◆第21話 皇女の噂
人間国編プロローグ
──聖光王国ルーメンティア
王都の冬の空気は、白い息さえ律儀にまっすぐ立たせる。
石畳に靴音が跳ね、屋台の湯気が祈りみたいに昇っていく。
「聞いたかよ、“向こう”に皇女が現れたって話!」
市場の端、香辛料屋の前で、商人たちが顔を寄せ合っていた。
声は低いのに、目だけが妙に明るい。危機感を煽る話には、人を引き寄せる力がある。
「ああ、聞いた聞いた!魔帝国のだろ?」
「そう。魔王の“娘”だとさ。しかも黒髪で……瞳が、虹みたいに揺れるって」
「それは流石に……酒場の与太話じゃないのか?」
笑い飛ばしたいはずの声が、途中でかすれる。
噂は尾ひれの派手さのわりに共通している項目が揺るがない。
「中立都市の交易宿で聞いた。複数の商隊が同じこと言ってたぞ。『光みてぇな奇跡で、怪我人が立った』って」
「光の……奇跡?」
誰かが喉を鳴らす。
その言葉は、王都では禁句に近い。
──聖女リサ。
十数年前、異形の大群との戦いの最中に姿を消したと言われる奇跡の名。
この国において、その名が忘れられたことはない。
商人の一人が、背後を確かめるように振り向いた。
ルクシア大聖堂の尖塔が、遠くで空に刺さっている。
「……笑えねぇ噂だな」
市場の風が、一段冷えた。
◇◇◇
王都・情報局の詰所。
窓のない部屋は、昼でも薄暗く、蝋燭の火だけが仕事をしている。
「……噂の出所は三つ。中立都市ルート、南方の交易路、そして巡礼路。
一致項目は“黒髪”、“虹彩の変化”、“光の奇跡”。」
一人の情報官が淡々と読み上げ、羊皮紙の束を揃えた。
淡々としていないのは、紙の端を押さえる指先だけだ。力が入り爪が白くなっている。
「尚、“魔王と聖女の間に子が生まれた”という話も確認できています。
噂のわりに対象の絞り込みが的確すぎるため、意図的な流布の可能性が。」
もう一人が低くうなる。
「教会が動く前に、宰相へ上げろ」
「すでに準備は」
情報官は封蝋を押し、宛先を書き込む。
宛先に書かれた名は……
──宰相 レオネス・グラッド。
ルーメンティア王国の行政と外交と情報を束ねる、実務の頂点。
噂が“噂”でなくなる瞬間を、最も嫌う男だ。
◇◇◇
王都・宰相レオネス・グラッドの執務室。
書類の山は几帳面に並び、暖炉の火も無駄に揺れない。
「……以上が、現時点で確認できている噂の概要です」
報告を終えた情報官は、一礼して黙った。
レオネスは眼鏡の奥で目を細め、紙に指を滑らせる。
声は冷たくない。ただ、温度もない。
「一致項目が多い。噂の割に、証言が似すぎている。」
「はい」
「“光の奇跡”か。……聖女リサの代名詞だ」
情報官が息を呑むのが分かった。
レオネスは顔を上げないまま続ける。
「リサ殿が行方不明になったのは十数年前だ。
報告では魔帝国近辺の峡谷で異形と戦い、消息を絶ったと聞いている。
この噂が事実なら、世界の均衡が揺れる。教会が黙っていないだろう。」
「宰相閣下、では──」
「王へ上げる」
それだけ言って、レオネスは次の書類を引き寄せた。
だがペン先だけが、ほんの一拍、空で止まる。
「……民の恐怖は力だ。恐怖は、正義の顔をして暴れる」
情報官は頷き、踵を返した。
レオネスは最後に、窓の外の空を見た。
冬の雲は薄い。
だからこそ、影が濃いのだ。
◇◇◇
王城・円卓の間。
石造りの広間に集うのは、ルーメンティア王国の骨格を握る者たちだ。
国王アルベルト・フォルティス。
宰相レオネス。
軍部の将軍ザンド。
そして、大陸聖教会の枢機卿サリオン。
「“魔王の皇女”……とはな」
アルベルトは椅子の背に深く座り、長く息を吐いた。
レオネスが一歩進み、資料を提示する。
「噂の域は出ません。ただし聖女との一致項目が多い。
放置すれば国内の不安が先に膨らみます」
サリオンの口元が、すぅっと笑みを浮かべる。
誰が見ても穏やかな聖職者の姿だが、声に熱が混じる。
「ならばこそ、教会が確認せねばなりません。
聖女リサの“血”が絡む可能性がある。これは教会の案件です」
「教会の案件で、国が燃えるのはごめんだな」
アルベルトは笑わない。目を細めサリオンを眺めた。
「感情で戦争を始める愚は嫌いだ。
だが異形の脅威も、魔帝国との均衡も、見ぬふりはできん」
レオネスは同意するように、目を伏せた。
ザンドが腕を組む。その白金の鎧がガシャンと音を立てた。
「力の所在は、脅威にもなれば共闘の要にもなる……。
“魔王の娘”をどう扱うかは、大陸全体の問題として扱うべきでしょうな」
円卓の間の、壁際に控える近衛騎士の列。
その中心に、金に近い明るい茶髪の青年がいた。
ホーク・グレイス。
王直属近衛の若き騎士。背筋は真っ直ぐで、その表情は動かない。
ザンドの言葉を受けてアルベルトが頷いた。
「……魔帝国に使者を送る。
表向きの理由は、“異形なるモノ”についての協議だ。その場で噂の真偽を確かめる」
サリオンが穏やかな笑みのまま即座に口を挟む。
「教会の立会いは必須です」
「……そうだな。わかっている。」
アルベルトはそこで、レオネスに視線を投げる。
レオネスは短く頷き、淡々と編成案を読み上げた。
「王直属近衛から数名。教会からは高位聖職者を。
外交折衝役には、私の補佐をしているシグ・セラフィンを推挙いたします。」
沈黙が降り、場の空気が引き締まる。
アルベルトは視線を横へ流した。
壁際の騎士列、その中心へ。
「ホーク・グレイス」
「はっ」
「使節団の護衛を任せる」
「承知しました」
ホークの返事に一切の迷いはない。
アルベルトが小さく頷き、視線を戻す。
「そして――」
そのまま言葉を切り、円卓を見回す。
「セシリアを同行させる」
ザンドが眉を上げ、サリオンが微笑む。
「よい判断です、陛下。
王女殿下が同行なされば、正式は揺るぎませぬ」
「揺るがせたくないからな」
アルベルトは淡々と言う。
セシリアが背負うものの重さを、誰より理解している父親の声だった。
会議は、結論に向かって静かに閉じていった。
──魔帝国への正式な使節団派遣。
決定は小さな言葉で下された。
だがその小さな言葉が、国を動かしていく。
◇◇◇
ルクシア大聖堂・中庭。
噴水の水音は柔らかく、祈りの間を埋めるように続いていた。
噴水の縁に座り、両手を組んで祈る少女がいた。
淡い桃色の髪を胸下で三つ編みにまとめ、水色のケープつき修道服姿。
儚げな見た目に反して、深い緑の瞳には芯の強さが垣間見える。
──セシリア・フォルティス。
セシルの愛称で親しまれる第二王女だ。
「……聖女リサ様」
唇が小さく動く。
声に出すと、胸の奥の憧れがじんわりと温かさを持つ。
足音が近づいた。
石畳を踏む音が、無駄のない間隔で並ぶ。
「セシル様」
振り向けば、ホークが一礼した。
いつも通りの丁寧さ。だが今日は、ほんの少しだけその青い瞳が硬い。
「決まったの?」
セシルが聞くと、ホークは肯定も否定もせず、先に言葉をかける。
「王女殿下。……セシリア殿下は、使節団に同行されます」
セシルの胸が、微かに跳ねた。
恐怖と、期待と、責任が同時に湧く。
「……やっぱり、私が行くべきだと思う?」
「“べき”かどうかは、俺には」
ホークは言いかけて止め、視線を外す。
肩をすくめる動きには、空気を軽くする雰囲気があった。
「……ただ、殿下が行けば、教会は動きを読み違えません。陛下も、余計な火種を減らせる」
「それ、王国のため、ってことね」
「はい」
セシルは息を吸い、吐いた。
「……噂が本当なら」
祈りの言葉みたいに、思いが漏れる。
「私は、知りたい。
“魔王の娘”が本当にいるのか。
そして……もし、その子が聖女リサ様に繋がるのなら」
途切れる言葉にホークの目が、ほんの一瞬、鋭くなる。
「殿下」
「大丈夫。私は、戦いに行くんじゃないわ」
セシルは微笑んだ。強がりではなく、決意の形で。
「ただ、確かめたいの。
そして……できるなら、話してみたい」
“話す”という言葉が、どれだけ危ういか。
二人とも分かっている。
だからホークは、短く頷いた。
「……俺は、殿下を守るだけです。
何が噂で、何が真実でも」
その言葉に、セシルは泣きそうな笑みを浮かべた。
だが、泣くわけにはいかない。
王女であり、シスターとしての責任感が、彼女の矜持だ。
「ありがとう、ホーク」
「いえ」
返事はいつも通り。
だがその一拍の間に、言葉にできない心配が詰まっていた。
中庭の上を、冬の雲がゆっくり流れていく。
その雲の下で、王都はまだ噂を笑っている者と、噂に祈る者に分かれていた。
──“魔王の皇女”と“聖女の子”の噂は、
今日も静かに、王国の隅々へ染みていく。
そして同じ速度で、使節団の支度も進んでいった。
気づけばもう、歯車は噛み合っている。
今はただ、ただ回すしかないのだった。




