◆第10話 魔帝国での生活
朝風呂はこの世界にきて頻繁にするようになった。
日本にいた頃は、シャワーだけで済ませる日も多かったのに
今は「湯に浸かって息を抜く」ことが、生活そのものになっている。
そして、風呂あがりの自分の姿を、鏡の中でまじまじと見つめてしまう時間も増えた。
……いや、別にナルシストになったわけじゃない。
ただ――
「……これ、本当に俺、なんだよな?」
湯気で曇った鏡面を指で拭うと、
虹色の瞳が、万華鏡みたいにキラキラ瞬いた。
長い黒髪。白い肌。
そして目を逸らしたくなるくらい存在感のある胸。
くびれた腰と、その下の、華奢なのに女のラインをちゃんと主張してくる下半身。
(巨乳って、こういうことなんだな……重っ……)
バスタオルをきゅっと締め直しながら
いつも用意されているドレスのコルセットを思い出す。
コルセットの上に柔らかい塊がどーんと乗っかる感覚は、未だに自分で自分にツッコみたくなる。
男の頃は、グラビアとかで「スタイルいいな〜」くらいには思ってたけど、
まさか自分で重さを味わうことになるとは思わなかった。
「母さんも聖女だった時はこんな感じだったのかな……や、想像したくないな……」
想像した瞬間に、罪悪感と羞恥が同時に来る。
俺はふるふると頭を振って、タオルで髪を拭いた。
日本に残してきた母さん。
この世界で待っていた(らしい)魔王の父さん。
(……どっちも、まだちゃんと向き合えてないよな)
そんなふうに考え始めると、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
――そのとき。
「ミナトちゃ〜ん!おはよーー!」
明るい声と同時に、窓の外から影が飛び込んできた。
「ちょっ……リーンちゃん!?風呂場に入ってくんなって言ってるだろ!!」
「いーじゃん別に、ボク的にはいつものミナトちゃんだよ〜。
あ、でも今日の胸の揺れ方、また進化したかな?」
「進化してない!!どこ見てんだ!!」
リーンはけらけら笑って、浴室の縁にちょこんと座る。
反省の色はゼロだ。
「もうすぐ朝ごはんの時間だよ!」
「はー…朝から元気だなぁ」
湯気の上を泳ぐみたいに、リーンがくるくる回った。
そして悪びれもせず、俺の胸元に顔をうずめると、うっとりと目を閉じる。
この位置にリーンちゃんが居ても気にならなくなってきた自分が怖い。
「だってさ、朝って生活が始まる匂いがするの。
パンの匂い、鉄の匂い、紙の匂い。
あ~ミナトちゃんの匂いが一番いい匂い~」
「もーー嗅ぐなって!!」
しかし言われてみれば、
確かに浴室の向こうからいろんな音が聞こえてくる。
廊下を歩く足音。鍋が当たる金属音。遠くで誰かが笑う声。
城が起きてる。
俺の知らないところで、毎日が回ってる。
「……俺も起きなきゃな」
呟いた瞬間、リーンがぱっと笑顔になった。
「うんうん! ミナトちゃん、こっち側に馴染んできたね!」
「いや“こっち側”ってなんだよ。洗脳済みみたいに言うな」
笑いながら、バスタオルの端を握り直す。
そのとき――浴室の外から、控えめな低い声が聞こえた。
「……ミナト様。
お着替えのご用意ができましたので、前室に置いておきます」
テオだ。
なんでいつもの侍女さんじゃないんだ!?
「ひっ……!」
心臓が跳ねて、変な声が出る。
反射的にタオルを身体に巻きつけ直す俺。
リーンはニヤァ……と悪い笑みを浮かべた。
「テオに、“進化したミナトちゃん”見せてこないの?」
「見せるかァ!!死ぬわ!!」
リーンが腹を抱えて笑う。
浴室の外から、かすかに布が擦れる音がする。
きっとテオが服を置いてくれてるんだろう。
「では、私は廊下で待機しております。
ご支度ができましたら、お声かけください」
いつも通りの落ち着いた低音。
(……落ち着け俺。落ち着け。今の俺は皇女サマだ。落ち着け)
今日のドレスは城内用のラフなものらしいけど、
日本基準だと余裕でフォーマルだ。
男だった時には存在すら知らなかったコルセットは難敵で、
いつもの侍女さんがいないと戦いだ。
戦いなんだけど――
今日は自分で締める。日課にしたい。現実に慣れたい。
「よし。」
前室の鏡で最後に髪を整える。
虹色の瞳が、照明にかざすたび違う色を見せる。
扉を開けると、テオがきちんと廊下に立っていた。
背筋が伸びて、鎧の金具が朝の光を反射している。
「お待たせ、テオ」
「お支度、お疲れさまです。……よくお似合いですよ、ミナト様」
一瞬、視線がすっと上から下へ滑った気がして、俺は条件反射で胸元を押さえた。
「……見てない?」
「護衛としての確認です」
即答。
でも、いつもよりほんの少しだけ、声の端が硬い気がした。
「はいはい……職務職務」
そう言いつつ廊下に出ると、朝の城はもう動いていた。
曲がり角から現れた侍女たちが、一斉に足を止め、膝を折って頭を下げる。
「皇女殿下、おはようございます」
「……お、おはよう!えっと、いつもありがとう」
俺が慌てて返すと、
侍女たちの表情がほんの少しだけ緩むが、でも視線は丁寧に逸らされる。
逸らされるほど逆に意識してしまう。
俺の髪とか、虹色の目とか――
見られてる気がして落ち着かない。
(皇女って、こういう毎日が普通なのかよ……)
その横でテオは、ごく自然に半歩前に立つ。
俺の歩幅に合わせてくれる位置取り。ぶつからない、でも離れない。
“護衛”ってこういうことなんだ、たぶん。
リーンが頭の上を飛び回りながら、楽しそうに言う。
「わぁ、今日も城、にぎやか! あの人、パン持ってる! あの人、布! あの人、槍!」
「情報が雑!」
「へへ~!」
廊下の先では、厨房係と思しき男たちが大きな籠を運んでいた。
香ばしい匂いが鼻先をくすぐって、胃が反射で鳴りそうになる。
(……あー朝メシのいい匂いする。魔族ってグルメだよな。)
いつもの皇族用の食堂に近づくほど、人の密度が上がっていく。
給仕の足音。
銀器の触れ合う澄んだ音。
湯気と香草と焼き立ての匂いが混ざって、俺の朝が現実になる。
食堂の扉が開くと、整列した給仕たちが深く頭を下げた。
「皇女殿下、ようこそお越しくださいました」
(うっ……慣れない……)
テオは相変わらず平然としている。
俺だけが挙動不審だ。
席につくと、パン、スープ、果実、卵料理。
湯気が立つ皿が次々並んでいく。
それを運ぶ給仕たちの手つきが無駄なくて、プロの仕事って感じだ。
そこへ、カツカツとヒールの軽い足音。
「おはよう、ミナトちゃん。朝からいい顔してるじゃない」
アリアだ。
豊かな赤紫の長い髪を背中に払うと俺にウインクしてくる。
一瞬で研究者の目になる気配がして、俺は反射で背筋を伸ばした。
「おはよう……って、それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。顔色がちゃんと魔帝国民になってきたわ」
「魔帝国民て」
リーンが俺のパンに飛びつこうとして、給仕に「妖精殿、こちらをどうぞ」と小皿を差し出され、目を丸くした。
「え、ボクの分もあるの!? 城すごい!」
「すごいのは城じゃなくて人の気遣いだよ……」
朝食が始まって、会話と食器の音が交互に流れていく。
「ミナトちゃん、昨日の魔力の揺れ、寝起きはどうだった?」
「いきなり研究の話するな」
「日課よ」
「嫌な日課だな!」
テオが咳払いを一つして、俺の前に水を置く。
「ミナト様。水分もお取りください。朝は特に」
「……ありがとう」
こういう細かい世話が、なぜか胸に刺さる。
甘いとかじゃなくて――居場所を作られていく感じがする。
その時、食堂の空気が一瞬だけ凍り付いた。
扉が開き、重い足音。
黒い外套の裾が翻り、銀髪の男が堂々と入ってくる。
「我が娘は! 朝食を! ちゃんと食べているか!」
魔王陛下。父さん。
……声がでかい。
給仕たちが一斉に跪く。
俺はパンをくわえたまま固まる。
アリアは笑いを堪える顔。リーンは嬉しそうに手を振ってる。
「と、父さん……声……!」
「声は大事だ! 朝は特に!」
そのままテオに視線を送る。
「お前もそう思うだろう!?」
急に振られたテオは真顔で頷く。
「はい、陛下。朝は士気が左右されますので」
「だろう!」
(そういう会話じゃねぇ!)
父さんは満足げに俺の背後に回り込み、肩越しに皿を覗き込む。
「よし。パンは食べている。スープも飲んでいる。……果実も食べろ。甘味は正義だ」
「それ、最近のブーム?」
「甘未はいつだって正しい」
リーンが「陛下わかってるー!」と笑い、父さんが胸を張る。
給仕たちは微妙に視線を合わせない。たぶん慣れてる。
朝食の途中、父さんは満足すると颯爽と去っていった。
去り際に「あとで訓練場も見に来い!」と叫んで。
……叫ぶ必要ある?
「……嵐だったな」
俺がぽつりと言うと、アリアが肩をすくめた。
「日課よ、日課」
「嫌な日課増やすな!」
俺はサラダの野菜にフォークを勢いよく突き刺し
食事を再開させる。
その様子を周りの給仕たちがにこにこと
微笑ましく見守っていたことに俺は全く気付いていなかった。
◇◇◇
朝食後、廊下はさらに忙しくなる。
書類の束を抱えた文官たち。
鎧を整える騎士たち。
運搬係が木箱を運び、
魔導師団の制服の人たちが早足で通り過ぎる。
そして俺が通るたびに、みんなが礼をして、目を伏せる。
(……芸能人ってこんな気持ちだったのかな)
でも、嫌な感じはない。
敬意……というより、守るべきものに向ける礼儀みたいな。
それが城の秩序で、生活で――俺の新しい日常だ。
訓練場へ向かう途中、見習い騎士たちの声が聞こえてきた。
「今のが皇女殿下……虹の目、ほんとすげぇな……」
「団長が付きっきりなの、納得だわ……」
「おい、聞こえるぞ」
最後の一言は、多分、先輩騎士。
すぐに姿勢が正される音がする。城はこうやって回ってる。
訓練場は、朝の光と汗の匂いで満ちていた。
剣のぶつかる乾いた音、掛け声、足音。
地面の砂が舞う。
テオが一歩前に出るだけで、場の空気が引き締まる。
騎士団長って、こういう“圧”なんだなと改めて思う。
「ミナト様。こちらは危険ですので、私の後ろに」
「はいはい。……って、後ろにいたら見えないだろ」
「半歩横に」
「融通きくな」
俺の小声に、テオの口元がほんの僅かに緩む。
その瞬間を、見習い騎士が見た気がして、慌てて視線を逸らした。
(いや、俺のせいじゃないからな!?)
訓練が一区切りつくと、父さんが本当に現れた。
騎士たちが一斉に跪く。
父さんは満足げに頷き、俺の方を見て――
「よし! 我が娘がちゃんと日光を浴びている! 健康!」
「健康で判断するのやめて!」
「健康は大事だ!」
(結論それかよ……)
会話に軽い既視感を感じる。
この感じ、母さんが口うるさい時と少し似てる、かも?
執務室から抜け出してきていたのか
青筋を立てた宰相に連行されていく魔王の後ろ姿を見送りながら
俺はそんなことを考える。
◇◇◇
午後は、アリアの魔力解析に付き合った。
研究棟は紙とインクと、薬草と魔石の匂いが混ざっていて、頭が学問モードだ。
白衣の魔導師、助手、記録係。
普段関わらない人たちも、当たり前のように忙しく働いている。
「皇女殿下、こちらへ」
「測定水晶、準備できました」
「記録、取ります」
(俺、ここでは“人”っていうより“現象”だな……)
でも、アリアはそこをちゃんと見てくれる。
「ミナトちゃん、怖かったら言いなさい。今日は生活の中の揺れを見るだけ」
「それもそれで怖いんだけど」
「大丈夫。テオがいるでしょ」
「アリア殿」
テオの声が少し低くなる。
アリアは楽しそうに笑って「はいはい」と手を振った。
リーンは測定水晶の周りを飛び回り、記録係の羽ペンをつつこうとして怒られていた。
「妖精殿、お願いですから……!」
「えー、だって羽ペン、羽があるのに飛ばないんだよ?」
「それは……道具なので……!」
(この人たち、偉い。尊敬する)
解析が終わるころには、俺の肩にちゃんと疲れが乗っていた。
でも、不思議と嫌じゃない。
朝起きて、風呂入って、着替えて、飯食って、騒いで、働く人を見て、学ぶ。
元の世界でもしていた当たり前が、形を変えて戻ってきた感じ。
いつの間にかそんなことが日課になり、俺の一日は過ぎていった。
◇◇◇
部屋へ戻る廊下。
夕方の光が窓から差し込んで、床に長い影を作る。
すれ違う人たちが「皇女殿下」と頭を下げ、俺も小さく会釈を返す。
そのやりとりが、少しだけ自然になってきた気がする。
(……俺、ちゃんと“ここで暮らしてる”のかもな)
テオが歩幅を合わせてくれる。
リーンが一日の戦利品みたいに小さな花を抱えている。
遠くで、厨房からまたパンの匂いが流れてきた。
胸の奥のざわつきは、完全には消えてない。
母さんのことも、父さんのことも、まだ答えが出てない。
でも――
こうやって、生活の中に人がいて、音があって、日課がある。
それだけで、昨日より少しだけ、怖さが薄い。
「ミナト様」
「ん?」
「本日は……お疲れではありませんか」
「疲れた。めっちゃ」
即答すると、テオが少しだけ目を細めた。
「それは良いことです」
「え、なんで」
「生活の疲れは、心を地面に下ろしてくれます。
……浮いてしまうより、ずっと」
真面目すぎて、でも妙に納得してしまう。
「テオってさ……ほんと変なとこで優しいよな」
「変ではありません。必要なことです。」
必要、か。
その言葉が、今日見たたくさんの人たち――
侍女、給仕、文官、騎士、助手たちの働く背中と重なる。
城は“誰かの必要”で回ってる。
俺も、その中に置かれ始めてる。
(……じゃあ、もう少しだけ。ここで必要とされてみるか)
そう思った瞬間、窓の外の風向きが、ほんの少しだけ変わった気がした。
背中の産毛が、かすかに逆立つ。
……俺はまだ知らない。
この平穏が、やがて訪れる“はじまりの一撃”の、ほんの小さな前触れだってことを。




