◆第20.5話 忘却の記念品と新たな楔(前編)
聖夜祭も終わり、
雪だるま作戦が決行された翌日。
城がようやく「何も起きない朝」の顔を取り戻した頃、俺は自室でクッションの中に沈んでいた。
「……今日は平和。今日は絶対に平和」
言っておかないと、平和は逃げる。
最近そういう世界だと理解した。
コンコン、と控えめなノック。
「ミナト様。失礼いたします」
入ってきたのは、いつもの侍女さん。
穏やかな笑みと、無駄のない動き。
髪の間から小さな角が覗くのに、それすら身だしなみの一部みたいに上品だ。
(……うん、今日も“いつもさん”だ)
俺は心の中でそう呼ぶ。
名前を知らないからじゃない。
名前を聞いても、言ってくれないからだ。
「おはようございます、ミナト様。お顔色はいかがでしょう」
「うん、まあまあだよ。……昨日は騒がしかったから酷かったけど」
「静かな朝は、良い朝でございますね」
言い切る。プロだ。
プロすぎて、うっかり呼吸まで整えられそう。
「雪だるま、まだある?」
「はい。騎士団の方々が『陣形が崩れる』と申され、守っております」
「……雪だるまの陣形」
「ええ、騎士の方々がミナト様の雪だるまの周りに
追加で幾つか作られたようですので、後ほど確認してみてはいかがでしょう。」
いつもさんが、ふわっと笑う。
その笑みが本当に穏やかで、俺はふと口を滑らせた。
「……ねえ」
「はい、ミナト様」
「俺さ。ずっと思ってたんだけど」
いつもさんは手際よくカーテンを開け、湯気の立つ飲み物を置く。返事の間も崩さない。
「私でお役に立てることでしたら」
「……名前、教えてくれない?」
一瞬だけ、空気が止まった。
止まったのに、いつもさんは穏やかなまま頭を下げる。
「恐れ多く……侍女が皇女殿下に名乗るなど、不敬にございます」
「不敬って、名前だよ? ただの名前」
「ただの、ではございません」
柔らかいのに硬い。壁がある。礼儀という名の壁。
「じゃあ俺が勝手に呼ぶ」
「それは、もっと恐れ多く……!」
「恐れ多いが多いよ!」
小さく笑いながら俺が言うと、いつもさんは困ったように目を伏せた。
困ってるだけで、嫌がってるわけじゃないのが分かる。規律で困ってる。
「……ミナト様」
「ん?」
「どうしても必要な時は、陛下の許しを得てから……」
「父さんの許しが必要な名前って何だよ……」
俺がぼやくと、いつもさんは少しだけ笑う。
許される範囲の笑い、という感じがする。
「では……せめて、お呼びになりたい時は」
「お呼びになりたい時は?」
「『侍女』とお呼びくださいませ」
「それ、ただの役職じゃんか……」
「はい」
はい、じゃない。
ままならない状況に俺は思わずべしべしとクッションに八つ当たりする。
「も~~~そのうち絶対に聞くからな!」
「そのうち、陛下の許しが出ましたら」
いつもさんは話題を切り替えるみたいに、服を整えてくる。
仕事の邪魔をするわけにもいかず、俺はされるがままだ。
「本日のご予定は午前が休息、午後に軽いご公務が一点でございます。……その前に、お召し替えを」
「うん」
そして髪を梳かされると、気が抜ける。
気が抜けると、余計なことを考える。
(……俺の身体のこととか)
静かな朝って、そういう“内側の音”がよく聞こえるから困る。
昨日までみたいに騒がしい方が、楽だった。
いつもさんが何気なく言った。
「そういえば。昨夜、棚の整頓をしておりましたら……ミナト様の引き出しに、小さな布袋がございました」
「布袋?」
次の瞬間、思い出す。
「あ、ブレスレットの……」
縁結び市の勢いで買って、城下町編でとんでもない“反応”を見せたやつ。
翌日には外して、記念として引き出しにしまってある。しまったはず。
「はい。きれいな布袋でしたが、贈り物でしたか?」
「あー、まぁ記念品だよ。ほら、前に城下町に出たじゃん?
その時に縁結び市で、とんでもないブレスレット買ってさぁ……」
俺は「どこにしまってあったかな?」と何気なく机の引き出しを開ける。
奥の方にある。小さな布袋。
指でつまみ上げた、その瞬間――
ひゅ、と。
空気が、甘くなった。
「……は?」
香りじゃない。味でもない。
でも確かに“甘い”としか言いようのない魔力の気配が、部屋に広がる。
いつもさんの笑みが消える。
消えた代わりに仕事の目になる。瞬時だ。
「ミナト様。いま、魔力の揺れが」
「俺、何もしてない! 袋のまま! ただ持っただけ!」
自分でも早口だと思う。
でも、早口で誤魔化さないと、身体の方が勝手に先走りそうだった。
布袋の口は閉じている。
閉じているのに、淡い光が布越しに滲む。
城下町でのことがフラッシュバックする。
触ったのは袋越しなのに、なんで!?
「……あっ!?」
胸の奥が、きゅっと締まった。
息が一拍遅れて、下腹が変に熱くなる。
(嫌だ!やめろ!俺は、俺だ)
男としてのプライドが必死に旗を振るのに、女の身体の方が旗を無視する。
「っ……ちが、違う! これは俺の意思じゃ……!」
いつもさんが静かに一歩近づく。
「ミナト様。テオバルト様を呼んでまいります。」
「え?」
「必要ならアリアドネ様も呼んでまいりますが……」
俺は必死に、ふるふると首を振った。
こんな状態を色んな人に見られたくないという気持ちが先行する。
気持ちを言葉にしようとした瞬間に涙が出そうで、喉がつまる。
いつもさんは淡々と続ける。
「では、テオバルト様をお呼びいたします。よろしいですね」
「よろしいっていうか……!」
「名誉を守るのが、私の職分でございます。責任は私が負います」
いつもさんは穏やかな笑みに一瞬だけ戻り、小声で言った。
「……少しだけ、頑張ってくださいませ。すぐに戻ります」
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、俺と、布袋と、甘い気配。
会話が切れた途端、身体の反応だけがやけに大きくなる。
「……くそ」
俺は布袋を引き出しに戻そうとして、指が震えた。
震えた拍子に光が濃くなる。甘さが増す。
俺の元々主張の大きな胸が、甘さが増せば増すほど更に主張してくる。
「やめ、ろ……っ! 俺は……元は男だぞ……!」
言い聞かせても、身体は勝手に熱を持つ。
泣きそうになるのが悔しくて、歯を食いしばる。
なのに歯列の隙間から、熱い息が漏れるのを止められない。
「……テオが来るまで。俺、ひとりで――」
ひとりで、頑張るしかない。
「っ……!」
小さな痙攣の度に、長い黒髪が揺れて肌を撫でる。
その刺激すらも熱さへと変わっていく。
「うっ……く、……っ」
そのまま立っていられず膝をつく。
無意識に下腹部へ伸びそうになる片手を、もう片方の手で押さえつける。
「嫌、だって……言ってる!!」
(こんなの、こんなのは俺じゃない!)
元は男だ。男だった時に当たり前だった行為は
今の身体になってから、一度もしていない。
興味がないわけではなかったが、
一度超えてしまったら、もう元に戻れない気がしたからだ。
それなのに……!
ままならない熱は、
否応なく俺に女の身体を教えてくる。
その全てにぎゅっと唇を噛んでやり過ごす。
(早く……!!!)
続く言葉が出てこない。
俺は自分の虹色の瞳が潤み、
視界がブレるのを、止められなかった。




