◆第40話 街道沿いの影①
昼の街道は平和だった。
俺たちは交易都市ヴァルモントへ向けて街道を進んでいる。
三日目ともなると隊列も慣れたもので、もう落ち着いた雰囲気だ。
前方ではテオとホークが何か話していて、
後方を振り返ればアッシュとオークが軽く手を振ってくれた。
トニーとファビオは安定の空気…じゃない、俺たちが乗る馬車の馬を引いてくれている。
……ちゃんと調査隊っぽい。
馬車の中は女子会の雰囲気で、うっかり旅行気分になってしまいがちだけど。
(リムネ村に近づけば近づくほど、昨日みたいなことも起きるんだよな……)
ガタッ
俺の考え事は、突如として揺れに阻まれた。
車輪が小石を踏むたび、馬車が小さく跳ねる。
その振動が、いちいち身体の余計なところまで揺らしてくるのが厄介だ。
(……俺の胸、揺れる必要なくない?)
俺は胸元の布を、誰にも気づかれない程度にそっと押さえた。
隣のセシルも同じ動きをして、ぴたりと固まった。
「……わかる。気になるよな」
俺が“うんうん”と頷くと、セシルが慌てて両手をあげる。
「えっ、あっ、これは、その……」
セシルの耳が赤い。
俺はセシルの視線がアリアの胸元にあることに気づく。
あー、それもわかる。
アリアの豊満な胸は馬車の揺れで、もはや暴れていた。
当のアリアは頬杖のまま、何でもない顔だ。
「揺れの問題なら、原因は三つね。馬車の轍、体幹、あと……質量」
「し、質量!」
セシルが裏返った声を出す。
アリアはさらっと自分の胸元を指で軽く示した。
旅の服装とは思えないくらい露わになった谷間に
思わず視線が吸い寄せられてしまう。
迫力が、すごい。揺れが、すごい。
「……アリア、なに食ったらそんな育つの」
「ふふ、知りたい?」
「………」
俺とセシルは揃って黙り込む。二人してさらに赤くなる。
リーンは窓枠に腰掛け、足をぶらぶらさせながら首を傾げる。
「ミナトちゃんも大っきくない? それ以上まだ大きくしたいなら魔力をわざと……っむぐ」
言いかけたところで俺は慌ててリーンの口を両手で塞ぐ。
セシルの前で、センシティブな話題は禁止だ!
半目でリーンを睨み、それ以上話題を膨らませないように圧をかける。
セシルの目が、そんな俺とアリアを行き来した。
「確かに……ミナトさんも大きいです、ね」
「セシル……!?」
セシルは遠慮がちに、だがしっかりと自分の胸と俺の胸を見比べている。
アリアが目を細めて楽しそうに腕を組む。
「そうよねぇ。 ミナトちゃんのおっぱい、もう十分あるのに。 欲張りよねぇ?」
「うるさい! 俺は現状把握してるだけだ!」
セシルが小さく頷く。
「わ、わたしも、もう少し……」
「アタシは、セシルちゃんのサイズもかわいい♡と思うけど」
「アリアさんっ……!」
きゃいきゃいが加速した、そのタイミングで。
外から、テオの声がした。
「……ミナト様。小休止にします」
その言い方が、困ってる。
すごく、困ってるのが分かる声色だった。
俺は思わず、外に向かって叫んだ。
「い、今出る! ちょっと待って!」
両頬を押さえて赤くなるセシルと何でもない顔をして降りる準備をするアリア。
窓枠から飛び降りたリーンがにや〜と意地の悪い顔で俺の耳元で囁く。
「ねえミナトちゃん。テオ、どこからお話聞いてたんだろうね〜?! 人狼族の血って……」
「それ以上言うな! 俺が死ぬ!!」
俺はリーンの言葉を遮るように、馬車のドアをバンッと乱暴に開けた。
扉のすぐ傍には、テオが微妙な顔で立っていた。
その後ろを大爆笑しているホークが通り過ぎる。
「ミナト様。 揺れましたが、お怪我はありませんか」
声はいつもどおり落ち着いてる。
落ち着いてる分、俺の心臓だけが勝手に走り出す。
「へ、平気! みんな怪我もないよ」
「承知しました。では、足元が悪いので……降りる際はお手を」
そう言ってテオが差し出した手は、手袋越しでも指が長いのがわかる。
差し出された手に、俺が昨日の“あれ”を思い出さないわけがない。
(職務! 護衛! 俺は平常心!)
「平気だって!
これくらいの高さなら一人で降りれる!」
俺は記憶を押し除けるように、テオの手を押し返す。
馬車から飛び降りようと床を蹴った瞬間――
馬が一歩だけ動いたのか、馬車の床がごくわずかに傾いた。
蹴ったタイミングがズレて、俺の足元が滑る。
「うわっ」
体がバランスを崩したまま前に投げ出される。
同時に、横からぐんっと引き寄せられる感覚。
テオの腕だ。
背中から腰に回された片手が、俺をがっちり引き寄せる。
そしてもう片方の手は、反射で俺の上体を支えようと脇下に回され――
思いきり俺の胸が、むにゅっと潰れた。
(……っ!?)
世界が止まる。
俺の頭は真っ白になった。
「……っ、失礼しました」
テオは即座に手を離した。
離したのに、そこに残像だけが残って、俺の身体が勝手に熱くなる。
「だ、大丈夫! 今のは俺が勝手に……!」
手を振りながら、咄嗟に“ごめん”と言いかけて口を噤む。
いや、勝手に降りようとしたのは俺だけど!
事故でも、得したのは向こうだよな?!
……得したって何をだ、俺!!
頭を抱える俺の後ろで、セシルがぽかんとして、アリアが口元を手で隠して震えている。
「……ミナト様、足元」
テオの声は真面目だ。
真面目すぎて、逆に逃げ場がない。
「わ、わかってる……!」
まだ焦っていた俺は目を泳がせたまま、どうにか地面に足をつけた。
その瞬間、足裏が石に引っかかりかけて、また転びそうになる。
「っ……!!」
「……気をつけてください」
今度は腰だけ、最低限。
テオが“護衛の距離”で支え直してくれる。
さっきよりずっと健全なのに、俺の方が勝手に“さっき”を引きずって、余計に動揺する。
(やめろ! 俺の脳! 記録するな! リピートするな!)
「ミナトさん……いまのは、だいじょうぶでしたか?」
セシルの問いが純粋すぎて、死ぬ。
耳まで顔が熱くなっていくのが分かる。
「だいじょうぶ! だいじょうぶだから!」
「顔が全く“だいじょうぶ”じゃないわよ?」
アリアの追撃が刺さる。リーンは羽を震わせて、声が出ないくらい腹を抱えて笑っていた。
「ミナトちゃん、“転びの女神”に愛され過ぎだよぉ〜!!!」
「そんな物騒な女神いてたまるか!」
テオは咳払いひとつして、表情を微動だにさせない。
……いや、ほんの少しだけ。
視線が、俺の首元の銀鎖に落ちた気がした。
(あ……)
俺は無意識に、ネックレスの鎖を指で押さえていたことに気づく。
急に恥ずかしくなって鎖からパッと手を離した。
「――では、ミナト様。周囲を確認してきます」
テオはいつも通りの距離だ。
それでも、乱れた俺の黒髪をそっと整える手は優しい気がする。
「ありがと……」
俺がチラっと見上げると、テオの茶色の瞳が少しだけ細くなった。
そのまま小さく頷くと、一礼して離れる。
その背中が、やけに頼もしくて。
(……俺、何やってんだ)
勝手に照れて、勝手に赤くなって。
昨日からずっと、俺の情緒が忙しい。
「じゃ、じゃあ……俺、水でも貰ってこようかな」
気を取り直すようにセシルとアリアを振り返る。
しかし次の瞬間。
アリアの視線が、さっきまでのからかいじゃなくなった。
探るように街道脇の草むらを見ている。
リーンがシュッと俺の肩に飛び乗るとアリアの視線と同じ方向を指差す。
「ミナトちゃん! 大変! たくさん来る……!」
その言い方で、俺の背中がじわっと冷える。
空気が、さっきまでの“休憩”の匂いじゃない。
「ミナト様、馬車へ戻っていただいた方がいいかもしれません。 匂いが……」
辺りを見渡しながら足早にテオが戻ってくる。
いつもどおりの低く落ち着いた声なのに、音の芯だけが固い。
俺も気づいてしまった。
風に混じって、甘ったるい腐臭みたいなものが、断続的に流れてくる。
街道脇。
木立の陰。
視界の端で、何かが“ぬめっ”と光った気がする。
「あれは……スライムでしょうか?」
「違う。あれは“ただのスライム”じゃないわ」
セシルが呟くより先に、アリアが吐き捨てる。
その瞬間、少し離れたところで「おっ」と間の抜けた声がした。
「ん? 何だこれ、泥か?」
アッシュだ。
腕をぶんぶん振り回してるのが見える。
太い前腕に、透明がかった粘液が糸みたいに絡みついていた。
(……気づいてない……!?)
次の瞬間、粘液が“じゅっ”と小さく音を立てた。
アッシュの外套の裾が、熱した刃物で切られたみたいに溶け落ちる。
「うおっ」
ようやくアッシュが足元を見て、首を傾げた。
「……俺のマント、短くなってね?」
短くなってね?じゃない。
溶けてる。現実に。容赦なく。
「アッシュ、離れろ!」
テオの声が、団長のそれに切り替わった。
アッシュが「は、はい!」と一歩退いた、その足が滑る。
ブーツの踵のあたり、革が薄く溶けて、地面を掴めていない。
「っ……!」
アッシュが転びかけたところを、オークが肩を掴んで支えた。
その動きに合わせて草むらの影が“増える”。
ぬるり。
ぬるり。
泥の塊みたいなものが、形を真似るように盛り上がり、次々とこちらへ寄ってくる。
(異形なるモノ……!)
俺の胸が、嫌な方向に冷える。
さっきの熱とは真逆の、臓器の奥が固まる感覚。
そして俺は、さらに別の“気配”を拾ってしまった。
バッと顔を上げる。
(……核。あの感覚だ)
右前方に一つ。もう一つは……正面、少し奥。
「ミナト様」
テオの声が、すぐ近い。
馬車の脇に立ち、俺の視界を半分塞ぐ位置。護衛の距離だ。
「離れないでください。可能なら馬車へ」
「……分かってる」
俺は頷いて、息を整えようとした。
なのに、粘液の匂いが濃くなる。甘い腐臭に金属の刺激が混ざる。
ファビオの声が飛ぶ。
「隊長! 右から、来ます!」
草むらから何体ものスライム型の異形達が地面を舐めるように滑ってくる。
テオが一歩前に出た。
剣の柄に手を置き、低く声が響く。
「陣形、崩すな」
声が落ちた瞬間、周囲の動きが整う。
さっきまで休憩で伸びていた背筋が、戦場のそれになる。
リーンが静かに、俺の肩に触れた。視線は核持ちを見つめたままだ。
「ミナトちゃん、だいじょぶ? 大きいやつ、いるよね」
「……ああ、俺も感じた」
俺が頷いた、その瞬間。
形を成していないスライムのような異形の一体が、馬車の車輪へ狙いを変えた。
粘液が車輪の木材に絡み、ぎゅ、と沈み込む。
「まずい!」
緊迫したオークの声。
次の瞬間、テオの声が重なる。
「馬車を守れ!」
隊列が一斉に動く。余計な言葉はない。
「全員、馬車を中心に! 足元を取られるな!」
剣を抜いたホークの号令が飛ぶ。
トニーとファビオが即座に下がり、馬の手綱を守る位置へ移った。
(判断が早い! ……でも!)
スライムみたいな見た目のくせに異形も動きが早い。
粘液が車輪からさらに這い、馬車の側面へ回り込もうとする。
「……こいつら性格悪ぃ!」
俺が吐き捨てた瞬間、俺の近くで羽ばたいたリーンが両手をパンッと弾いて光の粒を降らす。
光の粒に触れた異形が動きを止め、その隙をアリアが拾う。
「アタシ、乗馬好きじゃないの。 だから馬車、壊されたら困るのよ」
赤紫の髪が魔力の共鳴でふわりと浮かび、指先がしなる。
空気がひやりと締まり、パキパキッと音を立てながら車輪に絡んだ粘液が薄い氷膜で縫い止められていく。
「セシルちゃん、足元。お願いできる?」
「はい!」
アリアが言い終えるより先に、セシルが一歩踏み出した。
胸元の聖印が淡く輝き、地面に柔らかな光の輪が広がる。
粘液が、その輪を嫌うみたいに避けていく。
「馬車は任せてください!」
セシルの声は高いのに、芯がある。
その一言で、人が迷わず動いた。
次の瞬間、右前方の草むらが盛り上がった。
スライム型の一体が、明らかに“密度”の違う形で現れる。
ぬめる光が内側から脈打っている。
(……あいつだ! さっきの核の気配!)
ホークも気づいたのか、すぐに押し返すように刃を振る。
でも粘液が裂けるだけで戻る。切れない。
ホークが即座に判断を変える。
「押し潰して、距離を作る!」
剣の腹で叩き落とし、馬車から引き剥がす。
そのまま指示を仰ぐようにホークがテオを振り返った。
テオは剣を構え直した。
狙いは一つ。右前方の“濃い気配”。
「――私が止めます」
核持ちの異形を見据えていたテオの視線が一瞬、俺と噛み合う。
“だから、ミナト様は技を使わないでください”と釘を刺す視線だ。
俺はぐっと歯を食いしばる。
初めて異形と戦った後のことを思うと、下手に動いて皆に迷惑をかけるわけにはいかないのは確かだ。
頷く代わりに、テオに小さく囁く。
「……あのでっかいの、中心が強く脈打ってる。
あの目みたいなとこの下辺り。前に見た奴と同じ、核の気配だと思う」
視線だけで位置を追う。テオは頷いて、核持ちに向き直った。
剣を振りかぶらない。
構えは低く、呼吸は静か。
「ホーク、左を頼みます」
短い指示。
ホークが剣に着いた粘液を振りかぶって落とすと位置を変える。
「了解」
一言だけ。
そこから先は、互いに邪魔をしない距離で動く。
テオは、俺を振り返らない。
振り返らないまま、言う。
「ミナト様。動かないでください」
「……分かった」
悔しいくらい、安心する声だ。
俺は足を止めたまま、銀鎖を握り締める。
核持ちは、馬車へ向かって伸びた。
粘液が槍みたいに尖り、車輪へ突き刺さろうとする。
その刹那。
テオの足が地面を蹴った。
重い鎧のはずなのに、音がしない。
視界から消えるような踏み込み。
剣が、斜めに走る。
斬ったのは、粘液そのものじゃない。
粘液の“流れ”だ。
筋のように伸びた部分が断たれ、
核持ちの身体が、一瞬、形を保てなくなった。
ぐにゃ、と潰れて、次の瞬間に戻ろうとする。
戻る前。
テオの刃先が、正確に止まった。
ぬめる身体の中心。
光が脈打つ場所。
(そこだ……!)
俺の喉が勝手に鳴る。
言葉になりそうなのを噛み殺す。
テオは迷わない。
ため息ひとつ分の間もない。
魔力が共鳴する音と共に刃の周囲に薄い霜が走ると、
核持ちの脈が、かくん、と鈍った。
テオが、その一拍を逃さず、刃を押し込む。
ずぷり、と鈍い感触。
光が一瞬だけ強く跳ね、次の瞬間、しゅわ、と霧のように散った。
核が砕けた。
核持ちの身体は、支えを失ったみたいに崩れる。
粘液がだらりと落ちて、地面に染みる前に、霜が走って固まり、動きを止めた。
核の気配が、俺の感覚からひとつ消えた。
「……っ」
俺は息を吐いて、ようやく自分が息を止めていたことに気づく。
テオは、剣を払って霜を落とす。
そしてようやく、ほんの少しだけ顔を上げた。
俺を見る……わけじゃない。
俺の前、俺の周囲、危険が残っていないかを確認する視線。
護衛の視線だ。
「ミナト様」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなる。
もっと腹の底に落ちる熱さ。
「お怪我は」
「……ない。テオ、今の……すごいな」
俺がそう言うと、テオの目が一瞬だけ柔らかくなった。
「ありがとうございます」
当然のように答える。
それが一番ずるい。
「……でも、まだよ」
アリアが低く呟いた。
視線は冷静で、でも興味の色が隠れていない。
(そうだ……まだ、もう一つある)
胸の奥の冷えは、消えていない。
正面の奥。沈黙しているが、確かにいる。
「――警戒を」
テオは剣先を下げないまま、周囲を一瞥した。
「アリア、車輪は」
「伸びは止めたわ。けど……」
アリアが言いかけて、眉をひそめる。
視線は異形の残骸じゃなく、草むらの“奥”。まるで、そこに答えがあるみたいに。
セシルが小さく息を呑んだ。
「……皆さん、静かに。音が……」
意識を周囲へ向けると聞こえてくる。
ぬめぬめした蠢きじゃない。もっと、乾いた音。
“ぱきっ”と何かが割れるような。
地面の下で、硬い殻が割れて開くような。
リーンが俺の袖を掴んで、ぴょんと覗き込んだ。
「ミナトちゃん! アイツ、他の異形を食べながらこっち来てる……!」
「……吸収、してるのか」
俺は頷きながら、視線だけを前へ滑らせる。
草むらの奥。
影が濃い場所。
そこだけ空気が重いことを、全員が感じていた。




