◆第39話 熱の正体と騎士の作法
二日目の朝は、空気が少しだけ変だった。
宿場町を出て街道に戻った瞬間、
風が冷たいのに、肌の内側だけがやけにじんわりと温かい。
風邪とは明らかに違う熱。
昨日は「旅の熱」ってやつで済ませられたけど、今日は違う。
……そう、違うのは分かってる。
分かってるけど、言いたくない。
俺の首元の銀鎖が、普段よりほんの少しだけ重い。
ネックレスはちゃんと働いてる。抑えてくれてる。だから大丈夫。大丈夫なはず。
なのに、ふっとした拍子に世界が“きらん”って光る。
空は青い。草は緑。ただ色の境目だけがやけに鮮やかで、目の奥が熱くなる。
虹色の視界が、勝手に輪郭を強調するみたいだ。
「ミナト様、速度を落としますか?」
並走するノクスの背から、テオがこちらを見た。
いつもの落ち着いた声。丁寧な距離感。でも、その茶色い瞳が、俺の異変を見逃してない気がする。
「ん、大丈夫。まだ行ける」
俺が平気そうに言うと、テオは頷いた。
「承知しました。では、無理はなさらないでください」
……それが「無理してる顔です」って言外に刺さるから、やめてほしい。
馬車の中では、リーンが元気に俺の膝の上で揺れている。
「ミナトちゃん、今日も旅だね!」
「調査だって言ってんだろ」
「調査の旅だよ!」
それを聞いてアリアが肩を揺らす。
「いいじゃない。浮かれてるほうが危険察知が鈍るから、逆にね」
「それ、褒めてないよな?」
アリアは笑っただけで答えない。
その代わり俺の耳元に近づいて、悪魔みたいに囁く。
「抑えが利かなくなる前に言いなさい。ほら、首元の鎖、いつもより…」
「言うな! 旅の初日に人前で言うな!」
俺が小声で抗議すると、セシルが怪訝そうな顔になる。
リーンが膝の上に座ったまま俺を見上げる。
「ねえねえ、ミナトちゃん。でも、さっきから匂いが揺れてるよね?」
俺は言葉に詰まった後、笑ってごまかした。
アリアとリーンの視線が一瞬だけ交差する。
「大丈夫。俺、強いし」
「一番使用できないやつ!」
リーンはぷっと吹いて、すぐに俺の額に手を当てた。
「うわ、熱い。ミナトちゃん、熱いよ。はい、アウト」
「アウトって何だよ」
「アウトはアウト。ミナトちゃん、顔がね、ふわふわしてる」
俺は自分の頬を触った。
熱い。確かに熱い。
その時、馬車の外からオークの低い声が飛んできた。
「団長。姫君の様子が変だ」
続けてアッシュが、明るい声で言う。
「姫、笑ってるけど、目が“ふわっ”てしてますよ!」
やめろ、そんな報告の仕方。
テオはすぐに判断した。迷いがない。
「隊列、停止。小休止を前倒す。野営の準備だ」
「え、まだ昼過ぎだぞ?」
俺が言うと、テオは言い切った。
「予定はあくまでも予定です。ミナト様の体調が優先です」
……こういうところで急に護衛の顔するのは反則だろ。
反論ができない。
馬車が止まり、騎士たちが動き始める。
手際が良い。さすが少数精鋭の調査隊だ。
オークが真面目にテキパキ指示を飛ばし、アッシュが笑いながら杭を運ぶ。
トニーとファビオはそんな二人に引っ張られながらテント設営をしていた。
ホークは少し離れたところで周囲を確認し、セシルは心配そうにこちらを見ている。
「ミナトさん、大丈夫ですか……?」
その声が優しすぎて、俺は余計に「大丈夫」を言いたくなった。
「うん。ちょっと熱いだけ」
言い終えた瞬間、視界が一瞬だけ白く滲む。
魔力の“風”が、首元から背中に抜けた。
ネックレスが抑えてるのに、その上を別の線が走って、混線している感覚。
「……あー」
俺は思わず息を吐いた。
それを、テオは見逃さない。
「ミナト様。立てますか」
「立てる、けど……」
テオの手が、俺の背中に触れかけて、そこで止まった。
急な衝動に駆られて俺の頭がグラつく。
触れていい。触れてほしい。でも触れたら、自分の熱がバレる。いや、もうバレてるけど。
アリアが、楽しそうに宣告した。
「はい。診る。今すぐ。ここで。逃げるな」
「……医者の言い方じゃない」
「医者じゃないもの。魔法師よ」
長い髪を手で後ろに払ったアリアがテントを指差す。
野営用のテントが、既に一つ立っていた。早すぎる。
「ミナトちゃん、運ばれよっか」
リーンが“うんうん”と頷いて、俺の肩をポンと叩く。
俺が「運ばれない!」と言おうとした瞬間、アリアが声を張った。
「男性陣は全員、距離を取って!」
ホークが一瞬だけ固まった。
「……え?」
セシルも固まった。
「え?」
オークは真顔で頷き、アッシュは「は?」と言いながら間抜けな顔になる。
テオだけが、淡々と確認した。
「……私もですか」
「もちろんよ。……と言いたいところだけど」
アリアは、テオを指でちょいちょいと呼ぶ。
「あなたは“あとで”必要。ミナトちゃんのネックレスに魔力を通して、締め直すのよ。だから声が届く範囲にいて」
「承知しました」
承知しましたじゃない。
“地獄です”って顔が一瞬だけ出てたぞ。
俺はテントへ押し込まれながら思った。
……ただの知恵熱だったらどんなに良かったことか。
でも、ここまで来たらもう、笑うしかない。
◇◇◇
(セシル視点)
アリアさんとミナトさんがテントに入った後。
私、セシリア・フォルティスは、
遠慮なく言えば、かなり混乱していた。
私自身、野営は初めてではない。
どんなに頼りなくても、聖光国の第二王女として帝王学を受けてきた身だ。
戦時の宿営の基本は学んでいる。
けれど今、目の前で起きているのは、そういう“基本”の話ではない。
テントの前で、アリアさんがにこやかに告げた。
「いい? これはメンテナンス。安全確認。医療行為だから安心して?」
医療。
それなら、なぜ男性陣に距離を取らせるのだろう。
ホークが、いつもの余裕を被り直すみたいに咳払いをしてから、周囲を見回した。
「……アッシュ、オーク。トニー達にテントに近づかないよう伝えてくれるかな」
「了解っす!」
アッシュは明るく返事をして、しかし目だけは妙に光っている。
オークは真面目に頷き、必要以上に離れていく。あれは規律だ。規律の顔だ。
残ったのは、私とリーンちゃんと、ホークと、テオバルトさん。
……そして、テントの中から聞こえる、声。
「ミナトちゃん、力抜きなさい。魔力の通り道を開くから」
「ま、待って、アリア……そこ、なんか……!」
「大丈夫。ほら、息。吸って、吐いて」
「それ、それやだぁ……っ」
私は思わずホークを見る。
ホークも、私を見る。
二人とも同じ顔をしていたと思う。
“何が起きているのか分からない。でも、かなり大変なことが起きている気がする”
リーンちゃんは、目を輝かせていた。
「ねえねえ、セシルちゃん。聞こえる? ミナトちゃん、すっごい頑張ってるね!」
「が、頑張っている……?」
「うん。えらい。かわいい」
かわいい、で片付けていいのだろうか。
その時、テオバルトさんが静かに言った。
「リーン。……実況は禁止です」
「えー」
「禁止です」
「えー……」
リーンちゃんが粘ると、テオバルトさんは一歩だけ近づいて、すっと手を伸ばした。
次の瞬間、リーンちゃんの口が、やんわりと塞がれた。
「むぐっ!?」
私は目を見開いた。
ホークも一瞬、息を止めた。
テオバルトさんの指先があまりに自然で、余裕がありすぎて、心臓が変な跳ね方をした。
ホークが、苦笑いで言う。
「……団長殿。落ち着いてますね」
テオバルトさんは、目だけで答えた。
落ち着いていない、と。
「……落ち着いているように見えるだけです」
「でしょうね」
ホークがしれっと頷く。
けれど、その余裕の下で、耳がほんのり赤い。
テントの中から、また声が聞こえた。
「ミナトちゃんのここ、頑張りすぎ。ほら、いったん緩める」
「や、やめ……っ」
「緩めるの。ほら、動かない」
「動かないって言われると余計……っ」
私はもう、何を聞いているのか分からなくなった。
リーンちゃんが、塞がれた口のまま、目だけで訴える。
(今の、すごいよ)
私に訴えないでほしい。
ホークが、小さく息を吐く。
「……医療行為、ですよね?」
「ええ。……医療行為です」
テオバルトさんが真顔で返す。
真顔すぎて、逆に信じたくなる。
けれど、テントの中の声は続く。
「……ほら。混線してる。自然魔力に反応したのね、こんなところまで」
「ん、ぅう……言うなってば……っあ……!」
「いい子。ちゃんと反応が戻ってきた。もう少しで終わりよ」
私は、助けを求めるようにホークを見た。
ホークは私の視線を受け止めて、肩をすくめた。
「……セシル様。こういう時は」
「こういう時は?」
「考えないのが、勝ちです」
そんな勝負があるのだろうか。
ほどなくして、テントの布が揺れた。
アリアさんが出てきた。
何事もなかったかのように、髪を整えながら、にこやかに言う。
「はい。安全。熱も落ちる。心配しないで」
その後ろから、ミナトさんがふらふらと出てくる。
顔が赤い。でも、目はちゃんと笑っている。大丈夫そうだ。
……大丈夫そう、なのに。
ミナトさんは、テオバルトさんを見つけた時に心底ホッとしたような顔になった。
それを見たテオバルトさんの目が、少しだけ柔らかくなる。
「失礼します、ミナト様」
テオバルトさんはそう言って、ミナトさんを抱き上げた。
抱き上げ方が、あまりにも自然で、あまりにも丁寧で。
ミナトさんが「うわ、ちょ、歩ける!」と抗議する前に、テオバルトさんが静かに言った。
「歩けるかもしれませんが……今は私が運びます」
反論の隙がない。
ホークが、咳払いをひとつしてから言う。
「……護衛配置を見直します。少し、離れます」
「ホーク?」
私が呼び止めると、ホークはにっこり笑った。
「大丈夫です、セシル様。ええ、俺も……ちょっと、風に当たりたいだけです」
風、という言い方が妙に切実で、私は何も言えなかった。
残されたのは、私とリーンちゃんとアリアさん。
アリアさんが向き直ると私の手を取った。そのままいたずらっぽく笑う。
「さて。ご飯作りましょうか!」
リーンちゃんが元気に手を挙げる。
「賛成!人間も魔族もグルメ優先が正義!」
私は思わず頷いてしまった。
ええ。ミナトさんに元気をつけてもらうためにも、今はご飯が必要です。
◇◇◇
(ミナト視点)
テオのテントは、外より少しだけ暗かった。
布越しの光がぼんやり滲んで、揺れる影が静かに呼吸している。
風の音が、遠い。
テオは俺をすぐに下ろさず、膝の上でもなく、寝具の上にそっと座らせた。
扱いが丁寧すぎて、逆に恥ずかしい。
「ミナト様。体調はいかがですか」
「……大丈夫。アリアに変なことされただけ」
「医療行為です」
即答。声が硬い。
いや、分かってる。分かってるけど、その顔で言うのずるい。
テオは俺の首元に視線を落とし、ネックレスを確認した。
「……確かにアリアの言う通りですね。締め直します」
「締め直すって言うな」
「言い方を変えます。……魔力を通します」
「それも大体同じだろ」
俺がむくれると、テオの口元がほんの少しだけ動いた。
笑いそうなのを、抑えている顔。
「……ミナト様。手を」
「手?」
「はい」
テオが片手を差し出した。何か、儀式みたいに見える。
(いつもみたいに、ただ触れるだけじゃないのか?)
俺が恐る恐る手を乗せると、テオの指が、優しく俺の手の甲を支えた。
そして、ほんの一拍置いて。
テオが、俺の手の甲を持ち上げる。
心臓が、嫌な音で跳ねた。
「……失礼します」
声が低い。近い。
テオのアッシュグレーの髪が揺れる。
次の瞬間、柔らかい感触が、手の甲に触れた。
ちゅ、と。
騎士が主に捧げる礼。敬意。忠誠。
本来なら一瞬で終わる“作法”のはずだ。
テオは俺の手の甲に口付けたまま離さない。
そのまま視線だけを俺に向ける。
俺はまるで射貫かれたようにテオの瞳から目が離せないままだ。
茶色の瞳が暗さに紛れて金色にも見える。
周りが静かすぎて、俺の喉がゴクッと鳴ったのが分かった。
瞬間、指先から、ふわっと温かいものが流れ込んだ。
魔力だ。テオの魔力。
銀鎖が、すうっと軽くなる。
胸の内側の混線が、ほどけていく。
「……うっ」
声が漏れた。情けない。
顔を上げたテオが、わざとらしく真面目な声で言う。
「ミナト様。反応が戻ってきました。……よかった」
よかった、じゃない。
お前のせいで、別の反応も戻ってきたんだが?!
俺が言い返そうとした瞬間、テオの親指が、手の甲をゆっくり撫でた。
その動きが、あまりにも落ち着いていて。
あまりにも余裕に満ちていて。
俺は、熱の理由が分からなくなった。
「……テオ」
呼んだら、テオは顔を上げた。
茶色い瞳が、まっすぐ俺を見る。
「はい、ミナト様」
「……意地悪してるだろ」
俺がそう言うと、テオの視線が一瞬だけ逸らされた。
「……先ほど、アリアに無茶をさせられたので」
「八つ当たりかよ」
「いえ。……確認です」
「何の」
テオは静かに息を吐いた。
「……ミナト様が、私を見て“平気ではない”顔をするかどうか」
俺は息を飲んだ。
言葉にならない。でも俺の全部を見透かすような視線に、ぞくっと震えが走る。
「……するに決まってるだろ」
「……そうですか」
テオはそこで、ようやく少しだけ笑った。
そして、すぐに顔を戻す。
「魔力も落ち着きましたね。外へ戻りましょう」
「……うん」
テントの外に出ると、夕飯の匂いがした。
アリアが何食わぬ顔で鍋をかき混ぜ、リーンが得意げに皿を並べている。
セシルはまだ少し赤い顔で座っていて、ホークは風に当たった顔をして戻ってきた。
俺が席につくと、リーンがにやにやする。
「ミナトちゃん、手、どうしたの?」
「どうもしない! 見るな!」
テオが真顔で言う。
「リーン。……節度を」
「はーい。節度ね、節度」
頭の後ろで手を組んだリーンがひゅっとセシル達の方へ飛んでいく。
アリアが笑って、俺にスープを差し出した。
「はい。お疲れさま。明日はもっと“境界”が濃くなる。今日はちゃんと寝なさい」
俺はスープを受け取って、湯気の向こうでテオを見る。
テオはもう、いつもの顔だ。
護衛の顔。隊長の顔。騎士団長の顔。
……でも。
俺の手の甲には、まだ小さく熱が残っていた。
それが消えないうちに、俺は決めた。
明日も、頑張る。
そして、次は絶対に、照れ隠しを見逃さない。




