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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

破談の上に処刑されるなら、いっそ最後に煽り抜きたい。

作者: れとると

微百合微ざまぁ短編、13000字です。

※当作品にはR指定ほどではないですが、煽情的・倒錯的表現が含まれます、苦手な方はご注意ください。

 シドニアは弁明もなく、冤罪で強硬に婚約を破棄された。涙を滲ませ、勇者ロッドに抱き着く。婚約者の王太子イゼルから顔を隠しつつ、腕を回して力の限り体を強く押し付けた。



「こんな、あんまりです! イゼル様、ひどい……!」



 彼女は打って出た。このまま大人しくしていると、今日「処刑」されてしまう運命だからだ。何が何でもロッドを篭絡し、婚約者のイゼルの嫉妬を煽り、二人の友情に決定的な亀裂を入れなければ――――命はない。



「ごめんな、シドニア」


「ロッド様……!」



 ロッドに抱き返されて、シドニアは作った泣き顔の下に欲情を隠した。男に抱きしめられて、のぼせているわけではない。彼女に興奮を与えているものは、2つ。



(あの方の前で他の男を誘惑し、嫉妬を煽る……危な過ぎて、癖になる……!)



 1つは「人を煽ること」。自分を見てもくれない愛する王子の嫉妬をかきたてることに、彼女は得難い快楽を感じていた。

 そしてもう1つは。



(っ、イゼル様!?)



 シドニアは後ろから、剣の柄を握ったイゼル王子が迫ってくることに気づいた。怒気……否、鋭利な殺気が背中から浴びせられる。



(煽りすぎた!? こ、これは! 私とロッド様、どっちに怒ってるの!?)



 シドニアは――――身悶えた。腹の奥底で甘く強烈な痺れが弾け、二度、三度と背筋を昇る。目の前がちかちかと明滅し、脳が震えるような感触が駆け巡った。半開きになった口元、潤んだ瞳は隠しようもなく悦楽を訴えていて、後方で殺気立つ婚約者に見られたら斬り伏せられることは逃れられないだろう。

 だが、彼女の快絶は。



(し、死ぬ……殺される! もう助からない! 愛する人を煽り抜いて、私は――――!)



 その「死の予感」によってこそ、もたらされていた。

 イゼル王子が背後から迫る。シドニアは身がすくみそうな恐怖と、体がガクガクと震えるような快楽に襲われ、もがき逃れようとした。しかし勇者の力は強く、身動きがとれない。むしろ体はさらに密着を強め、同時に殺気は一歩、また一歩と近づいてくる。力が抜け、膝から崩れ落ちそうになりながら。シドニアは走馬灯のように、この1時間のことを思い出していた。




 ◆ ◆ (1時間前) ◆ ◆




 詰んだ……とシドニアは呟く。彼女の脳裏にあるのは数時間後、後ろの少年に首を刎ねられる――――悍ましい未来への、期待。



(もう無理だし、いっそ煽る? 激怒させて殺される方が、冤罪で貶められた末に即日処刑されるより、惨めじゃないし……絶対に気持ちいい)



 唇の間から漏れた熱い吐息が、執務室の窓を白く曇らせる。曇りのない箇所に映る、後ろのテーブル、椅子に腰かけた男性とその隣に立つ少年。柱時計の振り子の音が、まるで自分を追い詰めてくるように思えた。



(私を貶める証拠を集めてると噂だった、イゼル王子。私の使う転移魔法すら防ぐ、対魔王兵器の聖剣を手にした、勇者ロッド。おまけに外には魔王討伐軍の兵も見えるし、きっと部屋の外にも……手紙を魔法で転送して助けでも呼ぶ? ふふ。誰があの勇者と王子から、私を助けられるっていうのよ……)



 体の震えを無理やり抑えたシドニアは、かつて教わった〝乙女ゲーム〟の流れを思い出していた。



(この時期なら二人は仲違いしてるはずなのに。破竹の勢いの魔王討伐軍のリーダーであるイゼル様と、勇者ロッド様がまだ協力関係だなんて。もうダメでしょう、これ)



 吐いたため息が、またガラスを曇らせる。窓に映るイゼルの姿が、隠れた。



(リスティは確保した。けど)



 ゲームの末路を踏まえ、〝悪役令嬢〟シドニアは真面目に生きた。ヒロインである男爵令嬢リスティとも、早めに接触して無二の友となった。だが破滅の運命は、最悪の形でやってきた。

 イゼルの隣に立った少年、勇者ロッドの腰には青い光を放つ剣を納めた、豪奢な鞘が下げられていた。



(彼は強い。私が一人でできる転移距離じゃ、逃げても追いつかれる。逆らったら殺される。このまま話を聞けば冤罪で婚約破棄され、捕縛される。そこで魔法を使って調べられたら、私は……)



 血の気が引き、相反して腰の奥に甘美な熱が溜まるのを感じながら、シドニアは視線を下げる。



(ダメだ、やっぱり詰んでる。もう、どうしょうも、ない)



 窓枠についている手の、青いつけ爪が目についた。それは友、リスティがいつもしてくれているネイルアート。



『堅物王子を振り向かせたい? 男の子なんだし、煽って誘惑すればいいのよ』


(煽、る?)



 蘇った言葉は幼い頃、遠い異邦で世話になった恩人から聞いたものだった。



(そうだ、カリンお姉ちゃんから教わった通りに……)



 同じ青いネイルをしてくれた恩人「カリン」が、この世界の舞台となる乙女ゲームについていろいろ教えてくれた。



(あれ? リスティからだっけ?)



 似たようなことを友人のリスティから聞いた気がして、混乱したシドニアは少し頭を振る。



(……イゼル様は私にご興味を示されない。でもゲームによると、本当は愛してる、らしいのよね)



 異邦から帰還したシドニアはその教えに従い、幼いイゼルを魅了しようとした。すでに彼には正妃候補が決まっており、大好きな王子様を振り向かせたかったからだ。

 しかし。



(だから助言通りに煽ってみたけど……昔一度怒られて、それっきり。今じゃ、目も合わせてくれない。どれだけ努力しても、振り向いて、くれなかった)



 それは功を奏しなかった。だんまりを続ける彼は、第一王子イゼル。偉丈夫で寡黙、大人びた魅力の持ち主。文武両方に優れ、立太子もされている。そして二人の婚約者を持つ、誰もが羨望する王子様であった。



(けど今の状況。煽れば、打開できるかも……?)



 シドニアは窓に映る二人を、交互に見る。



(ロッド様は、幼馴染のリスティが本命だけど……いろんな女性に声をかける女好き。お堅いイゼル様とは、たびたび衝突してるのを見たことがある。

 だったら)



 一方の赤毛の少年は、ぱっと見は大した魅力や特徴はない。だが正真正銘の人間兵器。聖教会の認めた勇者ロッドだ。そして色を好む英雄であった。



(ロッド様を誘惑し、イゼル様の嫉妬心を煽り、二人を仲違いさせる。隙をついて、聖剣をロッド様から離せれば……勝機は、ある。

 いいえ)



 シドニアの脳裏に浮かぶのは、電撃的な成功体験。側室とはいえ、イゼルの婚約者の座を勝ち取るのは、公爵令嬢でも至難な道であった。しかしシドニアは妃選定の場で追い詰められたとき、恩人の言葉を思い出し、令嬢たちを煽って本心を抉り出した。場を支配し、何度も不利な状況を覆した。



(これしかない。煽って煽って、煽り抜いて、生き残るのよ……!)



 相手は、そのシドニアの切り札が効かない堅物王子と、いつでも彼女を殺せる勇者。一歩間違えば、命はない。手を握り締めて震えを抑え込む。まじないのように、恩人の教えを胸の内で繰り返す。



(大丈夫。二人はゲームでは仲間割れをする。きっといける……!)



 弱気を抑え込み、会心の笑みを浮かべて、振り向いた。



「大事ないか、シドニア」


「っ、ええ。イゼル様」



 出鼻をくじかれ、シドニアは笑顔のまま止まる。イゼルのムッとした顔が、緩んで無表情になった。



(昔、私が高熱を出した時にされたお顔みたい……心配? まさか。私を案じるなら、婚約破棄なんて、しに、こないわよ)



 想い人の決定的な裏切りを思い、シドニアは目の前が暗くなった。



(もう、これしか、ないの……!)



 そのままさわやかな笑顔を返す赤毛の勇者へ、ふらふらと向かう。



(殿下も、初めてお会いした頃のように、このくらい笑っていただければ……私は)



 シドニアは妃教育で習った手管をなんとか思い出しながら、正面からぐっと近く。



「ロッド様。お会いできて嬉しいです。聖剣探索の旅から、戻られていたのですね」



 左手をロッドの胸に当てた。腕一本分の間を挟んだまま、彼の顔を見上げて目をのぞき込む。



「あ、ああ。俺も会えて嬉しいよ」



 急速に赤くなっていく彼の頬と同時に、シドニアは目の端でイゼルを見た。イゼル王子もまた、横目でこちらを伺っているようだった。



(……思ったよりいいわね。愛しい男の見る前で、他の男を煽るのは。こんなはしたない真似、絶対ダメって言われてたけど……癖になりそう)



 シドニアは瞳を潤ませてロッドを見つめ、誘うように撫でる。そのまま、両腕を彼の首に回した。



「そんなに俺に会いたかったの? 今日は大胆だね」


「ええ、ロッド様」



 シドニアの手は、ロッドの後頭部を引き寄せる。二人の顔が、唇が近づいていく。



「ちょ、シドニア――――」



 勇者が目を閉じ、右手が肩に、左手が背中から撫で下げられ、腰へ、さらに――――。



「シドニア。側妃候補の君が、何をやっている」



 イゼル王子の低い声が、突き刺さった。冷たい刃のような響きに、シドニアは肩をびくり、と震わせる。



(誰のせいでこんなことをしていると! 手紙も贈り物もくれない人が、私にだけ妃であれと求めるなんて!)



 王子の言葉に、ロッドから身を離しながら歯を食いしばり、湧き上がる不満を抑えつける。



「ただのスキンシップです」


「そんなものは君のために―――――」



 何か言いかけたイゼルの続きを待つが、彼は言葉を飲み込んで厳しい目をするだけだった。



(この方はいつも、私に注意ばかり。妃教育を毎日見に来ては文句を言う。私が風邪を引いた時なんか、大きな花を持って見舞いに来た挙句――――あれ?)



 それは地球に飛ばされる前の、少しの穏やかな記憶。幼少の彼は本当に()()()そばにいて。今のように睨むような、強い目で自分を見て。時に笑ってくれた。



(まさかね。いまさらよ……もう、戻れない)



 いつからか自分を見てくれなくなった王子に、シドニアは失意のため息を吐く。



(やりすぎだったかしら。正面から行くとダメ、ね。このままでは、うまくいかないわ)



 そっとロッドの腰の剣の柄に触れた。少しの電撃が走って、手がしびれる。



(それにもし、イゼル様がロッド様ではなく、私に怒りを覚えたら。ロッド様ごと、処断されかねない。あるいは二人が争いになった末に、この聖剣で貫かれるかも。それは――――)



 死の予感に、シドニアの瞳に妖しい光が灯った。



(――――たまらない)



 別の男の胸元で甘い疼きに身悶えしながら、懸命に震えを抑える。



(……ロッド様への誘惑は効いてる。イゼル様はロッド様に意識が向いてる。ここは、慎重に煽りましょう)



 シドニアはロッドから離れた。彼の手は未練がましく伸ばされていたが、シドニアは無視して席に着く。



(あの聖剣、やはり私に反応する。なんとか排除しないと)



 シドニアはメイドたちに視線を送ってから、ロッドに向かって艶やかにほほ笑んだ。



「ロッド様もお座りに……ああ、椅子がありませんでしたわね。なんでしたら、前みたいに私を抱えて座られますか?」



 少年が耳まで赤くなり、イゼル王子が血走った目でロッドを睨んだ。



「そんなのしたことないだろ!?」


「これは失礼。椅子をそちらに……ああ、そこではないわ。もっと私の近くに。それから、お茶やお茶菓子もどうぞ」


「あ、ああ。悪いな」



 メイドが椅子を置き直す。シドニアとロッドは互いの全身が見えて、ほど近い。だがイゼルはテーブルを挟んでいるため、少し遠かった。

 ロッドが座るも、座面が低く鞘が床を叩いた。困った様子の彼の元にメイドが進み出て、スムーズに聖剣を預かる。彼は迷いを見せたが、茶菓子の香りに惹かれたのかテーブルへと向き直った。聖剣は近くの壁に立てかけられ、まだ青い光を放っている。



(もっと彼から剣を離さないとダメね。これは後にして、まずは二人の目的を聞き出しましょう。その上で、仲違いを仕掛ける)



 執務室の柱時計がボーン……という音を鳴らす。シドニアは、高く指を鳴らした。中空から一枚の紙が現れ、彼女の手に納まる。内容を確認してほくそ笑んで顔を上げると、ちょうど三回目の時計の音が鳴ったところだった。



(裏の動きは、順調。あとはこの二人に仲間割れをさせれば、きっとすべてはうまくいく……)



 シドニアは文面を伏せて、紙をテーブルに置いた。天板に両肘を乗せ、緩く手を組んで指を遊ばせる。特にロッドから見て、手指の向こうに艶やかな口元や目元、大胆に開いた肩や胸元が見えるように図らう。少年の顔の僅かな紅潮を確認し、少しの高揚を覚えた。



(……煽るのはスリリングで快感だけど、それに引きずられてはいけない。集中しなくては)


「イゼル様との逢瀬は、時間がゆったり流れて気持ちがいいですわ。何度でも、時計の音を聞いていたく思います」


「許せ。君のように疾く話すことができない」


「存じております。私とイゼル様の仲ではないですか。欲を言うなら……私を見て、話していただきたいですが」



 テーブルに少し身を乗り出すように、左手に頬を乗せる。だが反応は。



「君を見てると話せなくなる。済まない」



 そういう不機嫌な声と言葉だった。



(なにそれ。他のご令嬢とは、ちゃんと目を合わせて話すくせに)


「お前、女のことは全然見てないよな」


「女の尻ばかり追いかけている奴に、言われたくはない」



 勇者ロッドの声が脇から刺さった。応酬するイゼルの顔を横目に、シドニアはロッドを流し見る。



「ロッド様は女心がわかりませんのね? もっと手慣れていらっしゃると思ったのに。殿下は紳士ですのよ?」


「なっ」


「それで。私はのんびりしても構いませんが」



 体をロッドの側に向け、脚をゆっくりと回して組む。広がりの薄い絹のスカートがしゅるり、と音を立てた。勇者が生唾を飲む。イゼルの片目がぴくりと動いた。



「いや、俺は別に……」


「左様にございますか。ですが私としても殿下のお話、気になります。そのご本心、あなたのシドニアに教えてくださいませんか?」


「む……」


「せっかくだからご用件、当ててみせましょうか。私、殿下のことならなんでもわかりますし……3つ以内に」



 シドニアは右手を掲げて、指を三本立てて見せた。ロッドの視線とイゼルの僅かな意識が指に注がれるのを感じ、シドニアは悠然と口を開く。



「1つ。結婚の準備を行おうというお話」


「…………違う」



 指を1つ折り曲げ、残りの二本を見せつける。



「あら残念。2つ。ロッド様がご令嬢を孕ませたというお話」


「…………違」「違うってあの話はちゃんと決着がついてるんだよ!?」


「あら、冗談でしたのに」


「なぁ!?」



 シドニアは笑みを消し、イゼルを鋭く見つめた。

 2つ目の指が曲げられる。



「3つ――――私との婚約を、破棄なさるのですね?」



 ロッドが咽る。イゼルは、ぴくりと眉を動かした。シドニアは口を開け、驚いた表情を見せる。



「あら、違いましたの?」


「なんで、知って……!」



 尋ねたのは、ロッドだ。シドニアは眉尻を下げ、勇者をじっと見つめ続けた。二人が見つめ合い、しばしの沈黙が流れる。



「……シドニア、なぜそう思った。それとも元々、君も婚約を――――」


(しまった、別の方向で疑われてる……煽ることに集中し過ぎたわね)



 少しの咳ばらいをしてから、苛立った様子のイゼルに返答を投げる。



「違いますわ、殿下。帝国第三皇子のドニス様や、バンディーニ商会のナジン様も何やら動かれているとのこと。ついぞ皆さま、リスティを本気で争奪なさるおつもりかな、と」



 横目で確かめると、王子は眉間にしわを寄せていた。



「……本気、なのですか? 彼女を娶るために、皆さま他の婚約者や妻たちと別れる、と?」



 イゼルが重々しく頷く。シドニアは瞳の端に涙を浮かべつつ、続きの言葉を紡いだ。



「あの子はただの男爵家の娘、ですよ!? どうして!」



 席を立ち、訴える。王子は顔を逸らした。



「殿下との婚約が破談ともなれば、辺境の我が領は孤立してしまう! わかっておられるのですか!?」


「…………ああ」


「立場上、破棄だと仰られたら私には拒否できません! 本当に取り返しがつかないのですよ!」


「済まない」


「私を……私を愛して、くださって、いないのですか……!」


「それは――――私のような男が、愛など……」



 口元を歪めて言い淀むイゼルの煮え切らない様子に、シドニアは奥歯を食いしばる。



(――――やはり私のことは、求めてくださらないというの!? イゼル様!)



 口を塞がねば、罵倒染みた怒りが飛び出しそうであった。



「君は。アスター男爵家の令嬢、リスティをいじめているそうだな」



 続く王子の言葉は愛などではなく、辛辣な問いかけだった。シドニアは唇をわななかせる。



「あなたと違っていつも私を見ていてくれるあの子を! 私がいじめるわけがないでしょう!」



 抑えていた声が大きくなって口をついて出る。イゼルがこちらを見ずに目を丸くした。



「だが物証もある、証人もいた。言い逃れできる状況ではない」


「っ!」


「いじめを行う君を、側室とはいえ妃に迎えることはできない。婚約は、破棄だ」


(落ち着くのよ……これは事前につかんでいた、流れ。冷静に)



 静かな通告に、シドニアは全身を震わせ、額を手で押さえた。口元を隠し、必死になって心を鎮める。



「正室、候補の。キネア皇女殿下が、おられるから。私はいらないと……そういうことですか?」


「……そうでは、ない」


「――――まさか、イゼル様。キネア様とも、破談なさるの、では」



 イゼルは目を伏せ、迷うようなそぶりを見せた。シドニアは息を呑んで見せる。



「そんな! あの方は両国の同盟の証として、嫁入りに来ているのです! それを反故になどしたら、帝国は国境線を越えて参りますよ!?」



 シドニアが視線を流すと、目が合ったロッドが意を汲んだかのように頷く。



「それはドニスが抑えるという約束だ」


「ロッド様!? 失礼ながら、ドニス様は第三皇子。キネア様とは、ご実家の力が違いすぎるのです……! イゼル様、まさかそのようなこと……」


「イゼル。そういう決まりだろう」


「…………破談の書簡は、送った。もう届いているころだ」


(決まり? さては……これ、リスティをとられそうなロッド様の腹いせね? すでに彼女を巡って、不和の種は芽吹いている。これなら)



 絞り出されたイゼルの声を聞き、弱く首を振った。不敵な笑みを無理やり引っ込めたシドニアの視線が、二人の間を行き来する。



「そんな。それでは、王国と、帝国は、戦争に」


「大丈夫だ。俺たちが協力して、なんとかする。リスティが誰を選んでも。それがあいつとの……聖女との、約束だ」


「せい、じょ? 予言にあるという?」



 シドニアは、しらじらしく驚いて見せる。イゼル王子が頷いた。



「……そうだ。リスティは聖女で間違いない。勇者と聖女が揃った以上、魔王が現れる。聖教会に残された予言の通り、遠からず王国に責めてくるだろう」


「だから、私やキネア様と破談なさる、と? 魔王討伐の大義があれば、この行いも許されると? そこまでしてリスティを……理解、できま、せん」



 シドニアはよろめき、倒れ掛かる。



(裏事情は、こちらがつかんでいる通り。あとは……ロッド様を使って、もっと煽って差し上げます。私のイゼル殿下)



 その身が、赤毛の少年によって支えられた。



「おっと。リスティというより、俺たちが協力するための条件だな」


「だからってこんな、あんまりです! イゼル様、ひどい……!」



 イゼルから顔を隠すようにしながら、シドニアはロッドに体を預けた。両腕を背に回し、彼に頬を、胸を、腿を擦り付けた。



「ごめんな、シドニア」


「ロッド様……!」



 ロッドの手が腰と頭に回り、力強くシドニアの体を抱きしめる。



「…………ロッド。シドニアを離せ」



 背中から怒気の籠った視線を感じ、シドニアは身を震わせる。視界の隅に、腰から下げた剣の柄に手をかけている、イゼルの姿が映った。



(っ! イゼル様がお怒りに! 怒りが向いているのは、私? ロッド様? どっち!?)



 シドニアは恐怖と快楽に襲われ、反射的にロッドから逃れようとする。だが彼の腕はシドニアの腰に回され、抜けられない。



「なんだよ、イゼル。お前……まさかこの女のこと、本心では好いてるのか?」


「…………そういうお前こそ。令嬢方と懇意だと、噂になっているぞ?」


「ち、違う! それは、誤解――――」


(まずい、このままだと諸共斬られる! 悶えてる、場合では……!)



 シドニアは悶えながら必死に頭を回す。彼女が出した答えは。



「キネア皇女と親しいのも誤解、ですか?」



 さらに、煽ることであった。



「ぁ、いや、その」



 たじろくロッドを、下から潤んだ瞳で上目遣いで見る。背後の殺気に頬を緩め、にこやかに切り札を差し出す。



「先日の二人きりでのお茶会、楽しゅうございましたね? いやらしいロッド様?」


「ロッド、貴様ぁ! シドニアを!」


「ご、誤解だイゼル!?」



 イゼル王子が、ロッドにつかみかかる。



(殿下が、声を荒げて……! 私を! ロッド様にとられたと思ったから!)



 ロッドの腕が離れる。二人がもみ合う隙にシドニアはするりと身をかわし、元居た席の近くまで戻った。



(――――イゼル様が、怒りを剥き出しに……次できっと、最後。彼の本心が、聞ける)



 シドニアは熱い吐息を抑えながら、瞳の奥に笑みを飲み込んで二人を見つめる。胸や腰から湧き上がる煽りのもたらす快楽が、濁流のように目や脳の奥に流れ込むのを感じて。震える唇から、なんとか言葉を紡ぎ出す。



「イゼル様。私の、ために。そこまでお怒りなのですか?」


「当たり前だ! 私の一番大事なものを奪っておいて! こいつは……!」



 思わず、両手を握り締めた。手のひらにつけ爪が、食い込む。意外に時間が経っていたのか、柱時計がポーンという音を奏で始めた。



(ああ…………それを聞けただけでも、よかった。でも)



 訪れたのは歓喜であり――――不満であった。



(本心を聞ければ、満足すると思ったのに! 満たされない、気持ちよくない! どうして私を見て、その言葉を言ってくれないの!)



 あと少しを昇り詰められないシドニアの瞳からは熱が消え、静かに冷えていく。



「大事だって言うのなら、リスティに手ぇ出すんじゃねぇよ!」


「手など出していない! お前こそシドニアに……シドニアもだ! ふしだらな真似を――――」


(……こんなところで私に矛先を向けられても、困るのよね)



 時計の音が四度、鳴り終える。シドニアは小さく首を振って、冷淡に告げた。



「そのリスティ。昨夜から姿が見えませんが、今どこに?」


「……へ?」「なに?」



 揉み合っていた二人が、シドニアの方を振り向く。彼女は冷たい視線を、勇者と王子に向けた。それは怒りであった。勇者を使って愛しい王子を煽った結果、シドニアが得た、強く空しい怒り。



「お前が匿っているのか!? シドニア!」


「リスティをいじめているらしい私が、匿うのですか? ロッド様。なにゆえ?」


「うっ」


「…………君は転移魔法を使うだろう。それで連れ出したな?」



 王子の問いに、シドニアは少し満足げな笑みを浮かべた。



「殿下。当クィンス家に伝わる魔法は、生き物には使えません」


「くそっ、早くリスティを探さないと……!」


「逃げる気か、ロッド! 何もかも滅茶苦茶にしておいて!」




 二人が、扉に向かう。壁際の聖剣が光を失ったことに気づく様子もない。だがシドニアは、この瞬間を見逃さなかった。



(――――――――詰みです)



 シドニアが高く、指を鳴らす。イゼルとロッドを、青い光が包み込んだ。二人の動きがぴたりと、止まる。



「これは!?」「何をした、シドニア!」



 シドニアは鋭く二人を睨んだ。



「イゼル様。なぜ婚約の破棄を、選ばれたのです。リスティを確保する方法は、いくらでもあったのに」



 煽るつもりもなく、ただ強く疑問をぶつける。



「……私のような男では、どれほど努力を重ねても、眩い君には手が届かないと思っていた。君だって、洒落た手紙や贈り物もできない男など嫌いだから、からかうのだろう? だから……離れなくてはならないと、思ったのだ」


(これが、本心? 殿下の? ご自分を卑下、して? だからずっと、冷たく――――)



 返ってきたのは、意外な答えであった。ずっと手を伸ばしていたつもりだった。だがイゼルは、ずっと自分を追いかけていたという。長年の理不尽に答えを得て、思わずシドニアは、手を伸ばしかける。未練と過去が、強く手を引いているかのようであった。


 だが。

 指先のつけ爪の青が、目に入って。



『『迷ったときは、前にある方の手を取るんだよ』』



 同じ言葉をくれた二人を、思い出した。



(カリンお姉ちゃん…………リスティ)



 まったく姿の違うはずの二人が、同じネイルアートをしてくれた二人が、青い爪の向こうに重なる。

 息を呑み、シドニアは顔を上げた。



(殿、下……)



 こんな時でもイゼルは……自分を見ては、いなかった。



(ああ……そうか。あなたの本心、なんて。今更聞いても、何の意味も、なかった。私は、ただ。ちゃんと見て欲しかった、だけ。それなのに、あなたは……)



 シドニアは愛しかった相手を、強く目に焼き付けるように見つめた。



「お別れ前に、3つ。種明かしをしてあげましょう」



 彼女は伸ばした右手で三本、指を立てて見せる。



「1つ。この騒ぎのこと、私は最初から知っていました。聖女も、冤罪も、何もかも」


「なっ!?」「騙したのか!」



 シドニアは薬指を折り曲げて、涙を飲み込んでにっこりとほほ笑んだ。



「人聞こえの悪い。2つ。当家の魔法は人を転送できませんが、()()できます。さすがですね、私のイゼル殿下。あなたの推測は、大当たりです」


「ではリスティは、まさか!」「お前、リスティをどこにやった!」



 笑い声を漏らしながら、中指を曲げる。



「ご自分の心配をなさっては? 3つ――――」



 目を見開いて、じっと自分を見つめる愛しい相手の顔を。



(ああ……やっと、見てくれた)



 決して忘れぬようにと見つめ返す。胸が詰まり、少し息を呑んだ。



(でも、もう遅い)



 瞳が潤み、ずっと抑えていた涙が一筋、流れる。



「愛しておりました、イゼル様。さようなら」


「私も――――…………」



 イゼルが何か言い切る前に。二人の姿が、青い光と共に消えた。



(いまさら気持ちを告げるくらいなら! 謝るくらいなら! どうしてこんなことをしたのよ……!)



 消えゆく彼の言葉がすべて聞こえていたシドニアは、鼓動と嗚咽が溢れ出そうになり、歯を食いしばって目元を拭う。その手の爪の青を見て、顔を上げた。



「撤収の準備をなさい。私は持てないから、聖剣は回収して頂戴。定刻になったら、全員転送します」



 部屋に残っていた使用人たちが、頭を下げる。シドニアは今一度、ぱちん、と高く指を鳴らした。




 ◆ ◆ ◆




(うまく、いった)



 王都からずっと離れた街道に、シドニアは姿を現した。



(切り抜け、られた。でも)



 曇天を見上げると、頬に雨粒が当たった。



(何も、残らなかった……)



 雫はそのまま、涙と共に流れる。



(愛されて、いたのに)



 俯き、頭を振る。



(愛して、いたのに。こんな、はずじゃ……)



 また青い爪が視界に入り、シドニアは顔を上げた。その視線が、木陰の奥の少女を捉えた。



(リスティ……)



 ほっと一息つく。シドニアはぬかるみを避け、街道脇の木の下を目指す。パチン、と音がした。それはリスティが持つ懐中時計の蓋が、閉じられる音であった。



「待たせましたね、リスティ」


「ううん、時間通り。お疲れ様、シドニア」



 シドニアの友が懐に時計を仕舞い、顔を上げる。気安い声掛けを咎めることもなく、シドニアは彼女のすぐ隣まで近づき、木に寄り掛かる。



「……お願い、聞いてくれてありがとう。シドニア」


「彼らと結ばれたくない、とのことでしたが。本当にこれで、よかったのですか?」


「うん。シドニアこそ、よかったの? 好きだったんでしょう? イゼル王子のこと」



 思わず素直に暗い顔をし、表情を隠すのを諦め、シドニアは首を振った。



(好き、だった。愛して、いた。愛されていると、知れた。本心も聞けた。なのになにも、満たされなかった)



 ひどく胸が痛み、思わず手で押さえる。



「ええ。それでも……叶えたい願いが、あったので」


「そのお願い。済んだらどんなものなのか聞かせてくれるって、約束だったよね?」


「それは――――おっと、すみません。合図です」



 シドニアはそっと、隣のリスティの手を握る。握り返され、力強い魔力が伝わるのを確認し、空いている手で指を鳴らした。街道に次々と、多量の馬車や人々が現れる。最後にシドニアの目の前に、赤い髪の令嬢が降り立った。シドニアはリスティの手を離し、一歩前に出て礼をとる。



「キネア様」



 それはイゼル王子の正妃候補。帝国第一皇女のキネアであった。



「御苦労、シドニア。リスティも」


「小雨も降っていますし、このまま公爵領まで再転移いたします。その後は、手筈通りに」



 シドニアは指を鳴らそうと構える。その手を皇女がとって、押さえた。赤い瞳が、じっと眼の奥をのぞき込んで来る。



「あなたには直接会ったの? 彼は」


「……はい」


「――――私じゃ彼の心は、奪えなかったのに」



 「負けたわ」と呟きを残し、振り返ったキネアが木陰から出ていく。



(勝った? 私が? でも……なんの感慨も、わかない)


「あら。イゼル様にお会いしたかったのですか? キネア様。ご興味、なさそうでしたのに」


「…………気持ちを抑えていたのは、彼も私も同じ。相手が違っただけよ」



 煽りに素直に返され、シドニアは惑った。普段なら感じる高揚が、どこにもない。



(彼がその気持ちを、もっと早く見せてくれていたら。もう少し早く私を、見てくれていたら……)



 呆然としていたところで、リスティに手を繋がれた。



(ああ……そう、か。もう、取り返しがつかないんだ。彼はもう、手に入らない。あの方と過ごしたかった日々も、もう来ない。もし私が何がなんでも、彼を、選んでいたら――――)



 最後に自分を見てくれたイゼルの姿が、脳裏で朧気になっていく。昔何度も夢見ていた、王子様との未来もまた消えて行く。シドニアは、リスティの手を握り返して。



(きっとこの手を繋ぐことは、なかったのだから)



 高く、指を鳴らした。

 馬車も人も何もかもが消え、雨の音だけが残る。



「本当。私の魔力さえあれば、なんでもできちゃうね。きっと世界征服だって。伝説の、魔王のように」


「そんなことがしたいんじゃ、ありません」



 大きくため息をついてシドニアは首を振る。



「…………私は小さい頃。魔法の暴走で、異世界に行ったことがあるのです」



 言い訳のように、シドニアは自分の願いに繋がる身の上を、語り始めた。まだ5歳だったシドニアは、異世界……地球の、ある国に転移してしまった。そこで「カリン」という名の女性に保護された。家に帰りたいというシドニアに、カリンは魔法の手ほどきをしてくれた。彼女は魔法の使い手ではなかったが、膨大な魔力を持っていて。シドニアはカリンの魔力を借りて、自分の世界へと飛んだ。



「そこでお世話になった人に、もう一度、会いたかった。そのために、あなたの無限の魔力を貸してほしいのです」


「会って、何をするの?」


「お別れのとき、何も言えなかったんです。お礼を、言いたかったのに」





「――――――――じゃあ、言って。今、ここで」





「ぇ?」



 指が絡められ、握り込まれた。



「会いに来たよ、生まれ変わって。大きくなったね、シドニア」



 その手の感触は、不思議と遠い日のものと、同じで。



「カリン、おねえ、ちゃん? どうして」



 横を見れば、じっと自分を見つめる瞳があって。



「一度助けた君を、ちゃんと救いたかった。彼らに討伐される君を、守りたかった。今回の騒ぎも、そのために急遽しかけたの。なぜか勇者がレベル99になって、聖剣まで持ってきたから……。私と君が一緒にいるためには、こうするしかなかった」



 瞳の色は違うのに、その視線は幼い時、ずっと自分を見守っててくれた恩人のもので。



「そ、そこまでされるなんて。まるで私のことを、好いてらっしゃるように聞こえますね?」


「そう言ってるんだよ?」


「ぁ」



 衝撃に思わず煽って返すと、真っ直ぐな好意を言葉で、視線で返された。



「頑固なひねくれ王子は、煽って誘惑しちゃえって教えたのは……私だけど。私は、そうしなくても大丈夫。ちゃんと君を、見てるよ」


(ずっと、私を、見て……)



 カリンの面影が、リスティに重なる。熱い雫で、視界がぼやける。



「それで、お礼を聞けば……君の望みは、叶うの?」



 繋ぐ手の冷たさの奥にあるぬくもりと、柔らかな視線と、穏やかな言葉が。シドニアの胸の奥を、溢れんばかりに埋めていく。



(望み――――そう。私はただ、見て欲しかった。そうしてくれたのは、二人……いいえ、一人だけ)



 シドニアは幼い頃に、母を失った。母を亡くした父は、いつも忙しそうだった。友人知人に敵も多くいたが、シドニアは一人でいることが多かった。

 そして愛した相手は。



(結局イゼル様は、私を見てはくれなかった。あの方は私に嫌われていると思い込んで、私と向き合ってくれなかった。私がどれほど切望しても……私を求めては、くれなかった)



 自分から逃げていた。シドニアを求めてくれたのは――――彼女だけ。



「ずっとあなたに、見ていて欲しかった」


「うん」


「出逢ってからお別れまで、私を見ていてくれたあなたに!」


「うん」


「もう一度だけ、もう一度だけでいいから――――」


「そうだと思った」



 リスティが回り込み、シドニアの正面に立つ。両手がとられる。彼女の向こうからは、晴れ間が差していて。影の濃くなった中で、その瞳だけが輝いているようであった。



「だからいつでも見てあげられるように、私から来たの。私だってあなたにお礼、言いそびれちゃってたしね。君と過ごせて、幸せだったよ。シドニア」


(私だって、私だって! あなたに、もう一度会えて、嬉しい――――)



 埋められた胸の奥から、気持ちが、涙が、嗚咽が溢れそうで。シドニアは、彼女の続きの言葉に間に合うように。声を、絞り出した。







「「ありがとう」」







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王子と勇者は何処へ飛ばされたのかな?地球? 魔王討伐軍、王子が消えた&勇者も消えたから魔王も消えた、でお仕事無くなった? 王子、王子妃候補(聖女含)、ついでに勇者、みんな居なくなったこの国、どうなって…
地味にカリンが元から魔力持ってたの奇跡だなあ
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