◆第31話 白を裂く剣
白い。
視界の全部が白で、音も匂いも、さっきまでの“現実”がまとめて消し飛んだみたいだった。
まぶしい、というより、塗りつぶされた、という感覚。
(……転移、した?)
そう思った途端、胸の奥がぞわりと波打つ。
喉の奥が冷えて、舌の付け根が苦くなる。
違う。
まだだ――まだ転移、していない。
引きはがされる直前の、世界の継ぎ目にぎりぎり縫い留められている感覚。
白い礼拝室の床に広がる魔法陣が淡く光っている。
円と線と祈りの文字が、じわじわと熱を増して、まるで呼吸をしているみたいに脈を打っていた。
禁術の転移魔法陣。
ネオジールの顔が、白の向こうでぼやける。
口元だけが歪んで、祈りの形をした両手が、やけに綺麗に揃っている。
(――いやだ)
足が動かない。
膝が笑って、段差に引っかけた踵がまだ痺れている。
胸元が熱い。
銀鎖ネックレスが、熱を持っている。
あの銀の鎖が、“器”として、俺の中のざわつきを受け止めようとしているのが分かる。
でも今は――受け止めきれていない。
光と闇が、肌の下でぶつかって、爪で内側をひっかく。
涙が勝手に滲んで、視界の白がさらに滲んだ。
「……鎮まれ……っ」
言ったのは、俺だ。
テオじゃない。
なのに、喉の奥にテオの声が残っているみたいで、余計に苦しい。
ネオジールの影が、上から落ちてくる。
「もう少し、もう少しだ……!!!」
興奮の滲んだ声が、膜の向こうでくぐもって聞こえた。
防音の結界のせいで、言葉が遠い。
遠いのに、近い。
気持ち悪いほど近い。
「……っ、とまれ……!」
俺が言ったつもりの声も、白い空間の中で丸まって落ちる。
外には届かないのか。
誰にも――
ガンッ!
空気が跳ねた。
白い礼拝室が、ほんの一瞬だけ“揺れた”。
魔法陣の光がびくりと跳ね、床の線が波打つ。
ネオジールの眉が、わずかに動く。
祈りの形の手が、ほんの少し乱れる。
(……今の、何だ)
二度目の衝撃。
ガガンッ。
今度は扉の金具が悲鳴を上げる音まで、結界越しに伝わってきた。
防音の膜が“完全”じゃない。
ネオジールが舌打ちを噛み殺したのが、表情で分かった。
「くそっ……邪魔が入る前に!」
ネオジールが俺へ伸ばした手が、顎じゃなくて――胸元へ落ちる。
やめろ。
その瞬間、銀鎖が熱を弾いた。
ネックレスが、じり、と鳴った気がした。
白い光がさらに増す。
視界が裂けそうになる。
その瞬間。
――ズガァン!!
扉が、崩壊した。
轟音は、本来なら耳を潰すはずなのに、結界が音を噛んで、代わりに空気だけが爆ぜた。
白い粉塵が舞い、扉板が粉微塵に吹き飛ぶ。
そこに立っていたのは――黒と銀。
城内の白い礼拝室が、いきなり夜になる。
そんな錯覚がした。
アッシュグレー髪が粉塵の中で銀色に光る。
そしてその目が、いつもの落ち着いた茶じゃない。
凍った金。
俺の喉が、かすれた息を吐く。
(……テオ)
テオは、俺を見た瞬間に呼吸の仕方を変えた。
肩の力が落ちるんじゃない。
逆だ。
背骨が一本、剣みたいにまっすぐになる。
「――動くな」
声が低い。
今まで聞いたことのない地を這うような低さ。
ネオジールが一瞬だけ怯んで、すぐに取り繕う。
「これは……聖女の、ミナト聖女様の神聖な儀で――」
「黙れ」
たった二音で、空気が凍った。
テオの足元で、床に霜が広がっていく。
銀の鎧の縁が、漆黒のマントが、白い室内の光を拒絶するみたいに影を作る。
背後に、名もなき団員が二人。
息を呑んで立ち尽くしている。最初の衝撃は団員たちだったのか、扉を開けられずにいた手前、その顔が悔しさで強張っているのが見えた。
テオの短い号令が飛ぶ。
「下がれ」
団員たちが反射で一歩退いた。
その“反射”が終わる前に、テオはもう中に入っていた。
歩くというより、白い空気を斬って距離を消す。
目を見開いたままのネオジールが袖から取り出した杖のようなものを掲げる。
先端から光が走り、結界の内側に、時間稼ぎのための透明な膜が一枚増えた。
テオが、息を吐いた。
「――《霜縛》」
次の瞬間、白い床に走った霜が、ネオジールの足元へ噛みつく。
足首から膝まで、氷が“咬合”したみたいに固めていく。
凍傷の痛みにネオジールが顔を歪めた。
「なっ……!」
「その口で、ミナト様を呼ぶな……!」
テオの声が、そこで一瞬だけ割れた。
漆黒の怒りが滲む。
その怒りが、俺の胸の奥に刺さるより先に――嬉しい、と思ってしまった自分がいて、情けない。
テオは、俺の方を見ない。
見ないまま、ただ一閃。
剣が走ると、断たれたネオジールの杖が床を転がる。
杖は高い音を立てて魔法陣の線を無遠慮に横切っていった。
その瞬間、魔法陣の光が一段強く脈打つ。
――俺か。
俺がいる限り、まだ術は動くらしい。
(止めないと……っ)
俺が必死に体を起こそうとした瞬間、視界がぐらりと傾いた。
吐き気が込み上げて、手袋の指先が床を掻く。
「ミナト様!」
そこで初めて、テオの声が“俺に向いた”。
いつもの、俺を守る声。
その声が聞こえた瞬間、なぜか喉が熱くなる。
「……だい、じょうぶ」
嘘だ。
大丈夫じゃない。
でも言った。
言いたかった。
テオは一歩で俺のところまで来た。
近い。近いのに、触れる手が慎重で、まるで壊れ物に触れるみたいに距離を測っている。
俺の胸元へ伸びかけた手が、途中で止まった。
銀鎖ネックレスの位置。
そこへ触れるには――布越しでも、どうしても“胸”に近い。
テオの指先が、空中で迷う。
迷って、微かに震える。
「……すみません」
余裕のない俺の返事を待たずに
テオが小さく言って、指先を布の上からそっと押し当てた。
熱が落ちる。
銀鎖が、ひんやりとその温度を取り戻す。
そして俺の中の光と闇が、殴り合いをやめて、牙を引っ込めた感覚があった。
「……鎮まれ」
テオの声が落ちた瞬間、魔法陣の光が一拍遅れて鈍った。
“暴走”の方向に傾いていたものが、支えられる。
でも完全に止まったわけじゃない。
テオは魔法陣を確認して小さく舌打ちした。
そのまま迷わず剣先を魔法陣の端に落とす。
刃が触れた一点から、氷が“白い膜”みたいに術式の線を覆っていく。狙うのは外周の、流れの源泉。
そこが塞がれた瞬間、光の循環がぷつりと途切れ――
魔法陣は回り続けるのを諦めたように沈黙した。
光が弱まった気配にネオジールが蒼白な顔で叫ぶ。
「やめろ!せっかくの――!」
「黙れと言った」
表情が抜け落ちたテオがネオジールを振り返った。
ネオジールは“ヒッ”と小さく悲鳴を上げると言葉を飲み込む。
氷で固められた足が軋み、膝が震えている。
テオは、ネオジールの目の前まで歩き――その襟元を片手で掴み上げた。
「これは誘拐だ。禁術を使用したな」
声が静かすぎて、逆に怖い。
「貴様が使節団員だろうが、神官だろうが関係ない。――俺の主に触れた」
ネオジールの顔が、怒りと欲と恐怖で歪む。
「馬鹿な! 聖女は教会のものだ! あの香りは――」
「それ以上喋るな」
ネオジールを掴み上げたテオの手が、ほんの少しだけ締まった。
それだけでネオジールの喉が鳴らなくなる。
言葉が途切れ、ネオジールの口が空気を求めて泡を吹き始める。
白い室内に、氷の気配が満ちる。
団員たちが息を呑む。
俺も息を呑む。
テオの背中だけが、白を斬って立っていた。
テオはネオジールを床へ叩き落とさなかった。
騎士団長としての判断が、殺さず生け捕りすることを選んだようだった。
代わりに、ネオジールへは“二度と立ち上がれない痛み”が与えられる。
テオがスッと目を細めると
掴み上げたままのネオジールの膝へ、氷の楔が打ち込まれる。
チリ、と氷晶が擦れる音。続けて、ぱき、ぱき、と小さな割れが連鎖していく。
テオが手を離すとネオジールは呻き、床に崩れた。
「……っ、ぐあ……!」
温度のない冷たい金色の瞳が床でのたうつネオジールを見下ろす。
「拘束しろ」
テオが団員へ言い捨てる。
団員たちがようやく動き出し、鎖のようなものを補助してネオジールを縛り上げた。
その間も、テオは一度も俺から視線を外さない。
いや、正確には――俺の“周囲”を見ている。
俺そのものというより、俺に近づくもの全部を撃ち落とす金色の目。
次の瞬間、礼拝室の外から軽い足音が走り込んできた。
「遅れた!」
息を切らしたアリアの焦った声。
同時に、天井近くから笑いを含んだ声が落ちる。
「ミナトちゃーん、いる? 生きてる?」
リーンだ。
いつの間にか梁の上にいる。……いや、どうやって?
リーンは俺を見下ろした瞬間、真顔になった。
「……結界、まだ残ってる。外に協力者、いるかも」
その言葉に、アリアの顔がスッと冷える。
普段の“ゆるふわ”が剥がれて、魔帝国魔法師団としての、魔王の側近としての顔になる。
「リーン、確認して。廊下、隣室、上階。逃げ道も」
「りょーかい」
リーンの姿が、ふっと薄れる。
影に溶けるみたいに消えた。
アリアがテオの隣に立つ。
彼女の視線がネオジールへ落ち、次に俺へ落ちる。
俺の頬が濡れているのを見て、アリアの目が少し細くなった。
怒りと、心配と、……それから何か別のもの。
“守り損ねたくない”という顔。
「ミナトちゃん。ごめんね」
謝るアリアは珍しい。
その珍しさで、俺は逆に現実に引き戻された気がした。
慌てて目尻に残った涙を拭い、奥歯をギリッと嚙みしめる。
「……俺、油断した。ごめん」
「それは謝る方向が逆よ」
アリアが笑いかけようとして、途中で泣きそうな顔になった。
まだ気配が硬いままのテオが魔法陣が完全に光を失ったことを確認する。
団員達に指示をいくつか出して、そして俺を振り返った。
乱れたアッシュグレーの髪をかきあげたテオが俺の前に膝をつき、手を差し出す。
まだ金色に染まったままの瞳が柔らかい色を帯びる。
「ミナト様。立てますか」
「……無理」
正直に言った。
足首がまだ痺れていたし、腰にも膝にも全く力が入らない。
それに、魔法陣の余韻が体の奥にまとわりついて、立ち上がると吐きそうだ。
眉を寄せたテオの喉が、わずかに鳴った。
怒りの名残が、呼吸の奥に残っているみたいだった。
「……失礼します」
そう言って、テオは俺の背中に腕を差し入れた。
もう片方の腕が、膝裏へ入る。
え?
この体勢って――
一瞬で視界が持ち上がる。
白い床が遠ざかり、俺の体がふわりと浮く。
テオの腕は硬くて温かい。
鎧越しでも分かるほど、筋肉が張っている。
それが、今は頼もしすぎて、怖いくらいだった。
お姫様抱っこの恥ずかしさよりも安心感で涙が出そうになる。
「……テオ」
「はい、ミナト様」
返事が速い。
0秒で返ってくる。
俺の喉の奥が、また熱くなる。
「……ごめんな」
目が潤みそうになるのを何とか堪える。
聞こえてるかどうかじゃなくて、言いたかった。
テオの眉が、ほんの少しだけ下がった。
「謝らないでください」
「でも……」
「謝らないでください」
二度言う。
丁寧なのに、強い。
俺の護衛は、いつも俺の言葉を折るのが上手い。
アリアが団員へ指示を飛ばす。
「この場は封鎖。使節団側の随行者は全員位置確認。混乱を起こさないように、“事故”として処理するルートも用意しなさい」
周辺にいた団員が頷き、走る。
テオは俺を抱えたまま扉へ向かう。
白い礼拝室の出口は、破壊された扉の残骸で荒れていた。
その残骸を、テオは迷わず跨いだ。
躊躇がない。
迷いがない。
俺の視界の端に、縛られたまま呻いているネオジールがいた。
通り過ぎる気配にネオジールの目がギョロっとこちらを向く。
その目が、まだ俺を“欲しがって”いる。
吐き気がした。
その瞬間、テオの腕の力が少しだけ強くなる。
抱え方も、きゅっと俺を“囲う”形になった。
血の気がなくなる俺の耳元に、テオの声が落ちる。
「見なくていいです」
優しい声。
でも、どこか意思の強さを感じる声だ。
「……まだ見える」
「では、私が隠します」
テオがほんの少しだけ体を傾ける。
俺の視界から、ネオジールが隠れた。
代わりに見えるのは、廊下の石壁と、黒い影だけだ。
天井の方からパタパタと羽音がするとリーンがテオの肩に座った。
いつも通り笑っているのに、目だけが真剣だ。
「協力者、二人。廊下の向こうで待機してた。逃げようとしてたよ」
「捕縛は?」
テオの声に温度が無くなる。
同時にリーンの報告に身体を強張らせた俺を安心させるように
横抱きにしている腕に力が入ったのがわかった。
「アリアがやる? それともテオがやる?」
リーンの口角がきれいに弧を描く。肩をすくめて、わざと軽く言う仕草は妖精そのものだ。
テオの背後にいたアリアがふっと笑った。
「ここは大人の仕事ね。私が“外交”してあげる」
その笑みは妖艶で甘いのに、背中が冷える。
リーンがアリアの肩へ移ると、テオが短く頷いた。
「頼みます」
それから、俺を見下ろした。
金色の瞳に、俺の疲れ切った顔と安堵がみえる虹色の瞳が映り込んだ。
テオの気配がほどけて、瞳の色が茶に戻っていく。
同時に俺の中の白い恐怖が、黒い安心に塗り替えられた瞬間だった。
「ミナト様。部屋へ戻りましょう」
「……うん」
本当は、怖かった。
自分が、簡単に騙されたことも。
自分の体が思うように動かなかったことも。
自分の匂いを、相手が“理由”にしたことも。
でも今は、テオの腕の中でだけは、呼吸ができた。
俺はテオの首に顔を隠すように、ぎゅっとしがみつく。
廊下の向こうで、遠く誰かが走っている。
城が“事件”の顔をし始めている。
夜の帳はすっかり下りていて、窓の外は真っ暗だった。
それでも、テオは俺を抱いたまま、歩幅を崩さない。
乱れない。
俺が揺れないように。
「……テオ」
「はい、ミナト様」
「……ありがとう」
テオの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「当然です」
当然、という言葉が、こんなに心強いことを俺は知らなかった。
白を裂いた剣は、もうその牙を収めている。
ただ、俺を連れて帰るために、真っ直ぐ歩いている。
その胸に、俺は――今だけ、甘えていた。




