◆第20.5話 忘却の記念品と新たな楔(後編)
時間が、やけに遅い。
(……まだ?)
いつもさんが呼びに行ったのは分かってる。
でも、テオが来るまでの数分が、拷問みたいに長い。
「落ち着け。落ち着け俺。呼吸。呼吸……!」
俺は声に出して自分を叱る。
声にしないと、飲まれる。
胸の奥がうるさい。
下腹の熱がうるさい。
“女の身体”が、俺の意思と別の場所で勝手に主張してくる。
「……違う。これは俺じゃない。いや、俺だけど……くそ……!」
涙が出そうになる。
出そうになるのを、プライドで押さえる。
「泣くな。泣くな。男だろ。ここで崩れたら負けだ……!」
引き出しの中に戻した布袋が、まだ脈打っている気配がする。
出してないのに、触ってないのに、部屋の空気が甘いまま。
「……はぁ…っ……」
膝が震える。
身体を丸めたくなる。
でも丸めたら、もっと“そこ”が意識に上がってきそうで、俺は必死に背筋を伸ばした。
その時、扉の向こうから足音が近づく。
駆けるような速度。
早く来てほしいのに、俺は身構えてしまう。
(早く来てどうにかしてほしい)
(今の状態を見られたくない)
相反する思考で頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。
自分で自分をぎゅっと抱きしめるだけでも甘い熱が身体を走る。
そして――
コンコンッ。
早急なノック。
「ミナト様」
テオの声だった。
その声だけで、胸の奥が一瞬静まる。同時に熱も温度を上げる。
「……入って」
俺の小さな声に反応して扉が開く。テオだ。
視線の置き方は丁寧だった。
余計なところを見ない。
見ないのに、全部分かっている顔だ。
「テオ……」
「ご無事ですか」
「無事なわけ……っ、あるか……!」
声が震えた。
震えたのが悔しくて、俺は強がる。
「だいたい俺は、ひとりで――」
「ひとりで、よく耐えましたね」
その一言で、喉が詰まった。
認められると泣きそうになる。鼻の奥がツンとして虹色の視界がぼやけた。
「………っ…!」
「ミナト様」
テオは一歩だけ近づき、すぐ止まった。
いつもの距離へ戻ろうとする努力が見える。なのに、今日だけは少し違う。
「……許可を。支えます」
「許可……」
滲む視界のままテオを見つめる。プライドが引っかかる。
でも今の俺は引っかかってる場合じゃない。
「……許可、する」
言った瞬間、情けないほど安心した。
安心した自分が悔しい。
テオの手が俺の肩にそっと触れる。
その“そっと”が危険で、
俺は目をぎゅっと閉じ、反射的にテオの上着の裾を両手で掴んだ。
「……テオ、落ち着け。俺も落ち着くから。お互い落ち着こう。今は、そういう時間!」
「はい。……落ち着きます」
返事は真面目なのに、触れている指先だけが、ほんの一瞬だけ強くなる。
肩を支えるというより、逃がさないみたいな力。
「……っ」
息が詰まりそうになって目を開けると、テオの顔が近かった。
近いのに、視線は逸らしている。
見ない努力をしているのが分かる。
「ミナト様」
呼び方は、いつもより低い。
丁寧語の形を保っているのに、声に熱を帯びている気がした。
俺は反射で強がった。
そうでもしないと、変なことを口走りそうだからだ。
「……な、なんだよ。見るなよ」
「見ていません」
即答。
だけど、その瞬間、テオの手が俺の頬の横へ上がりかけて、止まる。
触れる寸前。
触れない寸前の距離で、指が震えている。
(やばい)
俺の身体が、甘い気配に引っ張られそうになる。
今すぐにでもテオの上着をひん剥いてしまいたい衝動を唾ごと飲み込んで抑える。
俺の喉は思ったより大きく鳴った。
同時に、テオの理性も糸一本で吊られていると感覚的に理解できた。
テオが息を吸って、吐く。
その吐息が耳の近くに落ちて、俺の背筋にぞくっと刺激が走った。
そして、ほんの一瞬だけ。
指先が、触れた。
涙の粒だけをすくうみたいに、軽く。
「……っ」
熱い。指先が熱い。
触れた場所が、触れられた事実だけで熱くなる。
テオの額が、俺の額に触れそうな距離まで来て――
「……っ」
止まった。
止めた。テオが、テオ自身を。
テオは歯を食いしばるように目を伏せ、声を絞り出す。
「……失礼いたしました」
失礼って何だよ。
失礼で済ませられるもんなのか。
でも、その一言で、テオが“踏みとどまった”のが分かった。
テオの手が離れる。
離すのが遅い。遅いのに、離した瞬間に距離を作る。
護衛の距離へ戻す。戻そうとする。
「……ミナト様。いま起きている反応は、ミナト様の価値を損なうことではありません」
「……すげえ遠回しな慰め方」
「事実です」
不意に、テオの視線が、引き出しの位置を見た。
「例のブレスレットが原因ですか?」
「……多分。今まで記念でしまってたんだ。出してないのに、袋触っただけで。意味わかんない。」
「なるほど……」
テオが顎に手を当てて少し考え込む。
そして、引き出しを開け、同じ引き出しにしまってあったネックレスを手に取った。
シンプルな銀の細い鎖に、小さな透明の石が一粒だけついたネックレス。
城下町で結果的にテオに買ってもらうことになった、あのネックレスだった。
「ブレスレットに放出の性質が残っているなら。いまの反応を抑えるために……別の“器”が必要です」
「器……?」
「こちらを使用します。」
胸が跳ねた。
跳ねたことに腹が立つ。
身体は相変わらず制御不能だ。
「……ただのネックレスだろ」
「魔力を込めて“役目”を与えます」
テオの声が低くなる。
その低さが、心を落ち着かせるはずなのに、俺の身体は別の場所を熱くする。
「テオ…なんでも良いから早く……」
「ミナト様。許可をください」
「また許可かよ……」
「私の魔力を込めて、抑制の作用を付与します。
……今後は外さずに済むように」
外さずに。
それは、俺がこんなふうに、泣きそうになるほど“頑張らなくていい”って意味だ。
「……わかった」
テオは頷くと、正面から俺の首に手を回しネックレスの留め金をはめる。
首筋をテオの指が掠めると、ズクッと甘い刺激が走る。
「…んっ……」
テオの、俺を抱きかかえるような姿勢と
間近に感じる吐息に
俺は目を逸らして、必死に耐えた。
(見るな。見たらダメだ。俺の顔がぐずぐずなのも、見られたくない)
テオがネックレスの留め金に手を添えたまま、呼吸を整える。
その沈黙が、やけに長く感じる。
テオの理性も、今、必死に剣を抜いているのだ。
それが分かってしまって、余計に俺の身体が反応しそうになる。
(……っ、やめろ俺! 違う! 今は落ち着け!)
やがてテオが低く、はっきり言った。
ネックレスへ語りかける声だった。
「“ここに楔を打つ。鎮まれ”」
言葉が落ちた瞬間、ネックレスがほんのり温かくなる。
温かさが首元から胸へ沈んでいき、胸の奥の騒ぎが“抑え込まれる”。
「……はあっ」
息が吸える。
深く吸えて、深く吐ける。
俺は悔しさ混じりに呟く。
「……マジか……」
テオの手が、首から離れた。
距離が戻る。戻るけど、安心は消えない。
「……落ち着きましたか」
「……落ち着いた。悔しいくらい」
「良かったです」
その“良かった”が、ただの護衛の言葉じゃなく聞こえるから困る。
ふと、テオが扉の方へ視線を向ける。
「?」
俺もつられて扉を見つめる。
しばらくすると扉の外に、控えめな足音。
いつもさんの気配が戻ってきて、でも入ってこない。声だけが届く。
「ミナト様。テオバルト様がお入りになったのを確認いたしました。
状況が収束したようでしたら、私は退出いたします」
責任を果たして、去る。
名乗らないまま、でもちゃんと仕事を残していく。
俺は扉の方へ小さく言った。
「……ありがとう、いつもさん」
返事はない。足音が遠ざかる。
部屋には、俺とテオだけだ。
引き出しの中のブレスレットは、嘘みたいに静かだ。
代わりに首元のネックレスが、落ち着いた重みでそこにある。
俺は布団に倒れ込んで、息を吐いた。
「……俺、泣きそうだった」
「はい」
即答するな。
「……男のプライドが、ボロボロになりかけた」
「プライドは、守られたかと」
「守れてない。助けられた」
俺が言うと、テオは一瞬だけ黙った。
その沈黙の間に、テオの内心がまだ戦っているのが伝わる。
でも、テオの言葉は、微塵もそんな気配をみせない。
「助けるのが、私の役目です。護衛ですので」
「またそれ……」
いつもの言葉だと口を尖らせる俺に、
テオは少しだけ目を伏せて、そして、すごく真面目に言った。
「……ミナト様が、泣きそうなほど頑張っておられる時に。私が負けるわけにはいきません」
その言葉が、楔より深く刺さる。
俺は真っ赤になった顔を枕に埋めた。
「……やめろ……そういうの……」
「ミナト様の瞳から虹が溶けて溢れるかと思いました。」
クスっと笑った気配がして、俺は枕から顔を上げてテオをチラ見する。
俺の視線を受けたテオは、何も言わずにそろりと視線を窓へ移した。
俺はふたたび枕に頭を預ける。そのまま枕の中から情けない声を出した。
「……これ、外したらどうなる」
「外さないでください」
「命令?」
「……お願いです」
「……分かった。外さない」
「はい。ありがとうございます、ミナト様」
その返事で、やっと胸の奥が“平和”の顔になる。
すると安心感から俺の腹の虫が「ぐきゅー」と鳴った。
「………」
沈黙が辺りを支配する。
俺はもう一度、枕から顔を上げた。
「……そういえば俺、朝ごはん食べてない。
テオ、昼は一緒に食おう。」
起き上がって確認した時計の針は、もう昼食の時間だった。
俺の腹の虫が完全に聞こえたはずだけど、一切触れない紳士な騎士団長をご飯に誘う。
「ええ、承知しました。ミナト様の午後は、ご公務が一件ありましたね。」
「うん、父さんに会わないと。あ、そうだ……」
「どうしましたか?」
「いや、こっちの話。」
首を傾げるテオに俺は手を振る。
急な思いつきだったが、
俺は、心の中で決めていた。
(“いつもさん”の名前、いつか絶対聞く。そのための父さんの許し? それも含めて戦ってやる)
男のプライドは、そういう戦い方なら得意だからな!
勢いよくベッドから降りると、テオと連れたって部屋を出る。
陽の光を浴びて、胸元のネックレスがキラリと虹彩を放つ。
魔帝城は今日も“ぎりぎり”平和で満ちているのだった。




