2-06 あなたの為に生きたいのだと、屍姫は彼方に告げた
私が死んだら?
そうね。
その時は、世界中の人が歓声をあげて喜べばいいわ。
祝砲を打ち鳴らし、手を叩いて、泣くほどに嬉しがるの。
どこもかしこもお祭り騒ぎで、何日も呑めや歌えやの宴が続くんだわ。
そこまで大喜びされれば、私だって死にがいがあると思うのよ。
だって、そうでしょう?
私みたいな人間が、ただ無意味に命を散らすなんて、世界の損失だもの。
「――我が輩の愛しき屍よ」
屍術師オセロの手によって甦ったのは、人族の美女ガートルード。
(こいつ、とんでもない変態だわ――!?)
知らぬ間に奪われた心臓を取り返す為、ガートルードは己の死の真相へと立ち向かう。
だがそこに隠されていたのは、この世界に住まう五種族の均衡を崩しかねない大事件だった。
死体愛好家の屍術師と屍の美女の、生き返りを掛けた謎解きが始まる。
最初に彼女が気付いたのは、風にそよぐ葉擦れの音だった。
思いがけず近くでした鴉の鳴き声は、どこか物悲しく、そして不吉に聞こえる。
今が夜だと判断したのは、重く冷たい空気を肌に感じたからだ。ぽつりと頬に落ちたのは、夜露か夜雨の一滴か。
どこか黴臭い、掘り返さればかりの湿った土の臭いが鼻をつく。
しかし、そこで彼女は違和感を覚える。
そもそも何で、自分がこんな時間に外で意識を取り戻したのだ。
仮に野外パーティの最中に倒れたのだとしても、そのまま外で寝かされ続けるなんてあるはずない。
つまり、今の状況は明らかに有り得ないのだ。
それに気が付いた彼女は、目を開くと同時に飛び起きて、周囲を見回した。
予想通り、あたりは暗く、夜の帳に覆われている。目を凝すことで、ようやくここが墓地の一角であると知れた。
光源は薄雲の向こうの欠けた月と、自分を覗き込んでいる妖しげな大男が持つ角灯の青白い光だけ——、
「おはよう、我が輩の愛しき屍よ」
「誰よ、アンタっ!?」
彼女は、間髪入れずに声を張り上げた。
蜂蜜に黄金を溶かしたような美しい金髪に、新緑の息吹を宿したエメラルドの瞳。
誰もが息を飲む、絶世の美女。そんな彼女の名を、ガートルードと言った。
その美しさは、人族どころかすべての種族に通用すると言われ、事実その美貌に張り合える者は世界中を探しても多くないだろう。
しかし彼女は、人族の貴族の娘だった。
住まいは王都にある自身の屋敷であり、まかり間違っても、周囲に人気が一切ない真夜中の墓地にいる理由はない。
だからこそ彼女は、目の前の男をきっと睨みつける。
男の顔は端整と言えた。赤銅色の長い髪が黒衣の礼装に掛かり、冷たい灰色の双眸がこちらを見据えている。
その身長は見上げるほど高く、平均的な人族男性よりも頭ひとつは優に大きい。筋骨隆々ではないが、かなり鍛えられているのが均整の取れた体格から見て取れる。さては魔族か竜族か。
そのうえ陰鬱、怜悧といった言葉の似合うその男からは、体格差が与える以上の威圧感を覚えた。だがガートルードは、臆することなく男に食って掛かる。
「アンタっ、これは一体どういう了見よ!? どうせあたしの美貌目当てなんでしょ? でもお生憎様。こんな事してもあたしはアンタの物にはならないわ。さっさと元居た屋敷に帰しなさい!」
一息に言い放った彼女は、びしりと男に指を突き付ける。男は不思議そうに首を傾げた。
「そなたは我が輩の物だ」
「勝手にそんなこと決めつけないでよ!」
「勝手ではないぞ。その胸に手を当ててみるといい」
「何を言われて、心当たりなんてこれっぽっちも……?」
平然と言い放つ男に、さらに怒鳴り掛かろうとしたガートルードだったが、ふいに違和感を覚え口を閉ざした。そして、恐る恐るその豊満な胸に掌を押しあてる。
「心臓の音が……しない!?」
とくんとくんと、常に胸の奥で脈打っているはずの鼓動は一切感じ取れない。
彼女はぎょっとして、男を見上げる。
「そなたは、すでに死んでいる」
あっさりと口にされた衝撃の事実に、彼女は言葉を無くす。
「そなたが今、生前の如く動けているのは我が輩の魔術があるからだ」
男は胸に手をあて深々と身を屈めると、優雅な一礼をする。
「愛しき屍よ。我が輩はオセロ。屍術師を生業とするもの。そなたの亡骸は、我が輩が貰い受けた」
男は薄い唇の端を吊り上げて、うっそりと微笑んだ。
「う、嘘よ! 絶対に信じないわ! あたしが死んでるなんて、有り得ない!」
はたと我に帰ったガートルードが最初にしたのは、男に詰め寄ることだった。
黒い外套の襟元を掴むと、男はされるがままに腰を屈める。
「否定しても、死んでいるものは仕方あるまい。疑うようならしばらく息を止めてみるといい。呼吸を必要としないその身体は、息苦しいとも感じないはずだ」
言われるままに口を閉じるガートルードだったが、確かにどれだけ息を止めても、酸欠が起きる様子もない。
ガートルードはきゅっと眉を顰め、男の胸を拳で叩いた。
「ふざけないでよ! なんであたしが死なないといけないの!? 今すぐあたしを生き返らせなさいよ!」
「それは難しいな」
男は淡々とした口調で答えながら、乱れた襟元を正す。
「そなたの身体には心臓が入っていない。心臓がなければ蘇生も適わず、その身体を動かせるのもせいぜい保て一ヶ月だ」
「はあっ!!?」
ガートルードは宝石のような緑色の瞳をかっ開く。
正直な所、気持ちも思考も追いつかない。
自分が死んだと言うことだって、いまだに信じることができないのだ。
だが、このままでは埒があかないと、ガートルードは無理やり気持ちを落ち着かせる。
「ちょっと待ちなさい。まずアンタ、あたしの心臓をどこにやったのよ?」
「それは我が輩の知る所ではないな。そもそも、そなたを殺したのは我が輩ではない」
あっさりと返された答えは、ガートルードにとって予想外だった。
てっきり目の前の妖しげな男が、自分を殺したのかと思い込んでいたからだ。
「じゃあ次。心臓を取り戻したら、アンタはあたしを生き返らせることができるのねっ!?」
男は意外そうな声で、ほうと呟き、己の顎を擦る。
「先に自分を殺した存在を確かめなくて良いのか?」
「そんなのは後に決まってるでしょうが!」
ガートルードは腰に手を当てて、鼻息荒く返す。
「こっちは『生き返る』か『死に続ける』かの瀬戸際なの! アンタの言葉が正しければ、あたしがこうやって動けるのは一ヶ月だけなんでしょ」
「そうだな。ひと月を過ぎればその身はただの腐肉となる。内蔵を掻き出し、適切な防腐処理を施せば見た目だけは長らえることも可能だが」
「それは却下!」
彼女は咄嗟にお腹を庇う。
例え今は機能を停止していたとしても、取り出されては溜まったものではない。実際は知らない間に心臓を奪われてしまったらしいが。
「あたしは絶対に生き返ってやるわ。こんな所で死ぬわけにはいかないのよ」
「それは何故だ?」
男は不思議そうに首を傾げる。
「死とはひとつの完成形だ。あらゆるものは死に向かって収束する。つまり死こそ完全な状態と言える。死は美しく、満たされたものだ」
ガートルードはひくりと顔を引き攣らせる。
男は真顔で、彼女はそれが本気の台詞だと理解してしまった。その言葉が示す価値観は、まったく理解の埒外だったが。
(こいつ、とんでもない変態だわ……っ!)
「生きとし生きる者は、例外なく必ず死ぬ。それは自然の摂理であり、当たり前のことだ。なぜその流れに逆らおうとする?」
「そんなの決まっているでしょうが!」
全身の毛が逆立つような怖気を振り払い、彼女は堂々と胸を張り主張する。
「あたしが死ぬのは、世界にとって大損失だからよ!」
彼女は凛と声を張り上げる。
彼女は美しかった。
それもただの美女ではなく、この世界の五種族全てを魅了するとまで言われた、絶世の美貌だ。
それが虚しく、あたら若い命を散らすなんて、勿体ない以前の話である。
「だからこそ、あたしはこんなところで死んじゃいけないのっ」
「くっ……」
ガートルードがそう言い切った途端、男が口元を押さえる。くつくつと隠し切れない笑いが漏れたことで、彼女はそれと気付く。
「何よっ。なにか文句でもあるの!?」
「いや、文句はない。ならば、我が輩はそれを手伝ってやろう」
その言葉に、ガートルードは唖然とする。
男は機嫌良さそうに己の顎を擦った。
「そなたは我が輩の屍だ。我が愛しき屍が望むなら、その手助けをするのはやぶさかではない」
「だっ……!?」
誰がアンタの屍だ、と叫ぼうとした唇を男の長い指がすっと押さえる。
「すでに死者であるそなたを蘇らせることができる者がいるとすれば、神族の医聖か稀代の屍術師たる我が輩くらいだ」
だから大人しく聞き入れろ、と言わんばかりの態度にガートルードは男を睨みつける。だが、ぐっと文句を飲み込むと、唇を引き結んだ。
確かに今、自分を生き返らせることができる相手は、この目の前の男しかいない。ここで男の機嫌を損ねてそっぽを向かれる訳にはいかないことは、当然ガートルードにも理解できていた。
「……でも、アンタはそれで本当にいいの?」
「本当に、とは?」
「あたしを生き返らせることよ。だって生き返ったらもうその時点で、あたしは死体じゃなくなるのよ?」
心臓を見つけ出しいざという段になって、生き返らせるのは嫌だと前言を翻されては溜まったものではない。
これほどまでに『死体』に執着しているように見えるこの男なら、有り得ないことではないだろうとガートルードは疑いの眼差しを向ける。
しかし、男の答えは実にあっさりしたものだった。
「永久に生きるモノは存在しない」
「……はあ?」
「そなたが何度生き返ろうと、いずれまた必ず死ぬ。我が輩はそこまでせっかちではないのでな」
ガートルードは頭痛を堪えるように、こめかみを押さえる。
男の思考回路は、彼女にはまったくもって理解できるものではない。
だが、男の協力を撥ね除けてしまうのは、あまりにも勿体なかった。
「……嘘ついたら、承知しないわよ!」
彼女はぱんと自分の頬を両手で叩き、気合いを入れる。
その身が完全なる死者になるまで、あと一ヶ月。
それまでに彼女は、何としてでも自分の心臓を見つけ出さなければならなかった。