシの部屋の専用魔法陣が必要なんだけど、ミナトちゃん、歩ける?」
「……わかった」
制御の利かない身体とめちゃくちゃに揺れる思考で
自然と目の奥が熱くなる。
俺はとにかく、どうにかしてもらいたい一心で頷くと部屋を出た。
◇◇◇
人目を避けて何とかアリアの研究室に移動すると、魔法陣が青白く輝いていた。
「ミナトちゃん、ここに立って。下着はそのままでいいわ。痛くしないから」
「い、痛くしないって……逆に怖いんだけど!」
テオは壁際で腕を組み、監視するように見守る。
リーンはテオの肩に乗ったまま、興味津々でこちらを見ていた。
アリアの指先が俺の肩に触れ――
柔らかい魔力が流れ込む。
「っ……!」
「どう?ちょっとゾクゾクするでしょ?これは鑑定魔法だから」
「する!!すごい!やめっ……いや、続けていい……!」
(なに言ってんだ俺!?)
背後でテオが息を飲む音がした。
「……アリア殿、やり方を変えられませんか」
「なんで?これが一番精度高いのよ」
「……ミナト様が、非常に……乱れています」
「乱れてない!!」
「乱れてます」
譲らないテオの肩の上でリーンも元気に挙手をする。
「うん、ボクも乱れてると思う!」
「リーンちゃんまで!!」
アリアは楽しそうに笑いながら、魔力の流れを読み取る。
「……出てるわね、“覚醒期の前兆”」
「覚醒期……?」
「魔王陛下の元に来たってことは、ミナトちゃんは“本来の姿”に向けて進化が始まってるの。魔力核が拡張すると、身体がそれに合わせて変わっていくのよ」
「それで……胸が!?」
「胸だけじゃないわよ。肌、髪、瞳……全部が“最適化”されるはずよ」
(最適、化…?)
「簡単にいうと、ミナトちゃんが益々きれいになっちゃうってことだね~」
リーンがテオの肩の上から乗り出して楽しそうに口を挟む。
それをテオは黙って片手で押し戻した。
リーンがテオの手の中で「モゴモゴ」とまだ何かを話している。
(ちょっと待って、それって……完全な”女の子”になっていくってこと?)
アリアが話を続ける。
「それに……“男だった頃の感覚”と“今の身体の反応”が混ざってるでしょ?」
「い、今すごい混ざってる……」
「だからね、強い刺激は避けたほうがいいわよ。たとえばー」
ちら、とアリアがテオを見る。
「?」
頭にはてなが浮かんだ俺の頭の上に
テオの手から逃げ出したリーンが今度はアリアの肩に乗り、言葉を引き継ぐ。
「テオみたいなイケメン騎士が近くにいると、女の子としての反応が加速しちゃうってことだよ!」
「なっ……!?」
テオの顔が固まる。
「アリア殿、根拠は?」
「匂いよ。ミナトちゃんの魔力が、一番乱れる相手があなたってだけ」
「……っ……」
テオの喉が微かに震えた。
俺は耳まで真っ赤になる。
「ちょっと!!俺の体、テオに反応してるってこと!?そんなのおかしいだろ!!」
「おかしくないわよ。元男でも、どこか惹かれているなら、必然。ね?」
「ね?じゃない!!」
「でもミナトちゃん、まだ出会ってそんなに経ってないのに、
テオのことばっかり気にしてるじゃん!
ボクがミナトちゃんの親友ポジなのに!
ヤキモチ妬いちゃうよ~」
「~~~~っ!!!」
リーンが俺の頭に頬ずりしながら芝居がかった口調で訴える。
俺は言い返せなくて真っ赤になったままぶるぶる震えるしかない。
テオは深く息を吸い、低い声で言った。
「……ミナト様、申し訳ありません。私の側にいると……その、身体に負担がかかるなら」
「やだ!」
自分でも驚くほど速く言葉が出た。
テオがぐっと目を見開く。
「……ミナト様?」
「いや……嫌とか……その……テオが離れたら、急に不安になるっていうか……」
言ってから気づく。
(やば……めっちゃ“好き”みたいじゃん俺!!)
アリアがニヤァ……と笑った。
「はいはい、恋の病ね」
「違う!!」
「違うのですか?」
「違うって言ってんだろテオ!!」
顔から火が出そうだ…!!
その時、胸の奥の熱がふっと強くなり、足元が揺れた。
「っ…あ…!」
膝が抜けかける。
落ちる――と思った瞬間、テオの腕が俺の背と腰を支えた。
「失礼。少しだけ支えてさせていただきます」
“少しだけ”という言葉に反して、支え方は確実で、逃げ道がない。
体温が近い。
制服越しでも分かる硬さ。
そして、俺を落とさないという意志の強さ。
「ミナト様……」
テオの声が落ちる。
柔らかく、抑えきれないなにかを含んで。
「あなたを不安にさせるのは……望むところではありません」
「テオ……」
「なので……あなたの身体が私に強く反応するのなら……その……」
テオは言葉を探すみたいに、少しだけ間を空けた。
その間が、やけに長い。
「……距離の取り方を、考えねばなりませんね」
「いやだって言ってんだろ!!」
反射で言い返した。
違う。いやだって、そういう意味じゃ――
でも、うまく言えない。
目を瞬かせているテオの隣で、
アリアは爆笑している。
「ふふ……ほんと面白いわねミナトちゃん達」
「ずっと見てて飽きないくらいには面白い~!」
リーンがますます楽しそうにくるくる飛ぶ。
アリアは肩をすくめ、俺の髪の光り方を観察する。
「これからもっと変化は強くなるわよ。寝てる間とか、気を抜いた瞬間とかね」
「うそぉ……」
自分の声が心底嫌そうで笑えない。
寝てる間って何だ。気を抜いた瞬間って何だ。
俺はこれから、いつ息を抜けばいい?
でもアリアは、珍しく少しだけ優しい顔で言った。
「でも大丈夫。テオもアタシもいるから」
「ボクもいるよ!」
リーンが元気よく胸を張る。
その直後、テオが即座に続けた。
「ミナト様、必ず私が護ります」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
熱が、少しだけ“怖さ”から“安心”に形を変える。
――が。
「んっ……!」
瞬間、魔力がバチッと弾けた。
呼吸が乱れて、指先が熱くなる。
「ミナトちゃん!?まだ反応残ってるわね」
アリアが言うより先に、テオが俺の手を取った。
「座ってください。手を」
テオの手が、俺の手を包む。
その瞬間、胸の奥の熱がすっと静まる。
まるで、嵐が壁の向こうへ押し戻されたみたいに。
「あれ……?」
俺は呆然と自分の手を見た。
テオに触れられてるだけで、落ち着く。
あり得ない。都合が良すぎる。俺の心臓に悪すぎる。
テオも驚いたように目を瞬かせて、低く呟く。
「……どうやら、私に触れられているほうが安定するようです」
「なんでだよ!!」
「知りません。私も困っているのです」
困ってるのはこっちだよ!!
って言いかけて、言葉が喉で止まった。
テオの手が、ほんの少しだけ震えている。
――困っているのは本当なんだ、と分かってしまう。
リーンがぱっと顔を上げた。
「ボク、わかるよ!」
「リーンちゃんは、ちょっと黙って!」
即座に封じると、リーンは「えー」と頬を膨らませた。
アリアが、悪魔みたいににっこり笑う。
「アタシも知ってるわよ」
「アリア!言わないで!!」
言うなと言ったのに、アリアは言う。
絶対言う。
「相性よ♡」
「言った――!!」
天を仰ぐ俺の傍で
テオの額に、わずかに青筋が浮かぶ気がした。
「アリア殿……言葉を選んでください……」
「だって事実だもの。魔力って、そういうところ、正直なのよ」
アリアは楽しそうに、でもどこか真剣に、
俺の手首のあたり――
さっきまで熱の中心みたいだった場所を見た。
「ねぇミナト。今はまだ“芽”の段階。
でも芽って、放っておくと勝手に伸びる。
だから――恥ずかしがるのはいいけど、隠しすぎて怖がりすぎないこと」
恥ずかしがるのはいいけど。
怖がりすぎないこと。
言われて、胸の奥が少しだけ軽くなる。
俺はテオの手を見た。
大きい手。硬いのに、今はすごく温かい。
(……離したら、またあの熱が暴れるのかな)
テオは目を逸らしたまま、声を落として言った。
「ミナト様……今夜は、無理に動かないでください。
呼吸を整え、落ち着くまで……このまま」
「……うん」
返事は、小さくしか出なかった。
それでもテオは、それで十分だというように、手の力を少しだけ緩めた。
握りつぶさない。離さない。
その絶妙な加減が、余計にずるい。
リーンがまだ不服そうにぶつぶつ言う。
「ボク、いいこと言えるのに……」
「あとで聞く。あとで」
「ほんと?」
「ほんと」
リーンがようやく機嫌を戻し、アリアは「じゃ、今日はここまで」と満足そうに伸びをした。
部屋の空気が、ゆっくり平常に戻っていく。
虹色の視界のきらめきが、少しずつ落ち着き、髪の微かな光も薄れていく。
俺の胸の奥で、また熱が灯る。
これが進化の熱なのか
恋の熱かも
まだわからない。
だが――
今はテオの手の温度を、離したくなかった。




